高嶺格の作品(加筆1) [日本アーティスト序論]
《想像界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《想像界》の作品。
気体アート、
シニフィエのアート。
相原信洋の「stone」を連想させるようなスケール感があるが、これは作者が「初めて作ったアニメ作品です」というように、アニメーション系作家ではなく、パフォーマンス系作家であることが重要な作品のポイントとなっているように感じる。アニメーション系作家の場合、2tの粘土をアニメートする、という発想はまず浮かばない。制作作業自体をアニメートの一環として撮影するという発想は浮かんでもである。やはりこの作品の成功は、「現実に巨大な」粘土によって日記アニメを作ったことである。懇親会の席で、筆者は少し作者と話したが、その時に高嶺氏は「次はもっと小さなもので....」なんて情けないことを言ったので、筆者は「いや、次は20tの粘土でやり、その次はブルドーザーで地球をアニメートしなきゃ!」と思わずアオってしまった。
結論として、「普通に面白いアニメーション」であり、アメリカ批判も方法に皮肉味があり小洒落たところがあるだけで、ホントは表層的なものである。パフォーマンス系出身であるその資質面での面白さにかなり依存している。
http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_93/
http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_94/
カメラは基本的にはベッドに横たわる木村さんを捉えつづけ、モノクロの映像は同じものが2面のスクリーンに投影され、突然左右非対称の目のアップが現れることがある。以前に同じ映像を用いて行ったパフォーマンスの折の、高嶺自身の目だ(つまりこの作品は「ビデオ<パフォーマンス<ビデオ」という入れ子構造になっている)。
横たわった木村さんのパジャマ(?)をはだけ、上半身を撫でまわす手も高嶺のものだろう。腹部から胸にかけてゆっくりと動かされる手。ときおり乳首のあたりで、揉むでもなく抓るでもなく、指先が遊ぶ。その手は下腹部に移り、ペニスを握り、ゆっくりと上下させる。
高嶺による(本人曰く)「拙い」英語でのナレーションが挿入される。「障害者を表す『disable』という言葉にどうしても違和感を持つ」「木村さんも僕もゲイではない」「『このビデオを公開してもいいか』と聞いたら、木村さんは顔をくしゃくしゃにして『いい、いい』と言った」などなど。日本人が語る英語と、その英語に対して日本語字幕がつくというスタイルによって、あるいはいくたびか挿入される目によって、さらにはモノクロームの映像によって、画面を見ることにはかすかな非現実感が漂う。高嶺は木村さんのペニスを撫でさすり続ける。編集過程で加えられたという声がそのシーンに重なる。そして射精。性器の先端から、精液がスローモーションでほとばしり出る。
次の瞬間、聞いたこともないような哄笑に、観客は度肝を抜かれる。それはもちろん、解放感あふれる愉悦を得た木村さんの、獣の雄叫びに似た底なしの笑い声だ。気がつくと画面はカラーになっている。木村さんは笑いつづける。高嶺はその声を録りつづける。観客は度肝を抜かれつづける……。出展されるはずだった『木村さん』はそんな作品である。
さて、私自身は、この横浜美術館の上映中止そのものには、あまり興味がありません。私見を申し上げれば、社会には、性的抑圧というものが必要であると思います。1970年代のアメリカのように、地下鉄の走る車両の中で、レイプが頻発し、他の乗客が見て見ぬ振りをするような事態は、好ましくないのです。
そして身障者の性の問題というのも、極めて難しい。実際に私の弟というのも、重度の脳性麻痺で、彼の性の問題というのもあるのですが、それを兄の私が処理するという事は、近親相姦のタブーに抵触しますから、考えるだけで難しい事です。
さらに言えば、木村さんや私の弟の正雄君の性的な子孫を、どうするのか?という問題が、潜在しているのです。性というのは、基本的には子孫を残す事であって、マスターベーションの事ではありません。身障者の子孫を残すべきなのか? この問いの前で、何を答えるのか? つまり性の問題には、同時に生物の世界にある淘汰の問題に抵触しるのです。
社会も自然も、適者生存の原則が貫徹されています。そして同時に社会を成立させる為には、性的表現の抑圧や、プライバシーの非公開の問題が重要なのです。それらは極めてデリケートであって、一概に議論し得ないところがあるのです。
この高嶺格の『木村さん』については、ニューヨークを拠点に活動している現代美術美術のキュレーター渡辺信也が、[『木村さん』について私が知ってる二、三の事柄 (10/31/ 2004)]という興味深い美術評論を書いています。その中で、高嶺格の『木村さん』というビデオ作品を、次の様に批評しています。
まず始めに述べるが、私は美術作品としての『木村さん』はそれほど評価していない。しかし作品中私が面白いと思ったシーンは、淡々と続く作品の途中に突然、アラン・レネの映画「ミュリエル」を思わせるガシャーンという効果音が入り、その後、男性の低い声「森永の野郎・・・」と続くシーンである。このシーンにはゾっとした。そうか、そういう事だったのか、このベットに横たわった男性は森永砒素ミルク事件の被害者なのか・・・。木村氏についての解説を受けなかった私の頭の中で、そんな考察が高速で突き抜けていった。
しかし、作品のシーンで私が気に入っているのはこのシーン位かもしれない。その後に続く高嶺氏が木村氏の性器をシコシコとやっている所はあまり面白くない。
高嶺氏の他の作品から見る性について
また重要な事実として、高嶺氏の作品の中で下半身を取り扱った作品が多いのはどうしてだろうか。高嶺氏の初期作品で、新幹線にくくりつけられた女性のミニスカートが高速でめくれ上がるというビデオ作品がある。これは笑えるので私は好きなのだが、他はどうだろうか。
高嶺氏は、パフォーマンス“K.I.T (Being in Touch is Keeping-all-in-Touch)”においても検閲されている。9月17日にICCで行われたパフォーマンスの中で、成人向けウェブサイトの画像が2フレームずつ次々と現われるという映像が会場壁面に投影される場面をICC側が好ましくないと判断し、予定されていた2日目のパフォーマンスは中止になったと言う。またこの作品では、激しくダンスを踊る高嶺氏の股間に括り付けられたカメラが、アーティストの震える金玉を捉え続け、それが壁面にも投影されるのだが、このビデオを見た私は、これは果たして美術なのか?と考え込んでしまった。
高嶺氏はこういった下半身、または性(または生)をテーマにした作品を多く作っているが、それを考える上で、高嶺氏が1993年から97年にかけて、ダムタイプのパフォーマーとして活躍していた事が重要ではないだろうか。
92年秋、ダムタイプの中心的存在であった古橋悌二が、自身によってHIVポジティヴであるという現実をメンバーにカミングアウトし、それを期にダムタイプはエイズや同性愛などをめぐる諸問題を社会に対して積極的に発信していく様になる。特に94年初演の「S/N」は、古橋のHIV感染という事実をふまえ、エイズや性などをめぐる問題を、鋭い社会批判と洗練された変態パフォーマンスを舞台に織り交ぜてみせた。95年10月、《S/N》のブラジル公演中に35歳を迎えた古橋悌二は他界するのだが、ダムタイプは古橋を失った後も活動を続け、97年には「OR」という作品を生み出す。それは、病院のベッドで生か死かの臨界に置かれた身体を、<ダムタイプ>のメンバーひとりひとりが追体験するというものだった。
その後、高嶺氏はダムタイプを脱退するが、あたかもイアン・カーティスの死を乗り越えたバンド、ジョイ・ディビジョンが、新バンド、ニューオーダーとしてイアン追悼の名曲「ブルーマンデー」を作った様に、高嶺氏も古橋氏の死をどこかで重く受け止め、『木村さん』により生と死の臨界を近年の作品の中で模索しているではないかと思う。しかし美術作品としての完成度という点では、十分であるとは私には思えない。
【中略】
まとめ
高嶺氏が木村氏を5年に渡り介護した事は疑い様もなく素晴らしい事である。また作品作りに対する本人の真摯な姿勢も素晴らしいと思う。しかし、美術作品としての『木村さん』を私は傑作だと思わない。なぜなら、障害者ロマン主義に陥る危険性と快楽としてのセックスに対する批判精神の欠如が拭えなかった事、さらに作品としての完成度が十分でない事が主な理由である。
http://www.spikyart.org/kimurasan.htm
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私はこの渡辺信也氏の美術評論を優れていると思います。
付け加えるとすれば、高嶺格の作品の魅力というのは、渡辺信也氏の指摘する事が反転していて、実は美術作品として傑作ではなく、完成度が十分ではないから、観客の評価が高いのではないだろうか?
日本の社会が求めている美術作品というのは、今日では傑作としての美術作品ではない。そして完成度の高い美術作品でないのです。むしろ美術や芸術の外部にある、渡辺信也さんが「面白くない」と書いている「高嶺氏が木村氏の性器をシコシコとやっている所」を見て、これを芸術という名において、評価しているのです。
そうした枠組みで見ると、高嶺格演出による舞台作品『アロマロア・エロゲロエ』の評価も、似た構造をしています。『アロマロア・エロゲロエ』のアイホール公演では、クライマックスで学生出演者全員が暗い照明の中で全裸で目をつぶって歩き回るシーンが大きな感動を呼びます。
「暗い照明の中で全裸で目をつぶって歩き回るシーン」というのは、高嶺格のオリジナルなのでしょうか。ワークショップや練習の中から出て来たオリジナルとも、言えるし、当事者はそう信じているかもしれません。
しかし、いうまでもなく1967年のニューヨークのオフ・ブロードウェイ劇場"Public Theater"で上映された『ヘアー』が、あります。 初演された頃、『ヘアー』は、、第1幕の終り部分には男優も女優も全員が全裸になるシーンがあり、これも物議を醸しました。 当時、ステージでヌードになることはニューヨークの州法では合法でしたが、ニューヨーク以外で公演しようとした際に問題になったのです。また「そのような舞台に星条旗を持ち出すことは不敬罪に当たる」、「風俗取締り法に違反する"わいせつ"な言葉が使われている」として告訴され、その訴訟が最高裁まで持ち込まれました。
【出典】
http://junobird3.blog66.fc2.com/blog-entry-113.html
http://mamedama2.cocolog-nifty.com/rockpop_park/2008/01/post_920e.html
1967年の『ヘアー』の模倣を、無意識にしてはいけないとは言いませんが、芸術史的には焼き直しである事は事実なのです。しかし今の観客は、この高嶺格の舞台が、40年も前のオフ・ブロードウェイの模倣であることを知らないでしょう。そういう知識も教養もないはずです。
芸術の名において、つまらないものを評価する趣味に、今の日本の美術は取り憑かれているのであって、その面で高嶺格が、人気を博している面があるのです。それだけであるというつもりはありませんが、重要な魅力になっているのではないでしょうか。
つまり、特に美術作品の場合ですが、つまらなく、完成度が十分ではないから、高嶺格はすばらしいアーティストであるという倒錯が起きているように私には見えます。
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1991 糸に巻かれる人 / ヴォイスギャラリー, 京都
1992 僕のコーダイさんをティンとさせてくれ / 名古屋市美術館, 愛知
実物の舞台を見ないで、この2枚の画像で判断しようとするのは、
無理と思われるかもしれませんが、
もともと彦坂尚嘉の方法は、
情報化社会の芸術分析なので、
得られた情報で、果敢に分析して行くというものなのです。
【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】で見れば、
《想像界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《8流》、デザイン的エンターテイメント。
《想像界》のアート、
気体アート。
シニフィエのアート。
気体アート、シニフィエのアートというところでは新しいにしろ、
《8流》の作品です。
《8流》というのは新興宗教の様な領域で、
高嶺格の作品を、良いと信じる者には、良く見える作品なのです。
たぶん、高嶺格が、美術史が終わっているという認識をした基盤そのものが、
実は【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】の基盤が乗っている所で、
その基盤そのものが終わっていて、
高嶺格は、ライブと即興性を重視する事で、
【ユング的集合無意識】の基盤での表現に移動しているのだろうと思います。
こういう傾向は、会田誠さんをはじめとする1990年代作家には共通するものです。
【ユング的集合無意識】で見ると《1流》で、退化性がある表現とでます。
【ユング的集合無意識】で見ても、芸術という様なものではありません。
その場のライブとしては、それなりに面白いものなのだろうと、思われます。
1992 愛の資料館 / ヴォイスギャラリー, 京都 パフォーマンス:
1993 - work with dumb type 1997 performance "OR" 1993 -
1993 YKK / 大阪現代美術センター, 大阪
1993 あごの無い人 / sony artist audition, 東京
【ユング的集合無意識】で《1流》、退化性あり。
生存権と開発権 /アートスペース無門館, 京都
tele-onalysis / ヴォイスギャラリ ー, 京都
【ユング的集合無意識】で《1流》、退化性あり。
1994 performance "pH"
1994 wonderful life / 横浜ガレリア, 神奈川
12 functions / ギャラリーマロニエ, 京都大アート展 / ラフォーレ原宿, 東京
1994 le ca ballet minimalist / p3, 東京
1996 performance "S/N"
1996 pilot farm / アートスペース 虹, 京都
1996 The 5th performance festival in Mexico, メキ シコシティー
what can I do for you? / 京大西部講堂, 京都
1997 7 Virtues/ 国際情報 科学芸術アカデミー, 岐阜
1998 母太鼓ちんと計算ぷん(バンドライブ) / 日本昭和音楽村, 岐阜
perf ormance in HIROSHIMA /広島市現代美術館, 広島
Real time chat/ 国際情報科学芸術アカデミー, 岐阜
【ユング的集合無意識】で《1流》、退化性あり。
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高嶺格の顔です。
《想像界》の眼で《8流》
《象徴界》の眼で《8流》
《現実界》の眼で《1流》。
《現実界》の人格。
気体人間。
《現実界》で《1流》の人物であって、そして気体人間、つまり現代の情報化社会の人間であるというところが、彼を成立させているのだと思います。
私はひとつも舞台の仕事を見ていませんが、舞台の作品は、《現実界》の眼で《1流》の作品で、真性の芸術であるのだろうと思います。
《想像界》の眼で《8流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《8流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《1流》の真性の芸術。
《現実界》の作品。
気体作品。
高嶺格の作品は、舞台作品では、すくなくとも《現実界》においては《1流》作品で、真性の芸術たり得ているのです。そのことで、評価されているのです。
情報化社会のアートは、《現実界》の芸術にシフトしているものと、《想像界》にシフトしているものに、2分していて、《象徴界》の作品が無視される傾向が強くあります。
そういう中で、高嶺格の作品は、《現実界》においてだけ真性の芸術であるという、この現代アートの特徴を強く持った作品になっているのです。
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by 若いチンコに目がない三十路痴熟女 (2011-09-24 09:55)