SSブログ

カントの顔 [顔/哲学者]

2007年11月5日(月)

カントは、読めないできている。
キルケゴール、デカルト、パスカル、フッサール読んできたが、
カントは、歯が立たなかった。

中島義道氏は、専門はカントなので、
何とか読もうというのが、私の気持ちだ。

何故にカントは、翻訳で読むのが困難なのか?
中島氏の言うには、カントがラテン語を前提に書いているからだそうである。
たとえば修飾語の位置が、ラテン語であると、かなり遠くても成立するそうである。

さて、読む前に顔を見てみよう。
とは言っても、写真の無い時代なので、
絵になる。
その中でも一番信頼がおけそうな肖像画である。

〈想像界〉の眼で、《8流》のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈超1流〉〈1流〉《8流》
〈現実界〉の眼で、《8流》

《8流》が随分と出てくる人だ。
その辺もあって、読みにくいのかもしれない。
《8流》は宗教の領域。
………………………………………………………………………………

この肖像画は、流通している1枚だが、
理想化されていて、嘘に満ちている。

〈想像界〉の眼で、〈超1流〉のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
〈現実界〉の眼で、〈超1流〉

こういう肖像画で、騙されてはいけない。
中島義道氏の著作『モラリストとしてのカント』には、
カントの顔の変遷と、肖像画と胸像彫刻、デスマスクの
分析が載っている。

中島氏は、デスマスクを悲惨と見て、
残されている肖像画との距離を分析して、
このブログの最初に掲載した、事実に近い肖像画を、
次のように、
辛辣に書いている。

>小心で実直な職人が、
>やや猫背であまりに合わない正装で登場しており、
>どこを捜しても精神の輝きの片鱗も見られない。

私の分析は、すでに述べたように《8流》が多いが、
しかし〈超1流〉性を持った人物の顔で、
保守的で、小心で、職人性に満ちてはいるが、
読むに値する人物ではあると考える。

………………………………………………………………………………

ここで、中島義道氏の顔も見ておこう。

〈想像界〉の眼で、〈1流〉のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈1流〉〈1流〉〈1流〉
〈現実界〉の眼で、〈1流〉の現実

すべて〈1流〉の、なかなかの人物である。
たしかに真面目だし、誠実な方である。

分析を進めると、〈想像界〉と〈象徴界〉が無くて、
〈現実界〉の精神を持った人物である。
これは、一つの驚きではあるが、
彼の性格を理解する分析結果ではある。
ウイキペディアによると中島義道氏は、

>勤める大学の入学式や卒業式に出席しない。自分の父や母の死を知人、周辺の近しい人に報告しない(つまり、その葬儀には自分の知人や近しい人は一切出席しない事になる)。姪の結婚式に呼ばれても出席しない。パーティーにも出ない。つまり、一切の儀式を拒むという行為が挙げられる。

中島義道氏は、式典の意味を理解できないようなのだが、
それは氏が、〈現実界〉だけの精神を持たれていて、
〈想像界〉や〈象徴界〉の精神では社会を見ていないから起きることであると、
私は思う。

それと、氏の顔は、《去勢》されていない顔である。
このことも、社会的式典に参加しないことを説明している。

中島義道氏の著作の明快さと、面白さは、
氏のこうした精神構造が生み出していると、
私は理解する。

………………………………………………………………………………

哲学とは何か?
乱暴に言えば、もはや過去のものである。
古い近代特有のもので、終わったと言える。

終わったものであっても、
再び、哲学は何であったのか?
と、問うことは出来る。

再び乱暴に言えば、
それは神という言葉を使わない神学であったと言える。
そういう意味で、カントの顔が《8流》をたくさん持っているのは、
理にかなっている。

哲学とは、神無き宗教であった。

………………………………………………………………………………
今日とは、いかなる時代であろうか?

彦坂尚嘉の考える現在は、
《文明の中の野蛮》という把握である。

文明と野蛮が、入り交じっている世界である。

ここにおいては、近代哲学は、
過去の遺産として意味を持つだけである・

しかし、より普遍的な基準の学問は、
実は近代哲学ではなくて、
古代哲学である。

カントを読むくらいなら、
アリストテレスやプラトンを呼んだ方が良い。
インドの初期ヨーガ教典や、仏典がよい。
さらに老子や荘子、墨子、孔子、孫子などの中国哲学の方が、
意味がある。

と私は、思うのだが、
カントも、私のようにまるっきり読んでいないというのは、
自分自身の問題としても、
興味深いのである。
何故に、読めないのか?

もしかすると、
中島義道氏のように〈現実界〉の精神で読むべきなのかもしれない。

ここまで書いてきて、
気がついて、カントの顔を再度《言語判定法》で分析すると、
カントは〈現実界〉の顔であった。
〈想像界〉〈象徴界〉を持っていないのである。

そうすると、カント哲学は、実は科学であるのかもしれない。
科学というのは〈現実界〉の精神で出来ているのだから、
科学の時代の哲学として、
カントの哲学は、〈現実界〉の哲学であったのだ。

よし、読むぞ!(笑)。


コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

コメント 1

コア

カントも中島さんも「現実界」ですか。
確かに驚きです。
獄中でカントを読んだという埴谷雄高についても
考えるヒントになりそうです。
by コア (2007-11-05 11:39) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。