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あとがき全文 [自作紹介]

彦坂尚嘉の本.jpg

彦坂尚嘉著『彦坂尚嘉のエクリチュール/現代美術家の思考』(三和書籍)
2段組み600頁の大著です。

本を企画する時にお手本にしたのが
ドゥルーズ/ガタリ 著『アンティオイディプス』でした。
これを模倣しようとしたのです。

アンティオイディプス.jpg

厚さは、紙の選び方で変わるのですが、
2種類見本を作ってもらって、
あまり厚くなるのは下品なので、
私なりのプロポーション計算をして、
真ん中のものにしました。
ですから、まあまあの厚さです。

ようやく、印刷所に入校されました。

最後に手間取っていたのが、
ここに全文掲載する「あとがき」です。
最初400字詰原稿用紙で60枚書いてしまって、
駄目だと出版社に言われ、
8頁に入るように、短くしました。

最後にある
謝辞で、非常に多くの方々の名前を挙げていますが、
おつきあい頂いた方々に、本当に感謝しています。

5月8日に最初の50冊が完成します。
3000部ですが、全部が納品されるのが5月20日です。


■あとがき■

 ここに編纂したものは、1970年代の美術家である私の一群の文章の諸編である。70年には大阪万博があり、73年には石油ショック、そして75年、アメリカがヴェトナムで敗戦する。これを境に世界が右傾化していったことは、多くの識者が指摘してきている。音楽史では1975年以降を「前衛の停滞期」という言い方でとらえる。美術史でも1970年代前半で現代美術(前衛美術)の一つの区切りがあるという歴史記述が定着している。つまりこの1975年前後の亀裂は意識されているのだ。私見では1968年から、この一1975年こそが、近代と現代を分ける重要な亀裂なのであった。

 私は、1969年の多摩美術大学のバリケードの中の美術展『造型作家同盟展』から出発した。バリケードと言っても、私が属していた多摩美術大学とその姉妹校である多摩芸術学園の絡み合ったバリケードは、11ヵ月に及ぶ長いもので、私はバリケードで美術展を開いていたのである。その美術展には針生一郎、中原佑介、故・東野芳明ら現代美術批評家諸氏が見に来たし、故・斎藤義重氏、故・杉全直氏ら現代美術のアーティストも見に来た。また『美術手帖』の編集者もバリケードに入って来たのである。美術評論家の瀬木慎一氏も来たし、NHKテレビのディレクターも来たのである。こういうわけで、多摩美・多摩芸のバリケードは、文化の生産拠点であったのである。私に本書収録の美術小説を書かせたカルト雑誌編集者・南原四郎(本名・潮田文)氏、詩人の稲川方人氏、さらにダンスカンパニー・モナドで踊っている神林和雄氏もいた。写真家も多くて故・神林律子氏、車椅子の写真家で舞踏集団・開座でダンスを踊っている矢田卓氏、私と同じようにヴェネツィア・ビエンナーレに出品した写真家の宮本隆司氏、石内都(本名・藤倉陽子)氏もまた、このバリケードの内側にいたのである。
 
 私は、あの時に、黒い光る闇を見ていた。、開高健がベトナム戦争を正面から描いて一1968年に書き下ろし長編小説として発表したのが『輝ける闇』であった。おそらく開高も私も同じ《光る漆黒の闇》を、見ていた。当時の私はエピステーメーを見ていると思っていた。それはモダニズムが沸騰する臨界点の姿であった。エピステーメーというのはミシェル゠フーコーの概念で、日本語で言えば《知の枠組》ということだが、ある時代の社会を支配する「エピステーメー」から解放されるには「エピステーメー」の破壊でしか解決しないという。
 
 このバリケードの中の美術展で、白木で作った百号大四角いパネルを「ウッド・ペインティング」と称した作品と、床に百号大の透明なビニールをただ敷いた「フロア・イヴェント」という作品を発表している。今からふり返れば、芸術をジャック・ラカンが言う〈現実界〉に還元する作品であったと言える。
 
 そして、1970年代の前半は「フロア・イヴェント」を展開して、75年にパリ青年ビエンナーレに国際交流基金から日本代表のアーアーティストとして派遣されたのである。推薦した美術評論家は峯村敏明氏であった。
 
 1970年代後半は「ウッド・ペインティング」を展開する作家活動をして、81年にはヴェネツィア・ビエンナーレに、同じく国際交流基金から派遣されている。この推薦は宇都宮市美術館館長の谷新氏であった。
 
 さらに文化庁から海外芸術家在外研修員に選ばれてアメリカのフィラデルフィアにあるペンシルバニア大学大学院に留学している。推薦したのは兵庫県立美術館館長の中原佑介氏であった。この中原佑介氏こそ、彦坂尚嘉という作家を擁護し、押し出した美術評論家であった。象徴的なのは美術雑誌『芸術新潮』の特集号「天才候補ばかり」(1979年11月号)で、中原氏は、彦坂尚嘉と高松次郎の二人を押したのである。中原佑介(本名・江戸頌昌)氏は、1931(昭和6)年神戸生まれ。1953年京都大学物理学科卒業。1956年まで同大学院の湯川秀樹研究室で理論物理を専攻していた。1955(昭和30)年処女評論「創造のための批評」で美術出版社の第2回美術評論賞を受賞し、美術評論活動に入った。なお前年の第1回美術評論賞を受賞したのは故・東野芳明氏で、東野氏もまた多摩美術大学の教授で、私は彼の推薦で1987年にサンパウロ・ビエンナーレに参加している。
 
 ここで私が強調したいのは、バリケードで初めて発表した「フロア・イヴェント」と「ウッド・ペインティング」という作品を、1970年代に展開して、日本代表として国際美術展に参加しているということ。つまりバリケードは、少なくとも私にとっては、単なる一過性の破壊ではなくて、創造として機能したのである。しかも、私を支え押し出していったのは針生一郎氏のような左翼系の美術評論家ではなくて、中原佑介氏、故・東野芳明氏を中心としたモダニズム系の美術評論家たちであった。この右派の支持の流れが本書にも収録されている「皇居美術館空想」という作品を生み出し、20歳も年齢差のある建築評論家・五十嵐太郎氏の支持を得て、この作品が2007年六月の第一回リスボン建築トリエンナーレに、これもまた国際交流基金の援助で参加することになる。
 
 さらに2007年11月の新宿オゾンでのシンポジウムで、歴史家の御厨貴(日本政治史。東京大学先端科学技術研究センター教授)氏、原武史(日本政治思想史、鉄道ファン。明治学院大学国際学部教授)氏、そして鈴木邦男(政治活動家、一水会顧問、プロレス評論家)氏の参加での皇居美術館シンポジウムに結びついているのである。
 
 とは言っても、私が追求してきているのは、右翼でもなければ左翼でもないのである。それは右翼と左翼に分裂する前のニュートラリティである。このニュートラリティについてはネグリ/ハートの『帝国』でも指摘していることなのだが、《近代》こそが分裂を生み出す時代であったのであり、近代以前においては、分裂はなかったのである。この始原の中庸性の中にこそ真実があると、私は感じるのである。本書に収録されている「皇居美術館を空想する」という提案は、明治維新以来の日本の《近代》を否定して、日本の中に始原のニュートラリティを回復するための祈りというべきものである。
         
         ※
 
 本書には、美術から歴史、映画、音楽、書道という広範で、一見雑然として、相互に何の関連もないように見える文章が集められている。しかしながら、実はそれぞれ具体的な題材の底に、変幻と自在を貫く一本の太い線が脈々と流れているのである。本書は年代順の配列を取らなかったが、年代順に見ていくと、先の1975年から20年を経た1995年のオウム・サリン事件を期に、大きな発展がうかがえる。1995年は日本の敗戦後50年の節目であって、阪神・淡路大震災の年でもあり、これを機に、日本は脱戦後時代へと大きく変貌し、「一億総中流」の時代から、「格差社会」へと舵を切っていくのである。
 
 「媚びと土星」という美術小説をもって本書の序にかえたのも、ほかでもない、それがある意味での1990年代を主導した美術評論家・椹木野衣氏を批判した「悪魔主義美術批評の誕生」の導入をなすからのことである。椹木野衣氏もまた、オウム・サリン事件に大きな影響を受けているライターであった。そのオウムの影響の結果、椹木野衣氏は「1945年8月15日、日本列島の上には雲一つなかった」というファンタジーに満ちた敗戦のリセットの「青空」を空想して、主張した。私は、わざわざ気象庁にまで出向いて確認したが、残されている2枚の天気図が指し示すのは、この敗戦の日の北海道は雨が降っていたことである。確信犯の悪意に満ちた虚偽のデマをもって、日本の歴史と文化のありもしないリセットを主張して、美術史の断絶を描き出す椹木野衣氏のこうした記述への怒り。「媚びと土星」という小説が、私の一貫する《歴史的理性》の追求にとっても、その裏に流れる鬱病的心理的懐疑を描き出した文章として、それは一個の象徴的意味を担うと思われたからである。
 
 椹木野衣氏の『日本・現代・美術』に対する反措定として、然らば私の大胆かつ巧妙に展開する境地とはどのようなものであったのか?  答えは、本書を実際に繙かれた読者諸賢のそれぞれ胸中に存するところであろうが、少なくとも私の精悍にして不屈の意力に或る感銘を覚えた読者なら、『彦坂尚嘉のエクリチュール』といういささか突飛なこの表題をも、必ずや、その意のあるところを汲んで諒として下さることであろう。
 
 しかしこの《エクリチュール》という概念は大層つかみにくい。まずは定評のある辞典類を覗いてみよう。岩波書店の『哲学・思想事典』によると「『文字』『書記言語を意味する』」とある。さらにデリダの『声と現象』を参照しつつ、「一切の記号作用のみならず意識作用も可能にする痕跡やマークとしての原─エクリチュールを提唱する」とある。したがってデリダ的に《原─エクリチュール》までの視野を入れれば美術家としての私の作品まで含まれることになるのだが、本書『彦坂尚嘉のエクリチュール』が対象にしているのは、あくまでも紙に活字で印刷された文書という用法に的が絞られている。
 
 以前に『反覆・新興芸術の位相』(田畑書店、1974年刊)という単行本に収録された文章は、ひとつも入っていない。ウェブ上で書いた文章も、一切入っていない。また対談や座談会の類も、完全に省いている。
 
 出版物に掲載された活字になった執筆文章だけを三和書籍に持ち込んだのだが、編集部でカウントしたところ101万文字あった。自分でも驚いた。400字原稿用紙で2500枚を超える文章を書き続けながら、しかしながら私は、自分を執筆者として自覚することなく来た。それは、一つにはあくまでも私は美術家であって、その文章も美術に従属しているとしての自覚であったし、もう一つは美術評論家や、学芸員、美術史家への遠慮であった。しかしこの遠慮が消えた。消えたのは、年齢が還暦を超えたことと、もう一つはソヴィエト崩壊後の時代変化と正面から向き合うことなく、滅びの道を唯々諾々と進む日本の現代美術界(=旧派)に、あいそが尽きたからである。時代変化、環境変化、技術変化を対象化し、これを芸術表現の問題として正面から取り組むことはコンテンポラリーアートの基本であると思う。そしてまた、自分の生まれた母なる時代の外へと出て行く、つまり歴史的に《出産》されることは、人間の自立化の過程として重要なものなのである。だが、日本の現代美術守旧派の多くの人々は、この出産を拒否したように、私には見えた。美術評論家も、学芸員も、画廊も、作家も、だらしないように見えたのである。
 
 ホタルは集団で光り、そして消えることを繰り返す。「赤信号、みんなで渡れば恐くない」という群れの《同調性》のもとにしか、日本の旧・現代美術界は動かないように見えた。そして、大量発生したネズミは海へと集団自殺をするように、集団で滅びていく。それは太平洋戦争の日本人の集団性として、体験済みのことであった。故・江藤淳氏の指摘のように日本は再び「第二の敗戦」へと、ネズミのように群れて、海に消えていくのである。小泉内閣において急速に進行した「公営組織の法人化・民営化」の一環である「指定管理者制度」の2003年公布とともに、なすすべもなく日本の現代美術界(=旧派)は息の根を止められた。日本現代美術の《近代》は終わったのである。
 
 だとすれば最後の思想戦を、単独で展開するしかない。というわけで本書の刊行が目指されたのだが、その道筋を付けてくれたのは美術家の佐々木薫さんと伊東直昭氏のご夫婦であった。彼らと担当の編集者となってくれた大谷渥子さんのご主人の大谷武豈氏は、ともにBゼミ・スクールという横浜にあった小さな美術学校の主催した夏期講座で、私の授業を受けてくれた縁であった。101万文字すべてを一冊に収録するという大著の出版を目論んだが、しかし不可能ということで、2段組1頁1200字で630頁の本の出版を提案してくれたのが、三和書籍の社長・高橋考氏であった。
         
         ※

 本書の編集は随分長い時間がかかった。101万文字の原稿の中から長い順に論文を選んで収録する方針で、短いものは切り捨てた。当初、書き下ろしで収録する予定だった原稿が260枚を超えても終わらず、途中で入稿し、初校が出た段階でも加筆執筆が止まらず360枚を超えてしまって、やむをえず収録を断念した。したがって書き下ろし原稿はない。
 
 原稿は最低の校正だけに止めて、加筆改変をしない方針で始めた。特に美術史的に意味を持つ具体論「閉じられた円環の彼方は」や「戦後美術批評の確立」、そして初期の執筆である「幻想絵画論」、音楽論である「最小限音楽」などは、発表されたままで手を加えていない。
 
 しかし『SAPジャーナル』に発表された「1990年代美術史試論」の場合は、原稿が160枚を超える長いものであるとともに、時事的な若いアーティストへのコメントの部分は、時間がたって再読する意味が難しくなっていることもあって、その時事的記述は削除して、中心部分だけに整理した。
 
 また作家論として執筆された文章である「写真の歴史と東洋遠近画法」「失われた日本・失われた妹」「アート・スカトロジー論」「S・Sへの手紙」は、改題したものが多いのと作家の名前をイニシャルに改めて、収録した。それは作家を知らなくても、私の文章そのものとして読み得るのであり、むしろ自立した文章として読んでもらいたいという意味を込めた編集手法であるので、ご理解をいただきたい。

 一つの難問は「奇人・西田半峰の敗北」という文章であった。これは、私が企画主導して編纂した『年表・現代美術の五〇年』(『美術手帖』1972年4月号、5月号)を見た故・山本孝氏(初代東京画廊社長、日本洋画商協同組合第六代目理事長)の依頼で、初期洋画商の調査が、私に依頼されて執筆された。関西の梅田画廊までを含む多くの画商への聞き取りと、そのテープを文字起こしする仕事。戦前の美術雑誌を1頁1頁めくって、広告や移転通知などの雑報を丁寧に読んで捜していくという根気の良い作業が必要であった。こうして何もない状態から、全体の構想や章立て、すべての骨格を構想したのが私であった。そして編集者の椎名節氏を選んで美術出版社に依頼したのだが、その結果は私の執筆状況を無視した過酷な原稿締め切りが与えられ、そのスケジュールの中で、400字詰め原稿用紙を一時間4枚の早さで一日12時間書き続けて10日間、ようやく間に合わせた原稿であった。そして1985(昭和60)年5月15日に一度出版されたが、異議が関係者から出た。そもそも原因は、企画そのものにあった。雑誌『太陽』の「画家と画商」という特集号で、初期洋画商の存在が無視されていて、古い画廊主宰者達の中に初期調査の必要性が生まれて、この出版が企画されたからである。そして関係者から出た異議で、書籍は回収され裁断された。
 
 裁断された文章であったが、にもかかわらず隠れた評価は途切れる事無く密かに続いてきた。その反応に励まされて本書への収録が目指された。もともとこの論文は、初期画廊の活動の歴史的な発掘が目的である。そこで題名を「奇人・西田半峰の敗北」に改め、美術家である私が何故に画商史を調査し書くのかという執筆意図を露わにして、日動画廊の章と、組合史の記述を削除して収録する事にした。こうして初期画廊の活動が浮き彫りになり、何よりも題名が「奇人・西田半峰の敗北」に変わったことが大きい。この文章は化けたのである。        

         ※ 
             
 なお本書の刊行に当たっては、実に多くの方々のお力添えを得たことを付記しておきたい。熱心に出版を勧めてくださった伊東直昭氏、快く出版を引き受けてくださった三和書籍社長の高橋考氏、また初出時に大変お世話になった松田政男、福住治夫、藤田正、故・中村とうよう、椎名節、篠田孝敏、中村麗、故・山本孝、故・内藤裕治、富田瑞穂、中山正樹、小松弘典、田畑幸人、大橋紀生、角雅則、戸村力也、村松弘子、山倉研志、天利道子、大家健史、鈴木ひろみ、南原四郎、藤井博の諸氏。

 さらには「略歴と文献リスト」を作成してくださった坂上しのぶ氏、洋画商協同組合との根気の良い交渉をしてくださった三和書籍の下村幸一氏、書に関してご教示くださり文章をチェックしてくださった比田井和子氏、そして度々の相談相手になってくださった杉山旭、清水誠一、富井玲子、玉田俊雄、武田友孝、浅香文恵の諸氏に心からお礼を申し上げたい。
 
 1970年代から2000年代に及ぶ長期間の試行錯誤の思考経過をとった本書は、したがって、その成立過程で、別の目的のためであったにせよ、多くの人々との情報や意見の交換、さらにはご教示をいただくことを経て出来上がっている。
 故・高松次郎、故・斎藤義重、清原啓一、故・松本英一郎、刀根康尚、中里斉、柏原えつとむ、府川次男、中平卓馬、中原佑介、故・東野芳明、針生一郎、峯村敏明、藤枝晃雄、三木多聞、松本俊夫、上野昴志、北川フラム、木村恒久、河村要助、建畠哲、平出 隆、高橋睦郎 磯崎新、五十嵐太郎、新堀学、南泰裕、 山田幸司、橋本純、吉岡誠生、大家健史、松田達、倉方俊輔、米山勇、難波和彦、村田あが、松隈洋、井上章一、加島卓、八束はじめ、布野修司、坂上義太郎、飯沢耕太郎、長谷川尭、天内大樹、大月敏雄、中谷礼仁、上山信一、高岡健、宮台真司、佐々木孝次、原和之、中島義道、福田肇、伊藤啓輔、、外林道子、羽月徹、多木浩二、故・酒井利夫、故・中村敬治、瀬木慎一、谷新、千葉成夫、早見尭、谷川渥、高島直之、浅田彰、椹木野衣、暮沢剛巳、藤原えりみ、伊藤憲夫、美濃ちどり、門田秀雄、山下裕二、村田真、萩原朔美、鷹見明彦、西村智弘、名古屋覚、木幡和枝、ロバート・リード、村田真、小倉正史、菊地敦己、三田晴夫、菅原教夫、故・米倉守、田中三蔵、山本育夫、笹木繁男、中島理壽、青木正弘、藁科英也、小川正隆、故・矢口國夫、尾崎眞人、松本透、光田由里、森口陽、村田慶之輔、是枝開、杉山悦子、原田光、逢坂恵理子、勅使河原宏、本江邦夫、北村淳子、水沢勉、森田一、柳原正樹、岸田恵理、都築正敏、今井圭介、正木基、大谷省吾、山本弘之、黒沢伸、川口直宜、笠原美智子、河田明久、島田康寛、滝沢恭司、横山勝彦、藤井明、林洋子、池田龍雄、中村宏、菊畑茂久馬、故・吉田稔郎、加藤好弘、谷川晃一、最上寿之、山田正亮、吉村益信、河口龍夫、故・建畠覚造、故・土屋武、田中信太郎、福岡道雄、故・堀内正和、中西夏之、李禹煥、宇佐見圭司、山口勝弘、篠原有司男、吉野辰海、工藤哲巳、森口宏一、森口まどか、小倉洋一、中上清、奥山民枝、野村仁、八田淳、狗巻賢二、郭徳俊、北山善夫、流山児祥、堀浩哉、山崎百合子、下次正一、米津知子、故・山中信夫、矢田卓、石内都、宮本隆司、小柳幹夫、故・渡辺哲也、伊藤純子、田窪恭治、高見沢文雄、北辻良央、山田桃子、二村祐子、平岡ふみお、守屋行彬、満田博久、芝章文、海老塚耕一、須賀昭初、島田忠幸、辰野登恵子、中村一美、鈴木慶則、瀧本光國、中川猛、松本陽子、故・林芳史、関根伸夫、故・和田守弘、堀川紀夫、若江漢字、故・榎倉康二、高山登、真板雅文、高木修、前田一澄、小清水漸、原口典之、藤井博、菅木志雄、戸谷成雄、内田和孝、多和圭三、倉重光則、鷲見和紀郎、遠藤利克、水本修二、山部泰司、ヒグマ春夫、藤江民、山本糾、平林薫、故・諏訪直樹、藤堂良浩、岡崎乾二郎、池田修、松居永樹、森田慧、渡辺正宏、大倉康範、猪狩茂、大瀧文子、牛島智子、荒瀬景敏、相田正則、小林晴夫、丸山直文、眞島竜男、石川雷太、弘田一成、風間サチコ、市川武史、鈴木理策、河田政樹、フランク・ロビション、丸山由貴、金田勝一、出口貴子、清岡正彦、大谷有花、栗原一成、黒川弘毅、山崎豊三、越前谷嘉高、大森博之、さかぎよしおう、五味良徳、舟越直木、加藤学、池田孔介、岩間弘、川俣正、会田誠、村上隆、中ザワヒデキ、相原正美、志村みづえ、井村一巳、白濱雅也、加藤力、飯田啓子、朝田公子、佐々木薫、彦坂敏昭、斎藤ちさと、木村昌哉、室坂京子、バンドウジロウ、川島素晴、柏原孝昭、松山賢、エサシトモコ、後藤充、作左部潮、中村シキカツ、本多真理子、岡部徳三、牧島成仁、瀬越義満 加山智章、泉澤章介、安斉重男、桜井ただひさ、酒井義孝、 真壁佳織、井上道子、川島良子、山本豊津、故・向井加寿枝、故・鈴木巴治、平綿のり子、上原誠勇、山口侊子、山本隆志、纐纈君平、上田勉、高垣主一、畑泰彦、八木光恵、渡辺新治、遠藤修一、秋山修、安西敢、葛城薫、森雅美、阪井英治、梶川晋、真倉光子、大村和子、奥野恵、福崎邦昭、福崎平八郎、福崎茂、福崎正道、福崎正作、福崎ヒサ、福崎英一、福崎正幸、小林正樹、田村紗由美、鈴木道子、小鹿倉恵、田嶋奈保子、飛田晶子、西脇妙子、寺嶋裕美子、柳原智子、井出はるか、崩清明、前嶋かおり、二階堂北斗、藤田眞里、池上純子、仲里効、永津禎三、山城見信、藤田みどり、新田健、榎本純子、笹沼俊樹、疋田和夫、伏見修、伏見ルリ、三木重明、柳沢秀和、辻和彦、小西哲哉、各務謙蔵、田淵裕一、中西祥司、長谷川清、故・小島和茂、鈴木完侍、池田昇一、浜崎康彦、若松広正、佐藤秀治、広中ソノ子、松下友紀、大沢亮一、太田丈夫、小林四郎、渡辺泰之助、岩間弘、関内潔、メタ・アナン(以上順不同)。

 これら諸氏との間に交わされた直接、間接の情報交換は、メフィストフェレス的饒舌を必要とする私の頭脳にとっては不可欠であった。ここに御礼を申し上げる。

 本にするに当たっては三和書籍の大谷渥子さんの綿密な献身的編集作業を受けた。本としてまとまったのはひとえにこの作業のお陰である。深く感謝を申し上げる。

 そして最後に、昨年の新宿オゾンでのリスボン建築トリエfンナーレ帰国展関連企画『皇居美術館空想』のシンポジウムにご出席いただいたご縁で、本書の帯に身に余る推薦文をくださった御厨貴氏、原武史氏、そして鈴木邦男氏に、深く感謝したい。
 
            2008年4月                                  
                                彦坂尚嘉   

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
このブログの読者には、
著者サイン入りの本を、
送料を私の負担でお送りします。

さらに付録で、
皇居美術館空想の小さい画像作品
(インチ版のマット付き。手書きドローイング入り、サイン入り。)
をプレゼントで付けます。

5月20日出版予定ですが、予約をしてくださった方には、
さらに、おまけで、
手書きドローイング+サイン入りの小冊子『彦坂尚嘉2008年連歌』(A6版16頁)
をお付けします。

下記に個人メールください。
間際に
振込先の口座番号を返信します。

迷惑メールに入ってしまうことがあるので、
「本の予約」と書いてください。
返信が無ければ、このブログのコメントに書いてください。
hiko@ja2.so-net.ne.jp
      


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コメント 4

コア

とうとう形になりましたね。凄い本ですね。
書き下ろしが入っていない事は、意外でした。
新しく書かれた分が新書等の形で出ると良いですね。

「エクリチュール」と言う語は、ラカンの「エクリ」をはじめとして書名にはしばしば使われるようですが、著者名が書名になっている例は
「ジャコメッティ/エクリ」があります。
あとがきに名前を入れていただいて、光栄です。
by コア (2008-04-24 11:40) 

レイ

非常に興味があるのですが、おいくらなのでしょうか?
by レイ (2008-04-24 18:31) 

ヒコ

 レイさん、高くてすみません、定価6400円です。しかし、日本の美術評論家(旧派)のような、読みにくいものではありません。かならず、面白く読めるものが、いくつもあります。
 もちろん、流通を通しますので、普通の本屋さんにもながれますので、本屋さんで立ち読みして見てくれればと、思います。
 しかし、今、本を売るのは難しい事なので、自分でも努力をしなければなりません。
 それと、今考えましたが、3日以内の返品を受けると言う売り方が、あるかもしれませんね。
 いま、このブログと平行するブログで、販売をするものを立ち上げようと準備しています。ネット・ギャラリーですが、そこで本を売ることも考えています。
 


by ヒコ (2008-04-25 10:57) 

暮沢剛巳

彦坂様

とうとう出るのですね。「おめでとうございます!」は出版されてから言わせていただくとして、とりあえず楽しみです。社寺に名前出してもらって恐縮です。
私も6月に次の著書を出版するので、交換という形でお願いしたいところですが、定価が全然違うのでさすがに気が引けます。
それにしても、45年8月15日の件、気象庁まで出かけて天気図まで確認したというのは恐ろしい執念ですね。ちなみに、椹木氏の記述は「この日、日本列島は雲ひとつない晴天だった」と書かれている磯崎新氏の「廃墟論」の一節の受け売りではないかと推測します。
ではまた近々。
by 暮沢剛巳 (2008-04-26 20:03) 

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