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作品価格とアート・バイ・ゼロックスのオークション(最後に加筆1) [アート論]

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六本木にある、
アートバイゼロックで、
親睦のためのオークションがあります。

見立て(茄子とトマト)1.jpg
彦坂も、
アートスタディーズでの小冊子の制作や、
皇居美術館空想での画像の出力など、
いろいろお世話になっているので、
おつきあいで、作品を出しています。

営利目的ではありませんので、
お安く、作品が買えます。

近くにいろいろな美術施設もありますので、
御ついでがありましたら、お寄りください
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昨年も行われて、
こういう小さな催しものでも、
いろいろな事象が見えて、興味深いものでした。

最低価格は、
作家が決めるものではなくて、
売り立てをするオークション会社が
本来は、見積もるものです。

しかしアートバイゼロックの場合は、
親睦目的ですので、
作家が決めます。

作家によって、
最低価格は、
500円〜とつける人もいますし、
プライド価格で高い人もいて、
各個人の個性が出ます。

高すぎれば、不落札になります。
不落札というのは、
オークションでは、マイナス情報です。

不落札というのは、
その作家なり、作品の価値が、
他者に承認されなかった事を意味するからです。

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親睦目的とは言え、
オークションが行われるのは、
昔はありませんでした。

日本のオークションの歴史は、
戦前からあります。
これについては、私の本でも、調べて書いています。

欧米の様に、あらゆるものがオークションで売り立てられる厚みが、
美術だけの売り立てを行う日本のオークションには
ありませんでした。

日本のオークションは、
むしろYahooオークションから、
欧米型に定着して来た様に私には見えます。

私もYahooオークションは買っていますが、
良いシステムに思えます。

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そして、こうした小さなオークションが行われる所に、
情報化社会がオークションの時代であって、
古い近代の画廊システムが相対化され、
価格自体が変動相場制との2本だてになったことを
示しています。

今日の価格は、
プライマリー価格と、
変動価格の2本立てなのです。

しかし、実際にはもっと多いのです。

1、プライマリー画廊における、
  プライマリー価格。

2、作家と、プライマリー画廊とで取引される
  いわゆる画料

3、業者間で取引される、交換会での作品価格

4、オークションでの最低落札価格

5、オークションでの落札価格と、その履歴

この複雑さが、
今日の作家には、
なかなか理解できない事でもあります。

昨年のアートバイゼロックスの、作家の決めた最低落札価格も、
価格というものを、
自分のプライドと誤解している作家が、
多くいたのです。
そして、そういう無知な作家の作品は不落札になりました。

つまり安易なプライドは、
社会から拒絶されて、
マイナス情報になってしまうのです。

今日の作家が、否応もなく、
ビジネス性や、企業性を持たざるを得ないのは、
こうした社会情勢だからです。

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そもそも、こういう価格というものは、
本来の原始共同体にはありませんでした。
原始社会の初期段階にはお金や売買、交換する社会システムが
共同体の内側には無かったからです。

交換は、共同体と共同体の間の、カオスの中から始まります。
市場というものが持つ秩序の無さというのは、
この初期の発生に起源があるのです。
市場そのものが、人間の本来の共同体の外のものなのです。

人間の歴史は、この市場が、
共同体の秩序の内部に折り返されてくる歴史です。
それが非常に高い密度でネットワークを作って来ているのが、
高度資本主義の世界です。

美術作品が、市場の中で流通する様になるのは、
ヨーロッパでは17世紀のオランダではじまり、
19世紀のパリで、明確な姿を、画商制度と、
オークションという形で取る様になります。

今日の過剰な美術の市場化は、
1986年くらいから、
広告代理店のサッチアンドサッチが美術参入してくる時から、
大幅に変わりました。

それまでのプライマリー画廊主導の時代が終わって、
オークション主導の、
ハイリスク・ハイリターンの投資目的を主として、
カジノ化した美術市場の時代になったのです。

今回の世界的な経済危機で、
行き過ぎたアート・カジノの暴走は抑制される事になるとは思いますが,
高度資本主義社会の、高密度の市場世界が無くなるわけではありません。

アートの世界も、
このアートバイゼロックスの小さなオークションの様に、
身近なレベルで商品化が進むのです。
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しかし文明がどこまで進んでも、
最終的な原始的自然性が無くならない以上、
人間が美術作品を作る時の市場ー外性は、
残るのです。
つまり商品を作るという商業主義にすべてを還元してしまう制作は、
産業ロック、産業ヘビメタ同様に、面白くないのです。

非商業主義の領域に美術制作それ自身が踏みとどまろうとすれば、
常に、価格は、2次的なものであり、
芸術的価値そのものとは、区別され得るものなのです。

もっとも芸術的価値そのものが、実は見えなくなっていて、
市場価値としての価格しか、価値判断できるものが無くなったのが、
今日の状況なのです。

だからこそ、芸術分析が重要な意味がある、
とするのが、彦坂尚嘉の主張です。

市場の外に存在する芸術的価値の分析が、
いまこそ、重要であると思うのです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ここまで書いて来て、最後の部分を考えていた。
おそらく制作というのは、その基盤が2つあって、
一つが、市場の外部である私的コスモス(秩序)、ここで作られるものはオーソドックスというか、古い意味での個人表現であり、私性の根源に関わる場所なのだが、ここが基盤で制作が行われる。それこそ宮崎駿の『崖の上のポニョ』を成立させているものが、市場の外部にあるのである。

それに対して、村上隆の作品の場合には、市場の内側で制作されている様に、私には見える。村上隆が自分で好きで作っている作品というものでは,無いと私に見えるのである。市場の内部の基盤での制作というのは、実は私は体験が無かったように思う。本当にそうなのかは、厳密にはわからないので、そう思い込んでいる、あるいは思い込みたがっているのかもしれないが、・・・だから改めて、制作そのものの基盤の問題として、気にかかるのです。

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コメント 5

symplexus

絵画作品を制作し,それを売ることによって収入を得る,
一方ではその作品をストック,展示,販売して購入者と
制作者との間の仲立ちをする画廊や会社の存在は
近代に初めて生まれた比較的歴史の浅い社会システム
の一つと理解して間違いないでしょう.それ以前の例えば
イタリア・ルネサンス時代には今我々が言うところの独立した
職業”画家”というものも厳密には存在しなかったわけですが,
その時代の評価システムというものはどうなっていたのでしょうか.

 レオナルド・ダ・ビンチの新作公開ともなると至るところから
見物人がおしよせたようですが,彼等は注文者の教会権威
等とは異なるので制作者への環境圧にはならなかったでしょう.
工房の形式による制作サポートは今とは比較にならないほど
強力だったのに,工房の中の有力な新人をよってたかって
潰すという話もあまり聞きません.むしろ才あるものが周囲から
評価を得て名声を得て行くのは爽快ですらあります.
(本当のところは分からないのですが).
 作品は個人所有物というよりは公共の場の一角を占め,
コレクターの密室に眠ることも無ければ,リセール・バリューが
どうのこのと(あたりまえですが)芸術評価以外のものが幅を
効かすことも無い極めてまともな時代に思えます.

 ”自由”であるはずの現代がなぜ評価に関してこのように
息苦しいのか不思議に思えてなりません.評価を云々する
以前に,作品と向き合う鑑賞者の視線が完全に変わって
しまったのか,もしそうだとすると作品の質と向き合う努力
と作品評価の乖離は法則的のようで絶望的な気分に
なってしまうのですが.

××名鑑の類の分厚い名簿をのぞくと,一号数100万円~
みたいなランク付けが人名と併記されていて,これなんぞは
お笑いの一種ととれば良いのかもしれません.画業何年
みたいな修行への自分からのご褒美とか・・.

by symplexus (2008-11-08 21:35) 

ヒコ

symplexus 様
興味深いコメントをありがとうございます。

 美術市場の登場は17世紀のフランドル地方から19世紀のパリにかけてと、一応考えておいて良いと思います。
 それ以前には、美術市場という独立した《流通》システムが無かっただけで、職業美術家はいたと思います。職業そのものの発生がどこにあったのかという事にまでなりますが、分業は、狩猟採取社会段階であっても、金銭的授受では成立していなかったはずです。農業化社会になると、職業的な分業は成立していて、絵を専門に描く宮廷画家的な専門集団は、エジプト段階でもあったと思われます。
 
 評価システムですが、ギリシアでは画家による書物がかなり出されていたという事が分かっています。それがヨーロッパで言えばジョルジョ・ヴァザーリの『美術家列伝』に代表される様な書物の形になっています。東洋では、やはり画論や列伝が5世紀くらいから多数存在します。ですから書物にまとまる前の口コミでの評価の蓄積というものが、大きくあったと思います。
 日本では坂崎旦がまとめた『日本画論全集』で読む事ができます。ただし、漢文で、しかも返り点のない白文がかなりりますが。
 
 17世紀以前は、むしろ厳密な意味での職業美術家がいたと思います。それは宮廷奉仕員といった資格であってもです。
 
 むしろ17世紀以降、近代になると、美術家の人数は異様に増大して、一つの共同体が必要とする美術家の人数を超える人たちが、アーティストになるのです。結果として美術家は、作品では食べられない人が増えて、アルバイトや、他の職業で食べているという美術家が増えます。
 日本でこういう状態になるのは、大正時代からです。
 
 つまり近世〜近代になると、市場が社会の絆を緩めて、封建的な構造を解体すると、すまり彦坂理論でいると、氷のような固体社会が溶解すると、もっと可動性の高い近代社会に変貌すると、アーティストの人数が増大するのです。
 
 その前の、サロンの形成、つまり団体展が形成されると、そこでの評価システムは、それなりに序列性を含んで生まれます。
 
 近代になると、個人主義的な、芸術至上主義の美術家は、直接には美術の消費者と接触しなくなって、そこに第3勢力の画商と批評家が出現します。
 美術批評が生きているこうした近代という時代は、現在のような生き苦しさは、無かったように、私には思えます。
 
 1975年以降になると、厳密な意味での美術批評は衰弱して行きます。美術手帖の美術批評の懸賞論文システムが、機能しなくなって、あそこからは有能な批評家が出なくなります。
 日本の新聞の美術批評が、批評機能としては無能化します。現在ですと、ほとんど瀕死状態です。
 
 近代を成立させていた新聞やラジオ、テレビというマスコミュニケーションのシステムが、インターネットの登場で相対化し、衰弱して来ているのです。
 
 同じ事は画商システムにも言えて、美術批評が死んで行くと同時に、1986年くらいから新しい美術商業主義が台頭して、オークションでの価格が、評価基準となります。

 ブログをつかった美術批評雑誌を画策した事はあったのですが、むりであったので、自分一人の気楽さで、この一人美術雑誌とも言うべきブログを立ち上げたのです。
 
 現在の世界的な経済危機というものが、青田買い的な投機的オークションシステムを抑制して、評価のまともさを回復するのか、見て行きたいと思います。
 
by ヒコ (2008-11-09 12:15) 

symplexus

貴族社会や絶対君主制という権力構造の下で,
 芸術家の独立性がどの程度有ったのかという思い込みで
  独善的なコメントを書いてしまいました.
   作品への署名の有無なども
  こういった思い込みに影響したかもしれません.
 ご指摘,再考するためにすごく参考になりました.
  ありがとうございます!

 評価に関して言えば,作品の評価と共に
それとは切り離せないとは思うのですが
 芸術家の評価システムが気になります.
  芸術家を育てるための教育機関の一つに
 徒弟制度のようなものが有効で有った時代が有ったと思うのですが,
近代的な学校制度として芸大のようなものが生まれて
 徒弟制度が死滅しないまでも相対的に比重が軽くなる,
 あるいは芸術家の独立意識とそれが衝突する.
  それは権威的な評価の崩壊ではありますが,
 新しい評価システムを創れなかったところでは
台頭してきた市場主義に圧倒されることになったのでは・・・.
 
 
by symplexus (2008-11-11 19:47) 

ヒコ

 建築界では徒弟制度は継続されていますが、美術家では、ほぼ完全に無くなっています。《自己愛》的人格障害者とも言うべき作家が、いつからか異様増殖しているからです。
 東京芸大は芸術教育としては、かなりの量で死滅しています。芸術とは何であるかを、正面からは教えられなくなっているのです。もともと東京画壇は弱かったのです。京都奈良の教育の方が、まだ何かが残っている様に思えます。
 1986年くらいからの市場主義は強力で、時代の勢いは、すべてをなぎ倒したかのようです。
 私の新著とこのブログでの反撃、さらには気体分子ギャラリーを立ち上げますが、それは小さな拠点形成へのささやかな抵抗に過ぎません。しかし、日本にも《超1流》の作品を作る才能が生まれてくる以上、ささやかでも異質な美術の生存の方途を、模索する意味はあると思います。
by ヒコ (2008-11-12 09:48) 

symplexus

気体分子ギャラリーの戦略は
 一種の分散システムを前提とした実践でしょうか.
 アート分野の中央集権的権威が閉塞状態に陥ったこと
  即アートの崩壊では無いと僕も思います.
   分散は狭い私的空間の絶対視に堕する危険性が有るにしても,
  広大なネットワークはむしろ引き篭もろうとする孤立した個人を
 有無を言わさぬ力で世界の光の前に引きずりだすでしょうから.
  
 また別の項でコメントすることお許し下さい.  
by symplexus (2008-11-14 20:55) 

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