湯浅譲二の電子音楽(2) [音楽]
(1からのつづき)
■ 白い長い線の記録 (1960)を聴いた。
松本俊夫の映像についた映画音楽である。
〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
現実界の音楽
気体音楽
良く出来ている音楽だが、
聴いている私の中に意味が構成されない。
聴き終わっても、記憶に残らない。
■ ホワイト・ノイズによる「イコン」 (1967)
5チャンネルでの完全上演は2度目で、
1度目は1969年の代々木体育館のインターメデイアで、
私はこれも見ているので、2度目である。
これも工芸的とも言えるほどに良く出来ている音楽だが、
私の中に体験の内容の意味が構成されない。
聴き終わっても、聴いたという記憶はあるが、
ホワイトノイズを加工した音楽といった外部的な記憶と、
湯浅氏が強調するような宇宙的な音であったという以上のものが、
残らない。
《空》なのである。
何も無い。
湯浅氏の音楽は多くの賞を受けている。
ベルリン映画祭審査特別賞 (1961)、1966年および67年のイタリア賞、サン・マルコ金獅子賞 (1967)、尾高賞 (1972、88、97)、日本芸術祭大賞 (1973、83)、飛騨古川音楽大賞 (1995)、京都音楽賞大賞 (1995)、サントリー音楽賞 (1996)、紫綬褒章 (1997)、恩賜賞 (1999)、日本芸術院賞 (1999) 。
しかし聞く側からすれば、
CDを買っても,何度も聴く音楽ではない。
これはどうしてであろうか?
それは現実界の音楽だからである。
現実界の表現は、斬新で、面白いのだが、
しかし意味を構成しない。
想像界、象徴界、現実界の3界を持っていないと、
人間に真に感銘を与える大芸術にはならない。
何故に、湯浅譲二の音楽は、
現実界しかないのか?
それはジョン・ケージの影響を受け、
鈴木大拙の著作に傾倒しているからである。
つまり《禅》主義なのである。
だがしかし、禅宗というのは、
人類の精神史の中で、
すぐれたものであるのであろうか?
何よりも鈴木大拙の著作はすぐれているのか?
そもそも禅宗というのは、不立文字を原則とするために、
中心的経典を立てない宗教である。
つまり文字そのものを否定しているのであって、
したがって、鈴木大拙の著作を読んで禅を学ぶという事自体が、
禅宗の本質に反している。
禅を学ぶ基本は、師資相承を基本とし、
つまり先生からの直接的な関係でうけつぐことなのである。
つまり禅の本質は、文字を使わないという不立文字と言う性格にあるのであって、
鈴木大拙は、私見では、インチキということになる。
鈴木大拙を、私も読んでいるが、
彼の著作は推敲を重ねたものではなくて、
著作数だけは多いが、どれもイージーライティングであって、
私は感銘を受けなかった。
湯浅譲二氏がすでに述べた様に《超1流》のすぐれた音楽家であり、
その音楽も《超1流》《超1流》《超1流》である、
すぐれたものでありながら、
しかし、繰り返し繰り返し愛聴できる様な音楽ではなくて、
本質的な錯誤を含んでいるものと、
私は思う。
その錯誤を語ろうとすれば、
鈴木大拙批判から、禅宗批判、
さらにはジョンケージ批判までを必要とする様な、
たいへんな作業になる。
つまり、
それほどに深い部分で、
湯浅譲二の音楽は、
本質的な錯誤を内包している音楽であると思った。
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