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1905年〜(14年)の美術  [アート論]

1905年〜(14年)の美術

   

 1905(明治38)年日露戦争は終結。日本は世界で八番目の帝国主義列強となった。
 同じ年、アインシュタインは相対性理論を発表。
 
 この時代背景の中で、日本の美術は、帝国主義と近代主義の二面性を持つ芸術としての姿を露わに示し始める。この両面を「日本画」という国民絵画に結実させたのは岡倉天心であった。      
 
 岡倉天心は、建築における伊藤忠太と対応する、この時代の巨人であった。
 ことの発端は、天心が文部省に勤務し、アーネスト・フェノロサと日本美術を調査したことにあった。
 
 天心は1901年から2年インドに滞在し、「アジアは一つである」ではじまる『東洋の理想』を英文で1903年に出版。
 1904年ボストン美術館中国・日本美術部に迎えられ、日本美術の収集じ従事する。
 1906年には、『茶の本』が、ニューヨークの出版社から英文で刊行された。
 
 東京美術学校(現在の東京芸術大学)の創立に大きく関わり、校長となるが、天心を引き立てた上司である文部官僚の九鬼隆一男爵の妻・波津子(九鬼周造の母)との不倫関係によって更迭される。
 
 これを契機に、菱田春草、横山大観らと新しい日本画の創造を目指す日本美術院を設立する。

 1905年(明治38年)に茨城県・五浦海岸へ別荘(六角堂)を建設した岡倉は、翌06年に第一部(絵画)をそこへ移転させる。
 日本美術院は、岡倉がボストンとの往復の中で活動が鈍るにつれて活動も減少するが、1913年岡倉の没後、1914年横山大観らによって再興された。
 
 岡倉天心は、天才肌の〈超一流〉の人物であったが、《去勢》性を欠いていて、大人というより子供であって、持久力に欠け、振幅も大きかった。
 四九歳で失意の中で死んでいった悲劇の人であった。 それは大日本帝国の幼児性を写していて、日本の敗戦と失意を先取りしたものと言える。


   


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共通テーマ:日記・雑感

コメント 1

コア

「第日本帝国の幼児性」というのも目から鱗が落ちる思いですが、天心の偉業とあっけない挫折がそれを先取りしているとは、実に興味深いご指摘です。
by コア (2007-12-07 19:15) 

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