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コミュニケーションの限界(加筆2) [心理学]

2チャンネルに私のスレッドが立った時に、
私は出て行って、議論をしました。

私の付き合っていた建築系の人々は、
彦坂さんは2チャンネルに出て行って、議論をしていると言って、
笑いましたが、
実際にやってみると、
無意味な事なのです。

彼らは自分の妄想の中だけで書いていて、
調査をしないのです。
私が李 禹煥批判や、椹木野衣批判、柄谷行人批判を書く時には、
調査をしています。

椹木野衣氏については、
大宅壮一文庫に行って、
検索をかけて、
美術以外のメディアに書いているものも集めて
読んで書いています。

他人の事を批判する時には、
少しでも調べなければ、
話になりません。

彼らは、少なくとも、私を批判する時に調査をしませんでした。

「調査なくして発言権なし」というのは毛沢東の言葉ですが、
重要なものです。

しかし調べないというのは、
2チャンネルで書く匿名の人々だけではないのです。
美術評論家にも多くいます。
これは驚くべきもので、
いくつも見てきていますが、
長くなるので、これについては、ここでは書きません。

私は、このブログでも基本的には、コメントに対して、逃げないで、
きちんとお答えして行きますが、
2チャンネル的であると、私が主観で判断した場合には、
「調査なくして発言権なし」という基準で、
問答無用に削除します。

削除するメカニズムと権限を私自身が持っているので,
それを行使するのですが、
根本にあるのは、コミュニケーションそのものの限界です。

こうした暴力的権限の作動が、
間違いを生む危険性はありますが、
それを含めて私の責任で行います。

コミュニケーションの限界はあるのです。

最近はそのことを痛切に感じます。

2チャンネルそのものの存続は支持しますが、
そこでの発言は、基本的には信頼をおきません。
かってな誹謗をいくらしても、
基本的には相手にしません。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
話は変わりますが、

美術家をやっていると、
展覧会の場所を巡っては、
戦争になります。

場所取りは、
これは暴力を含む戦争で、
バトルです。

これに負けると、作家はだいたい終わります。

ここでもコミュニケーションの限界が存在します。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
コミュニケーションは大切ですが、
しかし限界が存在すると言う認識もまた重要なのです。

限界の向こうには、暴力と、無視と、
勝手に活動する道が開けます。

現実というのは、
こうしたものです。

そうした現実から、
逃げるわけにはいかないのです。

必要であれば暴力は使います。
コメントも、私の主観的な判断と責任で、
問答無用で削除します。
軍事力抜きには、
生存は不可能です。

猫にも牙もあるし、爪もあるのです。

こうした根源的な暴力領域が《41流》なのです。
決して、良いものではありません。

ですから、暴力による解決ではない方法が必要です。

私の場合には、私の考えと違う他人の考えを、
可能な限り、認めて、平行化を目指します。

先日、やはりコメントで、
美術市場の問題で、
玉田俊雄さんの意見と、私の意見を混同した方から
ご批判を頂きましたが、
私は、意見がまったく違う玉田俊雄さんと、
お付き合いします。
違いは違いとして、許容するのです。

現実は多様ですから、
どの意見が正しいかは、実は分からないのです。

先入観というのは、私は、駄目だと思っています。

それは自分自身の先入観に対しても、
疑いを持っている事を意味します。

ですから価値観の違う人々とのおつきあいは
重要なのです。

ですから、
お互いに違う意見や価値観をもったまま、
敬意をもって疑似的にであれ短期的な共同性を形成できるのか、
どうかが、重要です。

つまりコミュニケーションの限界の向こう側で、
他人と一緒に活動ができるのか? どうかで、
動き方が違うと思うのです。

同じ事の繰り返しですが、
このブログで書いているのは、
あくまでも彦坂尚嘉の主観の記述です。

その主観の側、つまり私の側では、
主観の学問化と言うべきものが目指されています。

それは「王様は裸だ」という子供の眼のようなもので、
社会的に形成された先入観に対して、
攻撃性は持ちますが、
しかし、あくまでも私人の意見に過ぎません。

ですから、私人の意見のその質です。
公共の利益に、広い意味で益するのか、
それとも単なる誹謗中傷なのか?

それが問われるのです。
その根拠に一つが調査なのです。
私の調査は十分ではありませんが、ゼロでもありません。
ある一定の調査での発言権の形成を努力しています。

調査こそが、
コミュニケーションの限界を超える方法なのです。

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symplexus

2チャンに魅力を感じている友人に率直な疑問を呈したことがあります.
 誇張化した放言でしばしば誹謗中傷のやりとりに堕ちる,
  その無神経な落書方式に何程の意味が有るのか
    との趣旨だったと思います.
 彼の反論はそういう傾向があることを否定はしないが,
  そこに通常ルートでは得られない情報が含まれていること,
   雑音をえり分けることこそ重要との意見でした.
 僕は匿名の巨大掲示板という様式にすでに重大な問題が含まれていて
問題をなげかけても検証していく手続きがとれないと言う点で
 致命的な欠陥コミュニケーションだと思ったのですが平行線でした.

 2チャン様式というのは情報ソースとしての意味よりは
悪意・不満の下水道としての機能が増大する様式ではないかと思います.
 これはなにもネットに限られたことではなく,
  自我の無制限な爆発が”表現”と勘違いされれば
 詩や絵画の様式をとって攻撃的な悪意,ひいては
  殺意のメッセージが出される場合も有るのです.
”アートを規制するのか”というわけです.
 その表現が中和的に働くのか,
 それとも逆に触媒的に働くのかは予断を許しません.
”自己愛,人格障害”のアートの時代の到来です.
 彦坂様のご指摘で”そうか!”と納得しました.
  僕の勘違いかもしれませんが・・・.
     
  授業のような閉鎖空間というのは
同様の危険性を孕み易いというのは指摘されてきました.
日本社会の原型のようなものが教室にはあるのでしょうか.
 これは自分の経験ですが,大学での担当授業アンケートを
  個人的にとって授業改善の参考にしていたころは
 アンケートはずいぶん参考になる面白い内容であふれていました.
もちろん記名だったのですが,学生のユーモアも余裕も感じられました.
 ところが大学改革とかで管理側の旗振りが号令をかけ,
公式の様式で管理側が無記名授業アンケートをとりはじめると,
その内容は一変したのです.たちまち2チャン化が始まり,
根拠の無い感想に僕自身は不愉快さばかりがつのりました.
 アンケートの書き手はぐうたら学生ばかり
(授業内容を理解していないので匿名でも分かります),
肝心の熱意有る学生からのメッセージはゼロ近くになりました.
アンケートに彼等は背を向けてしまったのでしょう.
何かの参考にしていただければ幸いです.

  
 
by symplexus (2008-11-29 21:46) 

ヒコ

symplexus 様
いつも、有益なコメントありがとうございます。私は、2チャンネルや匿名の書き手というのは、基本的には無害な人たちと思っています。彼らは、自分の蛸壺に閉じこもっていて、何か特別な事が無い限り、攻撃的には出てこない平和な人々です。ですから2チャンネルでの誹謗中傷は、かまわないことで、そうした表現の自由は、基本的には容認するシステムが重要だと思います。
大学のお話は、初めてで興味のあるものです。これも匿名のアンケートを取る事自体は、大学側がそうしたければ、仕方がない事です。問題はそこでの情報を重視するかどうかでしょう。
 どちらにしろ、人間にはコミュニケーションの限界があるのです。「話せば分かる」という可能性は、20%であって、基本は話し合いでは決着をつけにくいというか、実際は問答無用に動いて行きます。
 美術作品の制作には、最終的には、そうした問答無用の決断と自校生が重要です。しかしだからと言って、話し合う事や、人の意見や批判を聞かなくて良いかと言えば、それは違います。2チャンネルや匿名の批判にも、きちんと読んで答えたいと思いますが、現実にはそれは不毛で無理だという現実があります。人間の間には断絶が、現実としてあるのです。
 ですから、必要な場合には問答無用の解決が必要です。そのことが避け得ないという認識なしには、進められないのです。
 それでもしかしなお、開く努力が必要なのです。無駄と知っていてもなお、開いて行く。矛盾するようですが、その矛盾を生きる事重要だと思っています。
by ヒコ (2008-11-30 00:51) 

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