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スタートレック [映画]

新スター・トレックの映像に全米の劇場の観客は拍手喝さい!

12月4日23時0分配信 シネマトゥデイ


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 新『スター・トレック』の予告編に全米が沸いている。
アメリカの週末の映画館で劇場内が暗転して最初の予告編が始まる。
真っ赤なスポーツカーが砂ぼこりを巻き上げつつ砂漠の一本道を疾走する。
「一体何の予告編だろう?」という雰囲気の観客たち。
 サイレンを鳴らしながらスポーツカーを追いかける白バイ。
猛スピードでスポーツカーを操るドライバーは急ブレーキを踏みながら
安全ベルトを素早く解除する。
勢いで放り出されたドライバーは、
何と12歳になるかならないかの少年だ! 
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 目の前に広がるのは息をのむような渓谷。
着地した勢いで転がり崖のふちから転げ落ちかける少年。
白バイだと思っていたのは、
地上からわずかに浮いているホバー・スピーダーだ。

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そこから降りて来るロボットのような警官。
立ち上がった少年に名前は何だ?」と問いかける。
大人っぽい口調で少年が答える。
「僕の名前は、ジェイムス・サイベリアス・カークだ!」
この瞬間、劇場内に観客たちの「Ohhhhh!」という声が!
 映画『007/慰めの報酬』の前に公開される、
新『スター・トレック』の予告編だったのである。

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 パラマウントのロゴが映し出され、
J・J・エイブラムスの製作会社バッド・ロボットのロゴに続いて、
完成したエンタープライズの息を呑むような全ぼうを明らかにする。
若く血気盛んなカークとスポックがあわや殴り合いか!? 
という興味深いシーンを紹介した後、
予告編が2009年5月8日公開の一行とともに終わりを告げると、
劇場内に満場の拍手が沸き起こった。

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 こういった光景が全米各地の映画館で繰り広げられ、
全米の新『スター・トレック』への期待は
並々ならぬレベルに達しつつある。

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『スター・トレック』シリーズの親元である
パラマウント・ピクチャーズも、
この作品にかける意気込みはすごい。
全米公開の来年5月まで、まだ6か月もあるというのに、
早々と著名ジャーナリストやマスコミ関係者を招き、
監督のエイブラムス自らが、
まれにみる25分間の作品紹介を行ったのである。
そして、この作品プレゼンが行われたのはハリウッドだけではない
イタリア、ドイツ、スペイン、フランス、イギリス、
そしてニューヨークと、
世界プレゼン・ツアーが敢行されたのである。

ピクチャ 22.png
今までに10作品作られた『スター・トレック』シリーズの劇場版映画は、
ヒットはするものの意外と海外でのウケが弱い。

いつもは秘密主義で知られるエイブラムス監督は、
今回の世界プロモ・ツアーについての質問を
ハリウッド・リポーター誌から受けたときに、
こんなに早くプロモ活動をすることになるとは
思っていなかったと語っている。

だが、今までの『スター・トレック』シリーズの歴史を振り返り、
今回のプロモ・ツアーが、
「世界の映画ファンが、今までの『スター・トレック』シリーズに持って
いる先入観を克服するのに役立つはず」と語っており、
新『スター・トレック』が往年のファンはもとより、
まったく新たな世代のファンを獲得できるはず
という熱い思いをみなぎらせている。

ピクチャ 23.png
ピクチャ 4.jpg
ピクチャ 18.png
ピクチャ 3.png
若き日のスポックの顔である。
《想像界》の眼で《41流》
《象徴界》の眼で《41流から超1流》
《現実界》の眼で《超1流》

気体人間、《象徴界》の人、
《シリアス人間》《ハイ人間》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

スタートレックは,子供の頃、
テレビシリーズで、見ていた。

宇宙旅行が、心理世界であるサイコトリップと重ねられた
秀作テレビシリーズであった。

映画シリーズとして、息の長いものになっているが、
その新作である。

スポックは、特に印象深い存在だったが、
《41流》であったらしい(笑)

star_trek.jpg
スポックの顔。
《想像界》の眼で《41流》
《象徴界》の眼で《41流》
《現実界》の眼で《41流》

液体人間、《現実界》の人
《気晴らし人間》《ローアート》

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回の新作の方が、
スポックの格は上がっているのである。







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映画『靖国 YASUKUNI 』(加筆3) [映画]

靖国.jpg

靖国神社は、過去の国家神道が、生み出したものである。
その意味で、大日本帝国という過去を体現する骨董である。

しかも、多くの人々が結合している、結晶集団を形成している。

人類の文化の中で、
結晶集団化したものは、解体は出来ないのである。

未来にわたって、靖国神社は永遠に継続して行くものである。

これをどうするのか?

それについて、自説を述べる。

まあ、できるだけ分かりやすく書きましたが、
途中から、固くなってしまっています。

《象徴界》的言辞なので、
《想像界》の人は読めないかもしれない。

前半は、映画評なので、読めるかもしれない。

嫌になったら、読むのを止めてください。

靖国2.jpg

映画『靖国 YASUKUNI 』を見る。

すごく混んでいて、
完売状態である。
早めに切符を、白濱さんが買ってくれていた。
全部で、4人で見に行った。

上映中止騒ぎが、人を集めているのだろう。

私も、白濱雅也さんがメーリングリストで行くと書かなければ、
見に来なかったと思う。
五十嵐太郎さんは見ていて、話は聞いていた。

しかし実は、私は靖国問題には、腰が引けていたのである。
靖国神社にも、まだ行っていない。

この映画についても、私自身は正直言って、
私の作品である『皇居美術館空想』との関連もあって、
あまり書きたくなかったのだが、
しかし、たとえば、気派のメーリングリストで、
白濱雅也さんが次の様に書くと、
異論を述べる必要性を感じる。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
映画「靖国」見てきました。
終戦記念日の靖国神社の狂騒は知りませんでしたので、
それ自体は興味深かったのですが、映画としてはもの足りない
もので期待はずれでした。

神体の刀、狂騒劇、インタビュー、戦争の記憶を絡めようとし
ていくのですが、掘り下げが浅く、表層的、報道的に単調に連
続するばかり。
その端々に短絡的で安直な反日性や恣意性が垣間見えてがっか
りします。

難しい内容だとは思いますが、力量があれば歴史の深層に迫る
もっと優れたものにできたはず。残念。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

上記の感想は、私の感想とは違う。

中国人の映画監督のつくった靖国映画として、
その眼差しの批評性と根拠において、
十分に《1流》のものであり、
芸術映画として優れていると思った。

《イメージ判定法》で、《8流》のイメージ。
《言語判定法》で、《1流》。
《現実判定法》で、《1流》の現実。

非合法性、非実体性があって、芸術的芸術映画。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界のある映画。
固体/液体/気体の3様態の映画。

つまり、すぐれた成熟性のある芸術的ドキュメンタリー映画である。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

特に最後の東京の夜景で終わる画像は、
不吉で美しかった。

こういう画像を、イメージとしてではなくて、
《意味》として見えないと、
理解が出来ないのかもしれない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

何よりも、戦時中に中国人の首を切り落としていった、
その同胞の首を切っていった日本刀の製作を追う執拗さが、
根拠に満ちていて美しい。

こういう私の言う根拠というのは、
イメージではなくて、
映画の画像にある、《意味》である。

この《意味》というのは、
会田誠さんの言う、ネタというのとは違う。

ネタというのは、シニフィエ(記号内容)である。
それに対して《意味》というのは、シニフィアン(記号表現)の方が、
構成してくるものである。


私は映画をイメージの戯れとしてだけ見ているのではなくて、
《意味》として見ているのである。

映画を意味構成としてみると、
日本刀で、切り落とされいった同胞としての中国人の無念さを、
極めて抑制的に表出していて、
芸術的に感動的するのである。

この無念さにの1点に向けて、
画像の意味が凝縮して行く最後のニュースフィルムのコラージュは、
芸術として良くできていると、私は評価するのである。

決して、意味として、浅い映画ではない。

退屈に見える長回しの、
すべてがうまく言っている訳ではないが、
刀工の部分は、少なくとも巧くいっている。

まず、靖国神社の御神体が、日本刀で、
日本刀の制作が行われて来ていた。
この事実を私も、多くの日本人も知らなかった。
この驚きを、五十嵐さんは、話していた。

この日本刀を制作する、最後の刀鍛冶の、
制作のドキュメントと、
インタビューが、大きな要素になっている。

このインタビューで、
90歳の刀鍛冶が、沈黙し、困るのだが、
その長い無意味なカメラの撮影は、この映画の意味を担っている。
この無意味な画像によって、
この映画監督の、この映画を作る正当性が成立する。
刀鍛冶の無言の困惑を凝視する視線が、
監督の日本と向き合っている、正当性を立証しているのである。

最後の部分で、監督の言葉を聞き間違えて、
天皇のテープを刀鍛冶がかけるシーンも、
仕掛けや、作りではなくて、良い良心的なシーンである。

小泉首相の画像も良い。

現代の殺人刀/侵略刀としての日本刀を描き出して行った芸術映画として、
出色のものである。

室町時代に日本の輸出品は、日本刀のキノコのしいたけであったというが、
日本刀に対する評価は、中国では昔から高かったという認識背景は、
この映画に良く出ているのであって、
その日本刀と、日本の近代化と侵略と、
そして国家神道の問題を、
中国人である映画監督の私性の視線からうまく関連づけていて、
《1流》の芸術映画であった。

国家神道について、真剣に考える必要性を突きつけている。
国家神道の歴史的沈殿物としての靖国神社の位置が、
よく見える芸術映画である。
国家神道が解体してもなお残る国家神道の骨董、
そして結晶集団化したこの神社をどうすれば良いのか?
この問題を日本人に突きつけている。

この結晶集団化した骨董品である靖国の解決のつかなさを、
まるごと、丸めた芸術映画として、
この《1流》の映画は、出色である。

ただ私の解釈と判断は、《象徴界》の眼からのものであって、
白濱雅也さんの《想像界》の眼では、面白くない映画になっている。

この差は、世界そのものの解釈の差である。

私は日本の右翼や政治家が、この映画の上映に反対した事は、
根拠のあるものであると、思った。
正当である。
困った映画である。

だからといって、上映禁止にしていいはずが無い。
しかし右翼の立場からは、
これは反対である映画である。
つぶす必要のある映画である。

つまり、その限りでも、意味のある映画である。

日本の国家神道の侵略性の象徴を日本刀が担い、
日本刀が、中国人の首を切って行ったのである。
この告発と、抗議の映画である。

そしてその日本刀を御神体とする靖国神社を、
解体する事が出来ない、日本の自己憐憫的精神を描いている。

特に2人の中年女性の会話のシーンの、
画像設定は、大変にすぐれていて、
この映画監督が優れた芸術家であることを示している。

アップ気味のカメラワークと、
録音の、ピンスポット的な集音マイクの使用が映画全体を構成しているが、
これが、この監督の日本との距離を体現している。
日本に近すぎる中国人の神経の皮膚性が、
見る者を、ある種、いらだたせる。

問題なのは、この映画が《1流》のドキュメンタリー映画であると言う、
その芸術性を認識できない、
白濱さんのような、
すぐれた日本人の貧しさ、そのものである。

それは何であるのか?

この映画は、確かに途中で《8流》化はするが、
しかし、始めと終わりは《1流》でまとめて、優れている。
(もう少し、フィルムを切って欲しかった)

しかし日本人には決して作り得ぬ、優れた芸術映画である。

その《1流》の芸術性が見えないのは、
日本人の方に問題がある。

日本刀で首を切られていく中国人の末裔の眼は、
正当なものである。
この正当性を理解するには、
倫理を真剣に受け止める精神が必要である。

倫理などと言う言葉を使うと、
それだけで、引いてしまう人が多いであろう。

しかし、
哲学関係の人や、精神分析関係の人は、
倫理という言葉が好きで、よく使う。

まあ、嫌だと思う気持ちも、
良く分かるけれども、
人間関係の基本が、倫理なのです。
そういう意味なのです。

どうやって、まずくなった時に、
他人と巧くやって行くのか?

倫理を欠いては、
隣の人との関係は、見えないのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

倫理を欠いては、
社会性は形成できない。

国際社会の社会性を形成する為には、
国際的な倫理が必要である。

この場合の倫理と言うのは、
言語である。
良い事と、悪い事とを、明確に言う、言語である。

この映画を、
それを表層的と受け取る日本人の感性が、
表層的なのである。

過去の悪を、悪をと言う人々と、
向き合って、逃げない精神である。

彼らを正当と認める精神である。
その上で、どうするのか、考える精神である。

私は、一つの絶望を、
こうした斬り殺された人々の無念さへの想像力を欠いた
日本人の《想像界》だけの感性の鈍さに見る。

世界は、《想像界》だけでは、
決して見えない。

《想像界》を否定しない限り、
世界は見えない。

つまり靖国問題ではないのである。
《想像界》そのものを否定する精神である。

《想像界》の眼差しのひどさを、
決して否定しようとしない、
白濱さんを含む、
そうした日本人の、ひどさを見た思いがする。

ひどい人々だ。

殺された人の無念さに対する感受性を欠いている。
その末裔への人々の感性への感受性を欠いている。

倫理と言う事の、
真の意味を見ないのだ。

《想像界》だけの眼では
他者を認識できないのだ。

だから、日本は滅びるのだ。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
(加筆)

倫理を欠くと、
活力を失う。

倫理と言っても、
日本人は意味を理解できなくなっているが、
倫理とは矜持である。

矜持(きょうじ)とは、
自分の能力を優れたものとして誇る気持ち。
自負。プライドである。

倫理を欠いた矜持は、
野獣に過ぎない。

矜持は倫理と表裏一体である。

野獣の精神だけでは、
真の、
歴史を刷新して行く、
活力を失う。

自らの歴史を刷新し続ける為には、
倫理が必要である。

理解できないだろうから、
もう一言書く。

人間の精神は、
その内側から、自己否定の構造を生み出さない限り、
《象徴界》を形成できない。

人間の持つ殺意が、
その殺意の内側から、
殺人を悪とする抑制を生む《象徴界》の精神を形成する。

このブログで、三橋歌織の自己憐憫の精神の病については、
すでに書いた。

三橋歌織のように、
ワインボトルで、夫を殴り殺した場合、
この行動の内側から、この行動を悪として認識し、
自らの行動を否定する意識を形成できないと、
他人との関係を形成できなくなる。
これが倫理=象徴界を失う事である。

夫を殺した自己正当化だけでは、
他人との人間関係を再構成が出来なくなる。

殺人を犯した後に、
再度、すべての他人との社会関係を回復する為には、
自己の行動を悪として認め、謝罪することが必要である。
謝罪を介して、再び他人は、三橋歌織と、
社会関係を結ぶのである。

《象徴界》とは、
この他人との関係を、真の意味で結ぶ精神領域である。

つまり、人間は悪をなした場合、
謝罪をすることで、
この悪を乗り越えるのである。

《象徴界》の無い人は、
謝罪するという事の重要性が理解できない。

謝罪をすることを拒絶すると、
人間は社会を、内側からは構成できなくなって、
社会性を失ってしまう。

社会的理性と言う《1流》性の領域は、
ここで他者との関係を、内側から形成している領域である。
それは、単なる自己正当化ではなくて、
自己を否定する構造=倫理を、内側から形成する事でしか生み出し得ない
領域である。

自己否定を介して、初めて倫理を生み出し、
倫理を持つ事で、人間は他者との関係を形成し、
社会を作り出している。

だから、日本の敗戦の後に、
日本の戦争責任を、その内側から悪であると言う、
自己否定の倫理を生み出さない限り、
他者、つまり隣国である中国や韓国、台湾との関係を形成できなくなる。

倫理とは、隣人との関係を形成する為の、
社会的、要諦である。

この社会的な要(かなめ)
である倫理は、
《象徴界》の精神領域でしか、
真に理解し、形成することが出来ない。

敗戦後の日本社会は、
この《象徴界》性を、
失っているのである。

それは現在の三橋歌織に似ている。
自己憐憫の中で、他者を認識する眼を、
失ったのである。

中国や、韓国や、台湾との国際社会の関係を真に構築するための、
基本的な《象徴界》の形成や、
倫理を、
日本社会の内側から形成する事をしてこなかった。

それは同時に神道の再建の問題である。

敗戦後の日本の中に、
いかにして神道を、
真の意味で再建しえるのか?

この問題を考えないから、
日本の現在の、
精神的荒廃がある。

精神の内側から、
敗戦の自己憐憫を乗り越えるには、
いかにしたら良いか?

そのことを突き詰めて、
考える事を欠いている。

日本の神社の御神体は、
伝統的には、日本刀ではない。

日本刀を御神体とする靖国神社は、
国家神道の侵略性を体現している。

神道の歴史を、
明確に書いて、
伝統的神道と、国家神道の差を、明確にし、
そして、神道を、まず、伝統的な神道に押し戻し、
再建すべきなのである。

そして国家神道の骨董であり、
結晶集団化した靖国神社は、
解体し得ない事を、まず、社会学的に認識すべきである。

骨董化した靖国神社を解体する契機を、
日本は、既に失っている。

だから、靖国神社を解体するのではなくて、
このまま、日本の国家神道の歴史的形成物として認めながら、
それを、
より大きな反省の中で、
異化して、未来を切り開かなければならない。

日本の国家神道の外に出て、
新しい、情報化社会の神道の歴史を形成しない限り、
日本は、現在の精神的な衰弱と荒廃を脱し得ない。

だから、明治維新で、西洋軍服を着て、
京都から東京に出て来て、
日本の産業革命をリードして来た現在の天皇の継続性の歴史を、
すでに終わったものとして、
区切る必要がある。

天皇陛下に京都にお帰りいただいて、
日本の産業革命という、富国強兵の時代が、終わった事を、
はっきりとさせる必要があるのである。

情報革命による、情報化社会を真に、日本に定着させる為には、
天皇に、一度京都にお帰りいただく必要がある。
歴史の敷居を超えるのである。

そして憲法を、
新しい憲法に書き換える。

そこで重要な事は、
天皇の象徴の意味を、明確にする事である。

天皇を伝統的な古い日本文化の象徴として、
明確に規定する。

この規定によって、
本来の伝統的な神道の意味を再構成する。

古い神道に回帰するのである。

そうした事を考え、議論する為にも、
《象徴界》の精神領域を生み出さないと、
出来ない。

まず、そのことを考えて欲しい。









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善き人のためのソナタ [映画]

2007年9月16日(日)

【予定】明日17日から19日まで四国に行ってきます。加藤力さん、太田丈夫さん、彦坂敏昭さんとの4人の直島・丸亀アートツアーです。

【映画】善き人のためのソナタ
 33歳の監督が作った、エンターテイメントとして善くできている良い映画。アカデミー賞外国語映画賞受賞のドイツ作品。《超1流》の《超1流》の《超1流》。
 
 東ドイツを舞台に、強固な共産主義体制の中枢を担っていた監視システム・シュタージ(国家保安省)を描いている。冒頭の、嘘を見破る尋問のテクニックが、面白い。彼らに翻ろうされた芸術家たちの苦悩を浮き彫りにした話題作。アーティストとしてのお勉強でも必見。

 役者としては、なんと言っても、その監視をしている国家保安省の役人を演じたウルリッヒ・ミューエが《超1流》。この映画撮影後、病死している。彼の抑制された演技の輝きを見るだけでも、値打ちがある。


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ジェイミー・フォックス/プロデュース・主演 TV映画『クリップス』 [映画]

2007年8月11日(土)

 ジェイミー・フォックス主演・TV映画『クリップス』を見る。
 ジェイミー・フォックスはすごい知的な人物の演技で、輝いている。

 ジェイミー・フォックスが、プロデュースして、ケーブル・テレビのために、2004年につくった、実在した死刑囚のための映画。

 ジェイミー・フォックスはコメディアン。レイ・チャールズの伝記映画『Ray/レイ』でレイを演じきり、アカデミー主演男優賞を受賞した。この映画も私は見ている。
 もう一本、トム・クルーズが悪役を演じたことで話題になった『コラテラル』(2004年製作のアメリカ映画) で、相手役の黒人タクシードライバーを演じた。この映画も私は見ている。
 
 この『クリップス』は、上記2本の映画の、前に作られたもの。
 
 クリップスというのは、ロスアンジェルスの実在する黒人ギャング団の名前。その創設者のひとりスタン・トゥッキー・ウィリアムズが死刑囚になり、その彼が子供たちの本を書いて、ノベル平和賞、そして文学賞候補に、なんと7回なった。しかし2005年12月13日に死刑が執行された。この映画は、処刑前につくられたもの。

 誰が見るのだろうか?というほど地味な映画だが、すごい《超1流》映画。ジェイミー・フォックスの演技は、ほんとうに良い。相手役の女優リン・ウィットフィールドも、よかった。

 死刑囚スタン・トゥッキー・ウィリアムズの、本当の顔を見つけたので見てください。ジェイミー・フォックスとは、ずいぶんと違う元ギャングの顔。ラカン的に言えば去勢されていない顔である。
 それと彼の書いた児童書の写真も添付します。


 原題は、『償い:スタン・トゥッキー・ウィリアムズ物語(Redemption: The Stan Tookie Williams Story )』

 アメリカのアマゾンのサイトに、写真がたくさんあります。
大きな写真をクリックしてください。次々に20枚くらいの写真が見られます。
http://www.imdb.com/gallery/ss/0388367/Redemption3.jpg.html?path=gallery&path_key=0388367&seq=17



 

 


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