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ニッコロ・マキャヴェッリの《第21次元》性 [顔/哲学者]

理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治を宗教・道徳から切り離して現実主義的な政治理論を創始した。

マキャヴェッリ自身は、あまり「マキャベリスト」ではなく公的なキャリアはあまり振るわなかった。その一因にはやはり自分の主張をはっきり公言してしまう彼の性格があったのは間違いない。

劇作家としてもかなりの名声を博していた。私生活においては陽気なお喋りで、飲む・打つ・買うが大好き、また良き夫、良き父親でもあった。

彼の理論は「フォルトゥーナ」(fortuna, 運命)と「ヴィルトゥ」(virtù, 技量)という概念を用い、君主にはフォルトゥーナを引き寄せるだけのヴィルトゥが必要であると述べた。『リウィウス論』では古代ローマ史を例にとり偉大な国家を形成するための数々の原則が打ち立てられている。全てにおいて目的と手段の分離を説いていることが著作当時おいて新たな点であった。

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ルドルフ・シュタイナーの《第8次元》性と芸術 [顔/哲学者]

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ルドルフ・シュタイナーの顔
《想像界》の眼で《第8次元》《真性の人格》
《象徴界》の眼で《第8次元》《真性の人格》
《現実界》の眼で《第8次元》《真性の人格》

《想像界》の人格
固体人間
《シリアス人間》《ハイアート的人間》

シニフィエ(記号内容)的人間
『真実の人』【B級の人物】

ルドルフ・シュタイナーという人は、
昔のオーストリア帝国出身の神秘思想家で、
人智学の創始者、哲学博士です。

神秘思想というのは、近代以前のものと、
近代になって、ほぼ19世紀から20世紀になって出てくるものは
違います。

シュタイナーは、この近代の神秘思想家です。
他には、ヴィヴェーカーナンダ(インドのヨーガヴェーダーンタ
哲学の霊的指導者、1863〜1902) 、
ゲオルギイ・グルジエフ(ロシアの神秘思想家、1866〜1949) 
ピョートル・ウスペンスキー(ロシアの神秘思想家、グルジェフの系譜、
1878〜1947)
ナーラーヤン内垣/内垣日親(金光教系の神秘化で、日本ヴェーダンタ・ソサイティの創立者、1924〜) 


現代のもいます。
ケン・ウィルバー(1949〜)

私の《言語判定法》の判断では、
そのシュタイナーは、《想像界》だけのの人格の人です。
ですから彼の神秘思想は、《想像界》のファンタジーに過ぎないと、
私は判断します。
しかも固体人間です。
つまり前近代の古い人格を基盤に、ファンタジーを語っている人に、
彦坂尚嘉には見えるのです。

そのくせシニフィエ(記号内容)的人間なので、
その《想像界》だけの人格から出る脳内の妄想を、
そのまま思想として語ったのであろうと、
かなり乱暴ですので、お怒りの方も多いとは思いますが、
大まかに言えば、私はそのように判断するのです。

《第8次元》というのは、信仰領域で、信仰の自由はありますが、
最終的には、認識や思想の領域ではありません。
信仰の自由はあるので、シュタイナーを信じる人は、
それはそれで良い事で、その方々を侮辱するつもりは
私には、無いのです。

シュタイナーの評価の高さは、その人智学という独特の思想と、
そしてそれが教育運動になって、シュタイナー学校というものが、
世界中で、展開されているからです。
シュタイナーは、生前にヨーロッパ各地で行った講義は生涯6千回に
及ぶものですが、それらの多くは、仲間の内側での話と言う事です。

私は、
シュタイナーの影響を受けて、フリースクール等々の活動をなさって
いる方々の足を引っ張るつもりも無いのです。


それで、この文章は、あまり書きたく無かったのです。
あくまでも外側から見たときの、《言語判定法》による判断と
言う事に、過ぎません。

ところが建築系美術ラジオを聞いてくださって、
長いメールをくださった方がいて、
このシュタイナーと、彼の建築について書いていて、
それと私の美術と建築の関係を重視する発言を重ねておられたので、
考えを書く必要に迫られたのです。

私は、シュタイナーの思想や美術建築について、
それほど学んではいないのです。
前にワタリウムで開かれた展覧会は見ていますが、
基本的な水準が低くて、私には、評価できないのです。

後で述べますが、私は、シュタイナーの建築の評価も低いのです。

◆2◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《想像界》の哲学者で、有名な人はジャン・ボードリヤールがいます。
ボードリヤールは、ポストモダンのフランスの思想家で、
消費社会の神話と構造』(1970年/日本では1979年に出版)は、
美術にも大きな影響を与えた本でありました。
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《想像界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント的人格
《象徴界》の眼で《第6次元》のデザイン的エンターテイメント的人格
《現実界》の眼で《第6次元》の《真性の人格》

《想像界》だけの人格
気体人間

《気晴らし哲学の人格》《ローアート的人格》

シニフィエ(記号内容)的な人格
『平気で嘘をつく人たち』【B級の人物】

ボードリヤールの消費社会論を、
一番、たぶんですが速く取り入れたのが川俣正で、
かれの芸術=消費論は、『工事中』という彼の最初の作品集にも出て来ます。
そしてこの流れが、ついこの間までの過剰バブルアートを
出現させたのです。

それはロバート・J . シラー的に言えば『根拠なき熱狂』であったのです。
こうした熱狂が、実は《想像界》の精神に乗った
ファンタジーであったのです。
川俣正の作品もまたファンタジーであって、夢がさめれば、
芸術的な根拠は、なにも無いのです。

さて、そこで《想像界》だけの思想家と、彦坂尚嘉が判断するシュタイナーの顔とボードリヤールの顔を並べて見ましょう。
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シュタイナーの顔             ボードリヤールの顔
《想像界》の眼で《第8次元》《真性の人格》《想像界》の眼で《第6次元》デザイン的人格
《象徴界》の眼で《第8次元》《真性の人格》《象徴界》の眼で《第6次元》デザイン的人格
《現実界》の眼で《第8次元》《真性の人格》《現実界》の眼で《第6次元》《真性の人格》

《想像界》の人格              《想像界》だけの人格
固体人間                   気体人間
《シリアス人間》《ハイアート的人間》    《気晴らし哲学者の人格》《ローアート的人格》

シニフィエ(記号内容)的人間。        シニフィエ(記号内容)的な人格
『真実の人』【B級の人物】          『平気で嘘をつく人たち』【B級の人物】

ルドルフ・シュタイナーの評価は、
高く評価する人がいるのは知っていますが、
ボードリヤールと比較しても、《第8次元》と《第6次元》で、
ボードリヤールの方が格としては、上の次元なのです。
《第8次元》というのは信仰の領域で、信じれば、良いと思える
領域です。牛丼屋で言うと『すき家』が《第8次元》です。
《第6次元》は、自然領域です。『吉野屋』の牛丼が《第6次元》。
というわけで、吉野屋の方が美味いように、
ボードリヤールとシュタイナーという《想像界》の思想では、
ボードリヤールの方が、なんとかかんとか言っても、
美味しいのです。

もっとも吉野屋の牛丼も、不味いと言って食べない友人が2人いま
すが、それももっともな意見であって、
ボードリヤールも哲学者としては低くて、不味いのです。

ですので、私のルドルフ・シュタイナーの評価は低いのです。

◆◆3◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


さて、シュタイナーの問題で一番大きいのは、
《想像界》の人格だけの哲学者の思想
と言う事です。

哲学には、実は3種類あるのです。
《想像界》だけの人格の思想。これがシュタイナーです。
《象徴界》だけの人格の思想。この代表の独りがニーチェです。

そして《現実界》だけの人格の思想です。カント哲学です。

この3人の顔を並べて見ます。


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シュタイナー    ニーチェ         カント
《第8次元》    《超次元》        《超次元》
《想像界》だけの人格  《象徴界》だけの人格      《現実界》だけの人格




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ソクラテスの顔/批評の基礎 [顔/哲学者]

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《批評》という言葉で、私が言おうとしているのは、日本の美術評論家の書いている様なものではないのです。その多くは《常識文》であって、《批評》ではありません。

だれもが書ける様な常識をただ無批判になぞった《常識文》は、《批評》とは言えないのです。

日本の現在の美術評論家で唯一の例外は、藤枝晃雄氏の評論で、彼の文章は《批評》たりえていると思います。

その潔癖性的欠点を含めて、私は氏の評論をトータルに尊敬していて、藤枝批評を師として仰ぐものであります。事実多くを学んで来ているのです。

さて《批評》という言葉をめぐって、実は老子、エックハルト、パスカル、デカルト、モンテスキュー、キルケゴール、フッサール、ブーバー、北畠親房、本居宣長、内村鑑三、谷川雁、今道友信と言った調子で、多くの思想家や哲学者を上げたくなるのですが、短く書きたいので、一人をあげれば、ソクラテスです。

ソクラテスの顔です。
《想像界》の眼で、《超1流》。
《象徴界》の眼で、《超1流》から《41流》の重層的人格。
《現実界》の眼で、《超1流》。
この肖像彫刻の信憑性は分からないですが、
この像で見る限りでも、優れた人物であります。

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ジャック=ルイ・ダヴィッド作「ソクラテスの死」(1787)
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

伝えられるところでは、
ソクラテスは、アテナイに生まれ、生涯をアテナイに暮らしています。ドイツの哲学者イマヌエル・カントが東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で生まれて、生涯をその地で過ごしたのと似ています。

父親は、石彫家ソプロニスコスですソクラテスは、この彫刻家である父を尊敬していなかったようです。それは、一つは手を使う石彫家という職業が、手を使う事自体が奴隷の仕事で、ギリシア市民にとっては下級であり、ギリシアの彫刻家というのも奴隷に準ずる階級であったことによるものであったようです。

母親は、助産婦のパイナレテ。このことと、ソクラテスの問答法が、「産婆術」と呼ばれているのは、深い関係があるのです。ソクラテスは対話を通じて相手の持つ考え方に疑問を投げかける問答法により、哲学を展開していきます。その方法は、自分ではなく相手が知識を作り出すことを助けるものなのであるとされています。

基本的にあるのは、《常識》に対する懐疑です。これは彦坂尚嘉の精神の基本的な性格でもあるのです。《常識》は、一つの迷信でしかない可能性があるのです。この《常識》にたいする疑いを、対話の中で展開することで、ソクラテスは多くの人々の憎しみをかいます。

当時の知識人たちは《常識》にだけ知の基盤を置いていた為に、ソクラテスの対話が持っている《反省的思考》が持つ破壊性を、憎んだのです。

結局人間は、無知無能であり「知っていると言っていることを、実は知らないのだ」ということを暴かれて、相手は論破され恥をかかされたとして、ソクラテスを憎むようになったのです。このため、「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」等で公開裁判にかけられ、死刑になりました。

ただこの死刑は、逃げられるもので、牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったのですが、自身の知への愛(フィロソフィア)を貫き、死を恐れずに、殉ずる道を選んだのです。

このソクラテスの死に見られる様に、《常識》という迷信を疑い、それを反省しようとする《反省的思考》は、社会や民衆から、殺される運命にあるものなのです。そのことは、今も変わりません。

ですから、死に殉ずる意志がない限り、《批評》は成立しないのです。【殉死】に於いて、世界を見る精神こそが、《批評精神》なのです。




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吉本隆明の顔(加筆3/再校正2) [顔/哲学者]

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吉本ばななが、
固体の人と言うのはちょっと意外でした。吉本隆明さんもそうなのでしょうか。 
by コア (2008-04-04 13:37)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

コアさんは、上記のようなコメントくださった。
これに答えて、
吉本隆明の事を書く。

まず、吉本隆明は、液体の人、
つまり近代人です。

それに対して、娘のばななは、固体の人。
つまり前近代人です。

ばななは、退化したのです。

彼女の書く小説は、
近代的な小説ではなくて、
前近代的な物語に回帰したものです。
そうする事で、循環系という領域を示し得ているとは言えますし、
世界的な人気を勝ち得たのではありますが、
それが文学的に優れているとは、言いにくい事なのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

さて吉本隆明の顔です。。

《イメージ判定法》で《31流》。
《言語判定法》で《8流》。
《現実判定法》で《8流》。

註・《31流》というのは、社会的理性の反転領域ではありますが、
同時に、老人を指し示しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《想像界》の人である。
《象徴界》と《現実界》は無い。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

他の哲学者の顔を比較して見ましょう。

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吉本と、ニーチェである。目つきの水準が、格段に違うのです。
ニーチェの顔を格付けしてみます。
《イメージ判定法》で《超1流》。
《言語判定法》で《超1流》から《41流》の多層的重層的人格。
《現実判定法》で《超1流》。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《象徴界》の人です。《想像界》と《現実界》は無いのです。だから、ブレーキの無い自動車のように、アクセルだけで、ニーチェの思想は暴走したのです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ニーチェと吉本隆明を比較した時に、
一番大きいのは、格の差の大きな差もさることながら、
ニーチェが《象徴界》だけの人であるのに対して、
吉本隆明は、《想像界》の人であることです。

日本の中で吉本隆明は、大変な人気があります。
私の回りでも吉本を信奉する人は何人もいます。

しかしそれはその信奉者もまた《想像界》の精神しか無くて、
実は、真面目には本を読んでいないからです。

本を真面目に読んでくると、失望に至る思想家が、
吉本隆明です。

その理由を、きちんと書くのは、たいへんな作業がいるので、
顔を、絵画のように鑑賞する事で、批評しようとしているのです。

思想家を、顔を絵画的に鑑賞する事で批評できるのかどうかは、
疑問をもたれるかもしれません。
実際に読まなければ分からない事があるのは当然ながら、
しかし、逆に読んでも分からないことがあるのです。
読まずに、顔を先に見てみるのも、
大きく把握するには、
大切なのです。

吉本西田.jpg

吉本隆明と、西田幾多郎です。
吉本が《31流》《8流》《8流》であるに対して、
西田幾多郎は、
《イメージ判定法》で《1流》
《言語判定法》で《超1流》から《7流》の多層的重層的人格。
《現実判定法》で《1流》

吉本が《想像界》しかない人格なのに対して、西田は、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもっていて、格段にすぐれているのです。
吉本が液体人間であるのに対して、西田は、絶対零度/固体/液体/気体の4様態を持っています。
人格的精神的な、総合力が、格段に違うのです。

西田哲学を批判する事は出来ますが、しかしそれでも、哲学としての最低限の言語存在性があるのです。
西田の基本的間違いは、哲学の基盤に禅を据えた事です。禅というのは、不立文字において成立し、個人崇拝を基礎とする教外別伝を原則として、家元制度的な師資相承を重視しているのです。それはラカンのフロイト崇拝のやり方に、ある意味では良く似ている個人崇拝のシステムなのです。
禅というのは、宗教史的には、中国において登場した、《象徴界》を否定した《現実界》の宗教なのです。しかし日本の禅宗は、《現実界》の宗教としては退化したものであって、《象徴界》の宗教との混濁性を強く持っています。
《現実界》の哲学そしてはカント哲学がありますから、不立文字の規範を超えて、カント的な《現実界》の哲学として西田哲学を、科学時代の存在哲学として屹立させる事はあり得たと思います。
しかし鈴木大拙も西田幾多郎も、禅を、人類の宗教史の中にきちんと位置づけることが出来なくて、《象徴界》の哲学として誤読していたのです。《象徴界》と《現実界》の狭間に、西田哲学の矛盾も破綻もあったのだと思います。

さて吉本隆明は、人気はありますが、
それはろくに本も読んでいない人々の人気であって、
「吉本哲学」といったものが確立された訳ではないのです。

そして、確かに2回の安保闘争において、
大きな思想的影響を与えはしましたが、
それにも関わらず、「吉本思想」と呼ぶべきものが、
状況を超えて言語として屹立してはいないのです。

その根本が、《想像界》の思想に過ぎないことがあり、
時を超えて存在する言語の屹立性を欠いているのです。

そうしたことは吉本隆明だけではない事で、
《想像界》だけの言語に、私は深く失望しているのです。

たとえば柄谷行人もずいぶん読みましたが、失望しました。
柄谷批判は、拙著『彦坂尚嘉のエクリチュール/日本現代美術家の思考』でも、
これはきちんと分析的に批判しています。
本質批判を書いたつもりです。

柄谷行人.jpg
柄谷行人の顔

《イメージ判定法》で《8流》。
《言語判定法》で《8流》。
《現実判定法》で《8流》。

《想像界》の人。
《象徴界》《現実界》の無い人。

液体人間。

吉本隆明と同一の精神次元を示しています。

こういう人たちの執筆に対する、失望なのです。

若い人では、東浩紀の存在です。

東.jpg

東浩紀の顔
《イメージ判定法》で《8流》。
《言語判定法》で《8流》。
《現実判定法》で《8流》。

《想像界》の人。
《象徴界》《現実界》がない。

気体人間。

固体の人(前近代人)

液体と気体の差はありますが、
東浩紀もまた、吉本隆明と同じ精神次元なのです。

こういう《想像界》の人間の執筆そのものに、
私は、もはや意味を感じないのです。

東浩紀も、初期の数冊は買っているし、
最近の新書判も買って、読んでいますが、
透徹性は感じられません。

東浩紀のデリダ論は、基本的に錯誤の産物です。
東浩紀は、固体の人(前近代人)であって、
デリダと言う気体人間(現代人)の思想を、誤読しか出来ないのです。

最近の著作でも、まず感じる事は、この固体の人(前近代人)であることの、
混迷さです。

ジャック・ラカンも固体の人(前近代人)であって、
フロイトと言う近代の思想を、前近代に押し戻す逆流の展開をとげたものですが、
ここには、インチキもたくさんあるにしろ、生産性のある思想活動がみられます。

同様にデリダを、前近代に押し戻す逆流の展開を東浩紀がとげるという思想展開は
あり得たはずですが、
しかし《想像界》しかない東浩紀の思考は、表層を愚昧に戯れるだけで、
人間存在の内奥への到達性を示し得ません。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

思想家として見ると、
吉本隆明は、《想像界》の《31流》《8流》《8流》の人で、
ずいぶんと落ちるのです。

繰り返しになりますが、
《想像界》の人であるというのは、
思想家としては、どうしようもない事で、
基本的な才能が欠けているということなのです。

分かりやすく言えば、
子供が、思想家ごっこをして、
そういう振りをしているという、遊びの世界なのです。


なぜなら、思想と言う言語領域は、《象徴界》の世界だからです。

いや、吉本隆明は、歳をとったからであって、
若い時には、違うと言う意見もあるかもしれません。
もう少し吉本隆明の顔を見てみましょう。

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m^yoshimoto.png

若き吉本隆明です。
《イメージ判定法》で《8流》。
《言語判定法》で《8流》。
《現実判定法》で《8流》。

若い顔には《31流》性はないから、
《31流》というのは老人性ということを意味していたと思います。

しかし典型的な《8流》の人です。

《8流》というのは信仰の世界です。
創価学会の信者のようなものです。

自分の信じることにこだわる新興宗教の信者の様な思想家であったのです。
若い時には「軍国少年」であり、
そして戦後は、「あらゆる権威に対する反抗」という下流人間の信仰世界を生きたのです。
「権威としての共産党に対する反抗」という信仰世界もまた、
ある意味での下流人間特有の万能感に満たされて信仰世界でありました。
吉本隆明の根底になるのは下流人間が持つ万能感の充足した世界です。
そこでは充足の中で、革命が忘却されるのです。
あれだけ新左翼に影響を与えながら、しかし新左翼の思想を確実に打ち立て、展開するという事はなし得ていません。
そのことはトーニ”アントニオ・ネグリと比較すると良く分かる事で、ネグリは、1979年の赤い旅団の連座を疑われた以降も、
思想家/哲学者として果敢な展開を遂げています。吉本隆明においては、そのような左翼思想家としての結実はありません。吉本隆明の転向は、その意味で大衆万能感主義故の転向なのです。
ネグリが革命家であり続けるのに対して、吉本隆明は、結局は売文家にすぎないという、疑いを抱かせます。この感覚は、小林秀雄にもあって、売文家以上のものに、私には見えません。
年間3万人を超える自殺者を生む、これだけひどい日本社会に生きて、
なぜに吉本隆明は革命思想を語り続け得ないのでしょうか? 今のこの大衆的悲惨状況の中で、革命を語らないとしたら、2度の安保闘争での発言な何だったのでしょうか?

吉本隆明の世界認識は、信心を超えた説得力を持つものではなかったのです。それは法然を先人として信じた親鸞のような信仰的透徹性にも至りませんでした。親鸞の他力信仰は革命性を持ったものであり、それは一向一揆に結実して行ったのです。信心も自分から信ずる心の意味ではなく、阿弥陀仏から賜ったものであり、すべてが阿弥陀仏の働きであるとする他力本願(たりきほんがん)こそ、下流の万能感を真にその内側から超えて、革命に至る精神世界なのですが、吉本隆明の「大衆の原像」には、そのような万能感の超克の契機がありません。親鸞が最後まで書き続けた教行信証』のような大著のような書き物を、吉本隆明がなし得ているとは、思えないのです。


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私自身は、1960年代の後半から、
吉本隆明の本を、かなりの分量読んで来ています。
最初期の「マチウ書試論」、『擬制の終焉』(1962年)、
共同幻想論』(河出書房新社, 1968年)が、ちょうど学生時代に当たります。
しかし、何もおぼえていない。

『言語にとって美とは何か』は、買いましたが読めていません。
親鸞関係は、ずいぶん読みました。

優れた思想というものは、言語が、ピラミッドの様にガンとして存在しているのですが、この人の言語は、《想像界》の言語であって、ファンタジーに過ぎず、まぼろしのように消えてしまったのです。

多くの人が、『マス・イメージ論』(福武書店, 1984年)で失望して、吉本離れを引き起こしていますが、私自身は、この時には、特に失望はしなかったのです。駄目だと言うことを思い知らされたのは、吉本 隆明 と 大塚 英志の対談『だいたいで、いいじゃない(文春文庫) を読んだ時です。

「だいたいで、いいじゃない」という題名が示している様に、これは日常の自然的な態度での言語世界です。大塚英志自体は、好き嫌いで言うと、好きな人です。1988年から1989年にかけて起きた東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件で、ミヤザキ君を擁護した態度には共感していたからです。しかしこの二人の対談には深い失望を感じたのです。

それは思想ではないです。何よりも《象徴界》の言語領域ではない。哲学というのも、《象徴界》の哲学と、《現実界》の哲学があって、一種類とは言えないところがあるのですが、《象徴界》の言語というのは、説明をしないものなのです。たとえば《象徴界》の言語というのは、「なんじ、人を殺すなかれ」という戒律が典型的です。これは「なんじ、人を殺すなかれ」という言語の戒律として存在するだけで、それ以上の細かいさまざまな現実の多様性を言わないのです。戦争でも人を殺してはいけないのか?正当防衛はどうなるのか?といった現実の世界の外に、戒律言語は「物差し」ととして、屹立するのです。いっさいの説明も、議論も、証明もないのです。たとえばキルケゴールの『死にいたる病』というのは、冒頭で「人間とはなんであるか。人間とは精神である。精神とはなんであるか。・・・」とはじまりますが、何故に人間とは精神であるのかを、説明しないのです。論証もしないのです。

思想というのも、様々な次元がありますが、《象徴界》の言語というのは、こういう「物差し」の言語なのであって、日常に於ける多様な、自然な世界ではないのです。つまり「人間とは精神である」という物差しを提示して、その確立を遂行するのです。「物差し」というのは、1メートルは、1メートルとして厳密にメートル法を組み立てなければならないのであって、だいたいでは駄目なのです。だからといって実は「物差し」は多様であります。メートルだけでなくて、尺貫法でもいいし、ポンドヤード法でも良いのである。どうにでもなるのです。しかし基準として確立したら、動かしては駄目なのです。北極星のように、相対的にではありますが絶対的に動かない事で、機能するものであるのです。それがだいたいでは、駄目なのです。根本の問題は吉本隆明の精神構造が、《想像界》しかないことで、これでは思想ではなくて、戯言なのです。彼の昔の著作は、今からは読むに耐えないのではないでしょうか?

思想家を、読む前に、まず人相で見ておこうと思ったのは、こうして吉本隆明の戯言を読んで来てしまった私の体験によります。
たとえば、次の様な思想家の顔を見て欲しい。

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西田幾多郎

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ヘーゲル
(《象徴界》だけの人)


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ニーチェ(《象徴界》だけの人)


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フーコー(《象徴界》だけの人)

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デリダ(《象徴界》だけの人)

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ネグり(《象徴界》だけの人)
顔を見て、検討をつけてから読むという方法になったのは、吉本隆明への失望からなのです。基本的に《想像界》だけしかない思想家は、戯言にすぎません。だからといってつまらないと言っているのではないのです。戯言なのです。たとえば、ボーロリヤールの顔を見てみましょう。
ボードリヤール.jpg
《イメージ判定法》で《8流》。《言語判定法》で《8流》。《現実判定法》で《8流》。
《想像界》しかない人格。気体人間。つまり現代人です。
ボードリヤールは、《8流》で《想像界》しかない思想家として、吉本隆明ソックリの人であるのです。
違いは吉本が、液体人間(近代人)であるのに対して、ボードリヤールは、気体人間(現代人)で、新しかったのです。
言い換えると、吉本隆明は、本質的に、古いのです。
ボードリヤールも、ずいぶん買ったし、買ったものの半分くらいは読んだのですが、しかし基本的に戯れ言であったのです。





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ラカンの顔 [顔/哲学者]

2007年12月12日(木)

上の写真は、ジャック・ラカンとダリが会っている写真である。
ダリのパラノイア的な方法は、ラカンが1932年に書いたパラノイアに関する論文の影響から生まれた。

しかし私は、実は、ダリの絵を、絵画としては評価していない。

ラカンの顔は、
〈想像界〉の眼で、〈1流〉のイメージである。
〈象徴界〉の眼で、〈超1流〉〈41流〉〈超1流〉
〈現実界〉の眼で、《8流》の現実である。

思想家・哲学者として立派な1級の人物と言える。

ラカンの著作は難解であると、言われる。
この難解さは翻訳によって生じているのではなくて、
フランス語段階で、極めて難解である。
これを人相から見てみよう。

言語判定法で見ると、
ラカンの顔は、《固体》である。
つまり前近代の顔をしている。
フロイトが《液体》で、近代主義者の顔をしているのと、
対比して考えると、
ラカンは、フロイトの精神分析を、前近代的な思想や思考に押し戻したと考えることができる。

ラカンは理論的にも難解ではあるが、それ以上に、語り口が逆説的で、晦渋な言い回しをしきりに用いているが、それはこの近代の精神が生み出した精神分析を、前近代的な思想形態の押し戻す作業故に生じたと、私は思う。

ラカンが「フロイトへ帰れ」といって、
フロイトへの個人崇拝を方法化し、
そしてまた自分自身への忠誠を要求し、
個人崇拝性を強く帯びていったのことも、
こうした前近代の顔を持っている故であると思う。

表面的には、ラカンは数式風の表現をとって、数式化をしているが、これが難解で失敗しているのは、本質的にラカンの精神が固体であって、前近代的であるからである。

精神的には〈象徴界〉だけを持っていて、
〈想像界〉〈現実界〉が無い顔である。
つまり彦坂尚嘉流の分析では、三界同時表示の人物ではない。
その事の、浅さというか、不十分さは、ラカン思想につきまとっていると言える。

繰り返しだが、
ラカンはフロイトの精神分析を、
固体に押し戻すことで、
一定の生産性をもたらしたが、
私見では、この気体化が必要であるのだ。

この作業を切り開いている知性として、
私は鈴木謙介氏を、高く評価するのである。
ラカンと鈴木謙介をつなげた研究を書いてみたいものである。


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鈴木 謙介の顔 [顔/哲学者]

2007年12月6日(金)



遅ればせながら鈴木謙介著『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)を読んだ。

実は読む前に、顔を、言語判定法で分析して、
読むに値する人物かどうかを判断してから読んだ。

さて、その顔の判定である。

まず、普通に想像界の目で見ると、
6流のイメージである。

ところが象徴界の目で見ると、
《超一流》《超一流》《超一流》
しかも想像界、象徴界、現実界の3界同時表示。
個体/液体/気体の3様態同時表示の知性である。

たいした才能と言える。

実に良く書けていて、たいした才能の学者であると思った。




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フーコーの顔 [顔/哲学者]

2007年12月6日(木)


ミシェル・フーコーの顔を見てみる。
〈象徴界〉の眼で、〈超一流〉〈超一流〉〈超一流〉
〈想像界〉の眼で、《8流》のイメージ
〈現実界〉の眼で、〈超一流〉の現実

〈41流〉性がないのは意外だが、
良い顔をしている。

〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉、3界を同時に持っている人。
固体・液体・気体の3様態を同時に表示できる人。

なかなかすごい人物で、読むに値する哲学者と言える。



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ドルゥーズ・ガタリの顔 [顔/哲学者]

2007年12月5日(火)

哲学者ジル・ドルゥーズの著作『記号と事件』を買って、
読んだ。

基本的な疑問を感じたので、
顔を見てみることする。


〈象徴界〉の眼で、《8流》《8流》《8流》
〈想像界〉の眼で、〈1流〉のイメージ
〈現実界〉の眼で、《8流》の現実
 
〈象徴界〉の人物。
液体の人物(モダニスト)

まあ、たいした人物ではない。
思想家としては、落ちる。

もう一人のガタリの顔である。


これも
〈象徴界〉の眼で、《8流》《8流》《8流》
〈想像界〉の眼で、〈1流〉のイメージ
〈現実界〉の眼で、《8流》の現実

〈想像界〉の人物。
液体の人物(モダニスト)

このドルゥーズ・ガタリで、
『アンチ・オイディプス』などの著作が書かれたが、
この内容も《8流》と考えるべきではないのか?
あの奇妙な造語の数々も、
ガタリの〈想像界〉の人物性によるファンタジーではないのか?


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カントの顔 [顔/哲学者]

2007年11月5日(月)

カントは、読めないできている。
キルケゴール、デカルト、パスカル、フッサール読んできたが、
カントは、歯が立たなかった。

中島義道氏は、専門はカントなので、
何とか読もうというのが、私の気持ちだ。

何故にカントは、翻訳で読むのが困難なのか?
中島氏の言うには、カントがラテン語を前提に書いているからだそうである。
たとえば修飾語の位置が、ラテン語であると、かなり遠くても成立するそうである。

さて、読む前に顔を見てみよう。
とは言っても、写真の無い時代なので、
絵になる。
その中でも一番信頼がおけそうな肖像画である。

〈想像界〉の眼で、《8流》のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈超1流〉〈1流〉《8流》
〈現実界〉の眼で、《8流》

《8流》が随分と出てくる人だ。
その辺もあって、読みにくいのかもしれない。
《8流》は宗教の領域。
………………………………………………………………………………

この肖像画は、流通している1枚だが、
理想化されていて、嘘に満ちている。

〈想像界〉の眼で、〈超1流〉のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
〈現実界〉の眼で、〈超1流〉

こういう肖像画で、騙されてはいけない。
中島義道氏の著作『モラリストとしてのカント』には、
カントの顔の変遷と、肖像画と胸像彫刻、デスマスクの
分析が載っている。

中島氏は、デスマスクを悲惨と見て、
残されている肖像画との距離を分析して、
このブログの最初に掲載した、事実に近い肖像画を、
次のように、
辛辣に書いている。

>小心で実直な職人が、
>やや猫背であまりに合わない正装で登場しており、
>どこを捜しても精神の輝きの片鱗も見られない。

私の分析は、すでに述べたように《8流》が多いが、
しかし〈超1流〉性を持った人物の顔で、
保守的で、小心で、職人性に満ちてはいるが、
読むに値する人物ではあると考える。

………………………………………………………………………………

ここで、中島義道氏の顔も見ておこう。

〈想像界〉の眼で、〈1流〉のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈1流〉〈1流〉〈1流〉
〈現実界〉の眼で、〈1流〉の現実

すべて〈1流〉の、なかなかの人物である。
たしかに真面目だし、誠実な方である。

分析を進めると、〈想像界〉と〈象徴界〉が無くて、
〈現実界〉の精神を持った人物である。
これは、一つの驚きではあるが、
彼の性格を理解する分析結果ではある。
ウイキペディアによると中島義道氏は、

>勤める大学の入学式や卒業式に出席しない。自分の父や母の死を知人、周辺の近しい人に報告しない(つまり、その葬儀には自分の知人や近しい人は一切出席しない事になる)。姪の結婚式に呼ばれても出席しない。パーティーにも出ない。つまり、一切の儀式を拒むという行為が挙げられる。

中島義道氏は、式典の意味を理解できないようなのだが、
それは氏が、〈現実界〉だけの精神を持たれていて、
〈想像界〉や〈象徴界〉の精神では社会を見ていないから起きることであると、
私は思う。

それと、氏の顔は、《去勢》されていない顔である。
このことも、社会的式典に参加しないことを説明している。

中島義道氏の著作の明快さと、面白さは、
氏のこうした精神構造が生み出していると、
私は理解する。

………………………………………………………………………………

哲学とは何か?
乱暴に言えば、もはや過去のものである。
古い近代特有のもので、終わったと言える。

終わったものであっても、
再び、哲学は何であったのか?
と、問うことは出来る。

再び乱暴に言えば、
それは神という言葉を使わない神学であったと言える。
そういう意味で、カントの顔が《8流》をたくさん持っているのは、
理にかなっている。

哲学とは、神無き宗教であった。

………………………………………………………………………………
今日とは、いかなる時代であろうか?

彦坂尚嘉の考える現在は、
《文明の中の野蛮》という把握である。

文明と野蛮が、入り交じっている世界である。

ここにおいては、近代哲学は、
過去の遺産として意味を持つだけである・

しかし、より普遍的な基準の学問は、
実は近代哲学ではなくて、
古代哲学である。

カントを読むくらいなら、
アリストテレスやプラトンを呼んだ方が良い。
インドの初期ヨーガ教典や、仏典がよい。
さらに老子や荘子、墨子、孔子、孫子などの中国哲学の方が、
意味がある。

と私は、思うのだが、
カントも、私のようにまるっきり読んでいないというのは、
自分自身の問題としても、
興味深いのである。
何故に、読めないのか?

もしかすると、
中島義道氏のように〈現実界〉の精神で読むべきなのかもしれない。

ここまで書いてきて、
気がついて、カントの顔を再度《言語判定法》で分析すると、
カントは〈現実界〉の顔であった。
〈想像界〉〈象徴界〉を持っていないのである。

そうすると、カント哲学は、実は科学であるのかもしれない。
科学というのは〈現実界〉の精神で出来ているのだから、
科学の時代の哲学として、
カントの哲学は、〈現実界〉の哲学であったのだ。

よし、読むぞ!(笑)。


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