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アンドレ・セラーノの《21流》写真(不快画像削除版) [アート論]

最初の『警告版』の掲載は終了しました。
これは改訂ソフト版です。

ひどいと思われる画像は、すべて削除しましたので、
上品な方でも、安心して、見てください。

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《ピス・クリスト》という題名の代表作である。

「ピス(小便)」に浸けられたキリスト像と言うことで、
スキャンダルになって、有名になった作品である。

写真作品としては、実物は約150センチ×90センチの大きさがあるから、
襖1枚をやや下を切ったサイズである。
チバクローム・プリントである。

私は実物を見ていない。

アメリカの写真作品としては、このサイズが特別に大きい訳ではないし、
そしてまたチバクローム・プリントもまた、ありふれた選択である。

さてこの作品は、良い作品なのだろうか?

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これについては美術批評家のルーシー・リパードが、
セラーノを擁護して書いている。
そのことは『でも、これがアートなの? 芸術理論入門』(シンシアフリーランド著)で触れられていて、
邦訳が藤原えりみ訳で出ている。
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リバードの顔である。
《想像界》で《8流》
《象徴界》で《8流》
《現実界》で《8流》
典型的な《8流》の人物である。
こういう人物の語る内容は、
信じられている新興宗教の説教のようなものに、
過ぎない。

リバードは、作品の主題などの文学的思想的な問題を論じて、
たとえばゴヤと比較している。

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確かに主題や、内容、思想性だけで見れば、
セラーノと、ゴヤには、類似性がないわけではない。

しかし私の議論は、リパードの言う事の次元では無い。

ゴヤの絵画は、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持っているが、
セラーノ作品は、《現実界》だけの作品である。
問題は、こうした《現実界》だけの作品が持つ、
無意味性である。


セラーノの作品に対する彦坂尚嘉の判定は、かなり厳しい。

《イメージ判定法》で《8流》
《言語(象徴界)判定法》で《21流》
《現実判定法》で《1流》

作品そのものは、《現実界》の作品である。
それもあって、《現実判定法》で《1流》ということでは、
《1流》の作品性があることは確かではある。

しかし同時に《現実界》しかない作品が持つ、
無意味性に、満ちている作品であって、
リパードが言う評論が持つ様な、深い意味がある作品では、
実は無いのである。

批評的にはリパードの様に語り得ても、
実は《現実界》の芸術は、単に無意味なのである。

見た人間が、見たと言う実体験の意味構成が出来ないのである。
見ても、それは単なる刺激以上のものではなくて、
空無以上の意味は無い。


それでも、しかし、《現実界》だけで見れば、
ここでは非合法性も、非実体性も、《退化性》性も成立していて、
真性の芸術であると言えるのである。

それはしかし、あくまでも《現実界》の芸術という限りであるが・・・。
議論されるべきは、この問題であり、
そして《現実界》しか無いと言っても、
実は《象徴界》が《21流》であるという、
低い猥褻な格の領域は、反映されているのである。



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アンドレ・セラーノの評価は、
アメリカの中では、中堅の作家として確立されていると言えるらしい。
それは日本の中での荒木経惟や、森村泰昌に対応している。

日本の中で荒木経惟の評価がいくら高くても、
だからと言って、私もまた荒木を高く評価しなければならないと言う、
筋合いはどこにも無い。
私は《象徴界》の眼で見ているから、荒木経惟を《21流》だと思うし、
森村泰昌を《6流》だと思う。
そしてセラーノもまた、《21流》だと思うのである。


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セラーノの顔である。
《イメージ判定法》で《8流》
《言語(象徴界)判定法》で《21流》
《現実判定法》で《1流》。
《現実界》だけの人。
気体人間。


すでに述べた様に、
《現実界》の芸術という領域を認めて、
《現実界》の眼で見れば、
セラーノの写真作品は《1流》の芸術であると言えるし、
真性の芸術であると言えるのである。

私自身は、眼を《象徴界》から《現実界》に切り替える事は出来る。
だから、切り替えて見れば、
セラーノは《1流》の芸術になってしまうが、
何か、釈然とはしない。

逆に言えば、《現実界》、つまり科学だが、
科学だけが支配力を強く持つ世界というのは、
セラーノのような作品が《1流》の芸術として闊歩する、
嫌な時代なのである。

そして《現実界》の《1流》性の裏には、
《象徴界》で《21流》という、その格付け領域が、
透けて見えるのである。
《21流》というのは、分かりやすく言えばエロ写真の
猥褻領域である。
荒木経惟の作品が持つ猥雑さと低さは、
この《21流》のエロ写真領域の下衆さなのだが、
同じ匂いをセラーノは強烈に有しているのである。

では荒木経惟を、ついでに見てみよう。

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上の写真は、荒木経惟が1963年に太陽賞を受賞した「さっちん」である。
初めにすべてありき、という原則からは、この初期写真が重要である。
この写真を格付けしてみる。

《イメージ判定法》で、《1流》
《言語(象徴界)判定法》で、《21流》
《現実判定法》で《8流》

ここでも同様な現象があって、
《想像界》の眼で見ると、これは《1流》の作品で、
真性の芸術であると見えるのである。
《想像界》だけしかない世界というのも、
それは偶像崇拝と迷信のはびこる世界だから、
嫌な世界ではある。

しかし、現在までの荒木経惟が示した様に、
この写真にある《象徴界》の《21流》性は、
実際に、「S&Mスナイパー」というエロ雑誌の連載に至るし、
その猥褻写真を恥知らずにも展示し続けているのである。
この荒木経惟の《21流》の猥褻写真と、
同じSM系の画像でもネイプルソープのそれは《超1流》であって、
猥褻性は無いのである。
《21流》という領域が猥褻なのであって、
同じSM系の画像でも、《超1流》領域では、猥褻ではないのである。

つまり問題は、《21流》という領域で作品を展開する荒木経惟の猥褻さであり、
そして同じく《21流》という領域で作品を展開するセラーノの猥褻性なのである。

《21流》の中で《想像界》の《1流》性に依拠するのが、荒木経惟である。
そして
《21流》の中で《現実界》の《1流》性に依拠しているのが、セラーノなのである。

では森村泰昌はどうであろうか?

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《イメージ判定法》で《1流》、
《言語(象徴界)判定法》で《6流》
《言語判定法》《8流》

つまり《想像界》の眼で見れば、
森村泰昌も《1流》の作品で、
そしてまた真性の芸術であると言うことになる。

ここにあるのは、セラーノや荒木経惟とは違って、
《21流》性はなくて、《6流》性の世界なのである。
そして森村泰昌もまた、荒木経惟と同様に、
《想像界》の《1流》性に基盤を置いている。

おそらく、真の問題は、
ゴヤにはあった、人間精神の総合性が、
かなりの量で、壊れて来ていると言う、そうした、
3界がばらばらに解体されて行く時代が、
問題の中心にあるのだろう。
セラーノや、荒木経惟、そして森村泰昌の作品は、
そうした人間精神の総合性の崩壊に対応したものなのである。

念の為に言えば、
《象徴界》だけの作品の代表例は、
ドナルドジャッドの作品である。

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《想像界》で《8流》。
《象徴界》で《超1流》
《現実界》で《8流》

私には、ジャッドの作品は、素晴らしく見えるが、
しかし《想像界》しかない眼の人や、
《現実界》しかない眼の人には、
何が良いのやら、さっぱり分からない作品と言える代物なのである。
《8流》では、興味の無い他者を説得できないのである。

《想像界》《象徴界》《現実界》が、人間の精神から解体されて、
バラバラになったのが、いつからかは、分からないが、
今日の芸術の状況は、実はこうした、分解が基底にあるのかもしれない。

しかしだからと言って、
すべてが解体された表現なのであるのではないのである。
その実例の一つが、川久保玲のデザインである。
ここには《超1流》の総合性があるのである。

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セラーノの作品は、私は嫌いだが、
川久保玲のデザインは、私には真に総合的な芸術の存在として、
惨然と、輝いているのである。
しかし、デザイン領域に、希望の星があるというのも、
釈然としない時代なのである。


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