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若い人の望んでいない事 [アート論]


木村静さんが、仕掛けて来て、段ボール玉田という作家の作品を見に行きました。その様子を木村静さんがビデオで撮影してくれて【YouTube画像】にアップしてくれました。私のしゃべりは相変らずの同じ様なものなのですが、これは段ボール玉田さんには受けなかったのです。私のしゃべりが受けないのは、彼女に始まった事ではなくて、いままでもあったと言えます。つまり若い作家が求めている事と、彦坂尚嘉が語る地平はずれているのです。このズレを私が知らないかと言うと、実は知っていて、あえてずらしていると言えます。ずらしているから、彦坂尚嘉は嫌われるし、あるいはキチガイと言われるのです。何からずらしているかと言えば、普通に人間が生きている《自然的な態度》というものから、私は意図的にずらしているのです。このずらしは私だけの特徴ではあるのではなくて、古くはソクラテスであり、多くの知識人がなして来た事に過ぎません。私はその最末端に位置する知識人の風化形態、あるいは崩壊形態の残余なのです。

分かりやすい所で言えば、「作品を残した方が良い」と彦坂尚嘉が言うとき、段ボール玉田だけではなくて、多くの日本の作家は嫌な顔をします。日本の美術家の多くは、作品を残す事は嫌なのです。それが《自然的な態度》というものです。実際に日本の美術史を見ると、ネオダダの作家にしろ、もの派の作家にしろ、驚くほどに作品は残っていません。つまり段ボール玉田が非常識なのではなくて、日本の現代美術/現代アートの常識に忠実なだけなのです。そして私はそういう常識を知っていながら、8割りの人が信じるそういう常識を批判的に見るのです。実際、欧米の国際常識からは、日本は非常識なことなのです。だからといってアジア的には、日本は孤立していなくて、中国はやたらに破壊するのです。中国の近代美術は、ほぼ完璧に文化大革命で破壊されているのです。これは国立国際美術館の館長である建畠哲氏を代表とする日本の調査団が調べて来ている事です。1点だけが発見されましたが、あとはすべて破壊された事が確認されています。日本は中国ほどには悪く無いのですから、ましな世界だから良しとすべきなのでしょう。

段ボール玉田が作品を残すのか、残さないのかに興味があるわけではありません。日本の美術のすべてが残らないわけではないので、自然淘汰に任せる事で良いのです。今回は木村静さんを介して出会いましたが、普通では出会わない作家です。生きている次元が違うという事のすれ違いというのは、抜き差しがたいものがあります。しかしそれを認めつつ、その亀裂を超える努力も必要なのです。それを真剣に考えるのですが、その試みは、今回のように交通費まで私の負担で、そしてノーギャラで直接的に話す事は止めた方が良いと私は考えています。そういう事をしても段ボール玉田は感謝の儀礼メールひとつくれるわけではないのです。むしろ不愉快に思っている。つまり人の望まないことをしない方が良いのです。来るものは拒みませんが、嫌がる人の所に押し掛ける趣味は持ち合わせてはいないのです。責任は木村静さんにあるのですが、彼女の素朴さは素晴らしいですが、同時にナイーフ過ぎるのです。素朴に生きるこことができないのが現在なのだと思います。

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