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高橋留美子と三角形絵画史(加筆5図版追加改題) [マンガ]


【画像出典】高橋留美子漫画作品一覧
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《想像界》の眼で《第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第3次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《第41次元》は根源的暴力領域
《第3次元》はコミュニケーション領域
《第6次元》は自然領域

《想像界》の美術
気体美術

《気晴らしアート》
《ローアート》
《原始平面》の美術

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高橋留美子の特徴は、その《第41次元》という根源的暴力領域で、
ギャグマンガを開始したことだろう。
根源的な暴力領域と言っても、それは、色っぽいものであった。
色っぽいものであるにもかかわらず、
《第21次元》というエロ画の領域ではなかった。

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赤塚不二夫          高橋留美子
《想像界》の眼で《第6次元》の《真性の芸術》  《想像界》の眼で《第41次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン     《象徴界》の眼で《3次元》のデザイン
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン     《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン

このようなイラストの場合、《現実界》というのは、
黒い線描の部分なのです。

線描をするというところでは、赤塚不二夫も高橋留美子も《第6次元》
ということで、共通している。
実際高橋留美子は、速筆であるそうで、その速さは絵そのものに出ている。
《第6次元》というのは自然領域なので、早く書くのには適していて、
書道史でも見ても、懐素という中国の唐の時代の狂草といわれた書道家は、
《第6次元》の書で、これは速そうである。

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すべての漫画の《現実界》が《第6次元》であるかというと、
それは違っていて、
たとえば山岸涼子の絵は、《超次元》なのです。

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山岸凉子
《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《超次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の美術
気体美術(現代美術)

《シリアス・アート》
《ハイアート》
《透視画面》の美術
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
まえから感じてはいたのだが、
山岸凉子の絵は別格で、
マンガなのに《超次元》で、
しかも《シリアス・アート》であり、《ハイアート》なのですね。

山岸凉子はビアズリーの影響から出て来ているので、
マンガの系譜ではないのかもしれません。
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ビアズリー
《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《気晴らしアート》
《ローアート》
《透視画面》の美術

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ビアズリーの影響を受けていると言っても、
ビアズリーが《気晴らしアート》《ローアート》であるのに対して、
山岸凉子の方は《シリアス・アート》で《ハイアート》なのです。
この面だけで見れば、山岸凉子の方が上なのです。

そういう意味で「山岸凉子の漫画は芸術である」とは、
言える可能性は高いのです。

漫画、イラストレーション、絵画の区別というのは、
どこにあるのかは、極めてむずかしくて、
各領域とも多様であって、入り組んでいて、
分ける事が出来ないところがあります。

昔であれば、漫画のような《ローアート》は、
芸術ではありませんでした。
しかしそういう区別というものも、偏見であって、
キャンバスに描かれた絵画らしきものの多く(80%)は、
デザイン的エンターテイメントでしかなくて、
芸術ではないものが多いのです。

いわゆるサブカルチャーの中での芸術的な成果というものが、
しだいに無視できなくなって来ます。
それに1975年以降のアメリカ美術になると、
多くの《ローアート》が、登場して来て、
《ローアート》は芸術ではないという風に言う事がむずかしくなります。

つまり《ローアート》であっても、
すぐれた芸術性を有するものは、芸術であると見てみる事も、
必要になって来たのです。

それは同時に奈良美智さんくらいの世代のアーティストが、
抽象美術が分からなくなってくる事と、実は重なっているのです。

抽象美術が何か?
というのは、分かりやすい答えでは
マレーヴィッチのシュプレマティズムと言えます。
つまり単純な幾何学図形という事です。
彦坂の私見では、これはデザインへの還元であって、
芸術的には、失敗したと思います。

彦坂の私見では、抽象絵画での成功例はクプカ、
モンドリアン、、ミハイル・ラリオーノ、アーサー・ダヴ
ポロック、といったアーティストであって、
それが何であるのか?という事を語るのは、むずかしいのですが、
手描き写真の様なリアリズムから出来るだけ離れた絵画の成立の
問題でした。
それは同時に美術と文学性の分離でもありました。
つまり言葉では、なになにが描いてあるという説明の出来ないものを
描こうとして行ったのです。

これが1975年以降、しだいに逆転して、
具体的に言葉で理解や了解のできるものになって行きます。

そのことは、美術の文学化として出て来ています。
会田誠さん的に言えば、ネタ主義になってくるのです。

ネタ主義と重なるかどうかは分かりませんが、
清水誠一や、伊東直昭さんには、駄洒落性が強いのです。
つまり言葉で美術を考えている。

高橋留美子や、赤塚不二夫との関連で言えばギャグの問題です。

美術史的には画、風刺画、カルカチュアの問題です。
日本美術史には、鳥獣戯画』という名作が平安時代にあります。

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《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》
《ハイアート》
《透視画面》の絵画
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こうした戯画も《真性の芸術》なのです。
こうしたものは、たくさんあります。
例えばゴヤです。

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《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》
《ハイアート》
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ドーミエも凄い名作をたくさん描いています。

《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》
《ハイアート》

【下をクリックして下さい】
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こうして戯画を見てくると、
これらが《シリアス・アート》で《ハイアート》であるという
共通性があることが分かります。

さて、こう見るだけでは、私の悩みは解決できなくて、
もうひとつ漫画の定義に入って考えてみます。

【出典】『漫画の分析』

漫画というのは「コマを構成単位とする物語進行のある絵」というのが
あります。
似ていますが、もう一つ、「連続性のある絵で ある」というのがあります。

この事についても、いろいろ考えられます。
例えばジョットの壁画とか、ボッシュの祭壇画とか、
そういう複合絵画や、連続絵画を、漫画としてひとくくりには出来ないのです。

それに直接に、今、私の悩んでいる問題とは、違います。

答えにストレートに行くと、
漫画の定義としては、《現時性》と《線上性》として
語られいます。

《現時性》というのは、絵画に見られるもの、
「その全貌が一目のもとに 見渡せて、
一瞬にして内容が全体として把握できるさま」というものです。

それに対して、《線上性》というのは、言語、あと音楽なに見られる構造で、
々の 構成要素が、その度ごとに、部分として見えたり聞こえたりするとです。

観客というのは、それをたどりながら、全体を自分の心の中で構成して把 握する、
これが線上性です。

ですから時間性によって、鑑賞が成立して行く。

この《現時性》と《線上性》のバランスが崩れている絵画を見ると、
私にはアレルギーが起きます。
《線上性》があっても良いのですが、《現時性》が損なわれていると、
絵画として評価できないのです。

そのあたりが、漫画と絵画の大きな違いの様に、
私には見えます。


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スコットマックロードの三角形のモデルというのも、興味深いです。

「リアリティ」 「単なる図形」「ランゲージ」という3角形の中で、
漫画を捉えている。

リアルな絵が、最初にあるとします。
 それをどんどん単純化していくと、象形文字というか、言語になってしまう。
あまり単純化しすぎると、漫画からはずれていく。

絵から文字へ、そ してリアルな絵から単なる図形へ、
この間の方に漫画表現がある。

繰り返すと、リアリスムの画像と、
単なる抽象的な図形と、
そして文字。

この3者の間の中に漫画のフォルムがある。

しかし、このように見ると、
これは絵画芸術史の図式であるとも見えます。

ルネッサンスを頂点とする様なリアリズム絵画

マレーヴィチ  のシュプレマティズムを頂点とする、
単なる抽象図形絵画

コスースの文字を使った概念芸術

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《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》
《ハイアート》


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マレーヴィッチ 白の上の白 ニューヨーク近代美術館蔵

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《現実界》の美術。液体美術(近代美術)
《シリアス・アート》《ハイアート》

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《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《象徴界》の美術。気体美術(現代美術)
《シリアス・アート》《ハイアート》 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
つまり美術史は、すでに三角形の頂点に到達してしまっていて、
未知の領域というのは、三角形の内側の、漫画の領域だけに
なったのです。

つまり単純系の美術史は、
三角形の頂点や、それを結ぶ直線上は歴史を終えてしまって、
内側の漫画領域しか残されていないことになったのです。

18世紀の印画材料の発明は、
絵画を、手描き写真であるリアリズム絵画の
社会的有用性を終わらせました。
それ以降、絵画史は、抽象に向かい、純粋化を求める、
単純系の運動を展開して、単純な幾何学に到達し,
さらに、文字だけの単純美術にたどり着いて、
終わったのです。

そして新たに複雑絵画は、この三角形の未踏の内側、
つまり漫画領域に、複雑絵画の大地を発見したのです。
つまり複雑系の絵画とは、漫画絵画がなのです。

ですから、この1991年以降、日本の漫画文化の拡張とともに、
村上隆や、奈良美智の押し進めたネオポップが、
美術史的な意味を持ちえるとすれば、
こうした三角形の図形から、説明できることになります。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
高橋留美子に、私が引きつけられるとすれば、
それは《想像界》の《第41次元》性においてなのでしょう。

そしてまた少年雑誌で女性漫画家が描き続けて来ていると言う事、
さらには「萌え」の先駆者であるとされる性格なのでしょうか。

デビューが1978年で、
美術で言えば、いわゆるニューウエーブの時期と一致しています。
私が美術手帖の表紙になったのも1978年で、
その意味でも、時代的な共通性があります。

平井和正と池上遼一版の日本の『スパイダーマン』に魅了されたという
ところも、高橋留美子と私は共通しています。

平井和正の小説が、SFであると同時に、
ライトノベルの先駆になっていったような、
そういう脱ー近代の表現変動に乗った漫画家であるのでしょう。
そのSF仕立ての奇想天外なギャグ世界は、
バーチャル・リアリティ時代の漫画の先駆者と言えるのかもしれません。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

マンガの読み手としては、
私は卒業生です。

もともとは 山川惣治の「少年王者」「少年ケニヤ」に、
心をざわめかせた世代です。

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 山川惣治
《想像界》の眼で《第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の美術、固体美術(前近代美術)
《気晴らしアート》《ローアート》

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
私自身は、漫画も手塚治虫の鉄腕アトムを連載時に読む所から、
少年マガジン、少年サンデー、ビックコミックの創刊号から
読んで来ています。

しかし卒業した。
卒業すると、読むのが面倒くさくなります。

漫画に耽溺できる時は、
私自身が《想像界》の人格で、
漫画表現の中に真実があると感じられた時です。

人格が発達してくると、
《想像界》の中に真実を見ると言う事が、
直接は出来なくなるのです。
そうすると、読むのに努力がいる様なります。

高橋留美子も、ギャク時代以降の夜叉丸などは、
読んでいません。

昨日貸し漫画屋で、立ち読みで人魚シリーズの最初のものを
読みましたが、それ以上は、ちょっと無理です。

ですから《想像界》の表現というものを認めれば、
充分に高橋留美子のマンガは、
私は、《第41次元》のアート表現として、
高く評価するのです。
傑出したアーティストだと思います。

そのことは逆にも言えて、
《想像界》だけの領域で成立している表現は、
レベルの浅いものであって、
真面目には相手にしなくて良い、という差別にもなります。
たとえばロックで言えば、
ボンジョビや、クイーンといった《想像界》だけのロックを、
いくら売れていても、
ロックとしては評価しないということになります。

しかしこれも逆にも言えて、
実は売れるものは《想像界》の表現なのです。
10人中6人、おおければ8人の人は、
《想像界》だけと言っていいような人格ですので、
《想像界》の芸術だけが、実は社会性の高い表現なのです。

そういうわけで、
結論は難しいのです。
解決の出来ない境目であると言えます。




タグ:高橋留美子
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abura-betobeto

こんにちは、興味深く拝見しております。いつも更新楽しみです。
このところマンガ家の格付をされていてますます楽しいです。

赤塚マンガが彦坂さんの格付けで「全部6次元」なのですか?!
それこそ「想像界41次元」て書かれてるだろうとイラストの下の格付けおどろきました。
これはイラストとしてですか?マンガとしてなんですか?

ジョージ秋山、水木しげるはリアルタイムの世代にあたられるんでしょうか。ぜひ複数のマンガ家の格付けを比較されてほしいです。

お体お気をつけてお過ごしください。

by abura-betobeto (2009-01-18 17:35) 

ヒコ

abura-betobeto様
コメントありがとうございます。
そうですね。ジョージ秋山、水木しげるも、やりたいですね。

by ヒコ (2009-01-18 19:47) 

symplexus

梅津漫画から,ついに”少年王者”まで登場で内心ほっとしています.
子供のころ最初に夢中になったのは御多分に漏れず絵物語,漫画でした.
最初は”黄金バット””少年王者”,それにペン画を主体とする
挿絵に熱中したのですが,なぜか手塚治虫の初期作品が登場すると
その磁場にすいこまれてしまいました.
その作風を真似ながら自分でも何か描いてみたいと思うようになり,
小学校5,6年(どちらか忘れました)のころ,
作品を持って学童社という出版社を訪ねたのが思い出されます.
そこで手塚自筆の原稿を見せてもらい愕然としました.
線の美しさが桁違いで風呂敷に原稿を包んでしょんぼりの帰郷です.
本物の凄さを思い知った最初の経験です.
手塚の漫画でいうとそれから”鉄腕アトム”が登場したのですが,
あまり面白くないなというのが正直な感想でした.
”大都会””来るべき世界””化石島””漫画大学”あたりまでが熱病期です.
今回のブログに書かれているように僕も漫画を卒業したのでしょうか.
もちろんそれからも盛んに漫画は読んだのですが,
ランチのついでにとかで気晴らしに近かったのかもしれません.
”忍者武芸帳”とか周りが熱中してもちょっと距離が有りました.

ただ漫画をアートと無関係と思うような態度もおかしいと思います.
圧倒的多数の作品は文字通り暇つぶし以上では無いかもしれませんが,
それに総てを注ぎ込むことの出来る様式ではある.
巨大なラボと拮抗するぐらい個人を前面に出している作家もいるとすれば
読む方も消耗品として扱わない真剣さが必要でしょう.

面白いなと思ったのは梅津の作品は未だ読めるということです.
最近”14歳”という作品を読みました.
山岸涼子の作品もそうです.絵だけでは僕の場合なさそうです.


by symplexus (2009-01-19 00:41) 

na

ストライプの絵画論読ませていただきました、
非常に面白かったです。

ここで一つ疑問が生まれたのですが、<超次元>や<一次元>の絵画は異次元に支えられていて絵画は異次元を覗くことのできる窓である、というのが彦坂さんの言っていたことですよね。
そしてそれを他の<6次元>の絵画と比較しその差、つまり異次元をも描かれている絵(オプティカルリュージョンですよね)とペンキ絵の差をわかりやすくするために色調の反転や絵画を白黒にするなどの操作を行ったのですよね。

つまりこれは、<超次元>や<1次元>にみられるオプティカルイリュージョンを成立させる要素として”色調”や”濃淡”が大きく関係するというのが彦坂さんの意見であるととってもよろしいですよね。

ならば濃淡や色調の無い線描で描く山岸凉子が、<超次元>であるという事はストライプの絵画論で語られたことに反すると思います。
これについて回答いただければ、と思いコメントさせていただきました。

もしかするとオプティカルイリュージョン=<超次元>という方程式はストライプの絵画に限って言われたのかもしれませんね、その場合には他の<超次元>の絵画たりえる条件を教えていただければ、と思います。
でもそれは・・・・流石にあつかましいですよね。(笑)


アクセスランキング55位おめでとうございます!
彦坂さん風に言うならば<1次元>を含む多重的な表現である証拠、ですよね(笑)
これからも時々質問させていただきながら更新を楽しみにさせていただきます。



by na (2009-01-25 00:14) 

め

漫画も読まれるのですね。
ヒコサカさんのご意見では宮崎駿などはどういう格付けになるのでしょうか?
by め (2009-01-26 06:44) 

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