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シニフィエの露出した《悪魔の時代》(「実行力について」を改題) [アート論]

2008/3/27

昨日は、作家のBさんに頼んだ、家の補修につきあった。
このところ、彼に門の修繕、
小さなドアの作成、
台所の裏口のドア付近の修理、
玄関のドアの修理、
玄関の壁の修理、
玄関の上がり口の修理、
等をアルバイトで頼んで、
間隔を開けながらだが、修理して来た。
あと、もう一回で終わる。

自分では出来ないで、長い時間、
ほったからしにして来た。

作品はめんどくさいことが出来るのだが、
生活になると、
まったく怠惰で、
何もしたくはない。

棚ひとつ、作れない。
気力が起きないのだ。

正確には眠っていたいだけで、
生きてもいたくないのではないかと思うほどに、
怠惰で、行動力が無い。

友人の清水誠一は、
こまめで、家の修繕などはやるというのだが、
私は完全にゼロで、
壊れていたり、
散らかっていても、
気にならない。

Bさんの果敢な修繕を見ていると、
改めて自分の行動力の無さが実感されて、
恥ずかしくなる。

しかし美術の事は覚えられるのだが、
世俗の現実の生活世界の事になると、
すぐに忘れるし、事実記憶として残らない。
行動力以前に、記憶そのものが弱いから、
どうも世俗の現実の中には、生きていないらしい。

世俗の現実の世界と、
美術、特に絵画の聖なる世界は違う訳で、
この次元の違う世界を、行き来するのは難しい。

学問の世界も好きなのだが、
私見では、学問や芸術というのは、
非日常の聖なる世界に属している。
まったく世俗の世界とは価値基準が違うのである。

「絵描き馬鹿」という言葉があるが、
これはかなり本質的な意味を含んでいるのであって、
絵画という非現実の聖なる世界の住人の、
無知無能性を、言い当てているのである。

しかし一人の人間を支えているのは、
その人の行動力である。
聖なる絵画の世界での行動力が無ければ、
美術家を続けて行く事は難しい。
世俗世界から見える美術の表面性だけでは、
芸術の構造や意味は、分からない。

しかし、
世俗の現実の日常世界もまた、
行動力を欠けば、生存そのものが危うくなる。
日常世界もまた、
実は聖なる世界から見える俗世界の表面性だっけでは、
経済の構造や市場の意味は。分からない。
何よりもお金の意味が分からない。

生きて行く事は、
淘汰を前提にしているから、
どちらの世界を生きるのにも
過酷であるのだ。
ましてや両方の世界を往復して生きる事は、
至難のわざと言える。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

知人のCさんも怠惰なところはあって、
たとえばオーディオの配線を自分ではやろうともしない。
どうも機械はいじりたくないようで、
コンピューターも自分ではキーボードも触らない。

Cさんは、それでも携帯は使うし、携帯メールは打つ。
怠惰でも生存に必要な部分では適応しない訳ではないのだが、
それでもコンピューターをまったくいじらないのは、
問題がある。

コンピューターをいじる事が、世俗に属するのか、
それとも聖なる空間に属するのかは、
人によって関係の仕方が違うのであろうが、
いじるのを嫌がる人にとっては、
聖なる空間に存在しているのかもしれない。

コンピューターをいじるのを拒否した人は、
私の身の回りにもいる。
今修繕している家を建てた建築家は、
コンピューターを使う事を拒否した。
建てた工務店は、コンピューターを拒否したかどうかは分からないけれども、
倒産した。

古い友人のデザイナーは、
某有名美術雑誌の編集デザインを10年間も一人でやった人だが、
コンピューターを使う事を拒否して、
仕事が無くなった。

そういう意味ではコンピューターは、
世俗の世界のサバイバルに属する問題だから、
世俗に属する事なのだが、
それを拒否する怠惰な人々がいる。

自分の仕事が無くなり、
飢え死にしようとも、
コンピューターを触りたくないというのも、
すごいものである。
拒否して、何を守ろうとしているのであろうか?

怠惰というのも、
人間の本性であって、
怠惰を克服するのは難しいが、
コンピューターの登場は、
多くの古い人間に、この怠惰と不適応をあらわにさせて、
退場を強いる。

生命を失ってもなを、
怠惰を守りたいのであろうか?

実際、1991年のインターネットの出現以来、
人類の文明は本格的に情報化社会に移行して、
少なくともインターネットでメールも打てない様な人間を、
淘汰する方向で動き始めた。

私の場合、コンピューターについては、
何とか最低ではあるが適応行動をとってこれているのだが、
しかし,極めて不十分である。

怠惰というのは何なのだろうか?

松原正著『知的怠惰の時代』という本がある。
が、怠惰な私は買っていないし、読んでもいない。

怠惰というのは、
私見によれば、無知無能という事である。
全知全能が神であるから、
無知無能は悪魔である。

つまり自分も含めて、
多くの人間は悪魔である。
おそらく、コンピューターの時代になって、
「パンドラの箱が開いた」と言われ、
インターネット上には鬼畜系の情報があふれて行ったのは、
人間そのものの本質が悪魔であるからではないだろうか。

ナイフをもった少年を描いた奈良美智が人々を魅了したのも、
あの描かれた少年の悪意と殺意が人間の本質を描き出したからであろう。

ソシュール言語学で言うシニフィエとシニフィアンに対して、
ラカンは物質性を持っているシニフィアンを重視した。
シニフィアンにおいて、初めて意味が生まれるのだ。

しかし脳内にあるだけと言えるシニフィエというのは、
意味は無いが、しかし本質があるのである。
意味と本質は違うのである。
本質というのは空なのである。

コンピューターというのは、
道具として人間の脳を外在化したものであって、
コンピューターのブラウン管にあるものは、
シニフィエであって、それは本質なのである。
しかし意味は無い。

コンピューターが登場することによって、
シニフィエが、解放されたのである。
シニフィエが、コンピューターによって外在化し、
そしてインターネットで、高速で社会化する。

そこに出現したのは人間の本質であった。
そのシニフィエとしての本質は、無知無能であり、
悪魔だったのである。

人間こそが、無知無能の悪魔であり、
それがコンピューターによって外化し、
社会化した。
情報化社会とは、無知無能の悪魔の時代なのである。

それは人間が人間のシニフィエとしての本質と向き合った、
すごい時代であると言えるだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし私は、
世俗の生活世界の基本では、
行動力を欠いている。

しかし行動力だけが、
自分を支えるのであって、
悪魔の時代を生き残るためには、
少しでも行動するように、
気力を振り絞るしかないなぁ。

残された人生、
悪魔との戦いを、
もうひと頑張り、
するしかないのである。

世俗の悪魔的世界と、
芸術と学問の聖なる非現実世界と、
両方を行き来しなければならないし、
そして両方で自分を支えるのは、行動力だけなのである。
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コメント 1

コア

非常に身に迫るお話ですね。私の引っ越しは4ヶ月にしてようやく荷物を運び切り、これから仕事場に積まれた段ボールの山との闘いとなります。しかし雑用に使われる時間と言うのが惜しいのですよね。
by コア (2008-03-30 20:16) 

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