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【自然美術】と【文明美術】(加筆2/改題) [アート論]

salaassee-detail2.jpg
上下ともにレオナルド・ダ・ヴィンチの作品です。
Virgin of the Rocks Leonardo da Vinci.jpg

(以下の文章は、「日本文化デザイン会議」のブログに、コメントしてくださった、”もしもし”さんへのお返事の、ロングバージョンです。)
 
コメントありがとうございます。混乱を与えたことは申し訳なく思いますが、うーむ、”もしもし”さんご批判も、実は良く分かっていなくて、ご返事のしようがないところがあります。
 
整理して、できるだけ分かりやすく書きますが、それでも難しいかもしれません。
 
まず、いま、デザインと言う言葉を使っていますが、混乱の一つは、この言葉にあります。正確には《実用美術》ということばと、《鑑賞芸術》という言葉を使いたいのです。歴史的には、この用語で語り得たはずなのですが、今の私の議論は、もっと複雑なので、さらに用語を変える必要があります。そこで《自然美術》と《文明美術》という用語で、美術の2重性を整理したいと、思います。

さて、そうはいっても、その前に古い用語である《実用美術》と《鑑賞芸術》の分離という事態も、説明しないと、まずいのです。
こうした分離が17世紀に、西洋でも東洋でも起きたと、私は考えていますが、美術史の専門家の方の中には,異論があるかもしれません。
 

この17世紀よりも、はるか前に起きた分裂というのがあって、この分裂と、17世紀の分裂が重なっているのです。
はるか前というのは、文明の誕生の時期です。自然採取の原始時代の美術と、農耕を始めで文明になった時期の美術と、2種類になった段階が、重要だと、私は考えています。つまり【自然美術】と【文明美術】の2重性が構造化されたのです。

最初にあるのはオーストラリアの原住民アボリジニ (Aborigine) のような【自然美術】です。
日本で言うと、岡本太郎の好きな火炎式土器のような【自然美術】です。
縄文式土器を詳細に見て行くと、この火炎式土器の後に、後期縄文式土器は地味になり、抑制され、上薬のようなものがかかってきます。この《抑制》ということが重要で、ここで【自然美術】の《6流》が抑制されて、突如として《1流》の【文明美術】に変貌するのです。

彦坂の「アートの格付け」ですと、【自然美術】は《6流》の自然領域の美術でして、【文明美術】というのは《1流》の社会的理性の領域の美術です。この理性領域というのは、つまり《抑制》で生まれる領域なのです。
 

さて、ここからは複雑ですから読み飛ばして欲しいですが、複雑に構造化していきます。つまり、大きくは《6流》の【自然美術】と、《1流》の【文明美術】な理性領域の美術の2種類があるのですが、この後、格付け的には《2流》や《超1流》などから、《3流》《4流》《5流》も派生して行きます。

それと文明の中に、《文明の中の野蛮》というべき人工性をもった自然性、つまり「人工的自然」である《6流》の【自然美術】が発生します。ロックの歴史で言うと、1970年代中期のガレージサウンドの登場です。ラモーンズから、セックスピストルのパンクロックこそが、この《6流》の人工的自然の発生なのです。中国の書道史でいうと、唐の時代に懐素という書道家があらわれます。その作風は狂草と呼ばれるもので、草書のなかでも奔放な書体で、書道のパンクです。後世に多大な影響を与えました。こ懐素を、彦坂尚嘉は《6流》の【自然美術】であると判定するのです。
 さらに先の中国の清朝では、《21流》の領域が、すべてを包む大きな領域として台頭します。日本でも鎌倉の仏像に見られる《41流》という表現が出て来ます。判断が出来ない様な、多形倒錯的展開がされていくのです。

「多形倒錯」というフロイトが性欲を語る時に使った言葉が便利なのは、セックスには【子供を作る為のセックス】と、【子供を作らないで、それ以外の目的でするセックス】の2種類がありますが、後者が複雑な種類のセックス形態をとることを「多形倒錯」と説明しました。同様の問題が【文明美術】にあって、極めて複雑な階層的展開を、「多形倒錯」的に繰り広げて来たのです。それが《超1流》から《41流》に及ぶ表現です。ただし【自然美術】の《6流》だけは別にして、省く必要があります。
 
この説明でも、異論をお持ちの方は、多くおられるとおもいます。例えば自然採取の原始段階でも社会はあって、その社会的理性領域はあるのではないか? などというご意見もあるかもしれませんが、こうした細かい議論は、ここでは、とりあえず、省略させてください。実際の作品図版を見ながら,丁寧に説明しないと、話せない事が多いのです。

このように語ると、極めて複雑なのですが、実は、基本には、最初の【自然美術】の《6流》と、【文明美術】の《1流》、つまり、自然領域の表現と、文明領域の表現と言う2重性の構造が基本にあて、それが複雑に折り返されて行くと整理できます。

男の子が、子供の時期におチンチンをいじって、性的快感を得ているのに対して、親が、「おチンチンをいじっていては駄目ですよ」と抑制をかけます。これを受け入れて、おチンチンをいじらなくなることが、大人になるという事です。大人になっても、おチンチンを公衆の中で露出したりするという《退化性》を示す人は、法律で罰せられる事になります。こういうことが《1流》の理性領域という事です。

この同じ様な抑制が、【自然美術】に対して働いて、【文明美術】が生まれるのです。その原理は、《自然性の抑制》という構造であって、その構造は不変であると同時に、短時間的、あるいは事例的には、自然性そのものが変貌している場合があるのです。実例を挙げますと、頭脳警察という先駆的ロックバンドがありますが、そのボーカリストのパンタは、「ステージでマスターベーションした」と伝説化しています。そういう短期的事例はあり得るのであって、事実現代美術の歴史の中には、これに類似した社会的抑制を侵犯する表現がたくさん事例的にあります。しかしパンタが何をしようとも、公衆の面前でのマスターベーションの抑制の構造は、不変なのです。

陶芸で、2つの色の粘土を重ねて練って、それを薄くスライスすると、大理石の模様のようなマーブリングをつくることができます。【自然美術】の《6流》と、【文明美術】の《1流》は、重ねて練られているのであって、マーブリング状態の複雑さを示すのです。つまりたった2色の粘土を重ねて練るだけで、大理石のようなマーブリングの複雑さが生まれる様に、【自然美術】と【文明美術】の2重性が、複雑性を生んでいるのです。こうした単純な構造が複雑さを生むという原理は、1970年以降の複雑系の科学、フラクタル理論やカオス理論などが明らかにして来た事であります。したがって私の芸術観というのは、こうした複雑系の芸術論であると言えます。

しかし粘土を練りすぎると、2つの色の粘土が混じり過ぎてしまって、鈍い色になって、面白さが消えますが、美術も同様であって、【自然美術】と【文明美術】が練り合わさりすぎると《8流》になってしまって、面白くなくなります。

繰り返して言うと、、文明が生まれて、野蛮が排除されて行く中で、【文明美術】と、【自然美術】の、この2重性が、さまざまな形で、入れ子の様にあらわれて、複雑な入り込み方をして行きます。

たとえばレオナルドダヴィンチの作品と言うと、モナリザを初めとする鑑賞画が有名ですが、実は違うタイプの絵も描いていたのです。

ミラノにあるスフォルツァ城には、ダ・ヴインチが部屋一面に描いた天井画と壁画があります。そこには、枝を茂らせ伸びゆく樹木が、すさまじい迫力で描かれているのです。

この作品を私は見に行っていますが、どういうわけかあまり有名ではなくて、図版も、なかなかありません。

Sforza Castle2-2.jpg


salaassee-detail2.jpg

レオナルドダヴィンチは、15世紀から16世紀の人ですが、この段階でも実はこうして2種類の絵画があるのです。
この作品は、

《想像界》の眼で、《6流》
《象徴界》の眼で、《6流》
《現実界》の眼で、《6流》

これは実体的で、合法的ですから、芸術ではありません。

つまりレオナルドダヴィンチが描いた【自然美術】なのです。違う言葉を使うと、「実用美術」≒「デザイン的エンターテイメント」 なのです。

さて、この【自然美術】≒実用美術の《6流》性と、【文明美術】≒鑑賞芸術の《1流》性/《超1流》性と言う区分が、
実は、これだけでは、不十分なのです。

問題が難しいのは、鑑賞芸術といっても、そこには《1流》と《6流》の2種類の絵画が存在しているのです。
つまり真性の芸術としての《1流》、あるいは《超1流》の鑑賞絵画と、
もう一つ《6流》の【自然美術】でありながら鑑賞芸術のフリをした、ニセの鑑賞芸術です。

実例をあげると、
今、ちょうど西洋美術館でやっているコローですが、
コローは《6流》のニセの鑑賞絵画≒【自然美術】と、
《超1流》の真性の鑑賞絵画≒【文明美術】の両方を描いているのです。

コロー2.jpg
このコローの風景画は、真性の鑑賞芸術≒【文明美術】です。
空間がきれいに抜けていて、「透視画面」の素晴らしいものです。

《想像界》の眼で、《超1流》
《象徴界》の眼で、《超1流》から《7流》までの重層構造。
《現実界》の眼で、《41流》

非合法性、非実体性があって、しかも《退化性》もあるので、
これは真性の芸術鑑賞絵画≒【文明美術】であります。

私が昔読んだ本には、これらコローの風景画は、アトリエにだけあって、
社会には出されなかったと、書いてありました。

コロー1.jpg

これはニセの鑑賞芸術≒【自然美術】であると、彦坂尚嘉は芸術判定をします。
しかし、こうした私の意見は例外的なものであって、
世評は、この作品を美しいものとしています。

《想像界》の眼で、《1流》
《象徴界》の眼で、《6流》
《現実界》の眼で、《6流》

しかも合法的で、実体的ですから、
これは芸術≒【文明美術】ではなくて、【自然美術】=デザイン的エンターテイメントなのです。

この絵画の構造は、風景画にみられて「透視画面」ではなくて、
「原始画面」なのです。

つまり【文明美術】=「透視画面」、あるいは「透視平面」
【自然美術】=「原始画面」、あるいは「原始平面」

これはアカデミーに、意図的に合わせて、
コローは,自覚的に、世間に合わせた【自然美術】≒デザイン画を、
処世術的に、描いていたと、昔読んだ本には書いてありました。

こうして、コローは、【文明美術】と【自然美術】の2種類の絵画を描き分けたのです。

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さて、こうした【文明美術】と、【自然美術】の2重性は、
17世紀頃からは、鑑賞芸術と、実用美術の2分割の概念に整理されます。

さらに産業革命が18世紀に発生して、
工業製品が生産され、アーツ・アンド・クラフツ運動や、
バウハウス、ドイツ工作連盟などの運動が展開されて、
実用美術は、【デザイン】として整理されて確立されます。

産業社会の中では、【デザイン】というのは実用美術のことであり、
そして《6流》の【自然美術】の工業的制作であったのです。つまりモダニズムがつくりだした人工的自然が、デザインの《6流》領域であったのです。
これが彦坂的見方です。
しかし普通はデザインされた工業製品は、人工物であって、自然とは別であるとお考えの方が多いでしょうが、彦坂の視点では、自然も《6流》であり、そして【自然美術】も《6流》で同じであり,さらに産業化社会における工業製品の大多数は《6流》であって、人工的自然であったと、見なしているのです。

それが、情報革命がはじまっていくと、デザインの《6流》性は、変化をはじめます。日本でその先駆けの象徴的なのは、フジテレビのロゴマークが、目玉のような性器マークのようなものに変わった1985年です。

この頃から、デザインは、《6流》ではなくなって、《3流》や、《1流》が出てきます。

その前を考えると、1973年に、川久保玲がコム・デ・ギャルソンを設立しています。1981年からパリ・コレクションに参加していますので、彦坂的に言えば、1975年のアメリカ敗戦の前後から、デザインは変貌を開始したのではないかと思います。

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日本文化デザイン会議の真剣な文化交流の実践に感動したということと、
デザイン作品に感動するという事は,違う事なのです。 

同じ感動という言葉を使っても、文脈が違うと、意味が変わってきます。 
そこで、混乱を与えてしまったようで、申し訳なく思います。 

しかし、もともと私の議論は錯綜していて、分かりにくいのです。

デザイナーと美術家というのは、実は、リアルな関係においても、
奇妙な緊張関係があるものなのです。 
建築家と美術家の間にもあります。
 そいうリアルな場を生きて来た事の反映を、書いて来てしまっています。  

実際に美術家は美術家で固まって生きて来ているのは、歴史的にもあって、
もちろんデザイナーや建築家との交流や接触はありますが、なかなか難しい関係なのです。 

そういう人間関係がからんだ問題と、作品を芸術(=鑑賞芸術≒【文明美術】)と、デザイン(=実用美術≒【自然美術】)に、2分する考えは、これも微妙に分かれます。

こうした議論が錯綜するのは、一つには実用美術と鑑賞芸術に分離するという事自体が、
西洋でも東洋でも、ほぼ17世紀に始まったと、私は考えます。  

そして矛盾するのですが、現在の21世紀はこの分離の構造が崩れて来ていると、
私は考えるのです。 

分離が崩れて来ているのなら、分離を崩せば良いはずなのですが、
私の場合は、その鑑賞芸術の位相の流れを、明確にしていこうとして、
議論を建てています。 

そのために、ダブルバインド的に見える議論になって、分かりにくい印象を持たれると、思います。

 例えば,某有名学芸員は、私との個人的な話の中で、「ベンツを芸術であると思う」と言うのです。
それに対して、その間違いを正して行こうとすると、
厳密な歴史的議論と、そして芸術の定義の問題と、それが情報化社会の中で、変貌して行くことを説明する必要があるのです。

私は、もはや鑑賞芸術と、実用美術の、2元論では、不十分であると思います。

つまり川久保玲に見られる様に、デザインワークの中に【文明美術】の高度な姿が出現して来ている一方、

美術館の中には、芸術の名の元に、多くの【自然美術】であるものが氾濫しているのです。

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「デザインというカテゴリーでデザイナーが作りだすものはデザイン的エンターティンメント」でハイアートではない、ということでよろしいのですね」ということが、機械的には、言えない状態が、現在です。
 たとえば川久保玲のデザインは、彦坂尚嘉はハイアートの真性の芸術であると、考えています。しかも《超1流》です。
 同様のことは、建築には多く見られます。

デザイナーが作るものでも、《超1流》のものは、多く存在します。たとえば、現在のシャネルは、《超1流》のものばかりです。非実体で、非合法ですので、芸術といえますが、しかしさすがに《退化性》はないので、真性の芸術とは言えません。

日本の現代美術(旧派)のものは、ほぼ8割は《6流》であって、しかも合法的で、実体的なものが多くあって、芸術では無いと彦坂は、考えています。実例を挙げると問題がありますが、
あえて言えば、例えば戸谷成雄の作品は、絶対零度の原始立体であって、現代美術ではないのです。原始美術です。しかも実体的で、合法的ですから、デザイン的エンターテイメントです。言い換えると工芸の巨大作品です。つまり戸谷成雄の作品は、「原始美術の工芸作品」と言えます。

「終局的にはハイアートのボルテージはデザイナーなどには及びもつかないほど高いということですか?」というご質問には、
そうだと言うべきとは、思います。少なくとも歴史的に見れば,過去に於いては、そのように言えます。未来はあぶないことはあぶないですが、アーティストの非合法性は、非常に高いものです。

 デザインというよりも、実用美術ですが、実用美術と鑑賞芸術の分離は、17世紀に起きて来て、近世から近代にかけて、この分離は大きい構造として機能していました。

 しかし、1975年と1991年の2度の終焉を経て、近代のシステムは、終わったのです。それと同時に、実用美術と鑑賞芸術の分離の構造も終わって、混乱や、錯誤や、そして入れ替わりや、さまざまな事象が現れて来ています。


彦坂尚嘉の整理は、
もう一度基本に返って、【文明美術】の高度な《超1流》のものを名品として高く評価し、
そして【自然美術】の《6流》のものを、名品ではないとして、分離する事です。

つまり芸術とデザインの区分を超えて、
《名品》と、《名品》ではないものに、分け直す事です。

こういう彦坂尚嘉の主張は、極端なものであって、あくまでも批評的な作品と言うべきものであります。
現実の美術史や、美術館の再編を、これですることは、できません。
しかし、現在の混乱を整理して見る、一つの方法ではあると思っています。

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コメント 2

もしもし

力の入った解説、ありがとうございます。
なかなか的を得た世界美術論になっています。
「現実の美術史や、美術館の再編を、これですることは、できません。」と謙遜におっしゃっていますが、既存の美術界が新しい解釈を始めなくてはならないのではないでしょうか? 文明の変遷にフロイト以後の哲学を独自に構築していて世界美術史的にも非常に興味深いです。
個人的に私は純粋芸術至上主義者でして、ヒコさまよりもデザインを除外して現状を見る傾向が強いです。
ちなみに当方、最も崇拝するのがコンセプチュアルアートでして、ジョセフ・コススが大好きです。リチャード・プリンス(ジョン・ドウ)も好きです。

by もしもし (2008-07-18 02:02) 

ヒコ

コメントいただいたお陰で、考えを整理して、しかも前に進める事が出来ました。
読んでいただいて、感謝します。
by ヒコ (2008-07-18 09:37) 

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