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ボッティチェッリ/ダヴィンチ/ラファエロ、そして村上隆(読みやすく改作) [アート論]

ボッティチェッリ/ダヴィンチ/ラファエロ、
そして村上隆

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ボッティチェリの受胎告知です

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ラファエロの受胎告知です。

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レオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知です。

受胎告知の3枚の絵です

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ボッティチェリです。

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ラファエロです。

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レオナルドダヴィンチです。

3人の絵画は、同じルネッサンス期のイタリア美術ではありますが、
ずいぶんと違うものなのです。
この違いを、芸術分析します。

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ボッティチェリの絵に、私は今まで興味が無かったのですが、
最近考える様になったのは、
現在がイラストレーションの時代になったこともあって、
私の知人(田中画廊のご主人)が、レオナルドダヴィンチよりも、
ボッティチェッリの絵の方が良いと言って絶賛するからです。

Sandro_Botticelli_-_weiBliches_Brustbildのコピー.jpg
ボッティチェリの肖像画です。
《想像界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント絵画。
《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント絵画。
《現実界》の眼で《超1流》の真性の芸術。

《現実界》の芸術。
  固体美術

イラストレーションとして《超1流》作品。


ボッテチュリの絵は、《想像界》《象徴界》では2次元の原始画面のイラストレーションなのです。

しかし《現実界》では透視画面が成立していて、普通の原始的なイラストレーションとは違うので、イラストレーションとして《超1流》の優れものなのであります。

言い換えると、イラストレーションの線画を透視画面で描けば、《超1流》になる可能性が出てくると言えます。私の絵画制作技法にとっては、重要な発見です。
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Botticelli_Annunciation2.jpg

3枚の受胎告知の絵画を比較すると、ボッティチェッリはシニフィエ(記号内容)の美術で、
ラファエロとダ・ヴィンチは、シニフィアン(記号表現)の美術であることが、良く分かります。

分かりやすく言えば、ボッティチェッリは、2次元のイラストレーションです。絵解きの挿絵なのです。あくまでも原始平面の図解的な視覚情報なのです。基本的には輪郭線で描かれた絵で、その基本はボッティチェッリの絵画には残っています。天使がいて、マリアがいて、建築があて、風景画あるのですが、その相互の関係は描かれていなくて、図解で、並列化されているだけで、世俗的なのです。これは脳内リアリティのシニフィエ(記号内容)の美術であって、薄っぺらなのです。薄っぺらさと、世俗的日常感覚というのが、つながっています。脳内的本質はありますが、それ以上の意味・・・この場合の意味というのは情報と言うことではなくて、感動を含む真性性=聖なる空間性というものが、無いのです。そして重要なのは、これが《現実界》の美術であることです。イラストという言葉は、日本語と欧米のイラストレーションでは、意味が違うのですが、これについては後半で論じているので、それを見ていただきたいですが、欧米の意味でのイラストレーションは、このボッティチェリの絵画の様に、《現実界》の絵画なのです。このことは、私が今回のこのブログの執筆で発見した重大な認識です。

欧米的な意味でのイラストレーションというのが、《想像界》の美術ではなくて、《現実界》であると言う事は、今まで考えもしない事でした。この発見の重要性は、強調しておきたいと思います。

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ラファエロの肖像画です。

《想像界》の眼で《超1流》の真性の芸術。
《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント絵画。
《現実界》の眼で《1流》のデザイン的エンターテイメント絵画。

《想像界》の芸術。
 
  固体美術
  イラストレーションとして《1流》作品。

ラファエロになって、《想像界》では3次元の深いイリューションの透視画面が成立しています。

そして《現実界》でも《1流》の透視画面になっています。

しかし《象徴界》では《6流》の原始画面です。
そのために絵本の絵の様なファンタジー絵画に見えます

ボッティチェリでは《現実界》が《超1流》で優れていて、ラファエロでは《想像界》が《超1流》であるという、差があるのです。

しかしラファエロは《現実界》も《1流》ですから、総合的には、ラファエロの方が力量のある画家と言えます。

しかしイラストレーションだけで見ればボッティチェリが《超1流》で、断然優れているのです。
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ラファエロの受胎告知をもう一度見て欲しいのですが、これは、《想像界》の絵画で、《超1流》なのです。このことも今回のブログ執筆での大発見であります。実はヨーロッパ人の書いた美術論を読んでいると、ラファエロへの尊敬はすごいものであって、私は一度ですがラファエロ研究の旅行を企画して、ラファエロを見て歩いたのです。しかしバチカンにある大壁画の数々も含めて、退屈で、評価で気ませんでした。今分かる事は、当時の私が《象徴界》の眼で美術を見ていて、ラファエロの《想像界》の眼での《超1流》性を見る事が出来なかったからです。今回のこのブログの執筆で、ようやくラファエロの傑出している秘密が分かったのです。



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レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像画です。
《想像界》の眼で《超1流》の真性の芸術。
《象徴界》の眼で《超1流》から《41流》の重層表現で、真性の芸術。
《現実界》の眼で《超1流》の真性の芸術。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ偉大な芸術。
  固体/液体/気体の3様態を持つ総合的な絵画。

 イラストレーションとして《1流》作品。

最後のレオナルド・ダ・ヴィンチのワシントンのスミソニアン美術館所蔵の絵画になると、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で透視画面が成立して、きっちりとした総合的な芸術が成立した鑑賞絵画になっているのです。

私から見ると、このレオナルド・ダ・ヴィンチが圧倒的に優れているのですが、しかし普通の多くの人は、実はこのダ・ヴィンチの《超1流》絵画には、あまり興味がありません。圧倒的な人気はむしろラファエロであり、そしてラファエロ前派が登場してからは、ボッティチェリの人気も凄いものがあるのです。

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ダ・ヴィンチの受胎告知を再度見て欲しいのですが、
ダ・ヴィンチの絵画は、空気遠近画法と、筆後を残さないでぼかしたスフマート技法で、輪郭線がなくなっています。3次元の理性的な視覚秩序に基礎づけられた絵画になっています。天使、マリア、建築、風景画が、3次元の深いイリュージョン空間の視覚性の中で、相互関係が描かれて、真性性=聖なる空間性が成立しているのです。

基本的に芸術というのは、このような聖なる鑑賞空間の成立なのですが、そうした偉大な空間を嫌う人々も、膨大に増えてしまって、人気投票では、レオナルド・ダ・ヴィンチは、負けてしまう時代になってしまったのです。

田中画廊のご主人のお祖父さんというのが、
日本画の画商をやっていたそうで、
田中さんご自身も日本画が好きですが、
同時に若手のイラストレーションが好きです。
日本橋で画廊と喫茶店をやっていて、横松桃子といった絵本の画家の大きな絵をかけている。
その田中さんがボッティチェリに熱狂をするのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチよりも良いと言うのですが、
たぶんそれは【イラストレーション】として比較しているのでしょう。
そうすると、ボッティチェリの作品は《超1流》であって、
レオナルドは《1流》で、イラスト性としては落ちるのです。

後でイラストレーションの定義をしますが、
その定義で見れば
ボッティチェリの方が分かりやすいと言うか、
イラストレーションの定義にかなっているのです。

【イラストレーション】で《1流》の絵は簡単に見つかりますが、
《超1流》のイラストレーションというのは、
いまのところボッティチェリしか見つかっていません。
ところが、このブログを加筆している段階で見つけたのが、村上隆で、
彼の作品はイラストレーションとしては《超1流》なのです。
後で村上隆も論じます。


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これらは、ミケランジェロの大壁画のあるシスティーナ礼拝堂にあるボッティチェリですが、私も見ていますが、面白いとは思わなかったのです。

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ラファエロのこうした物語性の強いファンタジー絵画というのも、《想像界》の眼で見ると確かに《超1流》でありまして、良く描けているものです。私も面白いと思える様になりました。しかし《象徴界》の眼では《6流》の原始画面で描かれているので、どうしても空間に怖い様な深さが無いのです。
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レオナルドダヴィンチですが、未完成ではありますが、空間の深さが、ボッティチェリや、ラファエロとは格段の相違がある事は分かっていただけると思います。
こういうのを《大空間》というのですが、《大空間》を描くのは、絵画芸術の大きな目的の一つであります。言い換えれば空間の小さな作品は、芸術的には低いのです。

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ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」

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ラファエロ

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上は、言うまでもなくレオナルドダヴィンチの最後の晩餐です。
ボッティチェリ、ラファエロの2枚と比較すると、
3次元空間のイリュージョンの深さが違います。


【続きは、下をクリックしてください】

この場合、空間が浅いから駄目であると言っているのでもないのです。グリンバーグは浅い空間の最良のものとして、オプティカル・イリュージョンの成立の問題を言っています。これが成立すれば、浅くても優れた芸術であるとは言えます。

浅い絵画空間には、このオプティカル・イリュージョン絵画と、
だまし絵と、ペンキ絵の3つがあります。
この問題はまた、難しいので、次の機会に譲ります。

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このボッティチェリの絵画は「春」で、一番有名なものです。イタリアのフィレンツにあるウフィッツィ美術館の人気作品でありますが、これも実物を見ていますが、私はつまらないと感じていたのです。

想像界》の眼で《1流》の真性の芸術。
《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《超1流》の真性の芸術。

固体美術。
《現実界》の美術。

【イラストレーション】として《超1流》。



何でも、こうして探求してみるものですね。
この絵は、《現実界》の美術で、《超1流》であったのです。
私はどうしても《象徴界》の眼で見て来ていたので、《6流》にしか見えなくて、つまらなく思えていたのですね。つまりイラストレーションとして《超1流》であるということと、《現実界》の美術であって、《超1流》であることは、たぶんですが、連動しているのだろうと思います。
こういう《現実界》で芸術になっている美術作品というのは、実は今日の村上隆や、ダミアンハーストの作品が、同じ構造をしています。そういう意味で、村上隆やダミアンハーストは、ポッティチェリと同位性をもっているイラストレーション美術なのかもしれません。


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《想像界》の眼で《13流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《13流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《13流》の真性の芸術。

《現実界》の美術。
液体(=近代)美術。
【イラストレーション】として《超1流》。

村上隆のように、《現実界》だけで芸術を成立させるというやり方は、とにかくレオナルドダヴィンチとの類似性はないのですが、ポボッティチェリとは類縁性があるのです。今回の芸術分析で、村上隆が【イラストレーション】として《超1流》であることも見つけ出して、いよいよポッティチェリと村上隆は似ていると言うことになります


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こういうボッティチェリの絵を見ると、イラストレーションが《現実界》の美術であることが、連動している事が、何となく実感できます。

日本語で、イラストといいますが、この呼称は日本でつくられたものであって、現代の日本におけるイラストは単に絵を示すことが多いのですが、英語のIllustrationは基本的にはその意味がないということです。

Illustrationの語源は、光沢や光を意味するLustreで、同じような意味の言葉に、照らす、明るくするを意味するIlluminateがあるというのです。

イラストレーションとは、欧米での意味は、目的に沿って描かれるであり、情報の図解という性格をもつものを指し示します。あくまでも情報図解であり、情報の伝達の美術であるのです。建築物のパースである完成予想図もイラストレーションの一種であります。

イラストレーションとは、情報を伝達する媒体のひとつです。その意味からも、この情報化社会にフィットした面を持っているといえます。

実は、私自身の問題で言うと、現在やっている作品はいろいろあるのですが、その一つにアメリカ帝国美術館空想と言う、作品があります。これはマンハッタンに、ブッシュが、世界中の《超1流》の美術作品を集めた巨大美術館を建設したと言う空想小説の企画です。そこで巨大建築を、マンハッタン島に建設しようとすると、どうしてもまず、マンハッタン島の取り扱いが問題になるのです。地図を見ていても、正直言ってなかなか複雑で良く分からないし、実際、ニューヨークというのはマンハッタン島だけではありませんから、輪郭が良く分からない。そこでマンハッタン島だけを切り抜いてしまって、その切り抜きの画像、つまりイラストレーションの上だけで作業を進めるということを、したのです。その時に、初めてイラストレーションの乱暴さと言うか、イラストレーションを自分が選んでいるという事を自覚したのです。

そうやって建築を考えて行くと、巨大建築になるのですが、それを建築家の松田逹さんに見せて、基本レクチャーを、昨日受けたのですが、まず、建築する事自体が、かなり難しい。いくら現代建築が大きなものを作る様になっても、実際の柱の太さや、梁の強度というものは、原始的なくらいに大きなものであって、あきれます。イラストレーションで考えているレベルでは、想像もできないほどに、現実は重くて、面倒くさいのであります。

この建築の問題で言うと、こうして切り抜いたイラストレーションを、もう一度、現実の複雑な地図や、現実の中にフィードバックして行く作業が必要なのだろうと思います。この押し戻すプロセスというのが、やれるかどうかで、意味構成が変わってくる。押し戻すというのは、実際に可能で合理的な範囲の建築規模に縮小することであります。同時にそれはレオナルドダヴィンチの例を参照して言える事は、世俗的な情報性から、聖なる真性性に位置づけて行く事を意味するはずです。

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ポッティチェリの絵画の成立プロセスや、その意味も、実は、もっと探求しないと、いけません。先生のフィリッポ・リッピや、弟子のフィリッピーノ・リッピと比較してみて見るといったことも、やりたいのですが、とりあえずは、ここまでにしておきます。


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コメント 1

笹岡

ダビンチの肖像画、ゾクっとしました。
「表面的ということ」がどんな感じか、逆から納得出来ました。
by 笹岡 (2009-01-26 11:41) 

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