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母ザルが歯磨きしつけ [心理学]

母ザルが歯磨きしつけ 京大が確認

3月10日22時33分配信 産経新聞


 タイに生息し、人の髪の毛を使って歯に詰まった食べ物のかすを取り除く「歯磨き行動」をする野生のカニクイザルの中に、子ザルが見ていると特に大げさに歯磨き行動を行う母ザルがいることを、京都大学霊長類研究所の正高信男教授(霊長類行動学)の研究チームが突き止めた。子供に関心を向けさせ、歯磨きを教える「しつけ」とも考えられるといい、こうした行動が人間以外で確認されたのは初めて。研究成果が11日発行の米科学誌「プロスワン」に掲載された。

 歯磨き行動をするのは、バンコクの北東約140キロのロブリーに生息するカニクイザル。約250頭の群れの中で約100頭が、デンタルフロス(歯間磨き)のようにヒトの髪の毛を使って歯の間に詰まった食べ物かすを取り除く。

 カニクイザルは東南アジアに生息しているが、歯磨き行動が確認されているのはロブリーの一群だけ。10年ほど前から見られるようになったという。サルは街中で暮らしており、人と接する中で学んだ行動と考えられている。

 研究チームは、1歳の子を持つ7頭のメスザルに注目。カツラの毛を与えて、周囲に子供がいる場合といない場合についてビデオ撮影して詳しく分析した。その結果、子供が見ている場合は、髪の毛を両手に取って口に入れた後、歯を上下させる一連の動作(スナッピング)を頻繁に繰り返すことが判明。回数は見ていない場合の約2倍で、動作自体が大げさになっているという。母ザルは自分の行動を変えることで、子ザルが歯磨きを習得しやすいようにしているとみられる。

 正高教授は「人間以外の動物は、教育をしないというのが常識だが、今回の実験で、教えることの芽生えがサルにもみられたと考えることができる。教育の起源を解明することにもつながる」としている。
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猿の中の中に、教育行動があるのは、
間接的にだが、予見されていた事であった。

それは、群れから離されて、単独に育てられた猿が、
充分には生殖行動や、出産行動が出来ないと言う研究で、
むかし、テレビのドキュメンタリーで、衝撃的な映像を見ている。
それは出産を理解できなくて、生まれて来た子供を捨ててしまう
母猿であった。
この母猿は、猿の群れから離されて育てられた猿であった。

群れのなかで、生殖や出産を見ていない、
無教養の猿は、子孫を残し得ないのであって、
教育は、子孫を残す上でも、重要なのである。

人間になるとなおさらであって、
教育を欠いては、生存すらが、おぼつかなくなる。

天然では、人間は生き得ないのです。

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大相撲大麻事件の4人の人相分析(加筆1) [心理学]

【大相撲大麻事件】

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《想像界》の眼で《第1次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第6次元》の人格
《現実界》の眼で《第6次元》の人格

《想像界》の人格
気体人間
《気晴らし人間》《ローアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。


「以前から葉巻混ぜ吸引」


     と若麒麟容疑者

2009.1.31 11:00


 大相撲の十両力士、若麒麟真一(本名・鈴川真一)容疑者(25)の大麻所持容疑事件で、神奈川県警の調べに対し、若麒麟容疑者が「葉巻の中身をくりぬき、大麻と混ぜて葉巻に戻して吸う方法で、以前から吸っていた」と具体的な吸引方法

を供述していることが31日、分かった。

 一緒に同じ容疑で逮捕された友人のミュージシャンの平野力容

疑者(30)は、調べに「(若麒麟容疑者と)1年くらい前に飲

み屋で知り合った」などと供述していることも判明。

 県警は、二人が知り合った詳しい経緯や大麻の入手ルートを中

心に取り調べを進め、ほかにも大麻を所持するなどしていた仲間

がいないか確認する。

 県警によると、若麒麟容疑者は逮捕時、洋服姿で帽子をかぶっ

ていた。所持していた乾燥大麻は、葉巻の葉と一緒にティッシュ

に包まれていた。葉巻の葉は、大麻を吸引するために保管してい

たという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大相撲で、大麻を吸うと言う事件が連鎖しています。


何故に、大麻を吸うのか?
何故、大麻を吸ってはいけないのか?

これに対しては、大麻取締法被害者センターは次の様な内容の批判を
している。

若麒麟は解雇になる見通しだそうだ。その25歳の若者は、
人生の前途を閉ざされなければならないほどの罪を犯したのだろうか。
大麻所持それ自体によって、誰に、どんな被害や迷惑が及ぶと言うのか。
エラソーに御託を並べるだけの社説には何も書かれていない。
全てのダメージは、大麻取締法という、「目的」のない法律によって生じている。

【出典】http://asayake.jp/

しかし、、大麻取締法被害者センターが主張する様な、
大麻取締法の是非の議論は不用です。
一つは、法律で禁止していると言う事が、重要なのです。

法律などの《象徴界》言語そのものは、
問答無用、という性格が基本的にあるのです。

法律や《象徴界》の言語は、何故かの「目的」を説明しないのです。

モーゼの10戒が、「汝、人を殺すなかれ」というときに、
何故に殺してはいけないかを、説明しません。

道路交通法もそうですが、40キロの制限が、何故にあるのかは、
説明しないのです。

《象徴界》の言語というのは、説明はしないものなのです。

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何故か?

その《象徴界》の言葉の裏には、人間の悲惨な体験が
あるからです。

飲酒運転の禁止もそうですが、
被害にあわれた
膨大な被害者の無意味な死の蓄積の結果が、
現在の飲酒運転を、過酷に処罰する法律になったのです。

麻薬を禁止する法の確立も、同様な、悲惨な現実の集積があるのです。

一つは、日本の近代史は、
幕末にイギリスが、中国の清朝に、阿片戦争をしかけ
1840年から42年の2年間戦いで、清朝が破れたことです。
その結果、中国人は悲惨な混乱の時期に入ります。

帝国主義による、麻薬と侵略というこの組み合わせを、
隣国の滅亡に見た日本は震え上がったのです。

明治維新は、
この麻薬を使ったイギリスの侵略攻撃への対抗処置として
日本社会の防衛のために発動されたという記憶が、
日本人の奥底にしみ込んでいるのです。

大麻の所持や栽培について、少量所持であっても最低刑を懲役刑と定め
ているのは、先進国8カ国中で日本だけであるのですが、
日本の麻薬への過敏さは、国是としての性格があると思います。
その国是的性格を、《象徴界》言語は、
不動の掟として確立しているのです。

北極星が動かないから、旅人の目印になるように、
法は、不動性があるのです。

日本社会の麻薬に対する過敏さは、
こうした不動性に関わる問題です。
麻薬の禁止は、日本近代史の中で、不動性を確立しているのです。
だから、日本での大麻解禁は無理と、私は思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何故に大相撲の相撲取りは、
大麻を吸うのか?

フロイト的に言えば、ストレスが高くて、このストレスを発散して、
ストレスの無い状態に下げたかったのですね。

フロイトは、科学者で、心理現象を、ストレスとその放出という形で、
明快にとらえます。異論は多いと思いますが、
私はフロイトを信じます。

おしっこがたまって小便をしたいのと同じで、
ストレスがたまると、それを出したいのです。
ただ、それだけとして、心理現象を考えるのです。

大麻でストレスを発散できないのなら、
他の方法が必要なのです。
それを指導できない日本相撲協会が問題なのです。

いや、本当は、ストレスを発散したいという衝動を抑圧することを、
教えなければならないのです。
おしっこがたまって小便をしたくても、
それを我慢する。
解放への希求を断念しなければ、
相撲取りとして、強くならないのです。

この辺の、フロイトの言う「文化断念」が相撲に必要だから、
相撲取りのストレスが高いのですが、
このむずかしい問題を考えるために、
大相撲大麻事件を起こした相撲取りの顔を見てみましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

若ノ鵬 寿則 
2008年8月19日、財布の中に大麻入りのたばこを所持していたとして
大麻取締法違反で逮捕された。
現役幕内力士の逮捕は史上初の出来事でした。

日本相撲協会は、若ノ鵬を解雇します。
現役力士に対して解雇の処分が下されるのは初めてでありました。

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《想像界》の眼で《第1次元》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第6次元》の人格
《現実界》の眼で《第6次元》の人格

《想像界》の人格
気体人間
《気晴らし人間》《ローアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間。
『平気でうそをつく人』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
《想像界》の人格で、
しかも《1流》であるという《第1次元》の人です。

つまり普通の意味で良い人で、それは同時に『平気でうそをつく人』
なので、世間体は気にする人です。

《第1次元》の抑圧を強く持っている人なのです。
なにも抑圧がなければ相撲取りにもなれません。

もしも《想像界》でも抑圧を持っていなかったなら、
相撲取りにもならなかったでしょう。
相撲取りになるということは、
稽古や取り組みの辛さに耐えて行って、
より上の関取になり、横綱になろうという上昇意識が必要です。
それには、つらさを我慢しなければならない。

それは一応あるのです。
普通の凡庸な人よりは、我慢があります。
凡庸な人と言うのは、我慢しない人のことです。

そういう抑圧は一応持っているのですが、
その抑圧が3分の1しかなかった。

つまり《象徴界》《現実界》は《第6次元》という天然の自然主義
だから、事実上《象徴界》も《現実界》も無い人だったのです。
無いと言う意味は、抑圧していないと言う事です。

だから大麻を吸う快楽そのものが悪い事だと言う事も、
《象徴界》が抑圧的に作動していないので、
本当の意味では、理解していなかった。
【快楽】を断念することが、相撲には必要なのです。
【快楽】は、麻薬によってではなくて、相撲に勝つことによって、
えなければならないのです。


そして大麻を吸って、逮捕されると日本ではたいへんな事に
なると言う事も、ほんとうの意味では理解していない人だった。

《想像界》だけの人と言うのは、人数的には多数いるのですが、
しかしその人々は、事実上子供のままで、それ以上の人格の成長が
無いのです。

人格的に成長させるためには、自然の衝動を抑圧しなければならない。
【快楽】の抑圧と、文化断念です。
しかし、それが普通の人は嫌なのです。

抑圧を避けているから、、
《象徴界》や《現実界》の人格が派生して来ない。
だから、本当の意味で、社会的に大麻を吸う事が悪である事が、
理解ができない。
【快楽】は、他の事に転化しなければ、昇華が起きないのです。
相撲では、勝つ事が【快楽】にならなければ、相撲取りではない。

そのくせに《第1次元》の人格を
《想像界》で持ってしまっているのです。
真面目な人で、《第1次元》の抑圧が高かったのだろうと思います。
そして想像界での抑圧から生じるストレスを発散させる方法を
持っていなかった。
ある種の人格未発達症であって、
気の毒だと、私は思います。

東京地方検察庁は、若ノ鵬が所持していた大麻が、大麻取締法の起訴の基準となる所持量に達していないこと、容疑者が初犯で容疑を認めていること、社会的な制裁を受けている事を考慮し、若ノ鵬を処分保留のまま釈放し、起訴猶予処分としたのでした。

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2008年9月、日本相撲協会は、抜き打ちで簡易検査による

尿検査を行いました。

その中で露鵬と白露山の2名の尿のサンプルから陽性反応が出たのです。

精密検査の結果は、高い数値を示していることなどから、

大麻の使用を否定するのは難しいと結論付けて、

北の湖理事長は、理事長を辞任。

大嶽親方は委員から年寄へ降格。

露鵬と白露山は解雇処分とすることを決定したのでした

日本相撲協会の理事長を辞任に追い込む、大事件になったのです。


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性依存症と《第21次元》の関係(加筆1) [心理学]

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デビッド・ドゥカブニーの顔
《想像界》の眼で《第21次元》の《真性の芸術家》
《象徴界》の眼で《第6次元》
《現実界》の眼で《第21次元》

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08年最も衝撃的だったスキャンダル、

第1位はデビッド・ドゥカブニー

1月5日17時3分配信 eiga.com

[eiga.com 映画ニュース] 米パレード誌が行った読者投票の結果、

昨年発覚した有名人のスキャンダルのうち、

アメリカ人が最も衝撃的だと感じたのは、

「X-ファイル」で知られる俳優デビッド・ドゥカブニー(48)による

性依存症の告白とリハビリ施設入りだったことが分かった。

 ドゥカブニーは昨年8月に弁護士を通じて自ら性依存症であることを公表、

自発的にリハビリ施設入りしたが、

97年に結婚した女優のティア・レオーニとの間に9歳になる娘と6歳の息子もいたことから、

大きな話題となった。その後10月には施設を出所。

また、妻との別居報道やテニスコーチとの不倫報道もあったが、

後者については誤報だったと英紙が謝罪する一幕も。

もっともキャリアのほうは、

出演中のドラマ「カリフォルニケーション(Californication)」で

ゴールデングローブ主演男優賞にノミネートされるなど、

それなりに順調のようだ。

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このニュースを面白いと思ったのは、自分の回りにも、昔から、

性依存症らしき人々が何人もいたからです。

性依存症は、1998年にクリントン大統領の不倫スキャンダルが性依存症に

起因したものであるという説が取り上げられて以来、

認知度が急激に高まりました。

近年ではアルコール依存や薬物依存、ギャンブル依存(賭博依存)と並び

代表的な依存症であるという考え方が広まりつつあるといいます。

日本でも、大阪府知事の横山ノックが起こした強制猥褻事件とか、

不可思議な思いで読んだ事件は、性依存症として説明できることになります。

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もう一つはドゥカブニーの顔が、第21次元であったことです。

第21次元というのは、ドブ泥の人生の愛欲の世界で、

エロ写真が《21流》なのです。

荒木経惟の写真は第21次元の作品です。

歌手の小林幸子の歌も第21次元の《真性の芸術》というべき歌謡曲で、

紅白歌合戦でも、その意匠装置の大きさの中で歌う彼女を見たばかりです。

このブログでもすでに描いている様に、

建築家のレム・コールハースや、ザハ・ハディッドの顔が、

《第21次元》です。

それから実は、中国現代絵画のほとんどは《第21次元》です。

中華街の赤の氾濫する雑貨類は、《第21次元》です。

こうして人間の性欲や食欲などの欲望と密接に結びついている直接性の世界が、

《第21次元》であって、基本的で広大な領域なのです。

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性依存症であること、または過去に性依存症の治療を受けたことを

公表している著名人には、ビル・クリントンのほかに

ハリウッドの俳優であるマイケル・ダグラス

ロブ・ロウ、ビリー・ボブ・ソーントンなどがいます。

彼らの顔をチェックすると、これもまた全員が第21次元の顔で、

ちょっとした驚きでありました。

性依存症だから第21次元になったのか、

それとも第21次元だから性依存症になりやすいのか、

分からないのですが、

人格と、こうした次元性が、密着している実例として興味深かったのです。

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ビル・クリントン

《想像界》の眼で《第21次元》の政治家

《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の政治家》

《現実界》の眼で《超次元》政治家

クリントンは、第42代アメリカ大統領

1998年にはモニカ・ルインスキー事件が発覚し、

「ルインスキーさんと不適切な関係を持った」と

告白せざるを得ない状況に追い込まれた。

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マイケル・ダグラス


《想像界》の眼で《第21次元》の《真性の俳優》

《象徴界》の眼で《第1次元》の俳優

《現実界》の眼で《第1次元》の俳優

マイケル・ダグラスは、アメリカの俳優、プロデューサー

マイケル・ダグラスは、キャサリン・ゼタ・ジョーンズと結婚する数年前、

医師に"セックス依存症"だと診断されたと告白していた。


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ロブ・ロウ
《想像界》の眼で《第21次元》
《象徴界》の眼で《第1次元》の《真性の芸術家》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の芸術家》

ロブ・ロウはアメリカの映画監督・俳優。
1983年アトランタ滞在中、アメリカ民主党大会に参加した際、未成年の少女と肉体関係を持ったことがマスコミに発覚、一大スキャンダルとして批判された。証拠となるプライベート・ビデオも流出、これには一部始終が記録されていたため決め手となり、スターの地位を傷つける結果となった。

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ビリー・ボブ・ソーントン
《想像界》の眼で《第21次元》
《象徴界》の眼で《第1次元》の《真性の芸術家》
《現実界》の眼で《第21次元》

ビリー・ボブ・ソーントンは、アメリカの俳優、映画監督。
天才と言われるが、性依存症の事実を探していた所,

最初の「X-ファイル」で知られる俳優デビッド・ドゥカブニーが

セックス依存症のリハビリを終えた矢先、

広報を通じて別居宣言したデビッド・ドゥカブニーとティア・レオーニ夫妻に、

ダブル不倫説が浮上していることが明らかになりました。

原因は、ティアが新作で共演したビリー・ボブ・ソーントンと不倫しており、

携帯のテキストメッセージを見たドゥカブニーが、

別居を決めたというものだったのです。

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代表的な研究者

ビル・クリントンのセクシュアルハラスメント・ケースに関わった専門家として

医学博士のパトリック・カーンズがいます。

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《想像界》の眼で《第1次元》の《真性の医者》

《象徴界》の眼で《第1次元》

《現実界》の眼で《第1次元》の《真性の医者》

 


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ブログ名の改題と「次元」の使用(加筆4) [心理学]

ブログの題名も変えてしまったが、
変更の一貫性としては、しかたががない事です。

まあ、しかし良い事ではありません。
私は、もともとの《41流》の方が良いとは思います。

《第41次元》と変える事で、
何か、重要な本質が失われたのです。

良くない事も、そして本質の喪失も知ってはいますが、
それでもなお、変更を選択したのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《6流》という言い方に怒る気持ちは分かりますが、
《第6次元》と言った時に失われるものは、
日常用語での伝達性です。

ヨーロッパの哲学は、
日常用語での思考で組み立てられていますが、
そういう事の良さを、失ったのです。

しかし、そういう喪失を私の責任で選択したのであって、
他人のせいにしようとは思いません。

日本の文化の知的風土は、
こうした日常用語で知的に組み立てる構造を持っていないのです。
その原因は、日常世界が《第6次元》の自然領域で出来ているからです。

その日本の現実を変える事は出来ない事は、
もともとは知っていましたが、
人生と作家のターニング・ポイントを回って、
方向性を逆向きのコースを走り始めたと言えます。

しかし、同時に、
新しい可能性も手に入れたのです。

それは学問としての厳密さの追求です。

芸術について、
分かりやすい言葉で話しても、
誤解されることしか、生み出し得ないのです。

芸術そのものは厳密な学問です。
それを日常的な自然的な態度で受け取っても、
誤解をするだけです。

生まれて、自然的に生きて死ぬので善ければ、
芸術はいらないのです。

人間は、自然性を超え、文明を形成する事を意思したが故に、
現在まで展開して来たのです。
文明という人工性の高度の抑圧が、
芸術を必要とする、心的態度を生み出したのです。

天然のままで良い人に、
分かりやすい言葉で芸術について話して、
議論をしても、無駄だと思うようになりました。

たくさんの攻撃を受けて来た事もあります。
そして琴平までのトラック旅行の往復で疲れたと言う事も
あります。

琴平でも、考えていた事は、
フッサールの言う「第一次生活世界」の事です。
この「第一次生活世界」に充足している人々を、
切り捨てる事に、私は同意は出来ませんが、
同時に、彼らとコミュニケーションも出来ないのです。
常に誤解され、矮小化され、無視され、無化されます。
このことを超えられない。
おそらく、それを超える一つの道は政治家になることでしょう。

御厨貴さんからは、
「彦坂さん、政治家になりなさい」と言われました。

オバマの手法には、その明快さがあります。
だから、その嘘が、私には認めがたいのです。
しかし、私が間違っているのは、
この「第一次生活世界」に充足している人々へと、
コミュニケーションをし続ける態度そのものではないでしょうか?

やるだけの事は、不十分ながら、やって来たという思いと、
実は、なにもやってこなかったという事実があります。

さて、
いま、自分の置かれている《現実界》を直視して、
捨てられるものは捨てて行きます。

いま、アトリエをきれいにして行く必要がありますので、
捨てるものは捨てて行く事が重要です。

「第一次生活世界」だけで充足している人々とは、
本質的な議論は不可能です。
《超次元》《第41次元》の芸術作品も、間接的にはともかく、
直接的には、伝達不可能です。
不可能性の壁は、頑強に存在するのです。
次元の差が存在していて、ここを超える事は出来ません。
正面突破は出来ないのです。
養老孟司の言う『バカの壁』です。
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《想像界》の眼で《第6次元》
《象徴界》の眼で《第6次元》
《現実界》の眼で《第6次元》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
私の養老孟司の評価は、低いのです。
《第6次元》の領域に生きている知性です。
《第6次元》というのは自然領域です。

つまり天然で生きて語っているのであって、
それは幸せな人であると言えます。

つまり、私見を申しあげれば、
『バカの壁』があるのではなくて、
《次元の壁》があるのです。

《次元の壁》を超える事ができない。
このことを認める必要があります。

彦坂流の次元論で言えば、
この人間の世界は、42次元に分裂した、
多次元世界で、
普通の人は、自由には次元旅行が出来ないのです。

親鸞の概念に、《横超》というのがあります。
将棋の桂馬のような、横っ飛びの超越です。

おそらく、この42次元の多次元世界そのものを、
丸ごと、
《横超》する必要があるのです。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

このブログの目標は、一応3月末まで、
頑張ることにしたいと思います。
それまでに、やり残しているものを、
きちんと出来ればと思います。

しかし、量が多いから、
無理でしょうね(笑)

ですから4月からのことは分かりませんが、
だらだらと継続するという、
だらしのないことになったとしても、
基本的には、《横超》を目指します。

出来るだけ厳密に、
この多次元世界を観察し、記述したいと思いますが、
それは、ある意味で退屈な学問の世界ですから、
どこで、やるのがよいのか、
むずかしい所です。
人は読みにこなくなるのでしょう。
それでも、続けて行けるのか、どうかです。

けっこう、やっているかもしれません(笑)



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日本ラカン協会第8回大会(加筆) [心理学]

昨日は日本ラカン協会の大会でした。
一応幹事ですので、もちろん参加したのですが、
四国のプロジェクトが間に合わなくて、懇親会には出ませんでした。

柄谷行人氏も出席してのシンポジウムがあったので、
学生の参加者も含めて多かったです。
 
年次大会


 日本ラカン協会第8回大会プログラム   


 日時:2008年12月7日(日)
 場所:専 修大学神田校舎7号館731教室(3F)
 

   ◎12月7日(日)
 
 1. 研究発表 午前10時~11時45分

   森 綾子 (渡辺メンタルクリニック,築地サイトウクリニック)
   「" La psychose ordinaire (ふつうの精神病) "について」
  

この発表は面白かったです。理由は、具体的な精神障害者の事例の報告だったからです。象徴界が欠ける事例で、なかなか大変です。子供を産んで、その後に障害がでました。子供の顔を見るのも嫌と言うことです。この場合には、極端な精神病ではなくて、境界例なのですが、それでも本当に象徴界が弱っていて、障害を起こしている。

それに対して、私の《言語判定法》で、顔を絵画に様に見て、《想像界》《象徴界》《現実界》の欠けている例をあげるのは、あくまでも私の《言語判定法》での読み取りなので、直接の関係はありません。美術作品というのは、人間の精神が作り出していると考えます。そして顔も
また、人間の精神が現れている場所なのです。それが私の判定の立場です。

しかし、私の《言語判定法》と、実際の病例との距離を測定してみたくなりました。精神障害の人は、病院でですが、何人か、見ていますし、話もしています。障害のある人の眼がおかしいです。今は、四国の展覧会で余裕が無さ過ぎますが、これが終わったら、何とか、もう少し精神病の実例の勉強をしてみようと思いました。



 萩原 優騎 (日本学術振興会特別研究員PD)
           「象徴界は衰退しているのか」
          
萩原氏は、前々回の発表は印象的だったのですが、
今回は、今ひとつ、整理が巧く着いていない発表でした。
リスク社会の中で象徴界が弱くなると言う問題を、
ジジェクが書いているそうで、これに絡んだ論旨でした。
これも私が勉強不足で、読む必要を感じました。


 2. 昼休み  

 3. 総会 
 

 
4. シンポジウム 午後2時~5時30分

〈 日本精神分析をめぐって 〉

提題者 : 柄谷 行人 (文芸評論家・思想家)
      日本精神分析再考

提題者 : 若森 栄樹 (独協大学)
      日本における精神分析の可能性と不可能性

提題者 : 石澤 誠一 (大阪府立大学)
      阿闍世=親鸞 vs. オイディプス=フロイト
       ――精神分析学的知見と近代日本文化


柄谷氏の話は面白く無かったですが、
しかしパフォーマーとしては、
なかなか興味深くて、マイナーな良さが出ていました。
つまり柄谷氏は有名ではありますが、
マイナーな人物の話し方や感情の表し方をしていたのです。
それは面白かったです

若森栄樹氏は、
精神分析の空間―ラカンの分析理論』という本を書かれていて、
私の勉強にとってはラカン入門になった教科書とも言うべきものでした。
日本ラカン協会の理事をなさっています。

石澤誠一氏は《超1流》の研究者で、
今日の発表も抜群に面白かったです。
親鸞の思想とフロイトの思想の類似性の指摘で、
日本の中にある慚愧の念というもの意味を教えられました。






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コミュニケーションの限界(加筆2) [心理学]

2チャンネルに私のスレッドが立った時に、
私は出て行って、議論をしました。

私の付き合っていた建築系の人々は、
彦坂さんは2チャンネルに出て行って、議論をしていると言って、
笑いましたが、
実際にやってみると、
無意味な事なのです。

彼らは自分の妄想の中だけで書いていて、
調査をしないのです。
私が李 禹煥批判や、椹木野衣批判、柄谷行人批判を書く時には、
調査をしています。

椹木野衣氏については、
大宅壮一文庫に行って、
検索をかけて、
美術以外のメディアに書いているものも集めて
読んで書いています。

他人の事を批判する時には、
少しでも調べなければ、
話になりません。

彼らは、少なくとも、私を批判する時に調査をしませんでした。

「調査なくして発言権なし」というのは毛沢東の言葉ですが、
重要なものです。

しかし調べないというのは、
2チャンネルで書く匿名の人々だけではないのです。
美術評論家にも多くいます。
これは驚くべきもので、
いくつも見てきていますが、
長くなるので、これについては、ここでは書きません。

私は、このブログでも基本的には、コメントに対して、逃げないで、
きちんとお答えして行きますが、
2チャンネル的であると、私が主観で判断した場合には、
「調査なくして発言権なし」という基準で、
問答無用に削除します。

削除するメカニズムと権限を私自身が持っているので,
それを行使するのですが、
根本にあるのは、コミュニケーションそのものの限界です。

こうした暴力的権限の作動が、
間違いを生む危険性はありますが、
それを含めて私の責任で行います。

コミュニケーションの限界はあるのです。

最近はそのことを痛切に感じます。

2チャンネルそのものの存続は支持しますが、
そこでの発言は、基本的には信頼をおきません。
かってな誹謗をいくらしても、
基本的には相手にしません。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
話は変わりますが、

美術家をやっていると、
展覧会の場所を巡っては、
戦争になります。

場所取りは、
これは暴力を含む戦争で、
バトルです。

これに負けると、作家はだいたい終わります。

ここでもコミュニケーションの限界が存在します。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
コミュニケーションは大切ですが、
しかし限界が存在すると言う認識もまた重要なのです。

限界の向こうには、暴力と、無視と、
勝手に活動する道が開けます。

現実というのは、
こうしたものです。

そうした現実から、
逃げるわけにはいかないのです。

必要であれば暴力は使います。
コメントも、私の主観的な判断と責任で、
問答無用で削除します。
軍事力抜きには、
生存は不可能です。

猫にも牙もあるし、爪もあるのです。

こうした根源的な暴力領域が《41流》なのです。
決して、良いものではありません。

ですから、暴力による解決ではない方法が必要です。

私の場合には、私の考えと違う他人の考えを、
可能な限り、認めて、平行化を目指します。

先日、やはりコメントで、
美術市場の問題で、
玉田俊雄さんの意見と、私の意見を混同した方から
ご批判を頂きましたが、
私は、意見がまったく違う玉田俊雄さんと、
お付き合いします。
違いは違いとして、許容するのです。

現実は多様ですから、
どの意見が正しいかは、実は分からないのです。

先入観というのは、私は、駄目だと思っています。

それは自分自身の先入観に対しても、
疑いを持っている事を意味します。

ですから価値観の違う人々とのおつきあいは
重要なのです。

ですから、
お互いに違う意見や価値観をもったまま、
敬意をもって疑似的にであれ短期的な共同性を形成できるのか、
どうかが、重要です。

つまりコミュニケーションの限界の向こう側で、
他人と一緒に活動ができるのか? どうかで、
動き方が違うと思うのです。

同じ事の繰り返しですが、
このブログで書いているのは、
あくまでも彦坂尚嘉の主観の記述です。

その主観の側、つまり私の側では、
主観の学問化と言うべきものが目指されています。

それは「王様は裸だ」という子供の眼のようなもので、
社会的に形成された先入観に対して、
攻撃性は持ちますが、
しかし、あくまでも私人の意見に過ぎません。

ですから、私人の意見のその質です。
公共の利益に、広い意味で益するのか、
それとも単なる誹謗中傷なのか?

それが問われるのです。
その根拠に一つが調査なのです。
私の調査は十分ではありませんが、ゼロでもありません。
ある一定の調査での発言権の形成を努力しています。

調査こそが、
コミュニケーションの限界を超える方法なのです。

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フィンランドの銃乱射男 [心理学]

学校で銃乱射、10人死亡

=容疑者の学生は自殺−フィンランド

 【ロンドン23日時事】フィンランド西部カウハヨキの職業訓練校で

23日、銃乱射事件が発生し、少なくとも10人の学生が殺害され、

3人が負傷した。フィンランド公共放送が警察当局者の話として伝

えた。
 英メディアなどによると、事件を起こしたのは、訓練校の男子学生

マッティ・ユハニ・サーリ容疑者(22)。

犯行後、銃で自殺を図り、病院に運ばれたが、間もなく死亡した。
 サーリ容疑者は、犯行前にインターネット動画投稿サイトの

「ユーチューブ」に自身がピストルを撃つ場面の複数の映像を投稿。

それらに関し、警察当局が22日に聴取したが、それ以上の措置は

取られていなかった。同容疑者は短銃の仮免許を取得していたという。

(2008/09/24-01:31)

出典/http://www.jiji.com/jc/zc?k=200809/2008092400039&rel=y&g=int

フィンランドの銃乱射男.jpg

犯人の顔を彦坂の言語判定法で測定すると、

《想像界》の眼で《8流》。

《象徴界》の眼で《8流》。

《現実界》の眼で《16流》。


気体人間。

《現実界》しかない人格。

《自己愛》性人格障害をもっている人。

 

私に印象的なのは、《現実界》しかない人格の人である事と、

《16流》という崩壊領域を持っていることです。

世界的に、こうした無差別殺人が起きて行く所に、

この情報化社会の中での気体人間の人格崩壊の様相が出現しています。

そういう意味で見ると、

これもテロですから、テロの時代というものの病の深さが見えます。

人格崩壊のくい止める方法は、

晩年のラカンが主張したサントームという第4の環です。

私見では、これが芸術の重要な機能です。

つまり芸術には崩壊をくい止める第4の環の役割があります。

こういう風に見ると、

美術家に《自己愛》性人格障害者が多いというのは、

人格崩壊の危機に瀕して、

芸術家になることで、この崩壊を食い止めようとしている人々が、

逃げ込んできているからだと言えます。

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《自己愛》と《自己憎悪》[改題加筆1] [心理学]

《自己愛》と《自己憎悪》

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◆◆1、《自己愛》性人格障害 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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送検のため土浦警察署を車に乗せられ出る金川真大容疑者

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「自己愛性人格障害」という精神鑑定結果が、金川真大(まさひろ)容疑者/韓国名金 真大(24)に出ました。茨城県土浦市のJR荒川沖駅周辺で、8人を殺傷した無差別事件の犯人です。

 

「自己愛性人格障害」の人が、無差別殺人テロをするというのも、ずいぶんと刺激的な話です。この殺人者の顔を、彦坂流に人相見をしてみます。

 

 金川真大容疑者の顔
 
《想像界》の眼で《16流》
《象徴界》の眼で《16流》
《現実界》の眼で《1流》
 
《現実界》の人格。
  気体人間

 

金川真大容疑者の顔には、《16流》が存在しています。《16流》というのは崩壊領域です。前に山部泰司さんのところで、彼の作品が《16流》を内包していることを書きましたが、崩壊領域を内包している人というのは珍しいです。バンドで言うと、ポップグ・ループ、そしてモーターヘッドです。ポップグ・ループはすぐに解散です。モーター・ヘッドは長期の活動を展開している例外的なバンドですから、崩壊領域を抱えて生きて行く事はできるかもしれませんが、《16流》という崩壊領域を《想像界》《象徴界》に持つ金川真大容疑者は、殺人に至らざるを得ない精神的荒廃領域を2つも抱えていたと言えるでしょう。それと《現実界》の人格だけと言うのも、この社会を生きて行くのは難しいことです。他者との倫理的な関係や、冠婚葬祭などの儀式的意味などが理解できなかったはずです。

 

しかし、《現実界》では《1流》の人で、この《1流》性と言う社会的理性性の面で、踏ん張って生きる事は、出来たかもしれません。せっかくの人生を、殺人犯に転落してしまうのは、もったいない話で、亡くなった被害者の方も気の毒ですが、殺人者になってしまった金川真大に対しても、残念なことと思います。

 

しかし殺人に走る動機というか、原因が、「自己愛性人格障害」であると言うのも、極めて矛盾する話です。「自己愛者」が、殺人者になるという、いわば自己愛自己破壊に結果しているのですから。フロイト的に考えると、自己愛というものが、自己破滅になるということが、実は必然なのです。自己愛というのは、フロイトの言う《死の欲望》を抱え込んでいるものなのです。自己愛タナトスは、密接に関係があります。何故なのか? それを知る事は人生の秘密を明かす事になります。答えは簡単ですが、真理があります。しかし人は、真理を知りたくはないのです。フロイトの評判の悪さは、彼が真理を語ったからです。以下は、秘密を知りたい人だけ読んでください。

 

フロイトというのは、非常に聡明な科学者であって、科学的な心理学を打ち立てた人でありました。フロイトは、心理現象というものは、人間の神経の作用であり、刺激に対する神経の反応であると考えました。

 

そして人間の神経の運動量が、心理現象として表れてくる。そしてフロイトは、この神経の運動量という、量だけの問題であると、科学者的に考えたのです。心理現象が、量だけの問題として考えるのは、単純そうに見えて、ひとつの真理なのです。

人生も現実も複雑ですが、実は「中抜き」ということが重要なのです。つまりあるのは、まず「目先」です。「目先」はスピードが重要ですから、とにかく遅くても3分以内に把握し結論を出す。それは一番簡単に早くできる事で良いのです。そしてもう一つは本質です。物事の本質を常に考えている。そしてそれを見て行く。その間にある中間項の複雑な状態については、少なくとも予想は一切しないし、コントロールできない事を受け入れる。つまり「中抜き」です。そういう視点でフロイトを読むと、本質の把握が優れています。

 

神経の運動量は、刺激、つまりストレスで増大するストレス量です。心理現象と言うのは、この増大したストレスの量を、最も少ない所まで、放出することなのです。放出した時に、一番ストレスの無い所まで放出するということは、つまり死に至るまで放出する事なのです。つまり、人間の心理現象と言うのは、いつも、《死》を目指して放出しようとしているのです。こうして《死》というのは、日々の心理現象のストレスを解消しようという行為の中に常に立ち表れるのです。

 

いわゆる「いやし」とか、「なごみ」、さらには「身の丈主義」「脱力系」と言ったものは、実はストレス量を下げる事が意味されていて、それは《死》へと向かうタナトスの欲望なのです。生きたまま《死》ぬというのが、こうした「いやし」とか「なごみ」への希求であります。

 

たとえば、明日は試験だから、勉強しなければならない。しかし、嫌でテレビを見ている。勉強しなければ、自分の不利益になるにもかかわらず、テレビを見ている。この欲望が、自己愛です。この自己愛の中には自滅の道であり、《死》への欲望があるのです。

 

たとえばタバコを吸っている。肺癌の危険性もある。友人の哲ッちゃんは、少し前だが、肺癌で死んでいる。しかし禁煙が出来ない。止める事を考えながらも、高いお金を払いながら、健康に悪いタバコを吸っている。タバコを吸いたいという欲望が自己愛です。こうして常に心理現象というのは自滅に向かうのです。私はタバコを止めましたが、病的ほどではないですが過食、過飲、そして異常なまでのおしゃべりといった依存症的傾向を持っていますが、これも《死》への欲動と言えます。こうした依存症そのものは《自己愛》症なのです。これを中和するには、《自己憎悪》が必要です。《自己憎悪》をすれば、過食も止まります。実際私は8キロダイエットに成功しました。『《自己憎悪》ダイエット』という本を書きたいですね(笑)。

 

たとえば恩師の遠野芳明先生の葬式がある。葬式に行かなければと思いながら、画廊で某絵画科教授は酒を飲んでいる。大学葬だし、行かないと教授という手前、まずいのに、行かないで酒を飲んでいる。社会的な信用を失ってもなお、酒を飲む欲望が、自己愛です。社会的儀式に参加したくないという怠惰性というのは、《死》へと向かう欲望なのです。《死》んだ様に何もしないでいるのが、理想であり、いつもそういう状態へと心は向かいます。

 

自己愛というのは、自己破滅を内包した欲望なのです。本質的に《死への衝動》を内包している欲望と言えるものです。つまり怠惰とか、億劫とか、やらねばならない事をやりたくないという、そういう欲望と言うのは、実は最終的に《死への欲望》に結びついているのです。

 

私の事を振り返っても、私の中には、何もやりたくない、という気持ちはいつも強くあります。《死》ねば楽になれるという考えも、強くあります。それはフロイト的に真理なのです。今は止めましたが、スピード狂で、高速で何度もパトカーに追いかけられていますが、スピードを出すのも《死》への誘惑と言えます。日産ブルバードのスポーツ車仕様の自動車でしたが、しかし日本車で170キロを出すのは、明らかに自殺願望というか、《死》への欲動なのです。しかしスピードを出している事は、怖いけれども面白い。それと若い時から坊主にあこがれが強くありました。出家願望と言うのも、隠遁ですから、社会ー外の《死》の世界への衝動と言えます。それはまたアーティストになる事にも言えて、アーティストになるのは僧侶になる事と同位であって、隠遁と退化と《死》ぬ事への欲動なのです。その意味で本質的に芸術というのは《死》への欲望であり、《自己愛》性人格障害者の世界なのです。

 

そこでその逆を考えてみたいのです。「自己憎悪」です。「自己愛」が死への衝動を内包し、自己破滅に導くとすると、その反対の「自己憎悪」は、実は《生への欲望》であるのです、自己破滅の反対である自己達成へと展開するのはないでしょうか。そして美術的に言えば、それがデザイン的エンターテイメントを生み出します。

 

「自己憎悪」があれば、明日が試験であれば嫌でもテレビは止めて、勉強をするのです。つまり自分が嫌な事をするのです。嫌なことをすることで、現実的な利益を選ぶのです。

 

「自己憎悪」があれば、苦しくてもタバコを止めて、禁煙に成功するのです。そして肺癌になる確率を減らすという実利を取るのです。極めて理性的決断です。理性的行動と言うのはつまり《自己憎悪》において成立するのです。逆に《自己愛》というのは、実利を失う、極めて非合理なものなのです。

 

「自己憎悪」があれば、嫌で億劫でも、恩師の葬式に出席して、社会的信用を維持するのです。そういう意味で社会の中で必要な事をきちんとこなして生きている実利的な人は、《自己憎悪》を原動力として生きていると言えます。

 

「自己憎悪」こそが《生命への衝動》であり、実は、人間にポジティブな成功をもたらす、基本なのであります。自己を憎悪し、不快の中に自分を落とし込み、ストレスを増やし、ストレスの立ち向かう。嫌な事をやって行く事こそが、良く生きる事です。つまりデザイン的エンターテイメントというのは、そうした《自己憎悪》を原動力として生み出されます。そして自分自身を憎悪し、自分を殺すことが、自分を生かす事なのです。自分のやりたい事をやらないで、自分のやりたくない事をやっていく。そうする事が生きる事なのです。そうした蓄積されたストレスという神経の運動量に耐え続ける事。さらに不快なストレスを高め、それを放出しないで、耐え続ける事。それが自己を達成へと向かわせるのです。実例を上げれば、オリンピックで金メダルをとった選手たちは、不快で過酷なストレスの高い練習にチャレンジして、その苦しみに耐えて、栄冠を獲得したのです。つまりこうして苦しいみを選ぶ事こそが、《生命への衝動》であり、その根幹には自己憎悪の気持ちが必要なのです。デザイン的エンターテイメント作品にもそれは言えて、《自己憎悪》を動機として制作されるデザイン的エンターテイメントとこそが、社会的な成功を生む美術であると言えます。そういう意味で、社会の多くの人々が芸術を嫌い、デザイン的エンターテイメントを好むのは《死》を忌避して、《生》を希求する健康な判断であるのです。ですから、この現実の社会で成功する為には、自分を憎む事をお薦めします(笑)。

 

2 ナルシズム◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 自己愛、つまりナルシズムの強い人は、現代アートの作家に多いのです。私自身も、昔は、ナルシストであると言う批判を友人から何回かもらっています。しかし、なぜに言われるのか、本人には自覚がありませんでした。自覚が無いという事は、逆に言えば、ナルシズムが強かった可能性があります。

 もっともナルシシズムは幼児の6ヶ月から6歳でしばしばみられ、子供の成長の中で、お母さんから分離して、自立化していく成長期化期において、避けられない痛みや恐怖から自己を守るための働きであって、これを一次性のナルシズムと言って、正常なものです。ジャック・ラカン的にいえば、生後6ヶ月から18ヶ月のあいだに幼児は鏡に映る自己の姿を見ることにより、自分の身体を認識し、自己を同定していくのです。それはギリシア神話のナルキッソスの物語に重なるところがあるのです。

 復讐の神ネメシスは、他人を愛せないナルキッソスを、ただ自分だけを愛するようにします。ある日ナルキッソスが水面を見ると、中に美しい少年がいた。もちろんそれはナルキッソス本人だったのです。ナルキッソスはひと目で恋に落ちます。そしてそのまま水の中の美少年から離れることができなくなり、やせ細って死んだのです。ナルキッソスが死んだあとそこには水仙の花が咲きました。この伝承から、水仙のことを欧米ではナルシスと呼ぶのです。

 自己愛性人格障害者というのは、このナルキッソスなのです。それは幼児の時に、鏡に写る自分を見て、見入られてしまった私たち人間の宿命といえます。この鏡と言うのは、単に鏡に止まらなくて、人間の精神の《想像界》の領域の中では、他者が鏡となって出現してくるのです。つまり人は他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出します。つまり、この自己像が「自我」となるのです。ですからラカンがフロイトを個人崇拝する道を選ぶのは、精神分析医としては正しいのです。建築家も子弟関係が強くありますが、これも正しいのです。石上純也さんは妹島和世さんの所から出て来ましたが、こういう師弟関係や徒弟制度の中で、先生や師匠の中に自己像を見出すことで、「自我」を確立して行くのです。現代アートの場合、こうした師弟関係や徒弟制度を失うことによって、「自我」の確立をあいまいにして《自己愛》性人格障害者の道を歩み、《死》への欲望を増大させます。私の属していた1970年代の現代美術などは、まったく自滅へ至ったと言えます。この自滅からいかにして、脱出するのか? それが《自己憎悪》のすすめを書かせている動機なのです。

 

ですから、人間というもの自身は、実は鏡面や他者を介してしか自分を見えませんから、自分自身は把握できない空虚そのものであるのです。いっぽう、幼児において鏡面を介して成立させた自分自身という自我とは、その空虚に覆い被さって、強引にその空虚な不確かさと、自分自身の無根拠性を覆い隠す、《想像界》の精神がつくりだす想像的なものであるのです。この自らの無根拠性や無能力性に目をつぶって、魔法使いを信じてファンタジーの世界を生きている想像的段階に安住することは、幼児にとって快いことではあるのです。ところが、この《想像界》の鏡面の世界が脅かされ、壊される様になる。

 つまりナルシズムというのは、思春期において、大人になる準備期になって、ファンタジーの世界が壊される、この成長過程の痛みや恐怖から自分を守るための働きなのです。そのことは重要です。しかしナルシズムが行き過ぎると、今度は自分を守ることが反転してしまって、自分自身を破壊して行く様になります。防御機構が、自己破壊機構に転倒するのです。やせ細って死んだナルキッソスの物語が、その人に取り憑いてしまいます。自分自身を合理的に実利的に守る為にも、《自己愛》は、死んだナルキッソスの物語のような自己破壊になるというメカニズムを知っておく必要があるのです。

 ですから大人になったら、逆に、自分を守る事を止めて、《自己憎悪》をもって自分自身を解体し、自分を殺して行く事だけが重要なのです。自分を殺すという作業がないと、社会的に成功しないのです。お金も地位も入ってこない。美術家として社会的に成功する為には、《自己憎悪》によって、自分自身を殺して行く事が重要なことになります。

 

 思春期にみられる二次性ナルシシズムになると、ナルシズムは自己破壊性を持って、病的になる可能性が出て来ます。思春期から成年にみられる自我の確立と深く連動したもので、自己への陶酔と執着がつよくて、他者の排除に至る思考パターンをつくります。

 自分を守る為に他者を排除するのです。今回のJR荒川沖駅周辺の無差別殺人にしろ、次の秋葉原の無差別殺人にしろ、根本にあるのは、殺人をすることによって、他者を排除して、自分を守ろうとしているのです。  

 金川容疑者と私は、まったく無関係とも思えない所があります。私自身を考えても、精神の内側に深い荒廃はあるし、殺意や、破壊衝動は、幼年期よりありました。小学校から帰る道すがら、イメージの中で、刀で気に入らない人物を袈裟切りで斬り殺すことは、繰り返していました。

実際には、しかし、人を殺してはいません。この実際には殺しを抑止している事は、金川真大との差異として極めて重要な事であります。

 私は56歳から空手をやっったのですが、立ち会いというか、殴り合いが好きです。命をかけて人と争う時の精神の緊張と、死の匂いが好きなのです。しかし、この空手を使っては、喧嘩をしてはいません。空手を実際に使うのは禁止されているのです。しかし電車に乗っていても、他人と一触即発のあぶなさには、何度もなりました。結局空手を止めたのは、こうした攻撃性の増大は、まずいと思ったからであります。攻撃は、実は他者に向かってはいけないのであって、自己にこそ向けられなければならないのです。《自己憎悪》によって、自分の中にある攻撃性は自分自身にだけ向けられ、自分を不愉快な精神的ストレスの高い状態に追いつめ、自分自身を殺す事に向かわなければならないのです。「敵は、自分自身にある」と言う東洋の古い教えは、正しいものなのでます。自分自身こそが憎むべき敵であり、自分自身を殺して行く過程こそが、真に生きるという事なのであります。

 

思春期における他人への攻撃性は、成長期において避けられない痛みや恐怖から自己を守るための働きであって、自分を守る為に、他者を攻撃し、排除しようとしていたのです。しかし攻撃が本当の攻撃になっては社会性を得る事は出来ないのです。実際には攻撃は抑止されなければなりません。抑止するだけでなくて、自己を憎悪し、自分を殺し、自分を解体して行く事が、重要なのです。《自己愛》から、《自己憎悪》への展開こそが、アーティストに求められているのです。自分は愛してはいけないのです。自分を憎悪しなければなりません。

 このブログも、そうした攻撃性だけと見る人もいるとは思いますが、必ずしも他者への攻撃を、《批評》という名においてしているのではなくて、芸術分析と芸術批評そのものへの探求への努力があるのです。そしてブログの展開の中で、私自身の価値観を破壊して、他者の評価や社会的評価を受け入れ、それを芸術分析として捉えて、芸術批評作品として完成させて行こうと努力しています。つまり自己憎悪をもって古い自己や、古い自分の芸術観や価値観をを解体して、あたらしい芸術批評作品としての成立を目指す事で、ブログを読んでくださっている読者と連携しようとしているのです。そうした新しい芸術分析と芸術批評の確立を目指す学問的努力が真摯になければ、このブログの意味は無いのであります。

 金川容疑者は「おれは神」という内容のメールを、事件の数日前に自分の携帯電話から自宅に残した別の携帯電話に送っているのです。私自身は、中学性の時に内村鑑三の無教会主義のキリスト教をくぐっていますので、自分を神とは思いませんが・・・、こういう「おれは神」と信じるような「自己愛性人格障害」的な面は、アーティスト全般にあるのかもしれません。草間弥生さんとかには、強く感じます。

 自分を神と思い、自分を世界の中心に置いて、自分を中心にしてしか物事を考えない人間は、沢山います。美術の世界では、それが芸術家の道であると信じられています。裏付けとなるものがなにもないのに、一目置かれる存在であることに非常にこだわります。非常にプライドが高いのです。しかしプライドが低いというのも、病的なので、そのバランスが重要であるとは言えます。

 アメリカ精神医学会の診断基準「DSM−4」(「精神障害の分類と診断の手引き」の第4版、1994年)によると、自己愛性人格障害は「自分が重要で素晴らしい」という大げさな感覚を持つことだというのですが、それは『下流社会』という本が指摘していた様に、下流の人間に色濃く有る《万能感》の問題でもあります。《万能感》というのは、自分が神であると言う感覚です。自分が世界の中心にいて、自分の感覚だけで、すべてを判断します。そうしなければ純粋な芸術は出来ないと信じています。芸術とは、一つの宗教であって、その宗教は、自分自身を絶対者として信仰し、崇める事なのです。ですから、たとえば「セザンヌは良くない作家であり、ドナルド・ジャッドはくだらないし、プッサンは面白くない。下品なものは、良いよね。おもしろいから。」という女性作家が現実にいましたが、すべてが自分の感覚で判断して、自分に分からないものが存在するということすら認めないのです。すべて、自分の感覚だけで捉え、自分の頭だけで考え、自分がすべてを決済するのが、芸術家の純粋性をたもつ正しい道であると言うのです。それはそれで、自己中毒ではありますが、罪を犯さない限りは、個人の自由であって、良いのです。多かれ少なかれ、人間は自分のことしか考えていない自己愛性人格障害なのですから。

 しかし、芸術を学ぶ事は逆であって、歴史的に名作とされてきた評価の高い作品を受け入れ、それを見る事で、未熟な趣味の自分を自己憎悪力で殺して、自分の感性を他者の感性につなげる事が、重要なのです。自分自身を殺して芸術を学んでも、その芸術そのものは、実は《死》の衝動性に満ちたものです。芸術を真に理解した上で、今度は芸術自身を殺して行く必要がある。芸術至上主義は、古いモダニズムの価値であって、今日の表現は、実は芸術を理解した上で芸術を殺してデザイン的エンターテイメントを作り出して行く所に、美術の社会性を築き上げているのです。その意味で今日のアートの世界は、芸術の名におけるデザイン的エンターテイメントの時代であると言えます。


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