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ブログ名の改題と「次元」の使用(加筆4) [心理学]

ブログの題名も変えてしまったが、
変更の一貫性としては、しかたががない事です。

まあ、しかし良い事ではありません。
私は、もともとの《41流》の方が良いとは思います。

《第41次元》と変える事で、
何か、重要な本質が失われたのです。

良くない事も、そして本質の喪失も知ってはいますが、
それでもなお、変更を選択したのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《6流》という言い方に怒る気持ちは分かりますが、
《第6次元》と言った時に失われるものは、
日常用語での伝達性です。

ヨーロッパの哲学は、
日常用語での思考で組み立てられていますが、
そういう事の良さを、失ったのです。

しかし、そういう喪失を私の責任で選択したのであって、
他人のせいにしようとは思いません。

日本の文化の知的風土は、
こうした日常用語で知的に組み立てる構造を持っていないのです。
その原因は、日常世界が《第6次元》の自然領域で出来ているからです。

その日本の現実を変える事は出来ない事は、
もともとは知っていましたが、
人生と作家のターニング・ポイントを回って、
方向性を逆向きのコースを走り始めたと言えます。

しかし、同時に、
新しい可能性も手に入れたのです。

それは学問としての厳密さの追求です。

芸術について、
分かりやすい言葉で話しても、
誤解されることしか、生み出し得ないのです。

芸術そのものは厳密な学問です。
それを日常的な自然的な態度で受け取っても、
誤解をするだけです。

生まれて、自然的に生きて死ぬので善ければ、
芸術はいらないのです。

人間は、自然性を超え、文明を形成する事を意思したが故に、
現在まで展開して来たのです。
文明という人工性の高度の抑圧が、
芸術を必要とする、心的態度を生み出したのです。

天然のままで良い人に、
分かりやすい言葉で芸術について話して、
議論をしても、無駄だと思うようになりました。

たくさんの攻撃を受けて来た事もあります。
そして琴平までのトラック旅行の往復で疲れたと言う事も
あります。

琴平でも、考えていた事は、
フッサールの言う「第一次生活世界」の事です。
この「第一次生活世界」に充足している人々を、
切り捨てる事に、私は同意は出来ませんが、
同時に、彼らとコミュニケーションも出来ないのです。
常に誤解され、矮小化され、無視され、無化されます。
このことを超えられない。
おそらく、それを超える一つの道は政治家になることでしょう。

御厨貴さんからは、
「彦坂さん、政治家になりなさい」と言われました。

オバマの手法には、その明快さがあります。
だから、その嘘が、私には認めがたいのです。
しかし、私が間違っているのは、
この「第一次生活世界」に充足している人々へと、
コミュニケーションをし続ける態度そのものではないでしょうか?

やるだけの事は、不十分ながら、やって来たという思いと、
実は、なにもやってこなかったという事実があります。

さて、
いま、自分の置かれている《現実界》を直視して、
捨てられるものは捨てて行きます。

いま、アトリエをきれいにして行く必要がありますので、
捨てるものは捨てて行く事が重要です。

「第一次生活世界」だけで充足している人々とは、
本質的な議論は不可能です。
《超次元》《第41次元》の芸術作品も、間接的にはともかく、
直接的には、伝達不可能です。
不可能性の壁は、頑強に存在するのです。
次元の差が存在していて、ここを超える事は出来ません。
正面突破は出来ないのです。
養老孟司の言う『バカの壁』です。
ph2.jpg
《想像界》の眼で《第6次元》
《象徴界》の眼で《第6次元》
《現実界》の眼で《第6次元》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
私の養老孟司の評価は、低いのです。
《第6次元》の領域に生きている知性です。
《第6次元》というのは自然領域です。

つまり天然で生きて語っているのであって、
それは幸せな人であると言えます。

つまり、私見を申しあげれば、
『バカの壁』があるのではなくて、
《次元の壁》があるのです。

《次元の壁》を超える事ができない。
このことを認める必要があります。

彦坂流の次元論で言えば、
この人間の世界は、42次元に分裂した、
多次元世界で、
普通の人は、自由には次元旅行が出来ないのです。

親鸞の概念に、《横超》というのがあります。
将棋の桂馬のような、横っ飛びの超越です。

おそらく、この42次元の多次元世界そのものを、
丸ごと、
《横超》する必要があるのです。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

このブログの目標は、一応3月末まで、
頑張ることにしたいと思います。
それまでに、やり残しているものを、
きちんと出来ればと思います。

しかし、量が多いから、
無理でしょうね(笑)

ですから4月からのことは分かりませんが、
だらだらと継続するという、
だらしのないことになったとしても、
基本的には、《横超》を目指します。

出来るだけ厳密に、
この多次元世界を観察し、記述したいと思いますが、
それは、ある意味で退屈な学問の世界ですから、
どこで、やるのがよいのか、
むずかしい所です。
人は読みにこなくなるのでしょう。
それでも、続けて行けるのか、どうかです。

けっこう、やっているかもしれません(笑)



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コメント 5

佐藤大輔

学生の佐藤です。新たな展開に期待しています。
by 佐藤大輔 (2008-12-22 22:49) 

symplexus

”一応三月末まで・・”(!ガーン!!!).
ショックです.止めないで下さい.
全く利己的理由と言われてもしょうがないのですが,
このブログを読むことが無上の楽しみとなっているからです.
いや,楽しみというよりは必要から来る一種の脅迫観念
とでも言ったらいいのでしょうか.
失われた言葉への信頼が徐々に回復してくることへの驚き,
それは僕の場合,彦坂様がおっしゃっていた宗教的祈りとしての
一方的語りの放棄でもあります.
ブログの内容を理解してきたのかと問われれば自信はありません.
多くの誤解や誤読を重ねて,虚構の言葉を紡ぎ出してきたとか.
でも,いいではありませんか.読み手が理解するとも分からないまま
遺言のように虚飾をかなぐり捨てて重要と思うことだけを書き留める,
それが無機質の糸でできた網目を飛翔し,
それを真に求めている者の乾いた心を潤す,
そういうことではだめなのでしょうか.
多数の賛同や賞賛を得ることは,おそらく
社会改良と幸福の追求に妥協することなしには困難でしょう.
そして芸術の階段を下りることなしには.
芸術の生存には少数者が必要というのは残念ながら真実です.
僕は今以下のような明晰なテーゼのことを考えて居ます.
”>文明という人工性の 高度な抑圧が
>芸術を必要とする心的態度を生み出した・・”
何という明快さ!
これは乾きの中で水を求めるひとの言葉です.
さらに言及するなら,ひとは必然的に芸術にあこがれる.
なぜなら水から生まれた我々は
芸術と言う故郷を振り切ることが出来ないからです.
by symplexus (2008-12-22 22:54) 

ヒコ

佐藤大輔 様
コメントありがとうございます。
by ヒコ (2008-12-23 00:18) 

ヒコ

symplexus 様
いつもコメントありがとうございます。
もう少し、書いて行きますので、ご心配なく。
社会との関係性については、「妥協」と言う言葉には、誤解があります。これについては、別の方のコメントの誤解と合わせて、書ければと思っています。
by ヒコ (2008-12-23 00:22) 

symplexus

3月はともかく,健筆を祈っています.
 妥協の用語で往路・復路を忘れたわけではありません.
  詩人とは言語が存在していくための手段という
 ヨシフ・ブロツキイの残響があまりにも大きいのかもしれませんが.
(「私人」,ヨシフ・ブロツキイ著,沼の訳,講談社)
がんばって下さい!

by symplexus (2008-12-23 08:01) 

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