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ルドルフ・シュタイナーの《第8次元》性と芸術 [顔/哲学者]

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Rudolf-Steiner.jpg
ルドルフ・シュタイナーの顔
《想像界》の眼で《第8次元》《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第8次元》《真性の人格》
《現実界》の眼で《第8次元》《真性の人格》

《想像界》の人格
固体人間
《シリアス人間》《ハイアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間
『真実の人』【B級の人物】

ルドルフ・シュタイナーという人は、
昔のオーストリア帝国出身の神秘思想家で、
人智学の創始者、哲学博士です。

神秘思想というのは、近代以前のものと、
近代になって、ほぼ19世紀から20世紀になって出てくるものは
違います。

シュタイナーは、この近代の神秘思想家です。
他には、ヴィヴェーカーナンダ(インドのヨーガヴェーダーンタ
哲学の霊的指導者、1863〜1902) 、
ゲオルギイ・グルジエフ(ロシアの神秘思想家、1866〜1949) 
ピョートル・ウスペンスキー(ロシアの神秘思想家、グルジェフの系譜、
1878〜1947)
ナーラーヤン内垣/内垣日親(金光教系の神秘化で、日本ヴェーダンタ・ソサイティの創立者、1924〜) 


現代のもいます。
ケン・ウィルバー(1949〜)

私の《言語判定法》の判断では、
そのシュタイナーは、《想像界》だけのの人格の人です。
ですから彼の神秘思想は、《想像界》のファンタジーに過ぎないと、
私は判断します。
しかも固体人間です。
つまり前近代の古い人格を基盤に、ファンタジーを語っている人に、
彦坂尚嘉には見えるのです。

そのくせシニフィエ(記号内容)的人間なので、
その《想像界》だけの人格から出る脳内の妄想を、
そのまま思想として語ったのであろうと、
かなり乱暴ですので、お怒りの方も多いとは思いますが、
大まかに言えば、私はそのように判断するのです。

《第8次元》というのは、信仰領域で、信仰の自由はありますが、
最終的には、認識や思想の領域ではありません。
信仰の自由はあるので、シュタイナーを信じる人は、
それはそれで良い事で、その方々を侮辱するつもりは
私には、無いのです。

シュタイナーの評価の高さは、その人智学という独特の思想と、
そしてそれが教育運動になって、シュタイナー学校というものが、
世界中で、展開されているからです。
シュタイナーは、生前にヨーロッパ各地で行った講義は生涯6千回に
及ぶものですが、それらの多くは、仲間の内側での話と言う事です。

私は、
シュタイナーの影響を受けて、フリースクール等々の活動をなさって
いる方々の足を引っ張るつもりも無いのです。


それで、この文章は、あまり書きたく無かったのです。
あくまでも外側から見たときの、《言語判定法》による判断と
言う事に、過ぎません。

ところが建築系美術ラジオを聞いてくださって、
長いメールをくださった方がいて、
このシュタイナーと、彼の建築について書いていて、
それと私の美術と建築の関係を重視する発言を重ねておられたので、
考えを書く必要に迫られたのです。

私は、シュタイナーの思想や美術建築について、
それほど学んではいないのです。
前にワタリウムで開かれた展覧会は見ていますが、
基本的な水準が低くて、私には、評価できないのです。

後で述べますが、私は、シュタイナーの建築の評価も低いのです。

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《想像界》の哲学者で、有名な人はジャン・ボードリヤールがいます。
ボードリヤールは、ポストモダンのフランスの思想家で、
消費社会の神話と構造』(1970年/日本では1979年に出版)は、
美術にも大きな影響を与えた本でありました。
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《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント的人格
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント的人格
《現実界》の眼で《第6次元》の《真性の人格》

《想像界》だけの人格
気体人間

《気晴らし哲学の人格》《ローアート的人格》

シニフィエ(記号内容)的な人格
『平気で嘘をつく人たち』【B級の人物】

ボードリヤールの消費社会論を、
一番、たぶんですが速く取り入れたのが川俣正で、
かれの芸術=消費論は、『工事中』という彼の最初の作品集にも出て来ます。
そしてこの流れが、ついこの間までの過剰バブルアートを
出現させたのです。

それはロバート・J . シラー的に言えば『根拠なき熱狂』であったのです。
こうした熱狂が、実は《想像界》の精神に乗った
ファンタジーであったのです。
川俣正の作品もまたファンタジーであって、夢がさめれば、
芸術的な根拠は、なにも無いのです。

さて、そこで《想像界》だけの思想家と、彦坂尚嘉が判断するシュタイナーの顔とボードリヤールの顔を並べて見ましょう。
jean_baudrillard_13のコピー.jpg
シュタイナーの顔             ボードリヤールの顔
《想像界》の眼で《第8次元》《真性の人格》《想像界》の眼で《第6次元》デザイン的人格
《象徴界》の眼で《第8次元》《真性の人格》《象徴界》の眼で《第6次元》デザイン的人格
《現実界》の眼で《第8次元》《真性の人格》《現実界》の眼で《第6次元》《真性の人格》

《想像界》の人格              《想像界》だけの人格
固体人間                   気体人間
《シリアス人間》《ハイアート的人間》    《気晴らし哲学者の人格》《ローアート的人格》

シニフィエ(記号内容)的人間。        シニフィエ(記号内容)的な人格
『真実の人』【B級の人物】          『平気で嘘をつく人たち』【B級の人物】

ルドルフ・シュタイナーの評価は、
高く評価する人がいるのは知っていますが、
ボードリヤールと比較しても、《第8次元》と《第6次元》で、
ボードリヤールの方が格としては、上の次元なのです。
《第8次元》というのは信仰の領域で、信じれば、良いと思える
領域です。牛丼屋で言うと『すき家』が《第8次元》です。
《第6次元》は、自然領域です。『吉野屋』の牛丼が《第6次元》。
というわけで、吉野屋の方が美味いように、
ボードリヤールとシュタイナーという《想像界》の思想では、
ボードリヤールの方が、なんとかかんとか言っても、
美味しいのです。

もっとも吉野屋の牛丼も、不味いと言って食べない友人が2人いま
すが、それももっともな意見であって、
ボードリヤールも哲学者としては低くて、不味いのです。

ですので、私のルドルフ・シュタイナーの評価は低いのです。

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さて、シュタイナーの問題で一番大きいのは、
《想像界》の人格だけの哲学者の思想
と言う事です。

哲学には、実は3種類あるのです。
《想像界》だけの人格の思想。これがシュタイナーです。
《象徴界》だけの人格の思想。この代表の独りがニーチェです。

そして《現実界》だけの人格の思想です。カント哲学です。

この3人の顔を並べて見ます。


3人.jpg
シュタイナー    ニーチェ         カント
《第8次元》    《超次元》        《超次元》
《想像界》だけの人格  《象徴界》だけの人格      《現実界》だけの人格




【続きは下記をクリックして下さい】

偉大な哲学者というのは、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を
持つ重層的な人格者というのが、どうも、いない様なのです。
一つだけの人格で、ある意味で、人格の欠損者です。

一つだけだからこそ、思考が暴走して、今までに無い地点に到達
するのでしょうか?

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界は、彦坂尚嘉の理論では、
相互に否定し、抑制するという構造をしています。
3界があると、3すくみになるのです。

もっともこういう欠損者の存在を、ラカンは言っていないと思うので、
こうした視点は、あくまでも彦坂尚嘉の《言語判定法》から見て
そのように見えるということです。

しかしこうして見ると、たとえばニーチェの文体と、カントの文体の
隔絶した違いと言うのも、《象徴界》だけの人格者の書いた哲学と、
《現実界》だけの人格者の書いた哲学の差として、解釈できるのです。


美術にも同様の現象はあります。
ジャッドの作品は、《象徴界》だけの人格者の作品であり、
セラの作品は、《現実界》だけの人格者の作品です。
そしてルドンと、村上隆は、《想像界》だけの人格者なのです。
以下、図版を、作りました。
少しは、説得力があると良いのですが。

カントとジャッド.jpg
カントとセラ/《現実界》の哲学と芸術

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ニーチェとジャッド.jpg
ニーチェとジャッド/《象徴界》の哲学と芸術

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シュタイナーとルドン.jpg

シュタイナーとルドン/《想像界》の哲学と芸術


◆◆2◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



だから困るのですが、私がシュタイナーを乱暴に捉えているのは、
一つの反動であると言う事です。
つまり産業革命が起きて、人類史が大きく前進する時に、
この前進は、同時に疎外であり、人間の自然性や、文化の基本を
解体するという、そういう犠牲を伴うものでした。

私が、勝手にですが、感じるのは、シュタイナーの思想は、
こうした人類の歴史の展開に対して、それを認めつつ反動形成して
いるものの様に、感じます。

シュタイナーの建築にもそれは言えて、その建築は、
彦坂尚嘉的に言うと、固体建築です。
近代建築の様相を取りながらも、H2Oという水の比喩で言うと、
固体である氷の状態にもどった建築になっています。

彦坂尚嘉の歴史観で言うと、近代というのは、氷が溶けて、水になって、
流れて行く時代でして、それをもう一度凍りつかせて、
安定を取り戻そうとした建築に見えるのです。

正直に言うと、こういう氷の固体の表現が、私は嫌いで、馬鹿馬鹿しく
見えるのです。
吉本ばななの小説の固体ですし、やなぎみわ の作品も固体です。
遠藤利克の作品も、固体です。
李 禹煥の作品も、固体です。
杉本博司の写真も、固体です。
日本画ですが、下村観山も固体です。

つまり近代になって、氷が溶けて水になって流れる時代に、
古い氷河の世界にもどることで、精神の安定や、芸術の吸引力を
作る人々が、人気があるのは理解が出来ますが、
私には、古くて、しかもレベルが低いものに見えるのです。

つまりシュタイナーの思想や建築は、
そのような、近代主義への反動のものに、見えるのです。

だらしのない文章で恐縮ですが、きちんと勉強して、
きちんと論理立てて書くだけの情熱が湧かない人物なのです。
感覚だけの無責任な私見を申し上げれば、インチキだと思っています。

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