ニッコロ・マキャヴェッリの《第21次元》性 [顔/哲学者]
ルドルフ・シュタイナーの《第8次元》性と芸術 [顔/哲学者]
ソクラテスの顔/批評の基礎 [顔/哲学者]
吉本隆明の顔(加筆3/再校正2) [顔/哲学者]
by コア (2008-04-04 13:37)
註・《31流》というのは、社会的理性の反転領域ではありますが、同時に、老人を指し示しています。
ラカンの顔 [顔/哲学者]
2007年12月12日(木)
上の写真は、ジャック・ラカンとダリが会っている写真である。
ダリのパラノイア的な方法は、ラカンが1932年に書いたパラノイアに関する論文の影響から生まれた。
しかし私は、実は、ダリの絵を、絵画としては評価していない。
ラカンの顔は、
〈想像界〉の眼で、〈1流〉のイメージである。
〈象徴界〉の眼で、〈超1流〉〈41流〉〈超1流〉
〈現実界〉の眼で、《8流》の現実である。
思想家・哲学者として立派な1級の人物と言える。
ラカンの著作は難解であると、言われる。
この難解さは翻訳によって生じているのではなくて、
フランス語段階で、極めて難解である。
これを人相から見てみよう。
言語判定法で見ると、
ラカンの顔は、《固体》である。
つまり前近代の顔をしている。
フロイトが《液体》で、近代主義者の顔をしているのと、
対比して考えると、
ラカンは、フロイトの精神分析を、前近代的な思想や思考に押し戻したと考えることができる。
ラカンは理論的にも難解ではあるが、それ以上に、語り口が逆説的で、晦渋な言い回しをしきりに用いているが、それはこの近代の精神が生み出した精神分析を、前近代的な思想形態の押し戻す作業故に生じたと、私は思う。
ラカンが「フロイトへ帰れ」といって、
フロイトへの個人崇拝を方法化し、
そしてまた自分自身への忠誠を要求し、
個人崇拝性を強く帯びていったのことも、
こうした前近代の顔を持っている故であると思う。
表面的には、ラカンは数式風の表現をとって、数式化をしているが、これが難解で失敗しているのは、本質的にラカンの精神が固体であって、前近代的であるからである。
精神的には〈象徴界〉だけを持っていて、
〈想像界〉〈現実界〉が無い顔である。
つまり彦坂尚嘉流の分析では、三界同時表示の人物ではない。
その事の、浅さというか、不十分さは、ラカン思想につきまとっていると言える。
繰り返しだが、
ラカンはフロイトの精神分析を、
固体に押し戻すことで、
一定の生産性をもたらしたが、
私見では、この気体化が必要であるのだ。
この作業を切り開いている知性として、
私は鈴木謙介氏を、高く評価するのである。
ラカンと鈴木謙介をつなげた研究を書いてみたいものである。
鈴木 謙介の顔 [顔/哲学者]
2007年12月6日(金)
遅ればせながら鈴木謙介著『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)を読んだ。
実は読む前に、顔を、言語判定法で分析して、
読むに値する人物かどうかを判断してから読んだ。
さて、その顔の判定である。
まず、普通に想像界の目で見ると、
6流のイメージである。
ところが象徴界の目で見ると、
《超一流》《超一流》《超一流》
しかも想像界、象徴界、現実界の3界同時表示。
個体/液体/気体の3様態同時表示の知性である。
たいした才能と言える。
実に良く書けていて、たいした才能の学者であると思った。
フーコーの顔 [顔/哲学者]
2007年12月6日(木)
ミシェル・フーコーの顔を見てみる。
〈象徴界〉の眼で、〈超一流〉〈超一流〉〈超一流〉
〈想像界〉の眼で、《8流》のイメージ
〈現実界〉の眼で、〈超一流〉の現実
〈41流〉性がないのは意外だが、
良い顔をしている。
〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉、3界を同時に持っている人。
固体・液体・気体の3様態を同時に表示できる人。
なかなかすごい人物で、読むに値する哲学者と言える。
ドルゥーズ・ガタリの顔 [顔/哲学者]
2007年12月5日(火)
哲学者ジル・ドルゥーズの著作『記号と事件』を買って、
読んだ。
基本的な疑問を感じたので、
顔を見てみることする。
〈象徴界〉の眼で、《8流》《8流》《8流》
〈想像界〉の眼で、〈1流〉のイメージ
〈現実界〉の眼で、《8流》の現実
〈象徴界〉の人物。
液体の人物(モダニスト)
まあ、たいした人物ではない。
思想家としては、落ちる。
もう一人のガタリの顔である。
これも
〈象徴界〉の眼で、《8流》《8流》《8流》
〈想像界〉の眼で、〈1流〉のイメージ
〈現実界〉の眼で、《8流》の現実
〈想像界〉の人物。
液体の人物(モダニスト)
このドルゥーズ・ガタリで、
『アンチ・オイディプス』などの著作が書かれたが、
この内容も《8流》と考えるべきではないのか?
あの奇妙な造語の数々も、
ガタリの〈想像界〉の人物性によるファンタジーではないのか?
カントの顔 [顔/哲学者]
2007年11月5日(月)
カントは、読めないできている。
キルケゴール、デカルト、パスカル、フッサール読んできたが、
カントは、歯が立たなかった。
中島義道氏は、専門はカントなので、
何とか読もうというのが、私の気持ちだ。
何故にカントは、翻訳で読むのが困難なのか?
中島氏の言うには、カントがラテン語を前提に書いているからだそうである。
たとえば修飾語の位置が、ラテン語であると、かなり遠くても成立するそうである。
さて、読む前に顔を見てみよう。
とは言っても、写真の無い時代なので、
絵になる。
その中でも一番信頼がおけそうな肖像画である。
〈想像界〉の眼で、《8流》のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈超1流〉〈1流〉《8流》
〈現実界〉の眼で、《8流》
《8流》が随分と出てくる人だ。
その辺もあって、読みにくいのかもしれない。
《8流》は宗教の領域。
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この肖像画は、流通している1枚だが、
理想化されていて、嘘に満ちている。
〈想像界〉の眼で、〈超1流〉のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
〈現実界〉の眼で、〈超1流〉
こういう肖像画で、騙されてはいけない。
中島義道氏の著作『モラリストとしてのカント』には、
カントの顔の変遷と、肖像画と胸像彫刻、デスマスクの
分析が載っている。
中島氏は、デスマスクを悲惨と見て、
残されている肖像画との距離を分析して、
このブログの最初に掲載した、事実に近い肖像画を、
次のように、
辛辣に書いている。
>小心で実直な職人が、
>やや猫背であまりに合わない正装で登場しており、
>どこを捜しても精神の輝きの片鱗も見られない。
私の分析は、すでに述べたように《8流》が多いが、
しかし〈超1流〉性を持った人物の顔で、
保守的で、小心で、職人性に満ちてはいるが、
読むに値する人物ではあると考える。
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ここで、中島義道氏の顔も見ておこう。
〈想像界〉の眼で、〈1流〉のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈1流〉〈1流〉〈1流〉
〈現実界〉の眼で、〈1流〉の現実
すべて〈1流〉の、なかなかの人物である。
たしかに真面目だし、誠実な方である。
分析を進めると、〈想像界〉と〈象徴界〉が無くて、
〈現実界〉の精神を持った人物である。
これは、一つの驚きではあるが、
彼の性格を理解する分析結果ではある。
ウイキペディアによると中島義道氏は、
>勤める大学の入学式や卒業式に出席しない。自分の父や母の死を知人、周辺の近しい人に報告しない(つまり、その葬儀には自分の知人や近しい人は一切出席しない事になる)。姪の結婚式に呼ばれても出席しない。パーティーにも出ない。つまり、一切の儀式を拒むという行為が挙げられる。
中島義道氏は、式典の意味を理解できないようなのだが、
それは氏が、〈現実界〉だけの精神を持たれていて、
〈想像界〉や〈象徴界〉の精神では社会を見ていないから起きることであると、
私は思う。
それと、氏の顔は、《去勢》されていない顔である。
このことも、社会的式典に参加しないことを説明している。
中島義道氏の著作の明快さと、面白さは、
氏のこうした精神構造が生み出していると、
私は理解する。
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哲学とは何か?
乱暴に言えば、もはや過去のものである。
古い近代特有のもので、終わったと言える。
終わったものであっても、
再び、哲学は何であったのか?
と、問うことは出来る。
再び乱暴に言えば、
それは神という言葉を使わない神学であったと言える。
そういう意味で、カントの顔が《8流》をたくさん持っているのは、
理にかなっている。
哲学とは、神無き宗教であった。
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今日とは、いかなる時代であろうか?
彦坂尚嘉の考える現在は、
《文明の中の野蛮》という把握である。
文明と野蛮が、入り交じっている世界である。
ここにおいては、近代哲学は、
過去の遺産として意味を持つだけである・
しかし、より普遍的な基準の学問は、
実は近代哲学ではなくて、
古代哲学である。
カントを読むくらいなら、
アリストテレスやプラトンを呼んだ方が良い。
インドの初期ヨーガ教典や、仏典がよい。
さらに老子や荘子、墨子、孔子、孫子などの中国哲学の方が、
意味がある。
と私は、思うのだが、
カントも、私のようにまるっきり読んでいないというのは、
自分自身の問題としても、
興味深いのである。
何故に、読めないのか?
もしかすると、
中島義道氏のように〈現実界〉の精神で読むべきなのかもしれない。
ここまで書いてきて、
気がついて、カントの顔を再度《言語判定法》で分析すると、
カントは〈現実界〉の顔であった。
〈想像界〉〈象徴界〉を持っていないのである。
そうすると、カント哲学は、実は科学であるのかもしれない。
科学というのは〈現実界〉の精神で出来ているのだから、
科学の時代の哲学として、
カントの哲学は、〈現実界〉の哲学であったのだ。
よし、読むぞ!(笑)。