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ブログ・スキンの変更/芸術のデザイン化 [アート論]

さて、このブログのスキンを,
変更してしまいました。
残念!




以前のトマトのスキンは、大好きだったので、
変えたくは無かったのですが・・・。

私はトマト食べるのが子供の頃から大好きで、
特に、お砂糖をかけて食べるのが、好きでした。
奇妙なアク(灰汁)がトマトにはあって、
それと砂糖の甘みが、
おいしいハーモニーをつくるのです。

トマトのみそ汁や、
トマトのジャムも作りました。

それで1998年にトマトアイスクリームを、アート作品として作りました。

たべものアートとしては早いもので、特に自分のレシピをつくってやったのは、
もしかすると、最初の可能性もあります。

  • 1998年 トマトアイスクリーム試食会 文房堂ギャラリー、東京・神田
  • 1998年 トマトアイスクリーム展 ギャラリー手、東京・銀座
  • 1999年  ダブル・ポジティブ、スタジオ食堂、東京・立川
  • 2003年 第2回越後妻有トリエンナーレ、 新潟県十日町市
  • 2006年 第3回越後妻有トリエンナーレ、 新潟県十日町市
  • 2008年 こんぴらアート2008 香川県琴平

以後、10年トマトアイスクリームを作って来ています。
しかしバンクアートの池田さんや村田さんには無視されていて、
あそこでの、食べ物展には出品していません。
私は、そういうことには、めげないので、
今回の《こんぴらアート》でもトマトアイスクリームを作って売りました。

地元のアイスクリーム屋さんには、
たいへんに親切に協力をいただいて、
私のレシピどおりに作っていただいて、
感謝しています。

ピクチャ 1.png

このブログは、当初、北京オリンピック終了までと考えていました。
しかしその後も継続したのは、読んで下さる方々の増大が、
大きな励ましになったからです。
2004年からブログの時代になったと言われますが、
まだまだ、ブログの時代は終わっていないという勢いを感じました。

北京オリンピック以前から言われていたバブルの破綻は、
想像を超えた規模で、実際に起こりました。
金融危機です。

金融危機の中でも、
多くの方々がクリックしてくださることは、私の人格成長にも刺激になりました。
それは、私の芸術探求の理論展開にも、エネルギーをくださったのです。

理論的な成果が、しだいに上がって、
認識の変化と言うのが、ブログで書く事で進んだのです。
そして、一つの結論に至りました。

1、《こんぴらアート》に美術ジャーナリストの村田真さんが来て下さったのですが、
  彼との会話の中で、村田さんが
  「《超1流》は、かならすしも良くないのではないですか」と言われました。
  そこで私は次の様に答えました。

  《超1流》の作品は、美術史的には重要です。
  例えばマチスの作品は、ほとんどが《1流》作品ですが、
  しかし代表作としてあげられるものは、5点ほどしかない《超1流》の
  作品なのです。

  葛飾北斎も、膨大な量の《1流》作品を作っていますが、
  代表作は《超1流》作品なのです。

2、しかしほとんどの観客は、批評家やジャーナリストも含めて、
  《超1流》や《41流》といった作品は好きではありません。
  これは、私自身の観客観察の結果なのです。
  ジジェクが言う様に、人間は欺瞞の上を生きているのであって、
  人は、言っている事とやっている事は違うのです。
  芸術が好きだという人も、ほとんどの人は、実は、
  基本的に、良い《超1流》の作品は、好きではありません。
  
 《超1流》の《真性の芸術》作品は、強いです。
 しかし多くの人はその強さが嫌いなのです。
 そして強いだけでなくて、気持ちが悪く、不潔な感じを与えるのが,
 《超1流》の芸術作品です。
 社会的理性を超えていて、異様ですし、場違いな表現なのです。

3、美術史の中で傑作と言われる《超1流》の作品が出来ると、
  その模倣作品が繰り返され、次第に作品は劣化して行きます。
  その劣化の過程で、デザインが現れます。
  つまりデザインの登場というのは、
  模倣の反復連鎖の中での、表現の劣化から、生まれるのです。

4、《真性の芸術》表現の劣化したデザインは、
   実は、芸術の社会化なのです。
  社会そのものは、このデザインによって成立していて、
  デザインこそが、社会性なのです。
  
5、 したがって、美術作品を市場に乗せると言う事は,
  《超1流》あるいは《41流》の作品を制作した後に、
  これの模倣を繰り返して、表現を劣化させ、
  デザインにまで落とす事が必要です。
  デザインに至り着く事で、初めて芸術の社会化と市場化が、
  はたされるのです。


6、しかしデザイン作品になることで、作家は、衰弱し、
  作家生命を終えるのです。
  作家生命は今日では、ほぼ5年(正味3年)の短いものが、
  大半なのです。

7、《真性の芸術》作品は、ワインのようなものであって、
  時間が経って、古くなればなるほど美味しくなって行きますが、
  デザイン作品は、生もので、お刺身の様なものであって、
  時間がたつと新鮮みを失い、歴史化すると凡庸なものに埋没して行くのです。


8、高度資本主義社会の中で、ギャラリーがはたすべき役割は、
  作家の《超1流》《41流》の高度な《真性の芸術》制作を維持するとともに、
  この《真性の芸術》の模倣の連鎖をプロデュースして、
  芸術をデザイン化するプロセスのシステムを作り出す事です。
  《真性の芸術》制作と、《社会的に芸術と錯誤されたデザインワーク》の
  両方を作り出し、それを反復の中で維持するプロセスのシズテムが、
  新しい時代の工房ギャラリーの機能なのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
さて
『アートの格付け』を中心に、
《言語判定法》でのアート測定を続けてきたのですが、
それが、新しい次元になる段階に至りました。

それは
偶然にですが、良い用語を見つけたのです。
そこで、用語の変更をしたいと、考える事になったのです。

今まで《6流》と言っていたのを、
《第6次・自然領域》と言い換えます。

《1流》は、
《第1次・社会領域》

《41流》は、
《第41次・根源的暴力領域》です。

これについては、詳しくは次の回のブログで書きますが、
基本にあるのはフッサールの使った用語である、
「第1次生活世界」という言葉を、下敷きにした考え方です。

このように言い換える事で、
階層構造を、次元として、より明確にできるかと思います。

そのこともあって、スキンを、
大好きなトマトから、
あたらしく舟の絵に代えたのです。

方向としては、
より、新印象批評の学問的確立を目指すものです。

しかし、そうすることで、
ファンキーな軽さは失われるのです。
残念!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
mainImageS.jpg

先日の香川県琴平の虎丸旅館で開かれた《こんぴらアート》への参加も、
スキンを舟に変えた
大きな原因です。

こんぴらアート・シンポジウム.jpg
【写真撮影;糸崎公朗】五十嵐太郎+彦坂尚嘉の皇居美術館空想のレクチャー風景
床だけに展示して、散らかし系の展示をしました。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

自分でトラックを運転して、しかも往復フェリーを使った旅行であった事も、
海と舟への思いを増しました。

なによりも、海を突っ切って走る舟と海のざわめきの音は、
古代の人々が、大海原を、芦で作った大船で渡っていた古い記憶を、
私の遺伝子の底に眠る深層から呼び起こしたのです。
b0116798_14201398.jpg

hina-sailing-01.jpg

この12月28日〜30日には、
ふたたび愛媛県今治市の鵜島の瀬戸内海和船工房『鄙(ひな)』に行きます。

鵜島は、瀬戸内海のほぼ中央、
大島伯方島との間の宮窪瀬戸にある小島です。

鵜島30.jpg
鵜島2.jpg
鵜島1.jpg
南北約1.5キロ、東西約0.8キロ、面積0.76km²の小島で、
島の中心は標高84mの小高い山となっています。

集落の人数は32人。

鵜島10.jpg
鵜島11.jpg
鵜島12.jpg
周囲は集落のある地域を除いて崖となっていますが、
瀬戸内和船工房のある入り江は、砂浜になっていて、
和船の母港となっているのです。
和船43s.jpg

和船.jpg
和船08.jpg
和船hing-03.jpg

付近は潮の流れも速いです。

下記のYouTubeで、潮の流れの速さが見られます。

和船に絵を描く所まで説得できるかどうかは、
分かりませんが、
瀬戸内和船工房の松下哲雄さんとのコラボレーションの中で,
ウッドペインティングの新しい展開をしたいと思っています。

そういう制作背景もあって、
ブログ・スキンを変えたのです。






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koshida

 京都で作家活動をしている47才です。
11月の末ごろ、偶然このBlogを見つけ、過去記事をずっとさかのぼって読んでようやく追いつきました。
 私自身ぼんやりと考えていたことや昨今の現代アートをめぐる状況分析等をしっかり言語化されていて、
示唆に富む内容で、同時にとても勇気づけられました。

 >《超1流》の《真性の芸術》作品は、強いです。
 >しかし多くの人はその強さが嫌いなのです。
 >そして強いだけでなくて、気持ちが悪く、不潔な感じを与えるのが,
 >《超1流》の芸術作品です。
 >社会的理性を超えていて、異様ですし、場違いな表現なのです。

こういった「強さ」を持つ作品は、反復することは不可能で反復するとデザイン化してしまうのでしょうね。
また、反復することで「灰汁」がぬけてしまうんでしょうね。

 『彦坂尚嘉のエクリチュール』もぜひ読みたいと思っております。

今後もblogをつづけられるとのこと、楽しみにしております。
by koshida (2008-12-21 15:31) 

じゃむ

こんにちは。

『アートの格付け』の用語変更とのこと、私には大変良い知らせです。
いよいよ私にとって理解しやすくなるのではと思えます。
そもそも、アートを分野や系統に分けることは出来ても『格付け』することには違和感を感じていました。
なんだか学校の通信簿のようで。(^^;

>そして強いだけでなくて、気持ちが悪く、不潔な感じを与えるのが,
 《超1流》の芸術作品です。
 社会的理性を超えていて、異様ですし、場違いな表現なのです。

と彦坂さまは書かれていますが、ざっと改めて彦坂さまが『超一流』とされたものの記憶をたどりましたが、『気持ちが悪く、不潔な感じ、社会的理性を超え、異様で、場違い』というのは、私には感じられませんでした。
反対に綺麗で一般的に『美しい』とされるような分かりやすい例ばかりと、私には見えるのです。
そういう意味で、統一性がないと思います。

> 良い作品、「強さ」を持つ作品

との表現をされていますが、良い作品は必ずしも「強さ」を持っているわけではないと思います。
反対に、とてつもなく短命だったり、弱かったり、傷ついていたり、はかなさがあったりするものもあるのではないでしょうか。
彦坂さまの「強さ」という言葉の意味合いと、私はもしかしたら違う意味の「強さ」をここで感じて、トンチンカンな発言をしているのかもしれないですけど。
by じゃむ (2008-12-21 22:10) 

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