清水誠一再論 [アート論]
清水誠一氏の作品に、
重層性があるという私の指摘に対して、
Aさんから、疑いの声が上がった。
そういう疑いの声は理解はできるが、
しかし何よりもAさんは、
清水さんの作品を田中画廊という、
狭い、そして汚い画廊でしか見ていないのである。
私はきちんとした、きれいな、広い画廊である、
甲府の画廊まで、わざわざ清水さんのペーンティングの作品を見に行っているのである。
それに清水誠一という作家を、
根本において理解していない。
まず、現代美術史的には、
清水誠一の代表作は、1970年代の前半にあるのである。
特に重要なのは、デビュー作品である。
1969年の「第9回現代日本美術展」東京都美術館に、
デシャンを主題にしたライトアートを出している。
この作品は失われているが、
ここに清水の本質があるのである。
この事は、最近の清水の絵画に現れて来ているが、
しかし、どこまで自覚されていたかは、
分からないところがある。
このブログの最初の図版は、
田村画廊という神田に昔あった画廊での作品で、
床を掘って、画廊のドアを埋めたもの。
これにもデシャンのレディメイドの影響が見られる。
2番目は、「現代美術の角度を測る」と称して、
トラックにベニアを斜めにして、
神田の町を走り回り続けると言う作品。
私はこの作品は高く評価する。
一つは現代美術の角度を測るという、
視点である。
もう一つはトラックを使って走る作品と言う、
その過去に無い独創性である。
この作品こそ、清水の最高傑作であり、
日本美術史に記録すべき、名品である。
《超1流》《超1流》《超1流》
《1流》《1流》《1流》
《2流》《2流》《2流》
《3流》《3流》《3流》
《6流》《6流》《6流》
《7流》《7流》《7流》
《11流》《11流》《11流》
《7流》というのはビジネス領域。
《11流》というのは交通領域である。
3界同時表示、そして3様態同時表示である。
つまり問題意識が多層面に開かれた、傑作なのである。
これは前衛作品である。
そもそもAさんは、前衛作品の意味と言うものを理解していないのである。
レトロと、自明性に満ちたものを愛する精神がAさんであって、
そうした閉じた確からしさの世界の外に出る、
果敢な《脱ー領土化》の精神の運動を理解出来ないのだ。
少なくとも、昔の清水誠一には、そうした前衛精神はあったのである。
3めの作品は、
描かれたファッションと言う作品。
これも斬新な作品で、いまでこそ、現代アートや建築と、
ファッションの関連は当たり前になっているけれども、
圧倒的な早さで、そうした作品を展開していた。
こういう作品を評価せずして、
清水誠一の美術を理解する事は出来ないのである。
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