小林多喜二の蟹工船(加筆1画像追加) [本]
1933年2月20日、逮捕される。同日築地警察署内においての取調べは、「警視庁から特高係長中川成夫が、部下のテロ係りの須田巡査部長と山口巡査を引きつれてやって来て、訊問にとりかかった。すると小林は今村を省みて、『おい、もうこうなっては仕方がない。お互に元気でやろうぜ』と、声に力をこめていい放った。/それを聞いた特高どもは『何を生意気な』というが早いか、中川警部の指揮の下に、小林を寒中まる裸にして、先ず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかった」。
その後警察署から築地署うらの前田病院に搬送され、19時45分、絶命。
遺族に返された多喜二の遺体は、全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。死顔は日本共産党の機関紙『赤旗』(せっき)が掲載した他、同い歳で同志の岡本唐貴により油絵で描き残されている。
中央公論編集部は、『党生活者』の原稿を『転換時代』という仮題で『中央公論』に、遺作として発表した。
3月15日には築地小劇場で多喜二の労農葬が執り行われた。
なお、小林多喜二を虐殺した時の特高警察部長は安倍源基であり、その部下であった毛利基特高課長、中川成夫警部、山県為三警部の三人が直接には手を下している。
小林多喜二を殺した安倍源基というのが、また凄い!
安倍 源基(1894年(明治27年)〜 -1989年(平成元年))は、日本の内務官僚、内務大臣、弁護士。
内務官僚というのは、内務省の官僚だが、内務省というのは、特攻警察と国家神道の部署もあり、戦前の国家総動員態勢と戦争遂行の中枢を占めた役所である。
この安倍が、警視庁特高部長であった1933年には、戦前でも最多の19人が特高の拷問で虐殺された。
安倍は、第二次大戦が終わると、A級戦犯の一人として起訴されたが、東條英機たちへの処刑が終わると、占領政策の転換で不起訴となり釈放される。その後、岸信介、木村篤太郎と共に右翼の連合組織である新日本協議会を結成。後に叙勲されている。1956年に行われた第4回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で山口地方区から立候補し、落選。
小林多喜二の顔である。
鬱病的顔つきである。
《想像界》の眼で、《8流》
《象徴界》の眼で、《41流》から《8流》までの重層人格。
《現実界》の眼で、《超1流》
彦坂の格付けでは、《8流》から《41流》というのは倒錯領域なので、
この倒錯領域だけに《象徴界》の人格があると言う人は、
小林多喜二がはじめてである。
これは特異な人格を持っていたと言える。
気になったので、
岡本唐貴と、片山潜の顔を見てみる。
二人とも、同じ様に《41流》から《8流》の顔である。
共産党という非合法組織に入った人物たちは、
ある意味でヤクザと同様の裏の社会の住人であったののかもしれない。