若い人の望んでいない事 [アート論]
映像と絵画/さまざまな人と様々な考え [アート論]
長岡まき子さんに、トマトと茄子の加工を手伝ってもらいながら、
彼女の好きな音楽を聴かせてもらいました。
それはゲームのドラゴンクエストの音楽で、
私の聞いてこなかったタイプのものでしたが、
かなりの長時間聞きました。
他人の好きな音楽を一緒に聴くという作業は、
私には、その人を理解する技術として、たいへん重要なテクニック
なのです。
昔ですが、ミュージックマガジンで音楽批評を書いている時に、
思い知らされたのは、同じ音楽を聴いていても、
しかし別の音を聞いているという、差異の問題でした。
分かりやすく言えば、ギター奏者が音楽を聴いていると、
その音楽のギター演奏を主にして聞いていると言った調子で、
同じ音楽でも、何を聞いているかは、人によって違うのです。
それはオーディオ装置の差としても、
大きく出て来ます。
昔ですとレコードなので、カートリジの差は、大きな問題だったのです。
同じレコードでも、カートリジが違うと、音楽は違って現れるのです。
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現在の情報化社会になると、こうした細分化は、異様にまで進んで、
ほとんど同じ体験や、意見を持ち得なくなります。
私のように異様な分裂性を追求して、
広く浅く多様なものを追いかけていても、
他人との接点や共通性を得る事が、むずかしいのです。
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こうなってくると、他者との意見の違いや認識の差というものを、
差があるままに、お互いの立場や意見の差として容認することが
重要になります。
先日のギャラリーARTEのギャラリートークで、
大木裕之さんと、私がぶつかったのは、「平面」という言葉でした。
大木裕之さんは、映像も絵画も「平面」であるという立場で語りました。
それは映像と絵画を、両方とも制作する大木裕之さんとしては
立場として必要な主張なのです。
そして映像も絵画も、平面として共通するという認識は、
世間の常識としても、通用する認識であると思います。
ですから大木裕之さんの立場の認識としては、
平面で映像と絵画を論じて、成立させる事は正しいのです。
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ただ、私の場合は、ある意味でモダニストでありまして、
デカルト/ソクラテス的な懐疑主義の立場を取ります。
世間で流通している認識や常識は、まず、疑ってかかるのです。
たとえば、映像は平面でしょうか?
1960年代後半のサイケデリックの時代には、
人体に映像をプロジェクションしているものはたくさんありました。
3次元の立体や、建築物に映像をプロジェクションしている作家は
たくさんいるのです。
つまり映像を平面芸術とする事には、無理があります。
絵画も同様です。
アルタミラの洞窟の絵画は、岩の上に描かれています。
アフリカのロックペインティングと言われるものも、
平面とは言えないものです。
ナスカの地上絵の中にも、山岳に描かれたものがあって、
平面とは言いにくいです。
ギリシアの絵画には壷絵が重要なものとしてあります。
イタリアのアッシジのサン・フランチェスコ大聖堂には、
聖堂にはチマブーエ、ジョット、シモーネ・マルティーニなどの画家の手になるフレスコが多数描かれていますが、これを平面と言うのには、若干無理があります。
ジョットという大画家を追っかければ、否応も無く、
こうした建築絵画ともいうべき、立体的な画面に絵画を見なければならないのです。
同様のことはミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井壁画も、
平面絵画と言うのには、無理があります。
絵画の歴史を、全人類の中で探していくと、
実は平面を自明にする事が出来ない実例が多くあるのです。
私から考えると、絵画とか映像と言うのは、
実は平面ではないのです。
つまり次元としては2次元ではないと考えます。
それは3次元と言うだけでも不十分なものであって、
1次元、2次元、3次元、4次元、5次元・・・と多次元的に存在している
あるものなのだと、考えるのです。
つまりそれは生物の美術史や、宇宙の美術史を構想し得る広がりの中で、
捉えられるものなのです。
2への移行/1のまとめ(加筆1) [アート論]
美術品の善し悪しについて(立教大学大学院講義・言語多文化学習・第1回目の1/校正1) [アート論]
美術作品の良し悪しの判断っていうのは、大変に難しいのです。多くの人は、専門家も含めて、実は良く分からないというか、判断ができない状態にいます。
にもかかわらず、現実の中での流行や、多くの人々の表面的な直接の反応の中で、評価が生まれて、さらにそこに時間が流れて、時間の中での淘汰によって、ある意味で自然に評価が定まっていくというものなのです。
それは、本当に自然に似ていて、雨が降って、その雨水が、低い方に流れて行って、雨粒が自然に集まって行って、小さな川になり、その小さな川が次第に集まって、大きな川になるように、美術作品の評価が定まって行きます。
ですから、評価そのものの決定には、時間がかかります。多くの人々の判断が、その時間の流れの中で影響し合いながら、進んで、決まって行くのであって、そうした自然性は無視できない力を持っています。
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