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高嶺格の作品(加筆1) [日本アーティスト序論]

高嶺格の作品

◆◆1、クレイ・アニメーション◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

高嶺格を、私は国立近代美術館で開催された『連続と侵犯』で見ています。

《God Bless America》という題名の、クレイ・アニメーションの作品です。

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男女2人での協同作業で「2トンもの粘土と格闘する、大変な肉体労働の」日々だったという、粘土をつかったアニメーション映画です。「作家がセットの中に寝泊まりしながら18日間かけて撮影したもの」で、日記アニメ的な処理で18日間ノンストップで展開し、作者たちが寝ていたり、SEXをしていたりするのも写るというものです。観客としての私は、けっこうこれを長く見ていたことを記憶しています。

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油土と格闘すると言うと、
関根伸夫の油土を思い出します。
ある意味では、そのポスト・モダン版であるとも言える作品です。

《想像界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。

《想像界》の作品。
気体アート、
シニフィエのアート。

クレイ・アニメーションというと、NHKの『プチプチ・アニメ』から、アードマン・アニメーションズや、ヤン・シュヴァンクマイエルの作品などが連想されます。

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こういう、従来のまともなクレイアニメーション作品と、
高嶺格の作品の差異を強調する為にも、
アニメだけでなくて、
会場には油土も展示して欲しかったと言う気持ちがあります。

せっかく2トンもの油土を使い、関根伸夫の油土作品と言う伝説的な歴史を下敷きにし得る日本の現代美術の作家なのだから、こうした事を踏まえたサイトシ ペシフィックな作品にして欲しかったのです。

つまりニメーションという映像と、それを作った場所性と、材料の2トンの油土を結びつけた作品が、見たかったのです。油土が展示されていたら、《想像界》だけの作品にならなかっただろうと思います。

この作品について石橋宗明は、次の様に書いています。

セットの真中にどっしりと据えられた大きな油土の塊が、目まぐるしく変貌してゆく。強く印象に残っているのは、カリカチュアされたブッシュ大統領の頭部が変貌を重ね、「God bless America My home sweet home」と惚けたように歌ってみせる場面である。セプテンバー11の惨事から立ち直ろうとする人々が口ずさむ愛国歌が、いつしか偏狭さを帯び始めるや、ブッシュの軍勢はアフガニスタンに侵攻した。愚かな過ちの上に、更に間違いを塗り重ね、世界を抜き差しならぬ事態へと向かわせようとする彼らの時代を象徴する歌として、やがて記憶されるのだろう。私はその歴史の評価を、油土の奇妙な歌声に聞くような気がした。
 ところで、同じテキストによると高嶺格は、「この作品は単純なアメリカ批判ではない」と述べている。ことさら反米色を際立たせた作品ではないことは、その内容からも窺える。油土との格闘は、不条理に対する抵抗の試みとして始められる。


ここで石橋が、「不条理に対する抵抗のこころみ」と指し示しているあるものが、高嶺格の作品を成立させている様に見えます。

杉浦氏という人物が、「日本アニメーション学会第5会大会」で見た高嶺格のこのクレイ・アニメーションを次の様に、辛口批評しています。

赤い部屋の中である。ほぼ人間の背丈ほどもある粘土の塊(2tあるそうだ)が、アメリカ人らしい人の形を取っている。これがアニメートされて、「God Bless America」を唄い出す。それをアニメートする作業自体も映り込み、一種の日記アニメ的な処理で18日間ノンストップで継続し、夜間はインターバルタイマーによる無人撮影がなされ、作者たちが寝ていたり、SEXをしていたりするのも写る。朝に窓から光が差込むのが美しい。

相原信洋の「stone」を連想させるようなスケール感があるが、これは作者が「初めて作ったアニメ作品です」というように、アニメーション系作家ではなく、パフォーマンス系作家であることが重要な作品のポイントとなっているように感じる。アニメーション系作家の場合、2tの粘土をアニメートする、という発想はまず浮かばない。制作作業自体をアニメートの一環として撮影するという発想は浮かんでもである。やはりこの作品の成功は、「現実に巨大な」粘土によって日記アニメを作ったことである。懇親会の席で、筆者は少し作者と話したが、その時に高嶺氏は「次はもっと小さなもので....」なんて情けないことを言ったので、筆者は「いや、次は20tの粘土でやり、その次はブルドーザーで地球をアニメートしなきゃ!」と思わずアオってしまった。

結論として、「普通に面白いアニメーション」であり、アメリカ批判も方法に皮肉味があり小洒落たところがあるだけで、ホントは表層的なものである。パフォーマンス系出身であるその資質面での面白さにかなり依存している。


原久子は「高嶺格の作品はパフォーマンスであれ、なんであれ、とにかく身体と密接な関係をもち、そして、人間という物体をさまざまなものから解放してみる試みや、解放される ことの叶わない部分のもどかしさを伝達することを作品のなかでおこなっている」(http://www.art-yuran.jp/1998/06/vol04_.html)と書いています。

この不条理に対する抵抗が、実は、原が指摘する様に、《解放への希求》であるというところが、高嶺格の人気の秘密であるように思います。

日本人の多くは、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」という主張を信じて、芸術を感情の《爆発》や、《解放》の問題と考えているのです。それは、鑑賞者には言える事かもしれませんが、制作者には当てはまらない事なのです。芸術作品の制作というのは、実は《解放への希求》の反対であって、《抑制の希求》なのです。

高嶺格は《解放への希求》に取り憑かれているが故に、作品そのものは《8流》でしかなくて、このクイ・アニメーションは、作品としては成功しいないように見えます。つまり《1流》や《超1流》の作品ではなくて、《8流》という、「鰯の頭も信心から」と言いますが、良いと思える人だけに良いという新興宗教のような信仰作品になっているのです。

なぜならクレイ・アニメーション作品、あるいは美術作品としての構造や組み立て、秩序、そして原理や技術といったものが、高嶺格によっては、本質的なものとして追求されていないからです。

そうでではなくて、この作品である事に平行して存在している2トンの油土と格闘している事実そのものと、作品の外に存在しているアメリカというものそのものの事実において、この高嶺格の事実としての抵抗と、《解放への希求》の試みがされているのです。

こういう事実に共感する人々が、彼に対する評価を与えている様に思えます。

だから高嶺格という人の行為は、事実をつくる事実家のものであって、作品を作る作家というものでは、ないのであります。このことは高嶺格が、ダムタイプという「マルチメディア・アート・パフォーマンス・グループ」から出て来た事が、大きくあります。ダムタイプという名前は英語のDumb(=言語能力を失った、口のきけない、無口な、ばかな、まぬけな)とType(=型、 類型、タイプ)から成る造語Dumb Typeであり、「ヒエラルキー嫌い、サイエンス嫌いからこうなった」と、メンバーが語っていますが、高嶺格自体が、自分が記憶を維持できず、少しおかしいことを強調する事で、馬鹿で間抜けなアーティストであることを売り物にしているからです。

つまり馬鹿で間抜けなアーティストである高嶺格が、芸術作品という枠組みの外に出てしまった、事実の面白さが、高嶺格の作品の魅力であるように見えます。

繰り返すと、高嶺格は、作家ではなくて事実家なのです。
その作るものは正確には作品ではなくて、作品にはなり得ていない事実品なのです。
その面白さが、現在の観客の趣味と一致するのです。今日の日本の観客は、アーティストというのは草間弥生のように、少しおかしい人と思い、その人によるアートという名前の便器であると、思っているのです。

問題は、デュシャンの便器は名品まがいの扱いにはなっていますが、一般的な「事実品」というのは、寿命が短いという事です。20年後に、この高嶺格のクレイ・アニメーションを見せられても、歴史に残る名作としては、見えないでしょう。高嶺格の作品は、ダムタイプ出身のアーティストによる、パフォーマンス的な《生もの》なのです。死後に名品として残される作品が目指されていないように見えます。

この辺の問題は、会田誠と共通していることです。会田誠の代表作を1点上げるとすると『紐育空爆之図(にゅうようくくばくのず)(戦争画RETURNS)』(1996年)でしょうが、これは新聞紙の上に描かれているので、20年後には新聞紙は酸性紙なのでボロボロに劣化して、名品という形では残らないものなのです。意図的にこうした素材の悪さを使う所に、芸術というものの外部への、会田誠の逃亡の欲求が見られます。

根本において会田誠においても、高嶺格にしても、芸術や、死後に残る名作と言った《象徴界》的な抑圧から、逃亡しようという強い欲求があります。それはまた現在の観客の欲望でもあります。

芸術という抑圧からの《解放への希求》が、この二人には制作の動機づけとして作動しているように見えます。そして観客もまた、アートという名前のもとに、芸術ではない事実を見て、満足しているのです。



◆◆2、『木村さん』事件◆◆◆◆◆◆◆◆

高嶺格の名前を印象づけられた一つに、『木村さん』事件があります。

横浜美術館で開催中の『ノンセクト・ラジカル 現代の写真III』で、高嶺格のビデオ作品『木村さん』が、開催直前に公開中止となったのです。

私は未見ですが、『木村さん』はたった9分のビデオの小品で、登場するのは一級障害者である木村さんと高嶺だけだそうです。

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それも高嶺さんは、目と手と声だけが映っているのです。そしてもう独りの主演である木村さんは森永砒素ミルク事件の被害者でした。

森永砒素ミルク事件というのは、1955年6月頃から、森永乳業徳島工場が製造した缶入り粉ミルク「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物の中に不純物としてヒ素が含まれていたため、主に西日本を中心としてヒ素の混入した粉ミルクを飲用した1万3千名もの乳児がヒ素中毒になり、130名以上の中毒による死亡者と中毒患者の後遺症者を出した大事件でした。

この森永砒素ミルク事件の被害者でる木村さんは意識も思考もしっかりしているのですが、手足は動かせず、口もきけないのです。だからこそ表現欲求は人並み以上にあり、劇団態変のメンバーとして舞台に出演し、バンド活動も行っている方でした。

高嶺格は自分と木村さんが「元々似た人種」だと思い、5年間ほど、ボランティアで自宅介護を行ったのです。その介護には、性的なものも含まれていたのです。

以下、この映画を見て、横浜美術館事件について書かれた小崎哲哉(『REALTOKYO』および『ART iT』発行人兼編集長の『横浜美術館の失態』という文章からの引用です。

 http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_93/

http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_94/


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カメラは基本的にはベッドに横たわる木村さんを捉えつづけ、モノクロの映像は同じものが2面のスクリーンに投影され、突然左右非対称の目のアップが現れることがある。以前に同じ映像を用いて行ったパフォーマンスの折の、高嶺自身の目だ(つまりこの作品は「ビデオ<パフォーマンス<ビデオ」という入れ子構造になっている)。

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横たわった木村さんのパジャマ(?)をはだけ、上半身を撫でまわす手も高嶺のものだろう。腹部から胸にかけてゆっくりと動かされる手。ときおり乳首のあたりで、揉むでもなく抓るでもなく、指先が遊ぶ。その手は下腹部に移り、ペニスを握り、ゆっくりと上下させる。

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高嶺による(本人曰く)「拙い」英語でのナレーションが挿入される。「障害者を表す『disable』という言葉にどうしても違和感を持つ」「木村さんも僕もゲイではない」「『このビデオを公開してもいいか』と聞いたら、木村さんは顔をくしゃくしゃにして『いい、いい』と言った」などなど。日本人が語る英語と、その英語に対して日本語字幕がつくというスタイルによって、あるいはいくたびか挿入される目によって、さらにはモノクロームの映像によって、画面を見ることにはかすかな非現実感が漂う。高嶺は木村さんのペニスを撫でさすり続ける。編集過程で加えられたという声がそのシーンに重なる。そして射精。性器の先端から、精液がスローモーションでほとばしり出る。

 

次の瞬間、聞いたこともないような哄笑に、観客は度肝を抜かれる。それはもちろん、解放感あふれる愉悦を得た木村さんの、獣の雄叫びに似た底なしの笑い声だ。気がつくと画面はカラーになっている。木村さんは笑いつづける。高嶺はその声を録りつづける。観客は度肝を抜かれつづける……。出展されるはずだった『木村さん』はそんな作品である。


 さて、私自身は、この横浜美術館の上映中止そのものには、あまり興味がありません。私見を申し上げれば、社会には、性的抑圧というものが必要であると思います。1970年代のアメリカのように、地下鉄の走る車両の中で、レイプが頻発し、他の乗客が見て見ぬ振りをするような事態は、好ましくないのです。


そして身障者の性の問題というのも、極めて難しい。実際に私の弟というのも、重度の脳性麻痺で、彼の性の問題というのもあるのですが、それを兄の私が処理するという事は、近親相姦のタブーに抵触しますから、考えるだけで難しい事です。


さらに言えば、木村さんや私の弟の正雄君の性的な子孫を、どうするのか?という問題が、潜在しているのです。性というのは、基本的には子孫を残す事であって、マスターベーションの事ではありません。身障者の子孫を残すべきなのか? この問いの前で、何を答えるのか? つまり性の問題には、同時に生物の世界にある淘汰の問題に抵触しるのです。


社会も自然も、適者生存の原則が貫徹されています。そして同時に社会を成立させる為には、性的表現の抑圧や、プライバシーの非公開の問題が重要なのです。それらは極めてデリケートであって、一概に議論し得ないところがあるのです。

 

この高嶺格の『木村さん』については、ニューヨークを拠点に活動している現代美術美術のキュレーター渡辺信也が、[『木村さん』について私が知ってる二、三の事柄   (10/31/ 2004)]という興味深い美術評論を書いています。その中で、高嶺格の『木村さん』というビデオ作品を、次の様に批評しています。


まず始めに述べるが、私は美術作品としての『木村さん』はそれほど評価していない。しかし作品中私が面白いと思ったシーンは、淡々と続く作品の途中に突然、アラン・レネの映画「ミュリエル」を思わせるガシャーンという効果音が入り、その後、男性の低い声「森永の野郎・・・」と続くシーンである。このシーンにはゾっとした。そうか、そういう事だったのか、このベットに横たわった男性は森永砒素ミルク事件の被害者なのか・・・。木村氏についての解説を受けなかった私の頭の中で、そんな考察が高速で突き抜けていった。

しかし、作品のシーンで私が気に入っているのはこのシーン位かもしれない。その後に続く高嶺氏が木村氏の性器をシコシコとやっている所はあまり面白くない。

高嶺氏の他の作品から見る性について

また重要な事実として、高嶺氏の作品の中で下半身を取り扱った作品が多いのはどうしてだろうか。高嶺氏の初期作品で、新幹線にくくりつけられた女性のミニスカートが高速でめくれ上がるというビデオ作品がある。これは笑えるので私は好きなのだが、他はどうだろうか。

高嶺氏は、パフォーマンス“K.I.T (Being in Touch is Keeping-all-in-Touch)”においても検閲されている。9月17日にICCで行われたパフォーマンスの中で、成人向けウェブサイトの画像が2フレームずつ次々と現われるという映像が会場壁面に投影される場面をICC側が好ましくないと判断し、予定されていた2日目のパフォーマンスは中止になったと言う。またこの作品では、激しくダンスを踊る高嶺氏の股間に括り付けられたカメラが、アーティストの震える金玉を捉え続け、それが壁面にも投影されるのだが、このビデオを見た私は、これは果たして美術なのか?と考え込んでしまった。

高嶺氏はこういった下半身、または性(または生)をテーマにした作品を多く作っているが、それを考える上で、高嶺氏が1993年から97年にかけて、ダムタイプのパフォーマーとして活躍していた事が重要ではないだろうか。

92年秋、ダムタイプの中心的存在であった古橋悌二が、自身によってHIVポジティヴであるという現実をメンバーにカミングアウトし、それを期にダムタイプはエイズや同性愛などをめぐる諸問題を社会に対して積極的に発信していく様になる。特に94年初演の「S/N」は、古橋のHIV感染という事実をふまえ、エイズや性などをめぐる問題を、鋭い社会批判と洗練された変態パフォーマンスを舞台に織り交ぜてみせた。95年10月、《S/N》のブラジル公演中に35歳を迎えた古橋悌二は他界するのだが、ダムタイプは古橋を失った後も活動を続け、97年には「OR」という作品を生み出す。それは、病院のベッドで生か死かの臨界に置かれた身体を、<ダムタイプ>のメンバーひとりひとりが追体験するというものだった。

その後、高嶺氏はダムタイプを脱退するが、あたかもイアン・カーティスの死を乗り越えたバンド、ジョイ・ディビジョンが、新バンド、ニューオーダーとしてイアン追悼の名曲「ブルーマンデー」を作った様に、高嶺氏も古橋氏の死をどこかで重く受け止め、『木村さん』により生と死の臨界を近年の作品の中で模索しているではないかと思う。しかし美術作品としての完成度という点では、十分であるとは私には思えない。

【中略】

 まとめ

高嶺氏が木村氏を5年に渡り介護した事は疑い様もなく素晴らしい事である。また作品作りに対する本人の真摯な姿勢も素晴らしいと思う。しかし、美術作品としての『木村さん』を私は傑作だと思わない。なぜなら、障害者ロマン主義に陥る危険性と快楽としてのセックスに対する批判精神の欠如が拭えなかった事、さらに作品としての完成度が十分でない事が主な理由である。

http://www.spikyart.org/kimurasan.htm

 

【続きは、下をクリックしてください】

 

私はこの渡辺信也氏の美術評論を優れていると思います。

付け加えるとすれば、高嶺格の作品の魅力というのは、渡辺信也氏の指摘する事が反転していて、実は美術作品として傑作ではなく、完成度が十分ではないから、観客の評価が高いのではないだろうか?

日本の社会が求めている美術作品というのは、今日では傑作としての美術作品ではない。そして完成度の高い美術作品でないのです。むしろ美術や芸術の外部にある、渡辺信也さんが「面白くない」と書いている「高嶺氏が木村氏の性器をシコシコとやっている所」を見て、これを芸術という名において、評価しているのです。

 

そうした枠組みで見ると、高嶺格演出による舞台作品『アロマロア・エロゲロエ』の評価も、似た構造をしています。『アロマロア・エロゲロエ』のアイホール公演では、クライマックスで学生出演者全員が暗い照明の中で全裸で目をつぶって歩き回るシーンが大きな感動を呼びます。 

「暗い照明の中で全裸で目をつぶって歩き回るシーン」というのは、高嶺格のオリジナルなのでしょうか。ワークショップや練習の中から出て来たオリジナルとも、言えるし、当事者はそう信じているかもしれません。

 

しかし、いうまでもなく1967年のニューヨークのオフ・ブロードウェイ劇場"Public Theater"で上映された『ヘアー』が、あります。 初演された頃、『ヘアー』は、、第1幕の終り部分には男優も女優も全員が全裸になるシーンがあり、これも物議を醸しました。 当時、ステージでヌードになることはニューヨークの州法では合法でしたが、ニューヨーク以外で公演しようとした際に問題になったのです。また「そのような舞台に星条旗を持ち出すことは不敬罪に当たる」、「風俗取締り法に違反する"わいせつ"な言葉が使われている」として告訴され、その訴訟が最高裁まで持ち込まれました。

【出典】

http://junobird3.blog66.fc2.com/blog-entry-113.html

http://mamedama2.cocolog-nifty.com/rockpop_park/2008/01/post_920e.html

1967年の『ヘアー』の模倣を、無意識にしてはいけないとは言いませんが、芸術史的には焼き直しである事は事実なのです。しかし今の観客は、この高嶺格の舞台が、40年も前のオフ・ブロードウェイの模倣であることを知らないでしょう。そういう知識も教養もないはずです。

芸術の名において、つまらないものを評価する趣味に、今の日本の美術は取り憑かれているのであって、その面で高嶺格が、人気を博している面があるのです。それだけであるというつもりはありませんが、重要な魅力になっているのではないでしょうか。

つまり、特に美術作品の場合ですが、つまらなく、完成度が十分ではないから、高嶺格はすばらしいアーティストであるという倒錯が起きているように私には見えます。

◆◆3◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


高嶺格は、1968年 鹿児島生まれ
京都市立芸術大学工芸科漆工専攻卒 
岐阜県立国際情報科学芸術アカデミーで学ぶ。

1993年から97年にかけてダム・タイプのメンバーに参加して出現した京都系の、
舞台演出や、パフォーマンスをする作家。
その舞台を、私は見ていない。

まず『美術手帖』の特集「日本のアーティスト序論」で、
画像を見て、そして高嶺格の書いた文章を読んだ。
まず、文章はすごく良かった。まともな文章だし、
内容は、記憶が無いとか、理性そのものの万能性への疑問なのだが、
共感するものであった。
高嶺格もおかしいかもしれないが、
私も、自慢にはならないが相当におかしい。
美術史の事は覚えているが、
日常生活での事はすぐに忘れてしまって、
支障をきたす事は始終です。

高嶺格の画像の感じが、重くて、
気になっていたのですが、
出身が、漆であると分かると、納得がいった。

以下、高嶺格の語りの文章です。

美術史を振り返ってみていくと、もうやるべきことは出尽くしているという印象をもっていました。やりたいことをやったとしても、行き着く先がみえないということにすごく不安を覚えましたが、その進みようのないところの先が、どう考えても自分の身体を傷つける以外のビジョンがイメージできなくて困惑していました。そして、それを本当に選択するのか俺は、という悩み方をしている高校生だったのです。そういう頃に、同郷の藤浩志さんや小山田徹さん(ダムタイプ)たちに御会いして、何か彼ら二人がすごくひっかかったんです。時代に対する違和感みたいなものを美術という文脈のなかで堂々と背負っている感じがした。京都市立芸大に進学をしたのはそんな彼らがいたからという部分は大きいです。

彦坂尚嘉の私見を申し上げれば、美術史が終わったのではなくて、近代という時代が終わったのです。そして1991年以降、情報化社会というまったく新しい時代の美術や、芸術が始まった。

「自分の身体を傷つける以外のビジョンがイメージできなくて困惑していました」という証言は、自傷という形でしか表現ができなくなった世代のリアリティが伝わって来ます。

そのことを、とにかく「美術史の終焉」としてであれ、把握して出発しているアーティストとして、長嶺格は、最低限だが透徹性を示しています。



1991 糸に巻かれる人 / ヴォイスギャラリー, 京都 

 1992 僕のコーダイさんをティンとさせてくれ / 名古屋市美術館, 愛知 

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実物の舞台を見ないで、この2枚の画像で判断しようとするのは、

無理と思われるかもしれませんが、

もともと彦坂尚嘉の方法は、

情報化社会の芸術分析なので、

得られた情報で、果敢に分析して行くというものなのです。

【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】で見れば、

想像界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。

《想像界》のアート、
  気体アート。
  シニフィエのアート。


気体アート、シニフィエのアートというところでは新しいにしろ、

《8流》の作品です。

《8流》というのは新興宗教の様な領域で、

高嶺格の作品を、良いと信じる者には、良く見える作品なのです。

たぶん、高嶺格が、美術史が終わっているという認識をした基盤そのものが、

実は【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】の基盤が乗っている所で、

その基盤そのものが終わっていて、

高嶺格は、ライブと即興性を重視する事で、

【ユング的集合無意識】の基盤での表現に移動しているのだろうと思います。

こういう傾向は、会田誠さんをはじめとする1990年代作家には共通するものです。

 

【ユング的集合無意識】で見ると《1流》で、退化性がある表現とでます。

【ユング的集合無意識】で見ても、芸術という様なものではありません。

その場のライブとしては、それなりに面白いものなのだろうと、思われます。

 

 1992 愛の資料館 / ヴォイスギャラリー, 京都 パフォーマンス: 

 1993 - work with dumb type 1997 performance "OR" 1993 - 

 1993 YKK / 大阪現代美術センター, 大阪 

 1993 あごの無い人 / sony artist audition, 東京

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【ユング的集合無意識】で《1流》、退化性あり。


生存権と開発権 /アートスペース無門館, 京都
tele-onalysis / ヴォイスギャラリ ー, 京都 

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「生存権と開発権」(1993).jpg

【ユング的集合無意識】で《1流》、退化性あり。

 1994 performance "pH"

 1994 wonderful life / 横浜ガレリア, 神奈川

12 functions / ギャラリーマロニエ, 京都大アート展 / ラフォーレ原宿, 東京 

1994 le ca ballet minimalist / p3, 東京 

 1996 performance "S/N" 

 1996 pilot farm / アートスペース 虹, 京都 

 1996 The 5th performance festival in Mexico, メキ シコシティー

what can I do for you? / 京大西部講堂, 京都 

 1997 7 Virtues/ 国際情報 科学芸術アカデミー, 岐阜 

 1998 母太鼓ちんと計算ぷん(バンドライブ) / 日本昭和音楽村, 岐阜

perf ormance in HIROSHIMA /広島市現代美術館, 広島
Real time chat/ 国際情報科学芸術アカデミー, 岐阜 

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【ユング的集合無意識】で《1流》、退化性あり。

◆◆4◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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高嶺格の顔です。

《想像界》の眼で《8流》

《象徴界》の眼で《8流》

《現実界》の眼で《1流》。


《現実界》の人格。

気体人間。


《現実界》で《1流》の人物であって、そして気体人間、つまり現代の情報化社会の人間であるというところが、彼を成立させているのだと思います。

私はひとつも舞台の仕事を見ていませんが、舞台の作品は、《現実界》の眼で《1流》の作品で、真性の芸術であるのだろうと思います。

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《想像界》の眼で《8流》のデザイン的エンターテイメント。

《象徴界》の眼で《8流》のデザイン的エンターテイメント。

《現実界》の眼で《1流》の真性の芸術。

《現実界》の作品。

気体作品。


高嶺格の作品は、舞台作品では、すくなくとも《現実界》においては《1流》作品で、真性の芸術たり得ているのです。そのことで、評価されているのです。

 

情報化社会のアートは、《現実界》の芸術にシフトしているものと、《想像界》にシフトしているものに、2分していて、《象徴界》の作品が無視される傾向が強くあります。

そういう中で、高嶺格の作品は、《現実界》においてだけ真性の芸術であるという、この現代アートの特徴を強く持った作品になっているのです。


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若いチンコに目がない三十路痴熟女

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by 若いチンコに目がない三十路痴熟女 (2011-09-24 09:55) 

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