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川久保玲の顔 [顔/美人論]



このあいだの日曜日の10日に、
ギャラリー山口の白川真由美さんに案内してもらって、
コムデギャルソン青山本店と、
骨董通りにある川久保玲のセレクトショップ「ドーバー・ストリートマーケット」を見学してきた。

白川真由美さんは、川久保玲フリークで、
しかもお母様もそうという2代がかりのファンなのである。

私自身は、遅まきながら1999年に東京都現代美術館で開かれた
『身体の夢 ― ファッション OR 見えないコルセット』展で、
川久保玲の魅力に取り憑かれてしまった。

そしてまた国立新美術館で昨年2007年に開かれた
『スキン+ボーンズ-1980年代以降の建築とファッション』展で、
改めて川久保玲のずば抜けた美しさにしびれてしまった。

というわけで、白川さんに案内を頼んだのだが、
コムデギャルソン青山本店は、丸い形、そして壁が傾斜があって、格好いいお店。
想像以上に多くの外国人のお客がいて、
明るい雰囲気で入りやすかった。
バックが美しくて欲しかったが、まあ、値段が大変なので見るだけ。
とにかく〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉で、
3界同時表示、3様態同時表示のものばかりで、
たいした美しさ。

もう一軒、実はコムデギャルソンのお店に案内してくれたのだが、
そこはお弟子さんの店で、〈1流〉品で、私の趣味ではなくてパス。
渡辺 淳弥のジュンヤ・ワタナベ・コム デ ギャルソンというのは、
私には魅力がないのである。

栗原たお の、タオ・コム・デ・ギャルソンも〈1流〉で、これも私を魅了しない。

川久保玲のセレクトショップ「ドーバー・ストリートマーケット」は、
いろいろなグッズがあって楽しいのだが、
これもどれも〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
3界同時表示、3様態同時表示のものばかりで、
そのブランド水準の統一は見事であった。



さて、川久保玲の顔である。
〈想像界〉の眼で、《11流》のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈41流〉〈超1流〉〈超1流〉
〈現実界〉の眼で、〈超1流〉の現実

《11流》というのは交通領域。
ファッションも11流である。

〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉の3界を持っている人。
そして固体・液体・気体の3様態を併せ持つ人格。
やはり凄い〈41流〉美人であった。

………………………………………………………………………………
川久保令は1942年東京生まれ、慶應義塾大学文学部卒業。

「男の子のように」という意味の「コム・デ・ギャルソン」が広く知られるようになったのは一九八一年からパリで発表した「乞食ルック」と揶揄された虫食いの穴の空いた衣服や、「カラス族」と誹謗された黒を基調とするミニマルなスタイルを世に送り出してからであった。

川久保令の作品が与えた衝撃は深かった。川久保令は近代の市場や欧米の文化が形成してきた衣服のモデルとなっているものへのアンチテーゼを、しばしば意図的に行ったからである。

京都国立近代美術館と、東京都現代美術館の二館で巡回して開かれた京都服飾文化研究財団がつくった「身体の夢 ファッション OR 見えないコルセット」展という展覧会を私も見たが、際だっていたのが、やはり川久保令であった。


たとえば1995年秋冬の「セーターとスカート」。薄いピンクの軽やかな上下なのだが、ベビー・ピンクのナイロンにアクリル・ニット刺繍のロング・スカートの腰に、同じ素材で縫いつけられた筒が、不思議なふくらみと丸みと空洞の空間を作り出していた。
その服は《服であって服でないもの》《造型であって、造型でないもの》になっていた。

これと対照的なものは草間彌生の「セックス・オプセッション」で、これは逆に《服でないものであって、しかし服であるもの》であった。
 
こうした逆転が、単なる言葉の遊びではなくて、造型表現の基本的な設定のありようと、その逆立の姿の違いとして比較できたことは面白かったのである。

川久保のファッションは、草間とは違って、まず最初に衣服があった。しかし、衣服という表面に、川久保は「構造」を付与する。衣服という表面が構造化されて、彫刻性を付与されているのである。
絵画という平面性が、レリーフ構造をもって来るのに似ている。

こうして川久保令が構造化した衣服という《構造的表面》は、これを着た身体を《充実》させるのではなくて、逆に、身体は《欠如》させられることになる。

分かりやすい例で言えば、1997年春夏の、ドレス内部に羽毛パッドの「こぶ」を付けた作品。モデルの身体の背中、肩、腹部、腰と、奇妙な場所に、あたかも瘤や肉塊を持っているかのように、身体障害者のような「ゆがんだ」丸みを持った突起を生むという、「こぶドレス」とも言われた過激なファッションである。

この川久保令の服は、人間の身体を侵略し、殺し、奪い、搾取する《帝国主義》のような攻撃性を秘めた、「癌細胞」のようなものであった。こうして川久保令の衣服によって、身体は、あたかも不具のように《欠如》するのであった。

この「《欠如》の顕現における芸術の発生」を、私は、川久保令の服に見た思いがするのである。しかもその作品の空間は、新帝国主義の「巨大空間」の表現であった。

それに対して草間彌生の「セックス・オプセッション」の方は、初めに《オプセッション》という彼女の方法が脅迫的にある。

そして、それが服の形態をとるのである。しかもそれは《充実》している。
服をあたかも埋めつくすかのように《充実》している。
充実して、立派で、充ち充ちているのだが、建築の内部のような空間が無いのである。

服の空間は埋め尽くされている。しかもその埋め尽くされた空間そのものは、個人の占める狭い空間であった。川久保令のような「大空間」ではなくて「小空間」なのである。だから芸術の顔をしている割にはイラストレーション的オブジェとも言うべき「デザイン」にすぎないものに見える。

念のために言っておくと、草間彌生が、特に初期のニューヨークで優れた作品をつくっていたことを、筆者も認めるにやぶさかではない。しかし1970年代半ばの帰国後の草間は、例外を除けば旧作の焼き直し作品の、芸術とはとても呼べないひどいキッチュのお化けのようなものをたくさん作ってきたのも事実ではないであろうか。

ここに出品されていた「セックス・オプセッション」の制作年代は一九七六年で、おそらく帰国直後のものである。私は、この1976年に大阪フォルム画廊の東京店で開かれた草間彌生の大個展を見ている。もしかすると、ここに出されていた作品かも知れない。十分に年月はたっているから骨董化はしている。「芸術に歴史があるのではなく歴史が芸術である」という名言を吐いて、蒸気機関車であろうとなんであろうと骨董化すると芸術化してしまうことを指摘したのは中原佑介氏であった。骨董化した「セックス・オプセッション」は、だから多くの草間ファンには芸術に見えるであろうとは思う。

少なくとも東京都現代美術館の「身体の夢」展においては、草間彌生という現代芸術の巨匠クラスのアーティストの芸術作品であるはずのものが、実は《充実》していてデザインにすぎないものであった。

それに対してデザイナーであるファッションの川久保令の方が、《欠如》していて、芸術であった。川久保令の服は、制度的には芸術ではないにも関わらず、深い感動を呼ぶ《芸術》になっていたのである。

こうした事態は、川久保令と、あと数名のアーティストのみに見られることで、ファッション・デザイン全体に敷延できることではない。「身体の夢」展では、「黴(かび)」を使ったマルタン・マルジェラの作品が優れて芸術であった。つまり、芸術という制度を越えて、この制度の外に、真性の芸術が立ち現れてきているのである。

1970年前後に、「芸術とは制度である」と対象化されたときから、退廃が始まった。作家と批評家と美術館の学芸員の三者の退廃の中で、今日の現代美術という制度は、芸術性そのものを喪失し始めているのである。

現代美術の制度制の中では、なんでも芸術として扱われる。現代美術のデザイン化、《充実》化は、止めどなく進み、現代美術という制度全体を埋め尽くそうとしている。イラストレーションでしかないものが人気を集め、巨匠となっていく。そしてその《真性の芸術》を喪失した分だけ、ファッションを初めとする「芸術では無いところ」へと《真性の芸術》の流出化が進んでいるように思える。

こういう現代美術の退廃に対して、
「すでに見たものではなく、すでに繰り返されることではなく、新しく発見すること、前に向かっていること、自由で心躍ること。コム・デ・ギャルソンは、そんな服づくりをいつもめざしています」とメッセージする川久保令というアーティストの攻撃性は、斬新であった。

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ひこさか なおよし/1946年、東京世田谷生まれ。ブロガー、美術批評家、美術家
日本建築学会会員、日本ラカン協会幹事、アートスタディーズ・ディレクター
著書に『反覆・新興芸術の位相』(田畑書店)
『彦坂尚嘉のエクリチュール/日本現代美術家の思考』(三和書籍)


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芥川賞「乳と卵」/川上未映子の顔 [顔/美人論]




さて、川上未映子の芥川賞受賞作「乳と卵」を、
私は読み終えた。
めずらしく清水誠一さんよりも早い読了である。

彦坂尚嘉の象徴界の視点でアートの〈格〉づけをすると、
〈21流〉の《5流》の〈3流〉の文学である。

〈21流〉というのは、人生の喜怒哀楽のドブ泥の世界。
《5流》というのは、ちょっと良いね、という優良品の次元。
〈3流〉というのは、ポップスの領域である。

まずポップで楽しい小説である。

小説は最初《8流》《6流》〈3流〉であったのが、
途中から〈21流〉《5流》〈3流〉に変貌していく所がスリリングで、
面白い。

小説としては〈現実界〉と〈想像界〉の文学で、
〈象徴界〉が欠けている小説。

しかしこの〈象徴界〉の欠如が、
小説全体の隠れた本質であり、それがテーマと言える。
このことを見失うと、この小説が分からない。

選評で、小川洋子は、母親の巻子と、娘の緑子の関係を描いた小説としてみているが、
しかし母親の巻子は、十分に描かれていない。
描かれている主題は、娘・緑子の成長する女の肉体に対する拒否である。

人生のドブ泥の苦しみの中で、
生命というか、女の体そのものの、
つまり生殖性を持ち、子供の誕生そのもの、
そういう生理そのものの意味が失われ、
つまり〈象徴界〉が失われて、
生きている意味や、
肉体の生理やメカニズムそのものの意味の本質が、
失われた今日の日本の世界を描いている。

しかも、答えは描かないことで、
今日の〈現実界〉の文学になっている。

緑子という少女は、
女の肉体、
つまり子供を産むメカニズムを持つ女の肉体の仕組みそのものを、
懐疑し、女として成長することを嫌悪する。
この嫌悪は何故に生まれたのか?
昔は創造主としての神の意志であり、
神の御心の問題として意味が与えられていたのだが、
神の死んだ現在では、回答のない不可思議さと無意味さと、
嫌悪として出現する。
この女自身の不毛性を描写した作品として、
〈21流〉文学の真の正当性を体現した、佳作である。

しかし傑作で名品とは言えないのは、
この小説そのものは〈3流〉の漫画文学(正確にはカリカチュア)だからだ。
カリカチュアとして良く書けているに止まる。

だが、しかし何よりも、文体がすぐれている。
一読に値する。

この文体について石原慎太郎は「一人勝手な調子にのってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい」と、嫌悪を示しているが、
その気持ちは分かる。
しかし、この不快感こそが、彼女の体質そのものを逆転させて文体にした良さなのである。

「豊胸手術をわざわざ東京までうけにくる女にとっての、乳房のメタファの意味が伝わってこない」という石原の感想は、いつもながらに石原慎太郎という人間の限界の提示でしかない。
上川未映子の文学が描いているのは、そもそもメタファではないのである。
メタファが喪失した世界、つまり〈象徴界〉が喪失した欠如の地獄なのだ。
そこにあるのは意味を失った現実だけの乳房であり、
生理の血の世界だ。

本来自然としての意味を豊かに持っていた女の体が意味を失ってしまった故に、
豊胸手術によって生み出される人工の乳房と同位になり、等価になってしまった世界。

かつてのフェミニズムが、
男の視線が女の体をオブジェ化すると非難したのが反転して、
この小説では、
女性が自身を性的オブジェとしてしか認識できなくなった今日の退落が、
少女の苦悩として描かれる。

川上未映子の文体は、丁寧に読むに値する文章と言える。
私は、ある意味で綿矢りさの清廉な輝きのある〈1流〉の文章よりも、
川上未映子の〈21流〉のこの文体に感動した。

使われている大阪弁の良さもさることながら、
饒舌な口語調の、それも女性特有のなまりや省略性、とにかく口語の文体の巧みさ、美しさ、奇妙さ、決定的な《独創性》を孕んだ制御性は、すごいものである。
かつての野坂昭如の饒舌体の貧しさを、遙かに超える切れ味を持っている。

それは小説として〈象徴界〉を失いながら、しかし
書き手の主体としては〈象徴界〉を持つものの執筆だからだ。

ここには意図的に、さらにはそれこそ哲学的に意図された、
方法としての〈21流〉があり、
それが今日の私たちの生きている地獄の世界を描き出す方法になっている。

実際彼女は、通信教育で哲学で学んだ人であり、
その学歴が、最良の文体を生み出している。
これは事件とも言うべき創造性である!

たいしたものだと思う。
私は感動したし、元気になったし、
そしてまたこの〈21流〉という領域の新しい表現の意味を学ぶことができた。

日本の21世紀の文学の始まりとも言うべき根拠を、
彼女の知的で、繊細で、良く工夫された文体に見ることができた。
この現在の地獄を描くには〈21流〉というのは不可欠な方法なのだ。

こう知ると、
建築における〈21流〉の顔を持つオランダ出身のコールハースが、
一人勝ちしてきた理由が分かる。
そしてバクダット出身の女性建築家ザハもまた、
このブログの中で〈21流〉の顔を持つ建築家として紹介したのを思い出して欲しい。

現在の世界を対象化しうる方法として、
〈21流〉の視線は、
方法としての有効性が高いのである。

さて、いよいよ川上未映子の顔である。
〈想像界〉の眼で、〈2流〉美人。
〈象徴界〉の眼で、《8流》〈2流〉《5流》
〈現実界〉の眼で、《5流》の美人。

人相的には、〈象徴界〉〈想像界〉〈現実界〉の3界を持つ人物。
3様態は持っていなくて、気体人間。
たいしたものである。

弟を大学にやるためにホステスをやるという美談の美人だが、
そのまま水商売にのめりこまないクールな聡明さが、
こざかしさと誤解されて見える人である。





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野茂 英雄の顔 [顔/美人論]





茂 英雄、1968年大阪生まれ。

野茂は偉大だ。
1990年、最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と主要四冠を独占。
新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは、野茂のみ。

1990年~1993年の4年間、最多勝利と最多奪三振のタイトルを独占。

1995年にロサンゼルス・ドジャースに入団し、オールスターに先発で出場、13勝6敗、236奪三振の成績で新人王、奪三振王のタイトルを獲得。
日米両国で新人王を受賞したのは現在野茂ただ1人!

1996年9月17日の対ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成。

1998年4月28日、日本人メジャー1号本塁打を記録。

2000年、ブルワーズからデトロイト・タイガースにトレード。日本人初の開幕投手になり勝利を収める。

4月4日の対ボルチモア・オリオールズ戦で1996年に次ぐ2度目のノーヒットノーランを達成。

2005年6月15日のブルワーズ戦で7回2失点と好投し、日米通算200勝を達成する。

「トルネード投法」は美しい。
野茂から、日本のグローバリゼーションが始まったとすら言える。

〈想像界〉の眼で、〈超1流〉のイメージ。
〈象徴界〉の眼で、〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
〈現実界〉の眼で、〈超1流〉

これだけ、すべてで〈超1流〉になる人は、初めてだ。
すごい!

〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉3界同時表示の顔。
固体・液体・気体、3様態同時表示の顔。

ここに、人間の顔の最高とも言うべき美しい顔がある!

2008.01.04 カンザスシティ・ロイヤルズとメジャーリーグキャンプへの招待付きでマイナーリーグ契約を結ぶ。
野茂は、頑張っている。


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イチローの顔(加筆) [顔/美人論]





イチローの顔です。
美しい人という意味で、
美人です。

〈象徴界〉の眼で、〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉の3界同時表示。
固体・液体・気体の3様体同時表示。

〈現実界〉の眼で見て、〈超1流〉。

〈想像界〉の眼で、《8流》のイメージ。

1973年、愛知県生まれのプロ野球選手。

………………………………………………………………………………

ニーチェが「神は死んだ」といって、
実際、近代化というのは、神の死の上に展開されたが、
しかし現実は、アメリカ大統領が宗教勢力の上で選ばれているように、世界中宗教勢力は消えていない。日本にしても創価学会の力は大きいのである。

神というのは、人間の精神的には〈象徴界〉の産物であって、
〈象徴界〉の無い人は、実は神は認識できない。

教会が支配する時代が終わって、
科学が支配する時代になる。
科学というのは〈現実界〉の領域で、
その性もあって、〈現実界〉の精神ですべてが計られるようになるのだが、
こうしたときに、スポーツ選手を見ると、
中田のように、〈想像界〉と〈現実界〉しかない選手は落ちるのであって、
ペレやイチローの様に、〈象徴界〉も持っていて、3界同時表示の顔を持つ選手の方が、
格段に美しいのである。

彦坂流に言うと、
神というのは言葉であり、
しかも《全知全能》という言葉である。

もちろん人間は《全知全能》ではないのだが、
イチローは、バッターとして《全知全能》という概念と向き合っているように見える。
こういう高みを目指す、果敢さが、美しい!


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中田 英寿の顔 [顔/美人論]




美しい人は、女性でも、男性でも、
美人であると、しておこう。

そして、中田 英寿、1977年生まれ、元サッカー選手。

その中田 英寿が、アメリカの男性ファッション誌『GQ』2007年7 月号で、モデルをしているので、
これは美人扱いができるだろうと、
勝手に、思った次第である。

さて美人・中田 英寿の顔である。

〈想像界〉の眼で、〈超1流〉のイメージ。
〈象徴界〉の眼で、〈31流〉の〈超1流〉〈超1流〉
〈現実界〉の眼で、〈超1流〉の現実。

さすが、すごい顔である。

〈31流〉というのは、〈1流〉の反転した領域である。
〈1流〉の反転というのは、実例を挙げるのはまずいが、犯罪領域である。

中田 英寿の顔は、
固体・液体・気体の3様態同時表示されている。
これも、すごい!

気になるのは中田 英寿の顔は、
〈想像界〉と〈現実界〉の顔である。
〈象徴界〉が無いのである。
まずい!!

〈象徴界〉の精神抜きで、
瞬時の判断が必要なサッカーの、
頂点に立てるのだろうか?

生涯1281ゴールを記録した「サッカー史上最高」と評されるブラジルのペレと、
比較してみよう。
ペレの顔である。

〈超1流〉の〈超1流〉の〈超1流〉
固体・液体・気体の3様態同時表示。
そして、
〈想像界〉・〈象徴界〉・〈現実界〉の3界同時表示の顔である。

やはりすごい頂点の選手には、
〈象徴界〉の精神も存在しているのである。

中田 英寿の顔は、すごい顔であるが、
しかし、ペレと比較してしまうと、薄く見えるのである。


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KENJIの顔 [顔/美人論]


コンビニの雑誌置き場で、
気になる顔にであった。

『men'sDigger』という男性ファッション誌である。
ファッションといっても《8流》のマイナーファッションである。

この表紙の中心にいる男性モデル・KENJIの顔に色気がある。
〈41流〉の顔である。

〈想像界〉の眼で、〈3流〉のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈41流〉の《8流》の《8流》
〈現実界〉の眼で、《8流》の現実である。

〈41流〉の《8流》という組み合わせは、
ヤクザ映画にはたくさんある水準。

だからKENJIの顔は、チンピラの顔である。
しかし〈41流〉性があるから、瞳は恐い。
顔に殺気と、エロスがある。

さてこの表紙に登場しているモデルの格付けを、
〈象徴界〉の眼で、しておく。

一番右・〈31流〉、〈現実界〉の顔。
中央右・〈1流〉、〈想像界〉の顔。
中央左・〈41流〉、〈現実界〉の顔。
一番左・《8流》、〈想像界〉の顔。

つまり〈31流〉〈1流〉〈41流〉《8流》という4人のモデルが、
混在しているのである。
〈想像界〉の顔と、〈現実界〉の顔も混在している。

こういう混在の時代であると思うのである。
多様性の時代である。
しかし〈象徴界〉の顔がいない。

だから作品も多様につくる必要があるのではないか(笑)。
まだギャラリー手の個展はやっていますが、
作品、特にウッドペインティングの10点が、
似ているようで、変化があるという評価はもらっている。

作品は17点売れています。
まあ、成功と言えます。

それと同じ時期、隣のギャラリー山口で、
加藤力さんの個展が開催されています。
加藤力さんは、ラカンの読書会で一緒にやっているアーティストです。
ここでも作品が9点売れています。
良かったです。


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川上弘美の顔 [顔/美人論]



川上弘美の1996年 (平成8年)第115回芥川龍之介賞を受賞した『蛇を踏む』は、
すばらしい小説で、私は感動した。
だから彼女の登場を喜んだのだったが、
その後のものは、どうも面白くない。
一発屋なのか?

2001年第37回谷崎潤一郎賞受賞の『センセイの鞄』も読んだが、
こうしたレトロ小説が評価されることは理解できるにしろ、
私には面白くなかった。

川上弘美は1958年(昭和33年)年、東京生まれ。
お茶の水女子大学理学部生物学科卒業。

さて川上弘美の顔である。
言語判定法で見ると、

〈想像界〉の眼で、《6流》のイメージ。
〈象徴界〉の眼で、《6流》の《6流》の《13流》
〈現実界〉の眼で、〈13流〉の現実である。

《6流》は自然領域。天然である世界である。
〈13流〉というのは、喜劇、漫画の領域。
〈13流〉が出てくるところに、
この人の秘密があるのかもしれない。

つまり自然領域+漫画領域の人である。
自然主義文学に漫画感覚が合体しているのだ。

精神的には〈想像界〉の人である。
イメージとか、ファンタジーの世界に生きている人。
『センセイの鞄』にしても、
先生とのファンタジーである。
そこには〈象徴界〉的葛藤もなければ、
現実界が出現するようなカタストロフィもない。

それと液体人間である。
つまり近代に生きている人である。
若いのに現代の気体化した混乱の中を生きていない。

彼女の小説に出てくるレトロ感覚は、
実は近代が終わって、
レトロになった事で成立する追憶的なものと言える。
新骨董文学である。

文壇的には、
若いくせに、
多くの選考委員をしている。
それは近代人という古さが、
文壇の古さと波長が合うからではないか。
文壇的長老達にとって、
安全パイなのだ。

正直言って、
つまらない。

2007年、第137回芥川龍之介賞受賞した諏訪哲史の「アサッテの人」を、
選考委員の川上弘美はほめていたけれども、
「アサッテの人」は〈想像界〉の薄っぺらなファンタジー小説に過ぎないものに、
私には読めたから、彼女の意見を馬鹿にして読んでしまった。

まあ、そういう意見というのも、
私が〈想像界〉だけが目立つ精神が作り出す文学観を、
低く見ているからだろう。

〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉の3界を持つ精神の運動としての文学を読みたいと思うのは、時代錯誤なのだろうか?


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辛酸なめ子の顔 [顔/美人論]




さて、辛酸なめ子である。

皇居美術館空想というプロジェクトを、
私が推進していることもあって、
彼女の『皇室へのソボクなギモン 』という本は買って読んでいる。
この人の『週刊文春』連載のものも読んでいるが、
コラムニストとしてもなかなかの〈41流〉性で、
すばらしいと思う。

しかし、なにより、まず、「辛酸なめ子」というネーミングのすばらしさである。
これには驚きがあるし、この名前の〈41流〉性は傑出している。

1974年生まれだから、今34歳。
武蔵野美術大学短期大学部デザイン科卒業の漫画家、イラストレイター、そしてコラムニストである。

漫画やイラストも、ヘタウマ系とはいえ、立派に〈41流〉であって、
正確には〈41流〉の《6流》の〈3流〉である。
《6流》というのは自然領域。
〈3流〉はポップ領域。
そして〈41流〉は地獄領域、戦争領域。

さて、いよいよ彼女の顔である。
〈想像界〉の眼で、《8流》のイメージ。
〈象徴界〉の眼で、〈41流〉〈41流〉〈41流〉
〈現実界〉の眼でも、〈41流〉

表情の底に、かなりの絶望が透けて見えるような気がするのは、
私の思いこみだろうか。

〈想像界〉の人格。
そして気体人間。

〈想像界〉の鏡像地獄を生きる〈41流〉美人としては、
中村うさぎと、双璧の顔である。
下の写真は、の中村うさぎと、辛酸なめ子のツーショットである。






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金原ひとみの顔(再論) [顔/美人論]

今出ている雑誌『AERA』の表紙が、金原ひとみ であった。
これには驚いた。

かつての《16流》性は消え、《31流》性も消えて、
普通の《8流》美人になってしまった。

女性というのは、
結婚したり、子供を作ると激変する。
そういう例を直に私も何度も見て来ている。

20歳前後の若い女性の不安定さが面白いものを生むものではあるが、
それが逃げ水のように消えてしまう。
そういう例が多いのだ。

まあ、金原ひとみも、社会的に成功して、
しかも結婚して幸せになったのだろう。
良いことではあるが、
私の興味の埒外である。

良くある普通の、
ちょっと変わった人にすぎなくなった。

友人の清水誠一は、小説を全部読んでいるので話したが、
最近の『ハイドラ』を彼は面白いというのだが、
読んでもいない私が言うのは間違いだが、
しかし、その清水氏の言う面白さを私は信じられない。

『蛇にピアス』の描き出した悲しみの深さを、
高く評価はするけれども、
しかし文学としては《8流》小説に過ぎなかった。
すごいとは、どうしても思えないのだ。

《8流》小説は、どうしてもその限界を持っている。
その世界を良いと思える人には面白いのだが、
良いと思わない人には馬鹿馬鹿しく見えるのが《8流》である。

《8流》領域は信仰の世界である。
鰯の頭も信心からで、信じればすばらしく見える。

そういう閉鎖価値空間の限界を彼女が乗り切ったとは、
思えないのだ。

社会的に成功し、
映画にも出演して、
社会性を拡大していくことは素晴らしいことではあるが、
しかしそれは文学的な達成とは別のことである。

しかし読まないで言うのも何だから、
立ち読みで3頁は読んでみようとは思うが、
私の守備範囲ではないように思える。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日は『アミービック』を文庫で買ってしまって、
《8流》だと悪口を言いながらも読み進んでしまっている。

冒頭の錯乱した文章は良くて《8流》とは言え文学しているというか、
前衛性があって、オッと思わせるが、
残念なのは、この錯乱期の文章がもう一度出てこないことだ。
ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』のような長さでなくても、
一頁くらいの、錯乱の文章を書いて欲しい。

とは言っても読了はしていないから、
期待して読むしかない。

出てきた。
錯文は、しかし今一。
もう一つ踏み込んでも良いのではないのか。
最初にあった誤植や、意味不明の言葉が欲しい。

何らかの意味での私小説として読者は読まされるから、
その意味でこの小説は〈想像界〉のB級小説でありながらも、
〈現実界〉が同時表示されているかのような錯覚で読むことになるが、
しかし文学としては〈現実界〉を持っていない。

多用されるタクシーの運転手との会話もリアリズムが欠けている。
拒食症の描写も、観念的である。
拒食がイメージでしかなくて、実例の研究や学習不足がある。
ケーキがたくさん作られて壊されるが、
これもイメージでしかない。

悪い作品も見るべきであるし、《8流》文学もまた読むべきなのは確かだと思うので、
まあ、逃げられなくなったから読み続ける。

だが、
少なくとも言えることは、金原ひとみは、
純文学者ではないが、商業主義のプロの文章書きだ。
《8流》の限界性の中で、それなりに飽きさせず、
ガラッガラッと場面展開して、
読者の覗き趣味を刺激しながら、読者を引っ張っていく。

何故に、現在学歴のない書き手が、
世界的にも台頭してくるのか?
少なくともこの秘密を解き明かしてくれるライターであることは
確かかもしれない。


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金原ひとみの顔 [顔/美人論]



金原ひとみ。小説家。
2004年第130回芥川賞を受賞した『蛇にピアス』は読んだが、
ほかのものは読んでいない。

非常に悲しみに満ちた小説で、その事は高く評価するが、
しかし《8流》小説で、痛みに満ちていて、
私の神経では、読み通すのは、我慢が必要であった。

彼女の眼は怖い。
狂気を感じる。

顔は
〈想像界〉の眼で、《6流》美人。

〈象徴界〉の眼で、〈31流〉の《8流》の《16流》
つまり〈31流〉美人である。

〈現実界〉の眼で、《16流》美人

〈31流〉というのは犯罪領域。
《8流》は信仰領域。
そして《16流》というのは、崩壊とか廃墟の領域である。

そういう意味で、
彼女の顔は恐い。

小学校4年生のとき不登校になっていて、
中学、高校にはほとんど通っていないという人である。

昔は東大での人が小説を書く事ができた時代であったが、
今は、中学卒のような人が小説を書く時代になっている。
柳美里は中学卒の学歴だし、
花村 萬月も中学卒である。

こういう時代の書き手として、
金原ひとみは、傑出しているのかもしれない。
固体・液体・気体の3様態を持っている。
〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉の3界も持っている人で、
そういう意味で、すぐれた人物であると言える。
しかし、とにかく《16流》という崩壊領域を内包した、
恐い眼を持っている
そして深い悲しみをたたえている〈31流〉美人である。
すごい!




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