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ラカンの顔 [顔/哲学者]

2007年12月12日(木)

上の写真は、ジャック・ラカンとダリが会っている写真である。
ダリのパラノイア的な方法は、ラカンが1932年に書いたパラノイアに関する論文の影響から生まれた。

しかし私は、実は、ダリの絵を、絵画としては評価していない。

ラカンの顔は、
〈想像界〉の眼で、〈1流〉のイメージである。
〈象徴界〉の眼で、〈超1流〉〈41流〉〈超1流〉
〈現実界〉の眼で、《8流》の現実である。

思想家・哲学者として立派な1級の人物と言える。

ラカンの著作は難解であると、言われる。
この難解さは翻訳によって生じているのではなくて、
フランス語段階で、極めて難解である。
これを人相から見てみよう。

言語判定法で見ると、
ラカンの顔は、《固体》である。
つまり前近代の顔をしている。
フロイトが《液体》で、近代主義者の顔をしているのと、
対比して考えると、
ラカンは、フロイトの精神分析を、前近代的な思想や思考に押し戻したと考えることができる。

ラカンは理論的にも難解ではあるが、それ以上に、語り口が逆説的で、晦渋な言い回しをしきりに用いているが、それはこの近代の精神が生み出した精神分析を、前近代的な思想形態の押し戻す作業故に生じたと、私は思う。

ラカンが「フロイトへ帰れ」といって、
フロイトへの個人崇拝を方法化し、
そしてまた自分自身への忠誠を要求し、
個人崇拝性を強く帯びていったのことも、
こうした前近代の顔を持っている故であると思う。

表面的には、ラカンは数式風の表現をとって、数式化をしているが、これが難解で失敗しているのは、本質的にラカンの精神が固体であって、前近代的であるからである。

精神的には〈象徴界〉だけを持っていて、
〈想像界〉〈現実界〉が無い顔である。
つまり彦坂尚嘉流の分析では、三界同時表示の人物ではない。
その事の、浅さというか、不十分さは、ラカン思想につきまとっていると言える。

繰り返しだが、
ラカンはフロイトの精神分析を、
固体に押し戻すことで、
一定の生産性をもたらしたが、
私見では、この気体化が必要であるのだ。

この作業を切り開いている知性として、
私は鈴木謙介氏を、高く評価するのである。
ラカンと鈴木謙介をつなげた研究を書いてみたいものである。


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コメント 2

コア

そういえばダリも前近代の絵画形式を盛んに用いていましたね。「スルバランのように描きたい」と書いていたのを記憶しています。
by コア (2007-12-12 20:57) 

hiko

そうですね。
ダリは固体絵画です。
反動なのですね。
このダリと結びつくものが、ラカンにはある。
by hiko (2007-12-24 10:21) 

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