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岸田劉生は《第6次元》の「だまし絵」(大幅加筆4改題2) [アート論]

岸田劉生の絵画が高い価格で、落札しました。

多くの日本人は、岸田劉生の絵画が、

すぐれたリアリズム絵画であると信じています。

しかし、そうではなくて、「だまし絵」なのです。

だまされて、感動をするのです。

岸田劉生の絵画の芸術分析を、新聞記事の後ろでしました。


不況吹き飛ぶ高額落札、岸田劉生の静物画が

                                                      1億3500万

 21日夜、東京・丸の内の丸ビルでシンワアートオークション(東京)の美術品競売が行われ、「麗子像」で知られる岸田劉生(りゅうせい)の油彩画「静物(砂糖(つぼ)・リーチの茶碗(ちゃわん)湯呑(ゆのみ)林檎(りんご))」(1919年作)が1億3500万円で落札された。

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 出品者、落札者は非公開。

 麗子像などを描いた充実期の秀作で、1966年に国立近代美術館(当時)の岸田劉生展に出品後、研究者も所在がつかめず、今回は43年ぶりの公開。金融不況で湿りがちなオークション市場で、久々の高額落札に会場から拍手がわいた。

 劉生作品では2000年、同社の競売で「毛糸肩掛せる麗子肖像」(1920年作)が3億6000万円で落札されている。

(2009年3月21日21時31分  読売新聞)

麗子像.jpg

《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元》の《真性の芸術》

《現実界》の作品固体美術

《シリアス・アート》《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)の美術。
《原始平面》『だまし絵』【B級美術】

岸田劉生について、《6流》と言ったことがあって、
某画廊の人を激怒させたことがあります。
「私は、岸田劉生に感動したのだ!」というのです。

私は、その画廊の人が、岸田劉生に感動したと言う事実は、
事実であると認めます。

私も中学生の時に、岸田劉生の麗子像を見て、感動した事が
あるからです。

岸田劉生の絵画は、アメリカの美術評論家のグリンバーグが
絵画を4種類に分類しているうちの、「だまし絵」なのです。
ですから、だまされると、感動してしまうのです。

つまり、1人の人が、感動したという事と、
その作家や作品の芸術的な価値というのは、別の事なのです。

・深いイリュージョンの絵画
・オプティカル・イリュージョンの絵画
・『ペンキ絵』
・「だまし絵」

グリンバーグは、この4種類の絵画を分類しました。
ですから、これが正しいかは別として、
まず、この4種類に分類できる眼を獲得しないと、
私たちは、絵画の構造を理解する議論をする事ができません。

そのように、私は考えます。
それは現代絵画というモダニスム・ペインティングの理論の中で、
グリンバーグの絵画理論が、大きな影響を持ったからです。

この4種類に分類ができないと、
ポロックの絵画が、オプティカル・イリュージョンで成立している
ということの意味が、充分に理解できないからです。

全人類の絵画がの中に置くと、岸田劉生の麗子像は、
ずいぶんと低い絵画なのです。
ためしに、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザと並べて見ましょう。

岸田劉生レオナルド2.jpg
岸田劉生              レオナルド・ダ・ヴィンチ
《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン     《想像界》の眼で《超1流》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン     《象徴界》の眼で《超1流》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《第6次元》の《真性の芸術》  《現実界》の眼で《超1流》の《真性の芸術》

《現実界》の作品。         《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
 固体美術                 気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現 

《シリアス・アート》《ハイアート》           《シリアス・アート》《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)の美術。                                                      シニフィアン(記号表現)の美術。
《原始平面》                                 《透視画面》             
 『だまし絵』【B級美術】                                   《深いイリュージョンの絵画》【A級美術】 


レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザの絵画空間が、
まず、グリンバーグの言う「深いイリュージョンの絵画」であります。

それに対して、「オプティカル・イリュージョンの絵画」というのは、
ポロックの絵画ですが、私にとっては菱田春草の「落ち葉」です。

jacksonpollock-full-fathom-five-1947.jpg
Jackson Pollock. Full Fathom Five. 1947

グリンバーグが評価したポロックの最高の作品が、
このFull Fathom Five. という作品です。
これが「オプティカル・イリュージョンの絵画」です。

彦坂尚嘉が日本近代絵画の中に見いだすオプティカル・イリュージョンの
基準作品は、菱田春草の「落ち葉」です。

菱田春草全図.jpg

これら「オプティカル・イリュージョンの絵画」は、
日本人が考える現代美術の平面絵画とは違います。

日本人が考える《平面》というのは、
グリンバーグが『ペンキ絵』と言ったものです。
彦坂尚嘉は、《原始平面》と呼んでいる絵画構造です。

その代表がジャスパー・ジョーンズの「旗」です。

グリンバーグは、ジャスパー・ジョーンズを評価しませんでした。
このことが重要なのですが、日本の現代美術界は、
このことを重視しないのです。
つまりグリンバーグが言った平面とは、
オプティカル・イリュージョンの絵画であって、
ジャスパージョーンズの『ペンキ絵』ではないのです。
ポロックとジャスパーを比較してみましょう。

jacksonpollock-ジャスパー.jpg

ジャスパーの旗が、《原始平面》の代表で、真っ平らですが、
ポロックの絵画は、深みがあるものなのです。
これがオプティカル・イリュージョンの絵画です。

ジャスパー・ジョーンズの「旗」は、『ペンキ絵』の代表です。

こういう見分けは、
日本の現代美術界の絵画理論では、しないのです。

彦坂尚嘉から考えると、
ジャスパー・ジョーンズという『ペンキ絵』の作品を
重要視する日本の常識が、馬鹿げて見えます。

そしてジャスパー・ジョーンズの星条旗を基準作品にすると
信じているのに、この作品を日本の美術館が収蔵して展示していない
と言う現実も、理解できない矛盾であると思えます。

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さて、これで、
グリンバーグの言う4種類の絵画のうち、
『オプティカル・イリュージョンの絵画』と、
『ペンキ絵』の区分は、
ご理解いただけたと、思います。

次は、『深いイリュージョンの絵画』と、
『だまし絵』の区分です。


岸田劉生の絵画が、日本では評価する人が多いのに、欧米では相手に
しないのです。

それは岸田劉生の絵画が、まともな絵画ではなくて、「だまし絵」だ
からです。

「だまし絵」というのは、
いろいろなものが描かれていますが、
日本では有名な、高橋由一の鮭の絵も、
そうなのです。

nihonkindaiyoga_yuiti.jpg

しかし、日本近代美術の迷信の中では、
こうしたものを、美術史の専門家でも、「だまし絵」とは、
言いません。

唯一、世界的常識で、「だまし絵」について書かれている人は
谷川渥さんの「図説 だまし絵―もうひとつの美術史 」です。

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しかし、この書籍は、日本近代美術史家の間では、無視されている
ようです。
そのように谷川渥氏自身が、おっしゃっていました。

日本美術史家や、美術評論家は、
「だまし絵」を、エッシャーの絵や、
建築の中に描かれた「だまし絵」、
そしてアルチンボルトのような作品、
ルビンの壷のようなタイプなどを考えているようです。

確かに、「だまし絵」には、いろいろなものが、
あります。

しかし高橋由一の鮭も、「だまし絵」なのです。
それは「壁などの平面の上に物があって、絵の一部が外に飛び出して
いるように見える作品」という構造をしています。

しかし、何しろ、高橋由一の鮭の絵は、
日本近代絵画のリアリズムの原点と
信じられていて、あれを「だまし絵」と言うのは、
ダブーになっています。

ましてや、岸田劉生の絵画を、「だまし絵」であるというのは、
言ってはいけないタブーなのです。

日本の美術史や美術批評は、学問としては純粋ではなくて、不純で、
たくさんの嘘や、タブーに満ちています。

一番の問題は、日本の古典絵画の真贋を、
きちんと言わないという事です。
偽物と分かっているものでも、学者の多くが、人間関係や、
社会関係を配慮して、真贋をきちんと言いません。
これでは欧米の美術史の学問的厳しさと、対峙することは出来ません。

真贋に次いで、
問題なのが、この「だまし絵」の問題です。

日本美術史家が、「だまし絵」をリアリズム絵画と混同している故に、
日本の画家は、きちんとした絵画空間の見分けを学ぶことが、
出来ないのです。

つまり、日本の絵画論は、日本固有の迷信におおわれています。

私の学んだのは、アメリカ美術史ですので、
アメリカの19世紀美術の中には、
たくさんの「だまし絵」があるので、
「だまし絵」が、いろいろあるにしろ、
基本は、つぎのようなものも、「だまし絵」であることは、
教えられるのです。

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こういう絵画は、平らな壁面の前に、いろいろなものが、
付けられていて、それが立体的に、飛び出して見えると言う
構造をしています。

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【続きは下記をクリックして下さい】
戦後の日韓現代美術の中で、
同様の構造の有名な「だまし絵」の作家は、
KIM  Tschang-Yeulです。

ピクチャ-3.jpg

漢字では金さんですが、水玉を描くので水玉の金さんと
呼んでいました。

水玉が、本当に、キャンバスの平面の上に乗っているかのように、
描かれているのです。

古い作家で、李 禹煥の前の世代で、
パリで活躍している作家です。
私はパリの彼のアトリエを1975年に訪ねた事があります。

もう一人、「だまし絵」の代表だったのが、
柏原えつとむの、「サイレンサー・シリーズ」でした。
これも1960年代の後半の「だまし絵」の流行の
先駆けになった作家の代表です。
図版をネットでは見つけられませんでした。

(グループでは幻触というのが、同じ時期にあります。)

さて、こういう、物理的な平面の上に、
飛び出すように、本物に見えるものが、描かれている構造の
絵画が、だまし絵の一つの典型なのです。

ついでに、いうと、柏原えつとむ的な「だまし絵」の
海外での代表がオップアートのヴァザルリーです。

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図版がネットでは見つけられませんでしたが、
19世紀アメリカ初期絵画絵画の中には、
鴨とか、雁などの鳥が、壁に、ぶら下げられている絵が、
あってそれらが「だまし絵」の典型でです。
同様の絵が、日本の近代にもあります。

さて、まず、この高橋由一の鮭とアメリカのだまし絵を
並べて、その構造、つまり平面の上にものが、飛び出すように
描かれているという構造の共通性を理解して下さい。

鮭と鳥.jpg

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さて、これからは、みなさんに、
納得していただけないとは思いますが、
岸田劉生の絵画は、
こうした「だまし絵」的な構造を、拡大して延長したもので
あると、考えられるのです。

つまり本当に立体的な厚みのある人体を描き出す、
深いイリュージョンの絵画を描けないので、
その代用に、ショールとか、顔の鼻とか、そういうものを
レリーフ状に飛び出して見えるように、描くと言う、
「だまし絵」の拡大解釈版の絵画を描いているのです。

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岸田劉生レオナルド2.jpg

岸田劉生一見よく書けているようですが、まず背景が、描けていませ
ん。背景が、レオナルド・ダ・ヴィンチのように、深いイリュージョン
として描けないのです。そもそも、この麗子の背景が、何であるのかが
分かりませんが、暗い壁のようなものが、曖昧に描かれているのです。
それはだまし絵の硬い壁をごまかしているように、私には思えます。


それに頭の後ろのような見えない所が、きちんと描けていないのです。

さらにショールの毛糸のぶつぶつは、描けているのですが、それは、
「だまし絵」の基本で、レリープ的に飛び出すように、描いています。
そういうディテールに、素人の人の目は取られて、
全体を見ていないのです。

全体で見ると、岸田劉生の絵画は、典型的なだまし絵の
発展した形態なのです。 

ただ、こうした絵画構造は、実はさらに拡大して黒田清輝とか、
西欧で言えばティツアーノとか、最近では、
ルシアン・フロイトの絵画などにも見られるもので、
これらは《第6次元》の「だまし絵」の延長の絵画なのです。 

そうは言っても、なかなか納得していただけないでしょうから、
きちんと整理してお見せします。

ルシアン・フロイトの絵も、「だまし絵」で、画面から飛び出して
見えるものです。

麗子像222.jpg

まず、ルシアン・フロイトと、岸田劉生を並べると、
フロイトの方が、立体的に、飛び出して描けています。

フロイト麗子だまし.jpg

だまし絵、岸田劉生、フロイトと並べると、
岸田劉生の絵画が、だまし絵の方に、近い浅い構造であることが
分かると、思います。

reoフロイト麗子だまし.jpg

さらにレオナルド・ダ・ヴィンチを入れると、
フロイトよりも、レオナルド・ダ・ヴィンチの方が、深い空間が描けて
いることが分かると思います。

すでに、述べたように、このレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザの
ような絵画が、グリンバーグの言う『深いイリュージョンの絵画』
なのです。

そしてそれ以外の3点が、「だまし絵」の作品構造であると、
彦坂尚嘉は、考えるのです。

しかし、この考えは、「だまし絵」という絵画構造を、
自覚的に取り出して考える人でないと、
なかなか賛同はしてくれません。

多くの人は、絵画全体の空間構造は、見ないのです。
絵画の一部が写真のようにリアルに描けていると、
それだけで感動してしまうのです。
ですから、多くの人を騙(だま)す技術を駆使した絵画が、
出現して来て、人気を博すのです。

もちろん、騙(だま)されて、喜んでいるのも、
それは、それで良いのです。
私たちは、多くのことで、騙されて生きて来ているのです。
政治家にも騙されて、小泉純一郎に投票しても、
かれは自民党を壊しはしなかったように、
私たちの人生は、騙されて成立しているのです。

山本育夫氏は、私に向って「本物の金も、偽物の金も同じだ」と
言いました。
同様に、「だまし絵」も、「深いイリュージョンの《真性の芸術》」
も、同じように見えて、区別はつきにくいのだから、
同じでも、良いではないか、という分けです。

こうして日本の近代美術史は、嘘とニセの「だまし絵」に騙されて、
成立し、語られて来ているのです。

こういう嘘の美術観、芸術観、絵画観の中からは、
すぐれた美術制度は立ち上がってこないのです。

そうした、迷信を信じる人々の眼にも、
この4枚で見ると、岸田劉生の絵画は、
アメリカの典型的な「だまし絵」に、極めて近い事が、
分かっていただけるのではないでしょうか。

だから、岸田劉生は「だまし絵」である、
と、私が言うと、また、当然のように反論が、
巻き起こります。

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04.03ryusei.jpg

岸田劉生の絵画で、特におかしい作品が「切り通し」という、
風景画です。
岸田劉生は「深いイリュージョンの絵画」が描けないために、
「だまし絵」の延長で、なんとか風景をえがくという詐術を
展開しているのです。

ニコラ・プッサンと比較してみましょう。

Poussin_Arcadia_2.jpg

並べて見ます。

プーサン岸田.jpg

画面の中に、手を入れるイメージをしてください。
プッサンの絵画の中には、手が入りますが、
岸田劉生の絵画では、手がつっかえてしまいます。

空を見比べてください。
プッサンの空は、気持ちよく抜けていますが、
岸田劉生の空は、抜けていません。

岸田劉生は、大きな深い空間が描けないために、
それをカバーするために、道路の石や草などを「だまし絵」の技術で
描いて、本物らしさを強調するだましを展開していて、
奇妙に歪んだ作品になっています。

鎌倉にある神奈川県立近代美術館で、
『生誕110年 岸田劉生展』が開かれました。
2001年のことです。

この時に、岸田劉生の絵画を、改めて検討する会を、
彦坂尚嘉の呼びかけで開きました。

その集まりのなかには、この展覧会をつくった学芸員の
原田光さん、美術史家の富井玲子さん、
そして東京画廊社長の山本豊津さん、などがいました。

みんなで、具体的な作品を前にして見ながら検討して行くと、
岸田劉生の風景の空が、まったく描けていなくて、
ベニヤを青く塗った様な、ぶつかってしまう空間であることが、
一番の話題になりました。

この展覧会を担当した原田光さん自身が、一番繰り返し作品を
見ているのですが、繰り返し見ると、岸田劉生の絵画が、
描けていない事が分かってくると、おっしゃっていました。

この神奈川県立近代美術館では、
高橋由一の回顧展も開かれています。

このグログで書いたようなことは、
実は、この美術館の展覧会を見て、考えた事なのです。

私は中学2年生から繰り替えし、
この鎌倉近代美術館に通って見て来て、
学んできました。

一番通ったのは靉光と関根正二の2人展の時で、
学生時代でしたが8回通って、見ました。

絵画を学ぶ基本は、繰り返し見て、考える事、
そして本を読む事です。

絵画は、むずかしいのです。

しかし、理解できるようになると、
楽しいのです。
なぜなら、すばらしい絵画がたくさんあるからです。




タグ:岸田劉生
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コメント 13

じゃむ

> 岸田劉生の絵画が、日本では評価する人が多いのに、欧米では相手にしないのです。

いつごろで、どの本だったかは記憶にないのですが以前手にした海外の本で岸田劉生の絵画で「麗子像」だったよな、を拝見した覚えがあります。
しかし、この本でこの作品がどのように書かれていたかなどは分かりません。

> 研究者も所在がつかめず、今回は43年ぶりの公開。金融不況で湿りがちなオークション市場で、久々の高額落札に会場から拍手がわいた。

43年ぶりのお目見えでも、落札者も不公開で(公開される方が珍しいですが)また何処にあるのかわからず、一般の目に触れることもなしに存在していく作品となるのかなと想像すると、コレクションをするという中に潜んでいる非常に我侭な部分を感じてなりません。
作家も、ギャラリー側もお金が入ってきて、それで生活をしていくということに繋がるので良いことでは、もちろんあります。
作品は人の目に触れてナンボなのだと私は思うのです。沢山の人の目に触れたから凄いという意味にはならなく、数人でも本気で作品を見て感じ取れる人がいるという意味での「人の目に触れる」。
作品が高額で購入され、非常に限られたVIPな世界の人たちにしか見られないというのは、どんな意味を持っているのだろうかと。
私には結局のところ、テレビ、パソコンの画面上、カタログ、雑誌、新聞の上にしか存在しない作品でしかありません。
時代も常に変化をして私たちの生活でメディアとの関わりも大変な変化をしている中、あらためて美術作品との関わりということや美術作品を見るということを考えさせられるのです。
by じゃむ (2009-03-23 19:02) 

ヒコ

じゃむ様
コメントありがとうございます。
欧米の美術館制度というのは、芸術作品を公開することを、社会的な、つまり公共の利益に寄与するものとして考えているのです。ですので、ロンドンの大英博物館は無料公開です。ワシントンのスミソニアン美術館も無料公開です。テートモダンも、常設展は無料公開です。曜日を決めて無料にしている美術館もありますし、あるいは寄付を支払う形で、公開している所もあります。美術館の常設展示は、無料が良いと私は思います。
ですので、皇居美術館は、空想の美術館ではありますが、無料公開を掲げています。

私的なコレクションの場合、非公開というのは、海外にもあります。アメリカのフィラデルフィアのバーンズ・ファンデーションの場合、バーンズ氏のコレクションを、多くの人々が攻撃し、あざ笑ったために、遺言で非公開になってしまいました。その後、コレクションの優良性に対する認識が広がり、住民運動で、公開が決まります。

日本の場合、「目垢がつく」と言って、多くの人々に見られる事を、コレクターは嫌います。その傾向は、画像の公開にもあって、日本の美術品は、画像としてネット上に充分に公開されていません。海外の美術館の画像は、かなり良い状態のものが、たくさん
見られるのに、日本では見られないのです。

この例で、極端なのは、猪熊弦一郎美術館のサイトで、英語サイトは画像がたくさんありますが、日本サイトは充分な形でありません。日本社会の閉鎖性が、ダブルスタンダードで、露呈しているのです。


by ヒコ (2009-03-23 20:27) 

MIZUTI

西洋画のデッサンの基本である明暗方(キアロスクーロ)は、レリーフの明暗に基づいているので、レリーフの浅い構造を(直接的な見た目では)もっとも本物らしく描くことができます。多くの日本の洋画家が、この一番即物的なリアリティーを西洋画本来の力と勘違いしたのが、間違いの始まりだったのかもしれません。それだけでは仰るように、深みのある空間を描くことはできないでしょう。
由一に油絵を教えたワーグマンは挿絵画家であり、古典画も含めて体系的な美術教育を行おうとしていたフォンタネージは、そのプログラムを頓挫させて待遇問題で帰国してしまいました。この結果として、西洋画の体系的な知識が近代初期の日本には根付かなかったのではないでしょうか。
さらにフォンタネージの直弟子浅井忠よりも近代画気取りの黒田が実権を握り、日本の洋画界は、西洋から馬鹿にされながらも、井の中の蛙に甘んじる世界になって、西洋画のその時々の時流を追いながらも、自閉していったのではないでしょうか。
by MIZUTI (2009-03-23 20:55) 

ヒコ

MIZUTI 様
コメントありがとうございます。ご意見は、同感です。私の世代は、浅井忠を高く評価する時代に絵画を学んでいます。浅井忠は、日本洋画の中で傑出して、深いイリュジョンの絵画においても、オプティカル・イリュージョンの作品においても、《超1流》のすぐれた作品を残しています。リアリズムにおいても、そしてデザインにおいても、工芸作品においても《真性の芸術》を成立させ得た、偉大なアーティストでありました。水彩もたいへんに美しいものです。
 嘉門 安雄/河北 倫明 著 浅井忠画集 (大型本/都新聞出版センター)は、その偉大な全貌を良く伝えるものだと思います。
 レリーフについて、実は私は論じたいし、そしてその中でオプティカル・イリュージョン論を試みたいのですが、さすがに、仕事に追われていて、今週は無理です。
 来月の中頃に挑みたいと思います。
by ヒコ (2009-03-23 22:29) 

じゃむ

高橋由一の鮭ですが、私には飛び出した部分より、削られたへこんだ部分に注目がいってしまいます。
しかし、この削られた部分は作家にとっては非常に苦労した所だと感じられます。
もっと納得のいく削られた感、ヘコミ感を出したかったのではないかと想像します。
大まかに感じるところで
ヨーロッパのリアリティ、現実的な絵には何とも言えないぼかし感がありますが、アメリカのものになると、輪郭が非常にハッキリしていて、ぼかし感の反対を行っている感じ。
日本のものになると、どうだろうと見るのですが、その間をいっているのかなという雰囲気が。
素人の発言ご了承ください。
by じゃむ (2009-03-26 07:24) 

じゃむ

だまし絵ではなく、とっても詩的だと感じ取れて空気的に好きなのはシャルダンです。
とってもノスタルジーな空気が私には感じられるからです。
by じゃむ (2009-03-26 07:27) 

ヒコ

じゃむ様
コメントありがとうございます。
私の言っているのは、あくまでも全人類史の中での、絵画の分類です。構造的に「だまし絵」の構造をしていて、共通するものがあります。だからといって、国々や、画家によって、いろいろな絵があって、それぞれが違います。そして「だまし絵」だからいけないと言うものでもないのです。
しかし「だまし絵」と、深いイリュージョンのリアリズム系の絵画は違うのです。
ノスタルジーも確かにあると思います。そういう感想は良いと思うし、そういうものがないと言っているのではないのです。
 福田和也さんなんかの立場は、日本の固有性にこだわってものを見ようとするものです。
 糸崎公朗さんも、自分の感性の直接性にこだわって論理を展開するものです。それはそれで良いです。
 そのことと学問として芸術や絵画を考える事は違うのです。全員が学問として絵画を見なくても良いのです。私はそういう道を選択しているという事で、じゃむさんが、違う意見なのは、それは、それで、すばらしいと思います。
by ヒコ (2009-03-28 16:31) 

≪超一流≫

アメリカの美術史は、歴史と文化が浅いために技巧に走ったのかもしれませんね。日本の美術史を見る目がないのでこの理論が必要だったのかもしれませんね。科学者は、評価して下さるとおもいます。日本でこの理論が需要がない理由が一瞬で分かりました。アメリカを基準にした現代美術は、だまし絵です。精神性を見分ける目が必要ですね。この理論の決定的な欠如は、単なる写真として絵画を見るという点にあります。学問というよりは、芸術としてではなく、科学製品としての置物の有効性を読み取るためのバーコード理論だと感じました。この手の理論で絵画を見ることは、科学者の研究に貢献できると思います。アメリカの機械の文化≪超一流≫だとおもいます。アメリカの絵画は、次元がいくつもあるんですね。勉強になります。学問としてすばらしい見方なのですね。平面についての見方がないのを見ると、自分の目で見たのではなくて、他人の意見の受けうりで理論としては、不十分な気がします。平面についての評価基準が曖昧ではないでしょうか。いったい、平面の絵画がダメではないという根拠を提示できますか。表面的な考察は、十分理解できたので、(だまし絵ということばは、あなたが絵画を自分の目で見てこなかった、アメリカの授業の鵜呑みで見てきたことのステロタイプの偏向コンピュータ観察法から観た呼び方ですね)絵画を平均化するのは、良く理解できました。その立派な、アメリカ美術史の理論で、だまし絵が描かれた意義について立証してみて下さい。

その理論でいう絵画は、だまし絵に評価を与えることすらできないでしょう。

劉生が描けていないというあなたは、絵画の表面を深浅で測量したに過ぎませんね。奥まで何メートルありましたか。答えられませんね。それでは、あなたのいう次元というのも、有限で鑑賞できるものに限定されている。向こう側を感じるように描けているのは、実は、劉生の描いた絵の「頭が描けていない」とおしゃられるその描かれていない≪表現≫の方が遙かにダ・ヴィンチを凌駕していると言わざるを得ない。ダ・ヴィンチは、空間しか描けていない。つまり、劉生やエジプトの絵画は、空間を超えたものを描いている。白髪一雄は、アメリカ美術史で言うところの絵画空間の限界を感じていたのだ。実際、彼は描かなくなります。白髪一雄は、仏門の入ります。1971年比叡山延暦寺で得度します。つまり、芸術の奥行きに向かっていったのだ。表面的な記号の読み取りに頼ると、白髪一雄や劉生、エジプトの絵画の描かれた意義を読み落としてしまう。坊主になったという見方は、事実を読んだに過ぎず、その背景へは踏み込めない理論となる。この理論は、坊主か、画家かを見分けるときには有効だ。アメリカ美術史では、いまだに一人の画家の絵が坊主か、聖職者か、日本人か、西洋か、アメリカ美術史か、そうでないかということを基準にして評価されているということだろうか。アメリカ美術史では、まず、坊主になったか、ならなかったかということの方が、描かれた内容、描かれてきた内容よりも評価の対象になっているのだろうか。なぜ、アメリカ美術史では、野蛮な絵画か、野蛮でないかということが教育されているのだろうか。野蛮というのは、哀しい評価の仕方だと思う。そういう評価で、絵画を観たことはなかった。これからは、私も、野蛮かどうかで絵画を観るように心掛けます。これからは、坊主の絵は全部野蛮だということも分かったのでだまし絵を見かけたら、お前の絵はだまし絵だと言うようにします。絵を描いている奴がだまし絵を描いていたら価値がない絵をさっさと止めてダ・ヴィンチの絵を見習った絵画しか描くなよ!と言えるようになりました。ありがとうございます。便利な理論大変尊敬します。これで、≪超一流≫の絵画だけを学習者に教えることができそうです。これは、自分への戒めの意味もこめて書いたつもりです。もっと、いろいろな視点から考えていけたらとおもっています。アメリカの美術史の理論が一元的なのが残念なところです。多民族社会なはずなのに意外に坊主といった一元的な論じ方しか出てこないのですね。果たして、坊主が、かつて絵を描いたりするだろうか。なんか、甘い見方しかできてない気がするんだよね。坊主になった、ていうことは、何も言えていない。なぜそうなったのかまで、読めなかったということを露呈しているのではないか。その辺のことが投げ出されていて良く絵画をみてきたと言えるのが不思議でもあります。アメリカ美術史では、人生の変遷を理解できていないのですね。困りましたね。ある表現を選択したということは、決定的な変化があるわけで、単に描けなくなったではすまされない。しかも、画家に於いては、である。人間は、坊主になって絵を描かなくなったときにも絵を描いているということ、同時に絵は残っているということを、それはなぜなのかまで観なくてはいけない。それは、絵を観るものにとって、決定的だ。もし、書かなくなったことだけを理由に単に「画家を描けなくなった、坊主になった」とだから、空間を表現できない「だまし絵」を描いて人をだましてきたということにはならない。それを決めるのは、仏門に入った背景を観なくてはいけない。そこに画家の意図したものがあった、それは表現である。画家は、描くことだけをやっているのではない。空間を表現するということは、他のことを切り落として画面の中に描かれなかったものをも表現しているのだ。画面に描かれたものだけを観ているから、(あなたが仰るところの「だまし絵」)エジプト絵画の塗りつぶされた画面の空間に描かれていない意味をすべて見落としているのではないか。

空間を破って仏門に入らざるを得なかった画家に於いては、目に見えない空間が表現されているのであり、それは態度であり、画面を突き破って、訴える意義がある。それが人生を表現しこの現実の空間に生起するのだ。エジプト絵画は、その(あなたの仰る)『だまし絵』を画面を踏み越えて現実の空間と切り離すことのできない空間性を暗示しているのだ。私が、間違ったことを言っているのなら、あなたの理論は優れているのだ。
by ≪超一流≫ (2009-04-06 06:24) 

ヒコ

《超一流》様
長いコメントありがとうございます。
「空間を破って仏門に入らざるを得なかった」画家を評価する視点は、なるほどと思います。こういうお考えは、それはそれで良いと思います。そこに深い意味を見いだされるという、考え方はあるのだろうと思います。
by ヒコ (2009-05-11 14:03) 

デジタル絵描き

はじめまして。
私は自分で絵を描くものです。確かに岸田劉生は奥行きの表現スキルが足りていないと思います。私は絵描きですし、しかも奥行きある空間を想像でリアルに描くといった感じの絵を描きます。ダ・ヴィンチと岸田劉生の違いは、空気遠近ですね。岸田劉生は、空気遠近の仕組みを理解していない。(ダ・ヴィンチも完璧にマスターしてはいませんが・・・)

しかし空気遠近が全てではない。プッサンと岸田劉生の比較に関してですが、私には岸田劉生の絵の方が魅力的に見えます。迫力が出ていて、圧迫感を感じる。『絵に手が入りそうか』という要素で絵画を批評する事は無意味な事だと思います。手がつっかえそうでもいいじゃないですか。その圧迫感に魅力があれば。

では、『岸田劉生は本当にその圧迫感のある絵を描きたかったのか?』これは疑問です。本当はリアルな空気遠近が出た絵を描きたかったのかもしれない。しかし、これはこの絵の批判には繋がりません。なぜなら、ダ・ヴィンチにも同じ事が言えるからです。ダ・ヴィンチはリアルな表現を追い求めていた。どうしたらリアルに描けるのか?その終着点に、ダ・ヴィンチはたどり着けなかった。印象派が証明した、『影の色』をダ・ヴィンチは知る事が出来ませんでした。岸田劉生とダ・ヴィンチ。その両方とも理想の『リアルさ』に到達できなかったかもしれません。しかしそんな事は絵画の魅力には関係ありません。魅力とは、『リアルさ』以外の部分にもたくさん存在します。

では、『だまし絵』とヒコさんが呼んでいる絵たちと岸田劉生や高橋由一の絵との比較についてですが、確かにその『だまし絵』と呼ばれる表現方法と似ています。しかし、『だまし絵』という言葉がいけません。日本で言う『だまし絵』は、相手を騙す事を利用した表現方法です。岸田劉生と高橋由一は、騙す目的でリアル表現をしている分けではないでしょう。何か違う言葉を使うべきです。誤解を生みやすい。ちなみに、上の文章の例に関してですが、ルシアン・フロイトと岸田劉生と高橋由一はその『違う言葉』が当てはまると思いますが、他のだまし絵たちは、完璧な日本で言う『だまし絵』ですね。まるでその基底材の上にさも置いてあるかのように見せるのが目的ですし、その工夫が絵の随所に見られますね。高橋由一の鮭も一見そう見えますが、違います。さも置いてあるかのように見せるのが目的ではないです。その工夫もない。(紐が途中で途切れているなど)混同しているようですが、この2つの表現は完全に違うものです。

ではなぜ、ヒコさんが混同してしまっているか。それには原因があります。それはそれらの作品が一貫して『質感』の表現を重視しているからです。絵をリアルに見せるためには、『パース』『質感』『空気遠近』という3つの要素が必要です。しかしそれらの作品は、『質感』を重視していて、他の2つを無視しています。それによって、同じ表現方法だと混同してしまっているのでしょう。しかし違いは、『だまそうとしている』か『だまそうとしていない』かで判断する事ができます。


余談です。アメリカ人とイラストの仕事をしている友人の話ですが、ただ単に『リアル』なら人気が出るそうです。アメコミもリアルになってきていますし。そういった価値観の違いが、この文章からも感じられますね。しかし『リアル』とは何なのか。果たしてそこに価値を見出せるのか。答えは、ノーだと思います。『リアル』というのはただの表現手法です。今の時代では『リアル』は芸術にはなり得ません。『写真』という物が存在するからです。それに、『いくつかの要素』を知る事ができれば、だれでも写真そっくりのリアルな絵は描けるんです。では、何が芸術なのか?

リアルな絵画の芸術性は、『リアル』という表現手法を通過した、その先に存在する。

私はそう思っています。
by デジタル絵描き (2010-02-25 11:32) 

ヒコ

デジタル絵描き様
コメントありがとうございます。
ていねいにお返事を書きたいのですが、コメント欄では無理なのと、もうひとつは、絵画のこうしたことを本当に教えようとすると、書きながら教えないと、出来ないのです。
基本にあるのは、絵画を成立させている基本構造であって、その構造は、実は単純で分かりやすいのですが、しかし人に教えるのはむずかしいのです。それは碁というゲームを覚えるのに似ています。
by ヒコ (2010-03-12 11:53) 

米欄を読んでの雑駁な感想

麗子像の内の1枚「野童女」が、極端な例として分かりやすいかと思うのですが、岸田はそこで、おぞましい印象を掻き立てるように、量感たっぷりに麗子を歪んで描いていますよね。3次元的リアリズムの画法を援用しているが、意図した効果/表現したいテーマは別のトコロにあると強く感じさせる絵でした。
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それぞれの絵画、固有に表現しようと画家の意図するところがあって描かれているかと思います。
その、画家が実現しようと意図したところを特定した上で、その取り組みが技術的にはどの点で失敗しているのか、どの試みは成功を得ているのか、を論じることが批評の原則だと思うのですが。

ヌーベル・キュイジーヌの料理に、この料理は日本食とは天と地ほども離れている、和食として相手にされない、と言ったところで有効な批評ではありません。元より料理人の意図は別のところにあるのですから。作者の側に踏み込んだものではなく、自分の好みじゃないと告げているに過ぎないのですから。
自分の主義/自分の与する体系では評価できない、という一面において正しいですが、それは他のキュイジーヌ料理一般に言えることであって、一個の作品の批評として有効ではありませんし、そういう意味で非誠実な言説だと思われることがあります。
調理法や食材が似通っていても、狙っている効果/宛てているフィールドがそもそも異なっているワケで、そこを踏まえていないなと目された批評は、見当違いのレッテルが貼られてしまいます。
これって、意見や好みの相違が問題なのではないですよね。批評者の意図、文章のニュアンスが十分に伝わっていないときににも起こる問題です。踏まえた上で、ヒコさんの与する体系を説明する資料として、一部の要素を抽出して提示したと伝われば・・・・それでも腹を立てるファンの人はいるでしょうが。

岸田劉生について言えば、どんな絵画史の延長線上に、彼が自分の絵画をイメージしていたかも重要かと思います。初期肉筆浮世絵にご執心で、「デロリ」という彼の造語もあるぐらいですし。
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ヒコさんの文章、また他の方の米も含め、非常に勉強になりました。ありがとうございます。提示されてた本、買ってみます。



by 米欄を読んでの雑駁な感想 (2010-04-03 00:37) 

長田 哲郎

素晴らしい絵画は沢山あるといわれますが、2本遺伝子にとってのですね4次元5次元の光をもつ絵画があり、その絵・書を懐中にして冥界にいけば魂を洗って第4斗卒天に帰参できる。つまり神宝と呼ぶ物だ。アメリカには、無い。気の毒に。これらの物はどういう区分になるのですか?霊力的見地からみるとゴミが莫大な価格で取引されるのを見ると気分が悪くなるこの光は4次元の魔物、妖怪、魑魅魍魎などを滅し払う力もある。黄昏時からそれこそ、わんさかいる。書・絵の形式をとっている神宝とよぶべき物はどのようにお考えですか?
by 長田 哲郎 (2011-12-23 00:35) 

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