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反覆(加筆1) [哲学]

私の最初の著作は、『反覆・新興芸術の位相』という。
1974年に田畑書店という所から出した。

私が、映画批評家の松田政男氏との関係から、田畑書店が出版してくれると言う話を作って来た。
美術家共闘会議(BKYOTO)の記録を残そうと思ったのである。

そして、最初は堀浩哉氏と一緒に共著という形で、1年間の準備が進められたのだが、1年経つと、堀氏は、降りてしまった。堀氏は、自分で言った約束事を守らなかった。そういう矜持の無い人である。堀浩哉は、美術家共闘会議の議長であったが、その思想的な総括もしないし、議長としての責任も取らない男だったのである。止むなく、後1年を費やして,独りで出版する形を取った。

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1995年、清水誠一とモダニズム研究会を立ち上げ、同じ世代の作家たちと読書会をする一方、『再生構造展』という、大規模な美術展を企画した。会場としてはSOKO東京画廊の全室と、湯河原の上田ギャラリーのアネックスと言う良い建築の会場だった。
1970年代の美術家による、回顧と新展開の美術展であった。
すべてを私が準備した。間際で、清水誠一以下の作家たちが、一斉に降りてしまった。
これは、画廊に対する私の信用も失墜し、大きなダメージであった。
さすがに私は、同じ世代の作家の矜持の無さを、良く理解した。
彼らは、自分たちの作品の総括も、美術史的責任も取らない人間たちであったのである。彼らは、この裏切りで、1970年世代表現としての美術史的陣地の構築をしそこなったのである。

堀浩哉氏にしても、1970年代作家たちにしても、歴史の基本が、まったく理解していないのである。逃げないで総括する事と、責任を取って行くことが重要なのにである。

歴史的に自滅する様な、無責任な行動を選択する。ラカン的な精神分析の眼で見れば、《想像界》だけで主体を作っている普通の人は、歴史に流される事は出来ても、この自分の参加した歴史を引き受けて、《象徴界》的に屹立して行くことが出来ないのである。簡単に言えば、責任逃れに走ってしまうのである。そういう弱さでしか、生きられない。

ただ、私自身は、友人が裏切る事は、常に織り込み済みであった。ブルータスお前もか!というのも、明智光秀の乱も、歴史上においては必然でしかない。だから、いつも二の矢を用意している。私はしたたかなのである。

この時は、『AIR』展という名前で「美術家共闘会議結成30周年記念展」を別に用意していた。宮本隆司、石内都、堀浩哉、彦坂尚嘉の4人展を、3会場で、逐次展開したのである。3会場というのは、ギャラリー山口、東京画廊、そして横浜ポートサイドギャラリーである。
宮本隆司と石内都の2人は、良く付き合ってくれたのである。感謝している。
この企画には、「写真の会賞」を受賞した。

これを見て清水誠一が、反省して、再度展覧会を一緒にやろうと、電話して来た。
「来るものは拒まず、去る者は追わず」であるから、以後、清水誠一だけは、付き合いが続いていて、良い友人となっている。清水誠一だけが、私の世代で、唯一果敢に自己展開をしているアーティストであって、その矜持の高さは、敬服に値する。根性があるのである。

最近、別の男が、やはり約束をたがえて降りるということをして、まあ、改めて、そういう変節ということを考えた。これは海外旅行の企画であったが、まあ、経緯から考えると、この変節も矜持がないものである。企画をしてくれている人への迷惑も考えない、無知無能の腑抜けである。

そういうひどい事を、自分がしなかったかと言えば、若い時に自分にも心当たりはあるので、まあ、人の事は言えないと言う反省をする。

人間は、無知無能である。

全知全能を神というのだから、
概念的類推をすれば、無知無能というのは、
全知全能の反対である。
つまり無知無能というのは、悪魔ということになる。

無知無能な人は、悪魔である。
人間は、愚劣な悪魔である。
そういうことが、良く理解で来る無差別殺人の時代なのである。

そういう意味では、変節する人というのも、
無知無能なのだろうし、他人に迷惑をかけて喜んでいる事に於いても、悪魔である。
悪魔とは、できれば付き合いたくない。

泥棒の常習者とか、性的乱交者といった人とは、
付き合わない方が安全なのである。

嘘を、病的に多くつくアーティストもいたが、こういう人とも付き合わない方が良い。

しかし無知無能ということを考えると、
自分自身が、ひどい無知無能で、
だらしのない腑抜け人間である。

今回は、意を決して、自分が人生でなし得なかったことを書き出してみた。

少なくとも7つ揚げようとしたのだが、軽く7つを越してしまった。
私自身も、相当な悪魔である。
できれば、自分自身とは、付き合いたくないのである。

さすがにここでそのリストを公開する度胸はない。
ひどいものだからである。

そのリストを見て思う事は、
まったく無知無能で、自分が何をなし得るのかも、分からなくなった。
ただただ、無能の中に沈んで、無為の生きて来た様に思える。
自分自身が悪魔なのである。
矜持が無い。

反覆という言葉は、もともとはキルケゴールの小説の『反復』から来ている。
「反復」というのは、繰り返すという意味である。
それを、くつがえすという意味を持つ、「反覆」という言葉に拡張したのが、
拙著の題名にした「反覆」と言う、私の方法であった。

私自身は、人生の中で、何回か、大きな展開をしてきている。
脱皮して来ているのである。
蛇が、皮を脱ぎ捨てる様に、脱皮する。
そうすることで、かろうじて、転がり続けて来たのである。

今、再度決意するのは、
もう一度、自分自身の構えを、くつがえす事である。
つまり反覆である。
悪魔の自分を反覆するのである。

■作品制作が、ある次元を超えた事。そのことで、制作の水準が、全然変わってしまった。

■本を出版した事。それでの区切りは大きい。執筆者としての自覚を得る事で、次の課題が見えて来ている。

■そしてウエーブギャラリーを立ち上げようとしている事。
これは30年前に洋画商史の調査から出発して、村松画廊や、ギャラリー手、東京画廊での展覧会企画を、無償どころか持ち出しで追求して来た事の、最終決算である。
なにか出来るとは思わないが、自分が良いと思う作家を擁して、売ってみたいのである。もっとも先に作品を買い取るのだが・・・。買い取り制のギャラリーをやりたいのである。

そういう訳で、新たな、活動のスケジュールを作らなければならない。
ところが、人間は保守的だから、新しい次元に移りたくないのである。
怠惰に、保守的に、同じ事をしていたい。

とにかく、歳をとると意欲がなくなる。
無理矢理でも、活性化しないと、何もできない。
自分の動かすエネルギー源を確保しなければならない。

原子力発電の原理ではないが、
エネルギーは、自分自身を壊す事で得られる。

活性化で一番良いのは、若い時にやらなかった事をやる事である。
そうすると、無知無能リストであげた項目は、ぴったりである。

というわけで、自分の無知無能と、逃げずに向き合い、挑む事にした。

手法としては、一つは嘘をつく。嘘としてやるのだ。
二つには、少しだけやる。
三つには、ゆっくりやる。
四つには、時間をかけてやる。
五つには、無意味であると、自分に言い聞かせる事である。

無意味については、また別の日に書きたいと思うが、
意欲をかき立てる為には、この無意味感の確認が重要である。

さて、人にも言えない様な無知無能ぶりが、
はたして、向き合って格闘できるのか、お楽しみである。

ゴムボールを切って、
裏表をひっくり返すというのが、
反覆のイメージである。
自分自身を裏返すのである。

自分の内側が外に出て、
外が内側に取り込まれるのである。

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コメント 2

満腹

なかなか、ダークでディープな哲学、おもしろく読ませていただきました。

さて、私も最近、人間(特に自分を)はまったく無知無能であると考え、自身なにか、打破できるきっかけはないかと、思慮しているとこでありました。
彦さんの、なしえなかった無知無能はふせられて結構ですが、今度、
「私自身は、人生の中で、何回か、大きな展開をしてきている。」部分を参考までにお聞かせ願えれば、と人生の後輩から説にお願い申し上げます。
by 満腹 (2008-07-23 12:23) 

ヒコ

コメントありがとうございます。なかなか巧くお答えできませんが、もう少し時間をください。メインの方でお答えします。
by ヒコ (2008-07-24 16:20) 

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