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フリーダム・タワー(写真増加 加筆2) [建築]

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世界貿易センタービル跡地新で進行中のWTC再建計画は、「フリーダム・タワー」など5つの超高層ビルからなる。

2002年の国際コンペで当選したダニエル・リベスキンドが、マスタープラン及フリーダム・タワーの設計を担当したが、しかし不動産開発業者ラリー・シルバースタインは、収益性の低いリベスキンド案を嫌い、現在、フリーダム・タワーの設計者としてはSOMのデイヴィッド・チャイルズのみがクレジットされている。
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ダニエル・リベスキンドのフリーダム・タワーの設計と、SOMのデイヴィッド・チャイルズのプランと
両者を比較してみる。

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デイヴィッド・チャイルズ      
《想像界》の眼で《1流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《1流》〜《7流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《1流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の建築。
液体(近代)建築。

ダニエル・リベスキンド
《想像界》の眼で《超1流》の真性の芸術。
《象徴界》の眼で《超1流》〜《7流》の真性の芸術。
《現実界》の眼で《超1流》の真性の芸術。
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持つ偉大な建築。
固体/液体/気体の3様態を持つ総合的な建築。

《1流》と《超1流》の差、
そしてデザイン的エンターテイメントと、真性の芸術の差。
さらには古い近代建築と、3界を持つ建築の差がある。

リベスキンドが建たないというのは、残念な事であります。
しかし、経済的な理由で不動産開発業者ラリー・シルバースタインが、
古い近代建築の《1流》品を建設する事で、
ニューヨークは、二十一世紀の情報化社会のシンボルとしての建築を
建設するチャンスを失った。
二十一世紀が、アメリカやニューヨークの世紀ではない事を、
象徴する選択になったと言える。



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奈義町現代美術館 [建築]

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磯崎さんの《6流》性のなせる技なのだが、この円筒の長さが、
《1流》にするには、もう少し欲しい。短いのである。
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宮脇愛子の作品である。
《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。

作品が簡単過ぎるし、何よりも芸術ではない。

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岡崎和郎の作品です。
ひさしの作品は、
《想像界》の眼で《超1流》、真性の芸術。
《象徴界》の眼で《超1流》から《7流》の重層的表現、真性の芸術。
《現実界》の眼で《超1流》、真性の芸術。

液体美術。
シニフィアンの美術。

インスタレーションとしても《1流》で、
少し物足りないけれども、良かったです。

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荒川修作の作品。

《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。

液体美術。
シニフィアンの美術。

相変らずですが、荒川修作の作品は、
まったく芸術ではありません。

突き当たりを抜いて、風景が見える様にして、借景にしたかった。
龍安寺の石庭を下敷きにしつつも、独自の石庭をつくりたかったですね。
この円筒の筒を、もう少し長くしたかったですね。
まあ、もったいないものでありました。
もう少し、庭について、真面目に勉強して欲しかった。

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というわけで、
奈義町現代美術館に、伏見修氏の車で行って、見ました。
まあ、遠い。

磯崎新さん設計して、平成6年に開館した美術館です。

有名で、情報では知っていましたが、
今回始めて実見しました。

《想像界》の眼で《1流》、デザインワーク。
《象徴界》の眼で《6流》、デザインワーク。
《現実界》の眼で《1流》、デザインワーク。

一度は見る値打ちはある美術館ですが、
建築として芸術であるというものでは、ありません。

一番気になるのは、磯崎さんの建築の持っている《象徴界》の《6流》性でしょうか。一つ一つの事柄の理解や解釈に、もう一つの文明的な深みが欠けるのです。そこまでを要求する事が無い物ねだりと思いながらも、次の世代は、この磯崎さんの限界を超える事が必要だとは思います。とは言っても、実際のプランというのは、私の皇居美術館にしても、帝国美術館にしても、コンセプチュアルなものですから、とても磯崎さんの現実に建っている美術館に、文句を言える立場にはないのです。まあ、見て良かったです。伏見修さんとも、楽しい歓談が出来ました。


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建築家・南 泰裕さんの顔(加筆1) [建築]

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いま、マキイマサルファインアーツで、私との2回目の2人展を付き合っていただいている、
南 泰裕さんの顔である。

お付き合いいただいている方の顔を格付けするなどということは、
関係をまずくするから、するものではない。

だが、
先日のINAXのシンポジウムで、山田幸司さんからの質問もあって、
その時は答えずに逃げたのだが、帰って来て写真を見て、
格付けをしてみて、改めて、
自分が何故に、南 泰裕さんと
おつきあい、いただいているのかが、わかった。

《言語判定法》で、《超1流》から《7流》の多層的重層的人格。

《8流》から《41流》という裏の暗い人格は持っておられない、
正統な方である。

《現実判定法》で、《1流》。

《イメージ判定法》で、《1流》。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持っておられる人格。

絶対零度/固体/液体/気体の4様態をもっている建築家である。

まあ、秘密がとけた思いがある。
やさしそうな顔をしていて、《超1流》の人なのである。

《超1流》というと、何か良い様に思うが、
彦坂の格付けで言えば、それは社会常識を超えているということしか、
意味しない。
つまり、「とんでもない人」ということである。

もともと私と南 泰裕さんとの共通性は、キルケゴールの愛読者で、
私は中学生の時に「死に至る病」を読み、
彼は高校生の時に「死に至る病」を読んでいると言う関係であった。

「死に至る病」というのは、絶望について書いている哲学書であって、
二人とも、若くして人生に絶望していたのである。

この南 泰裕さんという人も、だから、「とんでもない人」で、
前回の第1回の2人展の最初の打ち合わせは、
実はアートマネージメントの女性を入れて
3人で話し合ったのだが、延々6時間、疲れ果てたのだが、結論が出ない。
その女性は逃げてしまった(笑)。

この時の、南 泰裕さんのとりとめの無い知的彷徨につきあって、
私は、これは「とんでもない人」であると、
思い知るに、至ったのである。

私自身も、実は、地獄の様な「とんでもない人」であって、
そのしつこさに、へきへきとして嫌悪を隠さない美術関係者は多い。
美術家には、
会田誠さんのように、
いい加減に世界を見ることを方法として自覚化している人が多くて、
知的探求のしつこさが無いのである。
レオナルド・ダ・ヴィンチ的精神が欠けている人が多いのである。
岡崎乾二郎は、私のBゼミでの教え子だが、
彼にしたってダヴィンチの伝統はない。
岡崎は《想像界》の人で、
彼が好きなのは、熊谷守一のペインティングである。
《3流》であって、《超1流》ではない。

そんなダヴィンチ系の私が疲れ果てたという、
南 泰裕さんは、
そのいう人物なのである。

その異様さは、実は知的教養の豊かさを生んでいる。
先日のシンポジウムでも、
多様な実例と画像を駆使してくださって、大変に勉強になった。

アートスタディーズと言う、20世紀の建築史と美術史の洗い直しをする
勉強会をするメンバーとして、
南 泰裕さんを連れて来てくださったのは五十嵐太郎さんで、
南 泰裕さんは、20世紀の哲学を洗い直す勉強会をされていたから、
適切だと紹介されたのである。

本も書かれている。


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以上3冊は、単著である。
共著も多い。


私が、最近本をだしたのも、
実は、この南 泰裕さんを真似したからである。

南 泰裕さんのの『トラヴァース』という本の冒頭と、お尻には小説が収録されている。
私の『彦坂尚嘉のエクリチュール/日本現代美術家の思考』という本も、
冒頭に小説が入っているが、それは南 泰裕さんの本を真似したからである。

さて、私との2回の展覧会で見せられた図面やデッサン、そして模型も、
気の狂う様な数で、
南 泰裕さんはなんで、こんなに作るのかが分からないのだが、
とにかく、知力の限りを尽くす人である。

なぜに、これほど知力をつくすのか?

どうもいろいろ話を聞くと、建築家というのは、
こういう、しつこい人が多いらしい。
妹島和世さんも、とんでもない量のスケッチや模型を作ると聞いた。

《超1流》の人格を持っている人と分かって、はじめて納得したのだが、
とにかく、社会的理性をこえた、異様さである。
真面目すぎる人なのである。
しかも、その真面目さのなかに、
やさしさと、親切がある。
建築が善良さに満ちているのである。

そう言うと、真面目人間で、楽しくないようだが、
そんなことはなくて、
遊び友達で、楽しい思い出も、たくさんある。
夜の新宿をカラオケで遊んだり、飲み屋をはしごして飲んだり、
リスボンの古い街を、ファドを聞く為に、二人で探索したりもした。

ファドは、ポルトガルに生まれた民俗歌謡。
ファドとは運命とか宿命とかという意味であり、
このような意味の言葉で自分たちの民族歌謡を表す民族は珍しいと言われる。
イタリアカンツォーネフランスシャンソンアルゼンチンタンゴブラジルサンバがあるように、
ポルトガルにはファドがある。
そして、このファドを求めて、私は南 泰裕さんと夜のリスボンの街を彷徨したが、
しかしファドの店には、至りつけなかった。
ファドの意味するところの《宿命》に到達しなかったのである。


建築ツアーで、良い建築を見て、
一緒に賛嘆したりしたことも、楽しい思い出である。
一緒に丹下健三の香川県県庁舎も見たし、
白井晟一の芹沢銈介美術館 (1981年/静岡県静岡市駿河区)も、
見ている。

南 泰裕さんは、良い建築が好きで、率直に賛嘆する。
そういう《まともさ》がある。
しかし現代のような異様な時代のなかでは、
こうした《まともさ》は、貴重な事である。

南 泰裕さんは、私にいろいろ建築の見方の、
基本を教えてくれる。
リスボン建築トリエンナーレでは、
アルヴァロ・シザの建築をいろいろと、一緒に見ている。
リスボンからポルトまでいったし、
さらに奥にある
シザのマルコ・デ・カナヴェーゼスの教会も見に行っている。

南 泰裕さんのこの粘着性の理由が、
3界と4様態をもった、極めて多層的重層的な人格構造に、
あるのだということが、
今回、格付けをして理解することが出来た。
そして、この重層的人格が、
心くばりの行き届いた住宅をつくりだす。

少なくとも3界というのは、相互ブレーキとアクセルの関係なので、
南 泰裕さんのとりとめの無い知的彷徨というのは、
この3つのブレーキの存在ゆえである。

《象徴界》というのは、《想像界》にたいしてブレーキになる。
《想像界》というのは、《現実界》にたいしてブレーキになり、
《現実界》というのは、《象徴界》にあいしてブレーキになる。

お断りしておくと、
こういう見方は、彦坂独自の《言語判定法》での観察によってつくられた理論なので、
ラカンのセミナールに書かれている事柄ではない。

どれか、2つのブレーキを、外してしまって、暴走させれば、
早くに決着すると思うのだが、その決断を選ばない。
3つのブレーキが作動している人格者は、
下手をすれば三すくみになる。
三すくみを辞さない人なのである。

私には、こういう真似は出来ない。

ブレーキを踏んだまま車を走らせるのは無理なので、
何か行動を起こす時には、
とにかく、2つのブレーキを外してしまう必要がある。
そういう決心をする必要があるのだ。
南 泰裕さんの《まともさ》は、暴走を選択しない。

いや、この南さんの《まともさ》というのは、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもっている、
その複合的多重性の人格的成熟が生み出しているのだが、
成熟しているからこそ、《まとも》なのである。

私自身も、非常に《まとも》な人で、
美学の谷川渥さんからも「彦坂さんはオーソドックスですね」と
言われて来て、事実そうだったので、
こういうブレーキの存在は、良く知っているのである。
私の場合には《象徴界》が、異様に強いのである。

それがこうしたブログの言語を生む。
南さんの著作もまた、同じ様な理由かもしれない。

最近は、私はその頂点に至ってしまって、
その先をどうしようと、考えることになっている。

そうすると、ブレーキを二つはずして、
暴走させることの喜びが、見えて来たのである。
その辺の事情は、建築家の山田幸司さんや、
石上純也さんを見ているうちに、これもありだな、と
納得がいって来たからである。

とりあえず、まず、《象徴界》を外してしまう。
《象徴界》を否定するのは、《現実界》である。
《現実界》に、すべてを還元してしまう。

何故に、そういう作業が必要かと言えば、
現代という気体分子時代は、
人間の人格までをも、ばらばらに解体してて来ているのであって、
統合された人格というのは、素晴らしい存在であるが、
古典的すぎて、時代にそぐわないのである。

その場合、統合の反時代精神も重要だが、
しかし南 泰裕さんのように、精神の3界を持ち、4様態すべてを持っているという、
優れた人格の総合性は、
今の時代には、生きにくくなる。

その《まとも》すぎる建築は、
親切で、良すぎるのである。

人格を解体して、
《象徴界》を外してしまうことも、
ブレーキをはずさなければ、車は走らないのだから、
重要なのである。

ついでに《想像界》も外してしまう。

《現実界》だけになると、
とりあえず、すっきりと、自動車は走るのである。

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この屋上に芝生を敷いた家を、
私は最初にスケッチで見せられた。

素晴らしい家で、私もこういう家に住みたいと思った。

それから、南さんとのおつきあいが深まった。

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所在地      :東京都
用途       :二世帯住宅(親世帯+子世帯)
敷地面積/地域   :30.81(m2) / 第一種住居地域
建築面積/延床面積 :180.22(m2) / 195.46(m2)
主構造      :鉄骨造
階数       :地上2階 + ロフト
設計    :南泰裕(アトリエ・アンプレックス)
設計協力  :日高郁子

敷地の特性を十分に活かしつつ、
「光と風と緑の感じられる、明るくオープンな空間が欲しい」という住まい手のリクエストを最大限に実現した2世帯住宅です。

基本構成は、建築の大半を平屋とした上で、その上部を全面緑化し、
緑化斜面によって上下階をつなげる形としています。

これにより、1階と2階は地上庭・緑化斜面・屋上庭園によってつなげられ、
両世帯のそれぞれに十分な庭を確保しています。
また、半戸外的な空間が地上庭に繋がり、
屋上庭園を経て2階のギャラリーへとつながることで、
途切れることのない内部と外部のつながりを生み出しています。

内部空間については、両世帯ともできるだけオープンで開放的なプランとした上で、
必要に応じて仕切れるようにしました。
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南 泰裕さんの、最大の欠点は、
こうした、《まとも》な、
住むのに良い家を、
親切に設計してしまう事である。


南泰裕/アトリエ・アンプレックス《spin-off》

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この家は、オープンハウスで見に行っている。
3階建てで、三階が、各階で回転しているという家である。
だから、《spin-off》である。

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知的で、刺激的で、そしてシックな家であった。

この家のデッサンや模型は、最初の2人展であった
ギャラリー手で見ていたので、
なおさら、感慨深くて、心に残る家であった。

所在地      :東京都葛飾区
用途       :二世帯住宅(親世帯+子世帯)
敷地面積/地域   :65.90(m2)
建築面積/延床面積 :35.36(m2) / 86.01(m2)
主構造      :鉄骨造
階数       :地上3階 + ロフト
設計    :南泰裕 / アトリエ・アンプレックス
担当    :南泰裕 佐竹俊彦

東京都内に建つ2世帯住宅。周辺環境の特性を注意深く分析し、採光や通風、プライバシーの確保といった、
居住環境条件を総合的に考慮した計画とした。

その結果として、ブランクーシの「空間の鳥」を初期イメージとしながら、
建物が上部へと行くに従って、時計回りに少しずつねじれる形態を導いた。

それにより、太陽の軌道に呼応するように空間を配置させ、
自然光を最大限に採り入れるようにした。
このアイデアによって、外部の気配を感じ取れると同時に、プライバシーを保護し得る適切な形態が導き出されている。

内部空間については、1階部分を親世帯夫婦のスペース、
3階部分を子世帯夫婦のスペースとし、
それらをつなぐ領域として2階部分を共有の広間スペースとしている。

限られた敷地の中で、2世帯住宅として駐車スペース2台分、
水周り2世帯分、
テラス、中庭、ロフト、和室、オープンキッチン、屋外階段および屋外スペースと、
求められた設計条件を最大限に満たしている。
その上で、空間のつながりと分離、開放性と閉鎖性の両立を目指した。

構造的には、鉄骨ラーメン構造により、
これらの複雑な空間の組み立てが可能になっている。
なお、屋上スペースは、将来的に屋上緑化をほどこすことができるよう考慮されている。
外壁は、断熱材を挟み込んだガルバリウム鋼板とし、
さらにその内側に断熱材を補強することで、断熱性の高い住宅としている。

3層の家ということで、私は金閣寺を思った。私は外壁に金箔を貼りたかった。
下記は動画です。

すべてが馬鹿げて無意味になって行く時代に、良い家なんか、何の意味も無いのである。良い家なんか、いらない時代なのである。ひどい建築が喝采を浴びる時代である。そういう時代に、しかし、南さんは、膨大な作業量を経て、知的な、複雑な、良い家をつくってきた建築家であった。

南 泰裕さんのブレーキの下に眠る才能は、すごいものがある。どこかで、壊れれば、ブレーキは外れる。そうすると、悪魔の様に、ひどい家を設計する様になるのではないか? 絶望的にひどい、無知無能のかたまりのような家をつくる南 泰裕さんを、私は夢に見たいと思う。

すべてが解体して行く時代に、私たち自身の人格ももまた、壊れて行くのである。
建築も壊れて行く。芸術も壊れて行く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、社会というものは、必ず是正するのである。社会的理性と言う《1流》領域を信じる必要がある。
社会的理性は、かならず立ち上がる。悪貨は、良貨を駆逐するという原理は、確かに不変である。
悪は強いのである。しかし悪は、永遠には栄えない。悪人は、かならず、滅びる。

むかし、日本酒が劣化して、甘い砂糖水になってしまったが、地方で良いお酒を造り続けた人たちは、
再び反撃する時代を迎えた。純米酒のおいしさは、奇跡であった。奇跡は、必ず起きる。

良い建築をつくりつづけることを、あきらめてはならない。
良い芸術を作り続ける事を、あきらめてはならない。
奇跡は、必ず、起きる。

悪い建築と、悪い作品は、無くなりはしないが、しかし必ず、衰弱する。



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建築家・山田幸司さんの顔(改題/加筆、改稿少しあり) [建築]


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韓国ソウルSSIデザイン学院大規模リノベーション

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浜松市田学園田町校舎


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上の写真の右が、建築家の山田幸司氏である。
今回のマキイマサルファインアーツでの2人展を見に来てくださった時の、
記念写真である。
真ん中が、建築評論家・建築史家の五十嵐太郎氏である。
左が彦坂である。

撮影は建築家の南泰裕氏である。

今回は、マキイマサルファインアーツでの南泰裕さんと彦坂の2人展のオープニングと、
INAXのシンポジウムの2回も、わざわざ上京してくださった。
山田幸司氏は、名古屋を拠点にした建築家なのである。



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山田幸司
1969年、愛知県生まれ。
愛知工業大学学部建築工学科を卒業し、
石井和紘建築研究所に。

石井和紘は、安藤忠雄が入る以前の直島に、多くの建築を建てた
ポストモダンの代表的な建築家。山田幸司氏は、石井の元で、
直島の石井建築を多く手がける。

私が、山田幸司氏に会ったのも、
この直島建築ツアーでのこと。

1998年山田幸司建築都市研究所を設立。

受賞暦等
日本建築家協会優秀建築選2005
グッドデザイン賞2004
日本建築学会作品選
すまいる愛知県建築賞
碧南市都市景観賞
SDレビュー1998 新人賞

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

顔の鑑賞である。
《イメージ判定法》で《8流》。
《言語判定法》で、《1流》から《7流》の多層的重層的人格。
《現実判定法》で、《1流》。

《1流》というのは、通常の1流という意味ではなくて、
彦坂尚嘉の用語では、社会的理性領域という意味である。

かなり、とんでもない建築を作る人の様に見えるし、
お付き合いすると、大変に面白い方なのだが、
実は社会的理性領域に生きている方である。

《現実界》の建築家。
《想像界》《象徴界》はない。
気体人間。

《現実界》で気体人間というのは、
若手建築家の石上純也氏と同じである。

過激な建築に見えるのは、この辺の性格の現れであると言える。



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これらの画像は、山田幸司さんのリノベーション建築で、
2003年に設計を手がけた“笹田学園田町校舎”。

静岡県の浜松市にあって、今年の建築ツアーで、
私も見に行っている。

大規模リノベーションで、古い建築が、
地震への構造強化を含めて、
まったく新しい価値を持ったビルに生まれ変わった。

ファッション・広告・建築のスペシャリストを育てる浜松市の専門学校という性格もあって、
斬新なデザインが、校風の意味を強める効果を持っている。

この仕事で、「日本建築家協会優秀建築選2005」
「グッドデザイン賞2004」
「日本建築学会作品選」など多数の賞を受賞。

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写真とパースを見比べると、
3DCADで緻密なシミュレーションを行って、
建築していることが分かる。

建築は、美術と違って、
途中でのやり直しをすると膨大な工費の増額をまねくから、
精密な計画とシュミレーションが必要なのである。

山田幸司氏は3DCADの使い手としても有名だそうで、
有名建築雑誌のWebサイトで、
“山田幸司のスーパーモデリング講座”を連載する。

「建築家の多くは、プレゼンテーションツールとして3DCADを使っていますが、
僕の場合は3DCAD上で徹底的にデザインを検証する。
装飾の一部にもなるボルトの位置を、
それこそ1ミリ単位でシミュレーションするんです。
だからそのデータをレンダリングするだけで、精巧なパースになる
」とのこと。

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《イメージ判定法》で、《8流》。
《言語判定法》で、《1流》から《7流》の多層的重層的建築。
《現実判定法》で、《1流》建築。

《現実界》の建築。
気体建築。

先にも書いたが、
彦坂尚嘉の格付けでは《1流》というのは、
社会的理性領域である。
これほど、とんでもない建築をつくりながら、
しかし社会的理性性を強く示しているのは、
面白い事である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
カナダに行くと、建築が美しいのに驚かされる。
何よりも《1流》建築が多いのである。
日本は《2流》建築が多い。
《1流》もあるのだが、それこそ丹下事務所がつくった新宿のオゾンなどは、
そうなのだが、かなり贅沢な建築になる。
普通の意味での《1流》建築は、
建設費が高くなるのかもしれない。
《2流》というのは、技術領域であって、
建築が技術領域で作られる事自体悪い事ではないのであって、
それを《1流》に持ち上げるのには、
まず、お金がかかるという事かもしれない。
山田幸司さんのこの《1流》建築は、
建築を《現実界》に還元する事で、成立している。
費用的に、それで安くなったのかどうかは、私にはわからないが、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持つ建築を解体して、
《現実界》だけにするという方法は、
ある過激さを示している。
この建築が、リノベーションである事と重なって、
《現実界》建築というものの、刺激が、
考えさせられるものとなっている秀作である。
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連想する建築に、レンゾ・ピアノリチャード・ロジャースが設計し、
1977年に館したパリのポンピドーセンターがある。

《イメージ判定法》で、《8流》。
《言語判定法》で、《6流》と《7流》の2層構造。
《現実判定法》で、《8流》。

つまり格付け的には、山田幸司の建築は《1流》だから、
上なのである。

山田幸司さんの建築には、明らかにポンピドーセンターの影響と見えるものがあるが、
しかし格を上げると、
それは模倣とは言わないのである。

しかしポンピドーセンターは、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持っている。
そうした重厚性はあるのである。
山田建築は、それに対して《現実界》に特化することで、
よりシャープに、過激化している。
山田建築を見てから見ると、
ポンピドーセンターが古典的にも見えるのである。

山田幸司さんの建築や、石上純也さんの作品を見ていると、
もしかすると、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を解体してしまって、
《現実界》だけにするという、
つまり解体の手法は、あるのかもしれないと、
私は、思うに至っている。

解体という手法の限界もあるのだが、
総合化という手法の限界もあるのである。

今一度、私自身が過激化するためには、
再度の解体を選ぶ事も、選択肢として考えたいと、
思っている次第である。

まあ、しかし表現は、奥が深いのである。




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長野建築ツアー/伊東豊雄《まつもと市民芸術館》(加筆) [建築]

澄心寺.png
昨日は朝5時15分起きで、
6時出発、8時に新宿南口集合。

若手建築家の松田逹、林要次両氏と、
さらに松田さんを手伝っている松原独歩、大下かな子さんの4人と合流して、
レンタカーで、

長野県の澄心寺のコンペティション見学会に行った。

場所は箕輪町である。
新宿から中央道で、諏訪を過ぎて、伊北ICで下りる。

運転は松田逹さん。
私は助手席で、楽をさせてもらった。
若い3人は、後ろで、真ん中の大下さんがかわいそう。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

澄心寺・庫裏(住宅部分)デザインコンペティション

概 要
伊那盆地に面した小山にある伝統ある禅寺「澄心寺」。地域の人びとの現代生活に対
応した新たな役割を先導するため、その庫裏(住宅部分を含む)のり・デザインを図
ります。

審査員

曽我部昌史/貝島桃代/成実弘至/五十嵐太郎/壇信徒総代会会長
亀崎元展晋山式実行委員会住宅担当長/晋山式実行委員会住宅担当

コーディネーター
小野田泰明 佐幸信介

応募資格
応募者は一級建築士であり、総括責任者として従事できること。

表 彰
最優秀賞(1点)500万円程度
一次審査通過者(3点)10万円

応募締切
2008年4月25日(金)必着

敷 地
長野県伊那郡箕輪町大字三日町289 澄心寺敷地内

住宅面積
50〜57坪

総建設事業費
3,750〜4,500万円(解体費、外構費、諸税を含む)

現地説明会
2008年4月6日(日)
一次審査
2008年4月29日(火)
二次審査
2008年5月18日(日)
実施設計
2008年6月〜10月

提出図面
配置図・平面図・立面図・断面図・投資図・スケッチ等・設計主旨
(上記の内容をA2用紙1枚にまとめて提出)

提出先
日本大学法学部・佐幸研究室
(〒101-8375 東京都千代田区三崎町2-3-1)

問合せ
日本大学佐幸研究室
Tel&Fax:03?5275?8785
URL:http://kokorosumu.web.fc2.com

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

なぜに美術家の彦坂尚嘉が、
建築コンペの見学をするかと言えば、好奇心である。

美術作品の作り方と言うものを洗い直して行くためには、
他ジャンルを観察するのは、一つの方法である。

自分自身の制作は、良い歳をしていることもあるから、
このまま、同じ事をして行くしかないのだが、
しかし、そう決めてしまったとたんに、
仕事は職人仕事になり、
つまらないものになって行く。

制作と言うものは、正味3年くらいしか持たないものであって、
常に刷新を考え、それを準備し続けないと、
8流に落ちてしまう。

途中で、サービスエアリアで、朝食を食べながら、
松田さんの事務所が作った建築模型を見ながら話したが、
それは、刺激的であった。

模型で見ていると、本堂よりも大きな建築を建てたくなるが、
しかし予算が決まっていて、決まっていると工法も自ずと限定されてくる。
複雑な形態を取ると、金がかかるのである。
お金とフォルムが、これほど直結的に結びついていると言うのは、
知らなかった。

美術作品だと、
手間ですむところが、
直接に大きなお金の問題になる。

現地に着くと、そのお寺が、写真で見る以上に、はるかに美しいのに、
驚く。《1流》建築なのである。

格式がある、小振りだが立派なお寺で、
内部も、驚くほどの太い柱と梁を持っている。

わざわざ建築コンペを開くまでになる理由が、
現地のお寺を見ると、分かる気がするのである。

この寺の美しさが、地域の人々を引きつけて来たのである。

それに日本アルプスを一望に見る景色がすばらしい。
天気が良かったせいもあって、
現場を踏む事の重要性を思う。
もっとも建築のコンペティッションというのは、
現場を見ないで応募した人が勝つということもあるそうで、
勝負は水物なのである。

説明界には100人を超す人々が集まる。
27歳くらいの若い住職がしっかりしていて、
彼の欲望と言うか、ニーズは見えてくる。
地域の若い人々がお寺に来られる様にしたいのだ。

これも刺激的で、建築を構想して行く、知的な枠組みが、
見えてくる。
寺の側の欲望の把握と、
建築家自身の欲望の交差を解かなければならない。

しかし建築というところで、交差するにしろ、
その施主の欲望と、建築家の欲望は、次元が違う。
この次元の違いが、重要だし、その問題を考えないと、
話にならない。

美術も同様であって、
美術を買うコレクターの欲望と、
作家の欲望は次元が違う。
この次元の違いの交差が生む問題がある。

この場合、建築家の欲望があるのかどうかが問われる。

正しい答えが必要なのではなくて、
両者の欲望の問題であると、
私は思う。

建築の施主の欲望や、美術でのコレクターの欲望と、
建築家や作家の欲望が、ずれている事が重要である。

単に施主やコレクターの欲望を、直接に解決し対応する人は、
建築家としても作家としても、たいした事は無いのである。
それは単に他人の欲望を実現する奴隷に過ぎない。

施主/コレクターと、建築家/美術家の欲望のずれこそが、
作品を成立させる。

今回もわざわざ建築コンペを開いてまで決めようとする若い住職の欲望は、
明快に言えば、建築そのものとして話題になり評価を得られる建築である。
おとなしい有用な建築にあるのではないと、
私は思う。
したがって建築家の積極的な意欲がないと成立しない。

低予算建築で、しかも既存の建築が《1流》である場合、
どうするのか?
建築としては小規模であるところが、
ポイントである。
ここに《超1流》《超1流》《超1流》の建築を、
低予算でつくる。
木と鉄とガラスでつくる。

建築としては、ハイアートではなくて、
ローアと建築である。
ローアートで考えないと、創造的なものは出来ない。

既存の《1流》建築との対比を重視しつつ、
木造での同質性を取る。

低予算と言う事で、
屋根はフラット。
正面はフラットは大型ガラスで、
内部は大きく、檀家のための談話室(吹き抜け)
と、住職の住居(主に2階)の2構造。

売りは、
高台の地の利を生かした見晴らしを楽しめる空間。

大自然の見晴らしと、
住職による、聞き役の徹した短時間の宗教的な対話的カウンセリングを
売り物にしたスペース。

あくまでも現代的な個人主義を軸にした、
宗教的な対話空間を作り出す。

側面のどうでも良い所に、
かなりの狂気を含んだ曲線の壁面を木でつくる。
低予算だから、木型の枠と、垂直の木材による工法。

まあ、私には1級建築士の資格はないから、
応募する事は出来ないのだが、
かってな夢想は出来るのである。

こうして奇妙なガラスと木造の建築構想が、
私の中に生まれる。

現地で、南さん、月橋さんにお会いする。

その後、伊東豊雄による《まつもと市民芸術館》を見学しにいく。

伊東豊雄1.jpg

伊東豊雄2.jpg

伊東豊雄3.jpg

伊東豊雄4.jpg

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伊東豊雄6.jpg


伊東豊雄7.jpg

伊東豊雄による《まつもと市民芸術館》、
これは驚きであった。

せんだいメディアテークが2流で、合法建築であったのに対して、
すばらしい《1流》建築で、しかも非合法性、非実体性のある、
芸術性の高い建築。

これは、のびやかで、ビビットで、しかも空間が大きい。

私はオペラシティの展覧会も見ていたが、
それでも伊東豊雄氏に対して、どこか冷ややかさがあったのだが、
今回は、熱くなった。

見事に化けて行く建築家である。
すごい!

何よりも、外形の形、そして明かりが入る不定形のガラスブロック、
さらにデコラティブなアルミキャストの壁面。
内部空間のひろさ。
すばらしい。

屋上庭園も見た。

その後、茅野市民会館を見に行く。

古谷1.jpg

古谷2.jpg

古谷3.jpg

茅野市民会館は、
古谷誠章さん設計
2007年の建築学会賞を受賞している建築だが8流建築。
立派だが、固く、創造性や、美しさが落ちる。

写真の下の2枚の部分だが、
門の様な入り口の部分は、木をつかっているのだが、
もの派や、廃材的な使用なのだが、
これがちぐはぐで、ひどい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
建築ツアーをしていて、楽しいのは
建築の人々は、他人の建築を見に行くし、
そしてそれに鋭い反応をする事だ。
良い建築は良いと言うし、
悪いものは,鋭く批判し、
しかも細部まで、丁寧に見る。

今日の美術家の多く、特に私の世代は、
まず、すぐれた美術を見に行こうとしない。
見ても、何が良くて、何が悪いかを明快に言わない。

その中では清水誠一さんは、希有な友人である。
彼は果敢だ。
でも、建築まではなかなか付き合ってくれない。

美術家は
自分の蛸壺に閉じこもってしまっていて、
視野の狭い人が多いのである。

まるで自閉していることがアーティストであると思っているかのようである。
そういう気持ちも理解出来るけれども、
しかし本当にそうなのであろうか?
自閉していて、芸術は可能なのであろうか?
私にはそうは思えない。

それと格の低いものを、
美術関係者は好きな事である。
一体何て駄目な人たちだろうと思う。
8流、6流、21流、そんなものばかりだ。

もちろん、そんな人々だけでなくて、
探求する若い美術家の友人と私は付き合っているのだが、
しかし、
もっと積極的に心を開いて、
良いものを見て、自分の芸術を高めて行っていいと思うのだが、
そういう大きさのある人が、もう、同じ世代の美術家にはいなくなってしまった様に
思えるのである。
もちろん、私の単なる主観で、単なる思い込みかもしれない。

何故に建築を見るのが好きかと言えば、
建築の人々は、
私から見ると
まともだからだ。

それだけ、建築は
社会的で、
そして現実だからであろう。
そして厳しい。



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オーギュスト・ペレの顔 [建築]

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ル・コルビジェが学んだオーギュスト・ペレの顔である。
〈1流〉〈1流〉〈1流〉
〈象徴界〉〈想像界〉〈現実界〉の3界を持っている顔。
固体・液体・気体の3様態を持っている人物。

なかなかの人物である。

オーギュスト・ペレ( 1874〜1954年)はベルギー、ブリュッセル生まれ、
「コンクリートの父」と呼ばれ、
建材として用いられていなかった鉄筋コンクリートに注目し、
兄弟であるギュスターヴ、クロードとともに
鉄筋コンクリート造という新しい技術により芸術的な表現を追求し、
20世紀フランスで活躍した建築家。
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1903年、最初の計画から複数階を持つ建築物、
フランクリン街のアパートメントの実現に成功した。
鉄筋コンクリート造による最初期の近代建築。

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Auguste Perret13.jpg
代表作であるノートルダム・デュ・ランシー(ランシーの教会堂)は、
ゴシック様式の空間構成と、
近代合理主義的な直線が組み合わされている。

Auguste Perret10.jpg
「オーギュスト・ペレによって再建された都市ル・アーヴル」は、北フランスの港湾都市ル・アーヴルの中心街を指す、ユネスコ世界遺産としての登録名。
第二次世界大戦後に行われた大規模な都市再建が、
20世紀における都市計画の優れた例証として評価され、
世界遺産に登録されている。
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ル・コルビュジエの顔 [建築]

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ル・コルビュジエ(1887年 - 1965年)は、時計職人を養成する地元の装飾美術学校に学んでいて、大学教育を受けていない。
大学教育を受けていない彼が、何故にモダニズム建築の巨匠になったのだろうか?
1908年にパリへ行き、鉄筋コンクリート造建築の先駆者であるオーギュスト・ペレの事務所に、
1910年にはドイツ工作連盟の中心人物であったペーター・ベーレンスの事務所に籍を置き、
実地で建築を学んだ。

ル・コルビュジエの顔である。
〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
すばらしい顔をしている。

改めて言うまでもなく、
建築は大芸術であって、
単なるデザイン作品ではない。
ル・コルビュジエの建築は、
〈非-合法性〉を持っているのである。

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建築ツアー/山田 守 [建築]

今回の建築ツアーは、石上純也であったのだが、
本厚木まで来ているから、
分離派の巨匠・山田 守の東海大学を見に行こうということを、
五十嵐太郎さんが提案した。

小田急線で本厚木から4つ目の東海大学前まで行く。
後はタクシー4台にに分乗して東海大学北門。

山田 守(やまだまもる、1894年 - 1966年)
東京帝国大学建築学科卒業、逓信省に入り、電信局などの設計を行う。
東京中央電信局のパラボラ型アーチの並ぶ個性的なデザインが注目された(現存しない)。

大正9年、山田守をはじめ、同級生の、堀口捨巳、石本喜久治、森田慶一、滝沢真弓、矢田茂のメンバーで分離派建築会を結成した。その結成の宣言は、「我々は起つ、過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしむる新建築圏を創造せんがために、我々は起つ、過去建築圏の中に眠っている総てのものを救わんがために、我々は起つ我々のこの理想の実現のために我々の総てのものを愉悦の中に献げ、倒れるまで、死まで期して、我々一同、右を世界に向かって宣言する。」

永代橋(1926年):国の重要文化財(建造物)
聖橋(1927年)
萬代橋(1929年):平国の重要文化財(建造物)

山田守は、四国高松の病院も、
五十嵐太郎さんに教えられて見に行っている。
NTT西日本高松診療所(旧高松逓信病院)(1962年)
建築の角を面取りしたようなカーブが印象的。
それと敷地全体が流れるように設計されていた。

それと京都駅前の京都タワービル(1964年)は、3回見に行っている。
さらに先日の五十嵐太郎さんのツアーで、日本武道館(1964年)も見ている。
というわけで、東海大学へ行く。
これが、広くて、そしてたくさんの建築がある。

山田守るの最晩年の作品で、山田は何よりこのプロジェクトを重視していた。
自由にデザインできる代わりに無報酬だった。

「東海大学湘南校舎」  
■所在地;神奈川県平塚市北金目
□1号館■完成;昭和38(1963)年7月■構造;RC3階■面積;14,377m2
□2号館■完成;昭和40(1965)年12月■構造;RC4階■面積;11,956m2
□3号館■完成;昭和41(1966)年11月■構造;RC10階塔屋4階
□4号館■完成;昭和42(1967)年9月■構造;RC4階地下1階塔屋2階■面積;10,809m2
□松前会館■完成;昭和41(1966)年11月■構造;RC2階■面積;1,280m2
□武道館■完成;昭和41(1966)年10月■構造;SRC1階地下1階■面積;3,327m2
□食堂■完成;昭和42(1967)年4月■構造;S+RC2階■面積;1,148m2
□望星学塾3棟■完成;昭和39(1964)年2月〜■構造;RC4階■面積;9,584m2
□実験実習館■完成;昭和40(1965)年6月〜■構造;RC2階■面積;17,747m2
■施工;戸田建設・大成建設
■現況;全棟現存


なにしろ、全棟現存しているので、
歩いて、歩いて見て回った。
五十嵐さんはタフ、私は老齢に身でたいへん。
それでも遅れず、全部見る。

参加した若い学生たちが「かっこいいね」と賛嘆の声を上げる。
本当に、今見ても斬新なデザインである。
すばらしい〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉建築が、
いくつもある。
面取りしたような角を丸くしたスタイルや、
スパイラルなど、
トレードマークが明確で個性が明確なフォルムをもっている。
〈非-合法性〉があって、しかも《ハイアート建築》である。

周辺部のアパートの様な、付随的なビルも良い。
トレードマークのスロープの階段部分が美しい。

スタイリッシュなトレードマーク性の重要性を、
改めて感じる。

最晩年に、これだけの建築群を残した山田守の偉大さに、
深い感銘を覚える。
すごい巨匠建築家ですね!

20世紀日本美術史を書きたいのだが、
その中に建築を入れるという、当たり前のことをしたい。
そうすると大正美術の中に、
まずこの山田守の偉大な分離派建築が登場する。
そうすると、日本のモダニズム美術のイメージが根底的に変わる。
しかもそれは線香花火のような、はかない幻ではなくて、
最晩年まで展開されて巨大なビル群にまで発展する骨太の造型性なのである。
美術史の書き換えが急務であると言える。


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建築ツアー/石上純也 [建築]

石上純也1.jpg
石上純也2.jpg

ハードスケジュールで、追いまくられてしまった。

まず、建築ツアーに参加した。
石上純也"神奈川工科大学の工房"

ARTBANKの五十嵐太郎さんのクラスのツアーである。

集合場所:神奈川工科大学 
集合時間:3月1日(土)14:00

本厚木駅からのアクセス
㈰BUS(¥280)
13:32 厚89 本厚木駅 1番乗場 ⇒ 神奈川工科大学前

大きいし、きれいな建築。
"神奈川工科大学の工房"であるが、
柱だけの建築で、仕切りの壁がない。

石上純也さんは、妹島 和世さんの所から出てきた建築家。

[経歴]
1974年生まれ
2000年 東京都芸術大学大学院修了
2000-2004年 妹島建築設計事務所勤務
2004年 石上純也建築設計事務所設立

妹島建築設計事務では、梅林の家の担当であったと聞いているが、
確認していない。

妹島建築が彦坂的には《6流》のミースを汲む流れであるのに、
石上純也のそれは〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉で、
〈非-実体性〉があって、
私の評価は高い。

気になるのは、合法的で、デザインであること。
建築はデザインであるではないかと言われるかもしれないが、
もともと建築は大芸術であって、
〈非-合法性〉のある建築は、たくさん歴史上にあるのである。
それこそコルビジェの建築には〈非−合法性〉があって、
大芸術になっている。

伊藤豊雄の仙台メディアテーク でも気になったのは、
この合法性。
合法的な表現というのは、社会性は高いから確かに魅力があるが、
しかし歴史的には弱い。
古くなるのだ。
古くなっても人に感動を与えると言うことが起きない。
まあ、それでも良いのかもしれないが・・・。

300本を越える柱に、予算も意識も注ぎ込まれている建築。
石上純也氏の、この集中的突破法は、みごとなもの。
建築家魂を感じることができる。

この柱の決定については、
石上さん本人からも話を聞き、
五十嵐太郎さんの解説も聞いたが、
この柱の位置の決定段階で〈非-合法性〉をいれることはできたと思うが、
妹島さんも合法的だから、
もともと石上さんにも〈非-合法性〉に対する意識や興味がないのだろう。

とにかく出来上がった建築は、
クライアントの欲望と、
建築家の欲望が、正面から抽出されている名作と言える。

200を越える柱の断面形状に差というのは、
若い建築家の格闘としては高く評価する。
しかし、方法論としては、実は問題を認識していないと、
私には見えるが、それは、とりあえずは、置いておこう。

五十嵐さんから、プランの発展のプロセスを聞いたが、
基本は普通のグリッドから始まっている。
モダニズムの文法を、内側から越える試みとして、
面白い才能であるが、数学や、複雑系の科学、そして現代美術の格闘から見ると、
建築は遅れて走ってきて来ているように見えなくもないが、
それだから逆に面白いとも言える。

隣のビルの上から、下を見る形でもこの建築を鑑賞。
この平面図は、直角の矩形ではなくて、ややゆがんでいる。

連絡して彦坂敏昭さんもツアーに参加させてもらった。
こうした新鮮な建築を見ておくことは、
彦坂敏昭さんの様な若いアーティストには凄く良い勉強になるはず。

追加である。
この建築は、ハイアートでも、ローアートでもなくて、
メディアムである。
この後見た山田守の東海大学の建築がハイアートであるのと、
対照的に感じた。

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建築のコンペティションとその結果を見て [建築]

五十嵐太郎さんから、
以下のようなコンペの転送メールが来た。
………………………………………………………………………………
群馬県庁建築住宅課の新井です。
群馬県では、首都圏における情報発信・収集拠点として、
ぐんま総合情報センター(仮称)の開設を進めています。

このたび設計者選定をするため、
「ぐんま総合情報センター(仮称)設計提案競技」の募集を
別紙概要のとおり行っています。

県内市町村では、一般公募による設計者選定は過去に数回実施されていますが、
群馬県主催では初めての試みです。

概要は添付の「ぐんま総合情報センター設計提案競技概要」をご覧ください。
また、現地見学会を22日(火)に予定しています。
スケジュールがタイトですが、このコンペに多くの方の参加をお待ちしています。

群馬県ホームページ
http://www.pref.gunma.jp/index.html

(See attached file: ぐんま総合情報センター設計提案競技概要.pdf)

*************************************************
  群馬県 県土整備部 建築住宅課 施設整備グループ
  〒371-8570 前橋市大手町1−1−1
  Tel:027-226-3707(直通)  Fax:027-221-4171
  E-mail:arai-h@pref.gunma.jp
  新 井 久 敏
個人アドレス:c62kick@agate.plala.or.jp
携帯:090-7903-7439
*************************************************

さすがに、私は全く対応できなかったが、
まわりの建築家が、何人か応募して、
2人が、第一次審査で落ちたので、
その落選案を、19日の皇居会議の後に、見に行った。

具体的な落選案を2つ見ると、
どのように建築案が作られるのか、
そして何が問題であるかが、前よりも良く分かるようになった。

感じたのは、コールハースが強いわけである。
問題は現実を見る眼であって、
現実を〈21流〉という喜怒哀楽の欲望の渦巻く超越性のない世界と見る、
コールハースの視線が、現実の建築を切り開くのに、
重要なのである。

現実の〈21流〉的な把握と、施主の欲望に垂直に切り込めて、
しかも建築家自身の欲望と、建築の流行へ、
垂直に切り込んでいるかである。

垂直にというのは、
正確な言い方ではないが、
ラカン的には、〈想像界〉で考えていると、
どうしても問題の中心を外れて、
45度の傾斜のついた鏡があって、反射して滑ってしまうのである。

この反射を避けて、
直接に問題に肉薄できるようになる精神的な技術が必要なのである。

かなり現実的に建築というものが分かってきたと思った。

………………………………………………………………………………
【加筆】
現実には一級建築の免状がないと応募できなかった分けだから、
私に応募できるわけではないのだが、
しかし建築というのは、実は、家を具体的に建てるというゼネコン的な意味での
造家の技術ではないのである。

そうではなくて、
現実のシニフィアンの欲望を切り取り、切り込む、そうした方法と、
もう一つ建築という欲望=シニフィエ(脳内リアリティ≒歴史参入の欲望)の提示にあるのである。

申し訳ないけれども、落選案2つには、
この基本的な2つの欲望が、薄いのである。
品が良すぎる。

コールハース的ではないというか、
〈21流〉的ではないのである。

もっと泥臭く、人間の欲動に切り込んでいく下品さと、
そしてもう一つ、脳内リアリティとしての建築史への参入の欲望が欲しい、

翻って、同じ事が美術にも言えるのであって、
そういう意味で、初期の村上隆の欧米の観客の欲望への切り込みは、鋭いと言える。
中国の〈21流〉の下品な美術にも、同じ賞賛が送り得るのである。
感化客の下品な欲望に切り込めないと、
何も始まらないのである。
ただその事だけだと、芸術的には、単に下品な売り絵であり、
何よりもデザイン・ワークでしか無いものになってしまう。
その観客への欲動への切り込みと、
アーティストの芸術への欲望が切り結ばないと面白くないのである。



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