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粟(あわ)大福/鎌倉・長嶋屋(大幅加筆) [味覚]

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写真出典・『ばろブログ』http://balocco.exblog.jp/3554356/

鎌倉には、たくさん美味しい和菓子屋さんがありますが、
今日食べたのは、
JR鎌倉駅東口から、小町通に入る入り口にある長嶋屋、
そこの粟(あわ)大福です。

お餅に、粟が入っていて、美味しい。

粟は、私は好きでありまして、
昔、はじめて1975年にパリに行って、クスクスというアラブ料理を
食べて、好きになりました。
今も、粟を自然食品屋さんから買って来て、時々ですが、
玄米に混ぜて、炊きます。

さて、粟大福ですが、

《想像界》の眼で《超次元》の《真性の芸術的味覚》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の芸術的味覚》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術的味覚》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な味覚
固体(前近代)的な味覚

《気晴らしアート的味覚》《ハイアート的味覚》

シニフィアン(記号表現)の味覚
【A級菓子】

和菓子の粟大福を、芸術というと、
顰蹙(ひんしゅく)を買うかもしれませんが、
もともと、芸術の趣味判断は、味覚から始まったので、
正当なことであります。

この《超1流》の味を楽しみながら、
その価格が、一つ150円ほどですので、
なんとも、奥深い感慨に捕われます。

こうしたものは、作る技や、材料の吟味もありますが、
新鮮さが重要です。
お客が良く無いと、成立しません。
鎌倉は、京都ほどではないにしろ、
和菓子にとって、
良いお客がいる地域なのです。

◆以下加筆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

塩の問題

話は、和菓子とは変わって、
味覚一般の話になります。

某ギャラリーのご主人と、何回か、食事をしていて、
和食は、美味しいお店を知っている方だと感服している。

もっとも和食の食通のベストは、故上田画廊社長であった。
彼には、銀座の超一流のお店に何回か連れて行ってもらったことが
あるが、その頃は若くて、私には良く分からなかった。

美味しいお店は、塩をほとんど使わないから、
未熟な若い人間には、味が弱すぎて、分からないのだ。

さて某ギャラリーのご主人と、ラーメン屋にも行っているが、
これがいただけない。

普通な意味では美味しいB級グルメなのだが、塩と油が強い。
塩があれば、人間は美味いと思い、
そして油があれば、脳内モルヒネが出て、美味いと思うのです。
だから、塩と油が多い料理は、下品なのです。

私は、自分の作る料理からは、塩も油も、事実上はゼロにしようと
して来ています。
だからといって、醤油や味噌を使っても塩は入っている。
それどころかうどんやスパゲッティには、塩が入っている。
だからゼロには、厳密には出来っこ無いのだが、
基本として、自分の手では塩をいれない。

この路線は、私のトマトアイスクリームという、
食べ物の作品にも言えて、
塩は入れない。
プロのアイスクリーム屋さんの何人かに食べさせているが、
みな、異口同音に「塩を入れろ」と言うのですが、
私は入れません。

塩を入れない事で、
下品な野蛮な人には、分からない繊細な味を引き出すのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アイスクリームは普通の氷菓子ですから、
何か、普通の商業主義のものとの差異を作り出さなければ、
現代アートの作品にならない。
その時に、普通よりも下品にするという方法もありますが、
私は、上品にするという方向をとって、
塩を抜いたのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これを教えてくれたのは、山倉研志という作家の、
前の奥さんからでした。
前の奥さんは、京都生まれの人で、お父さんが食通で、
小さいときから、お父さんに良い料亭に連れて行かれて、
美味しいものを食べて来ている。
この前妻が、私が山倉の家に泊まった時に、朝食と作ってくれて、
これが美味しかった。
美味しいと言うよりも、私には判断が出来ないほどに、
薄い味で、驚かされたのです。

薄ければ良いと言うものではありませんが、
この前妻の味は、すばらしいものでした。

さて、話は、鎌倉の長嶋屋の和菓子に戻ります。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大正10年創業以来、伝統を守り続け昔ながらの製法で丹精込めてお作りしています。
手作りのこだわり・・・これが長嶋家の和菓子・・・というものを自信をもって販売
しております。
原材料からこだわり、材料そのものの旨みを生かす工夫をしております。
機械を使っての大量生産はしておりません。
甘さをひかえめにし、
塩は使用せず体にやさしく、飽きのこない和菓子を作ることを心がけて
おります。品質保存料もいっさい使っておりませんので安心してお召し上がりいただけます。
皆様から愛される和菓子であり続けるよう、これからも丹精込めて作り続けていきます。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
昔ながらの銅鍋と大しゃもじで餡をお作りしています。
機械で作るのではないため、少量ずつしか作れません。火加減に気を配りながら、
長嶋家独自の調合でお作りしています。
使う砂糖もざらめにこだわり、上質のさらしあんを使っています。
ざらめを使う事により、さらっとした餡に仕上がっています。甘すぎず、
飽きのこない餡となっております。
塩を使わないというのも、長嶋家のこだわり。
昔ながらの杵と臼を使ってお作りしています。
自動式の機械で作っているのではありません。
湿度や気温により水の量や練り具合、つく回数を変えています。
こだわりの「もちもちとした食感」を保つには、
この昔ながらの杵と臼を使って作るのがいいのです!

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
塩を使わない事、というのは、
私のトマトアイスクリームにも共通する姿勢ですが、
こうした態度の堅持は、重要な事です。

通俗的な味覚に合わせては、面白く無いのですね。

そういう意味では、制作も、
《実体性》や《気晴らしアート》は、完全に排除する
というのは、あるのかもしれません。

《実体性》や《気晴らしアート》性は、食べ物における塩や油に
当たるからです。
私自身は、ほぼ《非-実体性》のある作品しかつく手気ていなのです。
しかし、たまに《気晴らしアート》にはなっています。
最近のこのブログでは、そういう作品が3つも連続して、
反省しています。
もっと厳しく排除すべきだと思いました。

つまり美術界には、《気晴らしアート》が氾濫しているのですから、
アートから《気晴らし》性を抜いて、
馬鹿みたいにシリアスになる。
それだけにする。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
こういう考え方に反対の考えもあります。

むかし、神田の文房堂ギャラリーで、
『トマトアイスクリーム試食会』というレクチャーショーを
やりました。
全人類の美術の歴史における食べ物との関係を、
スライドショーで見せました。
その後に、ゲストに、試食してもらったのですが、
そのゲストには、石内都、今道子、眞島竜男、藤井博にきてもらい
ました。みな、食べ物に、関連のある作品を作っていたからです。

その中で、石内都が、
私のトマトアイスクリームを食べて、
「現代美術が、こんなに美味しいはずがない」と
コメントしたのでした。

これは石内都の現代美術に対する考えを良く表したものです。

現代美術を、レベルの低い美術と、考える考え方はあるのですし、
食べ物で言えば、まずいものであると、言う考え方は、
あるのです。

実際、石内都の写真は、
食べ物に例えれば、
汚くて、だらしがなくて、不味い写真なのです。
だらしがないというのは、構図が、写真史の中の名品のように、
厳密で、美しくは無いと言う意味です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

美術作品は、美味しく、あるべきであると、
私は、思います。

しかし、その美味しさには、
下品で野蛮な美味しさと、上品な美味しさがあります。

下品で野蛮なものの魅力だけに、現代アートを限定するのに、
私は同意しません。

下品さと、上品さが、混在する、ミスマッチに、私は引かれるのです。

フランク・ロイド・ライトの建築や、
ゴルチェのファッションや、川久保玲のファッションには、
そういうものがあります。

美術家で言えば、クールベや、セザンヌ、モンドリアン、
ポロック、ラウシェンバーグ、ジェフクーンズ。

そして音楽家で言えば、ショスタコービッチ。

ロックで言えば、ミクスチャーに可能性を見た世代なのです。
Pファンク、アフリカンバンバータ、
興奮して9枚一時に買ったのは、ソニックユースでした。
アンスラックス、
リンキンパーク

私は上品なものだけで、生きろと、主張しているのではありません。

下品で、汚いものだけを良しとする椹木野衣の様な美意識は、
嫌だと言っているのです。

上品なものも、素晴らしいのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
下品なものだけが溢れる現代に抵抗するために、
良いお店で、和菓子を食べましょう。

良いお店でも、値段は安いです。

上品なものを味合うのに、和菓子は、信じられないくらいに、
安いものなのです。

タグ:長嶋屋
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コメント 7

ウィリアムズ

こんばんわ。blogを楽しく拝見させていただいております。
粟大福というのは鎌倉にもあるのですね。谷保駅の近くに和菓子屋があり そこでも130円ほどで販売していたように思います。そのお店も老舗の風格がありました。
by ウィリアムズ (2009-03-16 21:25) 

ヒコ

ウィリアムズ様
コメントありがとうございます。刺激されて、加筆をしてしまいました。
by ヒコ (2009-03-17 08:05) 

ウィリアムズ

こんにちわ。調べてみましたところ 谷保駅の近くの紀の国屋という和菓子屋でした。粟大福に関しては無添加で餡子にもこだわりがあるようですが塩は使っているようです。値段は152円です。値段は長嶋屋さんとだいたい同じです。長嶋屋さんの粟大福はこの紀の国屋のものとどう違うか試してみたいと思います。
確かに和菓子は値段は安い割に良いものが多いように思います。塩や砂糖を抑えているものの方が品が高いように思います。同じ大福という名前でもコンビニのはおいしくありません。やはり添加物に加えて砂糖が異様に入っているからだと思います。
良心的な値段で良いものというのは食品ならば庶民でも味わえそうなので現代美術が買えない私でも感覚が鍛えられそうです。
前に讃岐うどんが超一流と書かれていた記憶があります。香川県で一番安いお店では 一杯70円なのに美味いのです。池上というお店で テレビ放映もされていましたので ご存じかもしれません。ちょっと有名になりすぎて弟子にのれん分けもしていますから味がどうなっているかは今は分からないのですが。
彦坂様はよく香川県に出かけてらっしゃるので時間があれば試してみてください。
和菓子もこれからはいろいろと試してみたくなりました。
by ウィリアムズ (2009-03-17 09:11) 

ヒコ

ウィリアムズ様
讃岐うどんは、ソフトマシーン美術館の館長の方が、地元のマニアでいらっしゃるので、凄いお店に、何件も連れて行ってもらっています。これは本当に《超1流》《超1流》《超1流》の世界で、信じられない味です。
もっとも讃岐でも、不味いお店も、たくさんあります。観光客用のところは、店構えはきれいですが、味はひどいです。

それと先日新潟の十日町市にいって、蜂谷で、草餅をついていたので、車を止めて、混じって食べさせてもらいました。これが《超1流》で、凄いおいしさ。

立派な京都の料亭でなくても、こうした田舎の農民の手作りの中に、《超1流》の美味しさがあるのに、深い感動を覚えました。

もちろん、こういう美味しさは、日持ちしません。流通に乗らないのです。それと懐石料理のような洗練された総合性がありません。

しかし、《超1流》の《超次元》というのは、田舎の平凡な人々の中にも開けている領域なのであって、こういう事が、私には重要な事なのです。ここには、人生を生きて死ぬものに、意味を与えてくれる《高み》があるのです。
by ヒコ (2009-03-18 07:40) 

ghd

クスクスは通常は小麦粉を使うようですし粟を食用するのは主として東アジアですが、35年ほど前にはパリもしくはアラブ料理、またはパリのアラブ料理では粟でクスクスを作っていたのでしょうか。
聞かない話ですので雑穀文化の例として興味深く思いました。
by ghd (2009-03-18 23:43) 

NY GAL

彦さま
クスクスというのは、粒状のパスタの一種です。
私も、大好きです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%82%B9


by NY GAL (2009-03-19 08:21) 

ヒコ

ghd様
コメントありがとうございます。
当時、パリで聞いたのは粟との事でしたが、確認はしていませんでした。おっしゃるように、クスクスは、硬質小麦の一種であるデュラム小麦の粗挽粉に水を含ませ、調理後の大きさが1mm大の小さな粒になるように丸めてそぼろ状に調整したものなのですね。パリのも、粟ではなかった可能性がありますね。
正確に理解できるきっかけになって、感謝です。

NY GAL様
ありがとうございます。
パスタだったのですね。美味しいですよね。まあ、しかし、しらないままに、少しおかしいとは感じてはいましたが、粟とクスクスを混同したままに、1975年から2009年まで、34年間を過ごして来ました(笑)。人生とは、そうしたものです。まあ、現実は奥が深いですね。
by ヒコ (2009-03-20 09:53) 

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