吉本隆明の顔(加筆3/再校正2) [顔/哲学者]
吉本ばななが、
固体の人と言うのはちょっと意外でした。吉本隆明さんもそうなのでしょうか。 by コア (2008-04-04 13:37)
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コアさんは、上記のようなコメントくださった。
これに答えて、
吉本隆明の事を書く。
まず、吉本隆明は、液体の人、
つまり近代人です。
それに対して、娘のばななは、固体の人。
つまり前近代人です。
ばななは、退化したのです。
彼女の書く小説は、
近代的な小説ではなくて、
前近代的な物語に回帰したものです。
そうする事で、循環系という領域を示し得ているとは言えますし、
世界的な人気を勝ち得たのではありますが、
それが文学的に優れているとは、言いにくい事なのです。
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さて吉本隆明の顔です。。
《イメージ判定法》で《31流》。
《言語判定法》で《8流》。
《現実判定法》で《8流》。
註・《31流》というのは、社会的理性の反転領域ではありますが、同時に、老人を指し示しています。
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《想像界》の人である。
《象徴界》と《現実界》は無い。
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他の哲学者の顔を比較して見ましょう。
吉本と、ニーチェである。目つきの水準が、格段に違うのです。
ニーチェの顔を格付けしてみます。
《イメージ判定法》で《超1流》。
《言語判定法》で《超1流》から《41流》の多層的重層的人格。
《現実判定法》で《超1流》。
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《象徴界》の人です。《想像界》と《現実界》は無いのです。だから、ブレーキの無い自動車のように、アクセルだけで、ニーチェの思想は暴走したのです。
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ニーチェと吉本隆明を比較した時に、
一番大きいのは、格の差の大きな差もさることながら、
ニーチェが《象徴界》だけの人であるのに対して、
吉本隆明は、《想像界》の人であることです。
日本の中で吉本隆明は、大変な人気があります。
私の回りでも吉本を信奉する人は何人もいます。
しかしそれはその信奉者もまた《想像界》の精神しか無くて、
実は、真面目には本を読んでいないからです。
本を真面目に読んでくると、失望に至る思想家が、
吉本隆明です。
その理由を、きちんと書くのは、たいへんな作業がいるので、
顔を、絵画のように鑑賞する事で、批評しようとしているのです。
思想家を、顔を絵画的に鑑賞する事で批評できるのかどうかは、
疑問をもたれるかもしれません。
実際に読まなければ分からない事があるのは当然ながら、
しかし、逆に読んでも分からないことがあるのです。
読まずに、顔を先に見てみるのも、
大きく把握するには、
大切なのです。
吉本隆明と、西田幾多郎です。
吉本が《31流》《8流》《8流》であるに対して、
西田幾多郎は、
《イメージ判定法》で《1流》
《言語判定法》で《超1流》から《7流》の多層的重層的人格。
《現実判定法》で《1流》
吉本が《想像界》しかない人格なのに対して、西田は、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもっていて、格段にすぐれているのです。
吉本が液体人間であるのに対して、西田は、絶対零度/固体/液体/気体の4様態を持っています。
人格的精神的な、総合力が、格段に違うのです。
西田哲学を批判する事は出来ますが、しかしそれでも、哲学としての最低限の言語存在性があるのです。
西田の基本的間違いは、哲学の基盤に禅を据えた事です。禅というのは、不立文字において成立し、個人崇拝を基礎とする教外別伝を原則として、家元制度的な師資相承を重視しているのです。それはラカンのフロイト崇拝のやり方に、ある意味では良く似ている個人崇拝のシステムなのです。
禅というのは、宗教史的には、中国において登場した、《象徴界》を否定した《現実界》の宗教なのです。しかし日本の禅宗は、《現実界》の宗教としては退化したものであって、《象徴界》の宗教との混濁性を強く持っています。
《現実界》の哲学そしてはカント哲学がありますから、不立文字の規範を超えて、カント的な《現実界》の哲学として西田哲学を、科学時代の存在哲学として屹立させる事はあり得たと思います。
しかし鈴木大拙も西田幾多郎も、禅を、人類の宗教史の中にきちんと位置づけることが出来なくて、《象徴界》の哲学として誤読していたのです。《象徴界》と《現実界》の狭間に、西田哲学の矛盾も破綻もあったのだと思います。
さて吉本隆明は、人気はありますが、
それはろくに本も読んでいない人々の人気であって、
「吉本哲学」といったものが確立された訳ではないのです。
そして、確かに2回の安保闘争において、
大きな思想的影響を与えはしましたが、
それにも関わらず、「吉本思想」と呼ぶべきものが、
状況を超えて言語として屹立してはいないのです。
その根本が、《想像界》の思想に過ぎないことがあり、
時を超えて存在する言語の屹立性を欠いているのです。
そうしたことは吉本隆明だけではない事で、
《想像界》だけの言語に、私は深く失望しているのです。
たとえば柄谷行人もずいぶん読みましたが、失望しました。
柄谷批判は、拙著『彦坂尚嘉のエクリチュール/日本現代美術家の思考』でも、
これはきちんと分析的に批判しています。
本質批判を書いたつもりです。
柄谷行人の顔
《イメージ判定法》で《8流》。
《言語判定法》で《8流》。
《現実判定法》で《8流》。
《想像界》の人。
《象徴界》《現実界》の無い人。
液体人間。
吉本隆明と同一の精神次元を示しています。
こういう人たちの執筆に対する、失望なのです。
若い人では、東浩紀の存在です。
東浩紀の顔
《イメージ判定法》で《8流》。
《言語判定法》で《8流》。
《現実判定法》で《8流》。
《想像界》の人。
《象徴界》《現実界》がない。
気体人間。
固体の人(前近代人)
液体と気体の差はありますが、
東浩紀もまた、吉本隆明と同じ精神次元なのです。
こういう《想像界》の人間の執筆そのものに、
私は、もはや意味を感じないのです。
東浩紀も、初期の数冊は買っているし、
最近の新書判も買って、読んでいますが、
透徹性は感じられません。
東浩紀のデリダ論は、基本的に錯誤の産物です。
東浩紀は、固体の人(前近代人)であって、
デリダと言う気体人間(現代人)の思想を、誤読しか出来ないのです。
最近の著作でも、まず感じる事は、この固体の人(前近代人)であることの、
混迷さです。
ジャック・ラカンも固体の人(前近代人)であって、
フロイトと言う近代の思想を、前近代に押し戻す逆流の展開をとげたものですが、
ここには、インチキもたくさんあるにしろ、生産性のある思想活動がみられます。
同様にデリダを、前近代に押し戻す逆流の展開を東浩紀がとげるという思想展開は
あり得たはずですが、
しかし《想像界》しかない東浩紀の思考は、表層を愚昧に戯れるだけで、
人間存在の内奥への到達性を示し得ません。
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思想家として見ると、
吉本隆明は、《想像界》の《31流》《8流》《8流》の人で、
ずいぶんと落ちるのです。
繰り返しになりますが、
《想像界》の人であるというのは、
思想家としては、どうしようもない事で、
基本的な才能が欠けているということなのです。
分かりやすく言えば、
子供が、思想家ごっこをして、
そういう振りをしているという、遊びの世界なのです。
なぜなら、思想と言う言語領域は、《象徴界》の世界だからです。
いや、吉本隆明は、歳をとったからであって、
若い時には、違うと言う意見もあるかもしれません。
もう少し吉本隆明の顔を見てみましょう。
若き吉本隆明です。
《イメージ判定法》で《8流》。
《言語判定法》で《8流》。
《現実判定法》で《8流》。
若い顔には《31流》性はないから、
《31流》というのは老人性ということを意味していたと思います。
しかし典型的な《8流》の人です。
《8流》というのは信仰の世界です。
創価学会の信者のようなものです。
自分の信じることにこだわる新興宗教の信者の様な思想家であったのです。
若い時には「軍国少年」であり、
そして戦後は、「あらゆる権威に対する反抗」という下流人間の信仰世界を生きたのです。
「権威としての共産党に対する反抗」という信仰世界もまた、
ある意味での下流人間特有の万能感に満たされて信仰世界でありました。
吉本隆明の根底になるのは下流人間が持つ万能感の充足した世界です。
そこでは充足の中で、革命が忘却されるのです。
あれだけ新左翼に影響を与えながら、しかし新左翼の思想を確実に打ち立て、展開するという事はなし得ていません。
そのことはトーニ”アントニオ・ネグリと比較すると良く分かる事で、ネグリは、1979年の赤い旅団の連座を疑われた以降も、
思想家/哲学者として果敢な展開を遂げています。吉本隆明においては、そのような左翼思想家としての結実はありません。吉本隆明の転向は、その意味で大衆万能感主義故の転向なのです。
ネグリが革命家であり続けるのに対して、吉本隆明は、結局は売文家にすぎないという、疑いを抱かせます。この感覚は、小林秀雄にもあって、売文家以上のものに、私には見えません。
年間3万人を超える自殺者を生む、これだけひどい日本社会に生きて、
なぜに吉本隆明は革命思想を語り続け得ないのでしょうか? 今のこの大衆的悲惨状況の中で、革命を語らないとしたら、2度の安保闘争での発言な何だったのでしょうか?
吉本隆明の世界認識は、信心を超えた説得力を持つものではなかったのです。それは法然を先人として信じた親鸞のような信仰的透徹性にも至りませんでした。親鸞の他力信仰は革命性を持ったものであり、それは一向一揆に結実して行ったのです。信心も自分から信ずる心の意味ではなく、阿弥陀仏から賜ったものであり、すべてが阿弥陀仏の働きであるとする他力本願(たりきほんがん)こそ、下流の万能感を真にその内側から超えて、革命に至る精神世界なのですが、吉本隆明の「大衆の原像」には、そのような万能感の超克の契機がありません。親鸞が最後まで書き続けた『教行信証』のような大著のような書き物を、吉本隆明がなし得ているとは、思えないのです。
私自身は、1960年代の後半から、
吉本隆明の本を、かなりの分量読んで来ています。
最初期の「マチウ書試論」、『擬制の終焉』(1962年)、
しかし、何もおぼえていない。
『言語にとって美とは何か』は、買いましたが読めていません。
親鸞関係は、ずいぶん読みました。
優れた思想というものは、言語が、ピラミッドの様にガンとして存在しているのですが、この人の言語は、《想像界》の言語であって、ファンタジーに過ぎず、まぼろしのように消えてしまったのです。
多くの人が、『マス・イメージ論』(福武書店, 1984年)で失望して、吉本離れを引き起こしていますが、私自身は、この時には、特に失望はしなかったのです。駄目だと言うことを思い知らされたのは、吉本 隆明 と 大塚 英志の対談『だいたいで、いいじゃない』(文春文庫) を読んだ時です。
大変参考になりました。何十年も読んできた書き手について
「戯れ言であった」とするのはつらい事ですが、
考えてみれば吉本隆明氏は「詩人」だったのですね。
想像界だけの人格である、という点が大衆に愛された
理由の一つなのでしょうか。
思想家、オピニオン・リーダーとされる人々には意外に
多いタイプなのでしょうか。
by 丈 (2008-06-20 16:31)
詩というものが《想像界》の産物であるとは、思いません。すぐれた詩は《象徴界》です。たとえばリルケの詩とか、西脇順三郎の詩は、《象徴界》のものです。
大衆に愛されると言う条件については、私は考えた事がありません。選挙でブッシュが勝利するとか、今回のオバマの勝利とかは、《想像界》であることが大きいでしょうが、小泉元首相は、《想像界》の人格ではありませんでした。
鈴木 謙介は、3界を持っています。養老孟司も3界がありますから、一概には言えないのです。
by ヒコ (2008-06-21 04:20)
「基本的に《想像界》だけしかない思想家は、戯言にすぎません。」
彼らの何がものたりないのか、とてもよくわかりました。
by komatta (2008-06-21 09:57)
あんた、何の論拠もなく手相見以下の判断を表明して、0流以下の狂犬だな。
by いやあ (2009-12-27 20:28)
うーん、だから、思想が象徴界の産物だという思想自体が、吉本においては批判されているんだと思うがな。しかし、象徴界にたいして想像界の産物で対抗しようとするのは不可能、ということはあるのかもしれない。
by NO NAME (2011-02-08 08:16)