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籔内佐斗司氏のマスコット・キャラクター [デザイン論]

マスコット.jpg

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マスコット2.jpg



いま、話題のキャラクター問題です。
白濱雅也さんが、次の様なメールを気派のメーリングリストに流してくれました。

■白濱です。
薮内さんのキャラクターへの批判は、一時期薮内さんのHP上で
の丁寧受け答えによって、一時期同情的な声も出て鎮静化する
かと思われましたが、ここに来て再度批判的なムードに転じて
いるようです。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/local/heijokyo_1300/?1206793541

薮内さんのキャラクターが可愛いものではなく、またキャラク
ターデザインとして中途半端な感もありますが、この逆風は異
様で「祭り」になりつつあります。
こういう「炎上」の空気になると止めるのは難しいでしょう。
怖い、きもいキャラクターでさえ愛される昨今、なにが逆なで
しているのでしょうか?

ちなみに多くの人が好ましいキャラクターとして挙げているの

「ひこにゃん」こちらはどうってことのないゆるキャラです。
http://www.hikone-400th.jp/hikonyan/
ただこちらも使用者と制作者とで著作権がらみで揉めていますね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
キャラクター3.jpg
「ひこにゃん」とは2007年に築城(開始)400年を迎える彦根城の記念イベント「国宝・彦根城築城400年祭」のイメージキャラクター。

彦根藩二代藩主である井伊直孝公をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる"招き猫”と、
井伊軍団のシンボルとも言える赤備えの兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクター。

全国よりの応募1167点のなかから決定。

「モチ」という愛称でも呼ばれている。

その「ゆるさ」が話題を呼んでいると言うのです。

私も良いデザインであると思います。

私は「ひこちゃん」あるいは「ひこさん」と呼ばれているので、
「ひこにゃん」というのは、相当に近しい関係にあります。

さて、「ひこにゃん」のキャラクターを、
彦坂尚嘉流の「言語判定法」の格付けをしてみます。

《1流》《1流》《1流》
《3流》《3流》《3流》
想像界/象徴界/現実界の3界同時表示。
固体・液体・気体の3様態同時表示。

初めて読む方は、何を言っているか分からないでしょうが、
《1流》というのは、社会的常識や、社会的理性の領域。
《3流》というのはポップスの領域。
この《1流》性と《3流》が、同時に表示されているデザインになっています。

その下の意味することは、
総合性のとれた非常にすぐれているという評価です。

彦坂尚嘉の眼で見ると、
実体的で、合法性があって、
つまりエンターテイメントで、デザインであって、

非常にすぐれているデザイン・エンターテイメントだと思います。

人気が高いのは、当然であると思います。


Habatan3.jpg

「はばタン」は、兵庫県民に関連する幅広いPRを行う「兵庫県マスコット」。
以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用です。


デザインとキャラクター名(愛称)は公募され、
デザインは約3000点の中から神戸市在住の在日コリアン3世、金成俊(キム・ソンジュン)さんの作品が、キャラクター名は約24000点の中から赤穂市在住の小学5年生(当時)川端弓加里さんの命名が選ばれた。

阪神・淡路大震災からの復興を、不死と再生の象徴フェニックスに重ね合わせている。
フェニックスをモチーフにしたキャラクターであり、
2006年に開催されたのじぎく兵庫国体・のじぎく兵庫大会の大会マスコットとして誕生した。

丸っこく愛嬌のあるデザインから、兵庫県内では、子供たちを中心に圧倒的な人気を博している。

人気のあまりイベント等で使用する県所有の着ぐるみが不足していたほどで、
現在では自治体ごとに所有しているケースも多い。

国体開催前の時点で総数80体を超えていることからもその人気が伺える。
人気の高まりを受けて、2005年6月から、はばタンの着ぐるみは民間団体にも貸し出されるようになった。

さて、この「はばタン」を、
彦坂尚嘉が「言語判定法」で、格付けすると、

《1流》《1流》《1流》
《3流》《3流》《3流》
想像界/象徴界/現実界の3界同時表示。
固体・液体・気体の3様態同時表示。

まったく「ひこにゃん」と同じ結果です。

そして実体的で、合法性があって、
つまりエンターテイメントで、デザインであって、
ここにおいても、「ひこにゃん」と同じ結果です。

非常にすぐれているデザイン・エンターテイメントだと思います。
人気が高いのは、当然であると思います。

マスコット.jpg

さて、もう一つの薮内佐斗司氏の制作した
平城遷都1300年祭マスコットキャラクターは、
「ひこにゃん」と「はばタン」の人気とは反対に、
不評で、批判にあっているようです。

争いの巻き込まれる趣味はないのですが、
昨日書いた湯浅譲二氏や菊竹清訓氏の《超1流》の表現の問題と、
重なる事例なので、あえて彦坂尚嘉流の「言語判定法」から見た意見を書いておきます。

興味のある方は、湯浅譲二氏に関する私のブログも読んでください。
内容は重複しています。

まず、格付けです。

《超1流》《超1流》《超1流》
《3流》《3流》《3流》
《13流》《13流》《13流》
3界は持っていなくて、想像界だけの美術です。
3様態は持っていなくて、気体美術だけのキャラクターです。
《実体的》であるので、エンターテイメント表現です。
《非ー合法性》があるので、芸術性があります。

《超1流》というのは、常識を超えた表現である事を意味します。
普通に言えば、「奇をてらった表現」ということですが、
良く言えば、独創的で、すぐれた表現を意味します。

私は個人的には《超1流》の表現が好きなので、
私的にはこのキャラクターを評価します。

《非ー合法性》があるので、芸術性があって、
薮内佐斗司氏の芸術家としての制作物としては、
納得のいくものではあります。
《非ー合法性》というのは、作家の私的な無意識の表現が出ているものの事です。

《3流》はポップスの領域。
《13流》は喜劇の領域。
両方とも持つ事で、笑いなり、ユーモアを強調した表現と言えます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さてここで問題なのは、
平城遷都1300年祭マスコットキャラクターという
このイメージに
《1流》性が無い事です。

《超1流》の表現がいけないと言っているのではなくて、
《1流》性との同時表示がされていないことが、
まずい事だと、彦坂尚嘉は分析するのです。

「ひこにゃん」と「はばタン」にはあった社会的理性表現である《1流》性が、
薮内氏の平城遷都1300年祭マスコットキャラクターには無い故に、
多くの人々が、比較して怒っているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人類の歴史の中で表現の質を見て行くと、
《1流》性こそが、文明表現の基盤なのです。
薮内氏のデザインには、その文明の基盤である《1流》性が欠けている。

《1流》というのは、社会的な常識の領域です。
社会的理性が生み出す表現の《美》なのです。
たとえば仲間由紀恵は《1流》の美人である、
という風に指し示す《1流》性であり、そうした質の《美》です。

《1流》性は人類が文明を形成した時期に成立し、
そして伝承の長い時間の中で変形されながらも維持されて来た領域です。
《1流》の美人が、企業や銀行の宣伝に出る様に、
さらには仲間由紀恵が、税務署の広告に出ている様に、
《1流》の美というのが、社会の建前の領域を指し示し、
社会を形成するのです。

アボリジアにみられるような人類の狩猟採取期には、
その制作物は、石器や、
それこそ日本人になじみが深い縄文式土器(中期まで)や、
アフリカの黒人彫刻に至るまで、
それらは《6流》であるのです。
つまり野蛮や未開と呼ばれる時代の文化は、《1流》ではないのです。

《6流》というのは自然領域です。
伝統的に、文明は野蛮や未開と対置されてきましたが、
野蛮や未開の領域が《6流》であります。

それがメソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明という世界四大文明が成立すると、
突如として《1流》の制作物が登場します。

もっともこの四大文明説は、今日では否定されて、
より多数の文明の発生が見いだされていますが、
彦坂尚嘉の視点では、これらは共通して《1流》性を持つ文化を作り出している事で、
野蛮の《6流》の自然領域の制作物とは、区別されるのです。

文明というのは、人間が創り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す言葉です。
ピラミッドも、古墳も、埴輪も《1流》であるのです。
《6流》から《1流》への飛躍に文明の発生があります。

埴輪が《1流》であることは、重要です。
日本のキャラクター・デザインと言うのは、埴輪のかわいさの伝統を持っているからです。

従って《1流》性というのは、
文明的基準と言えます。
この後に《2流》や《超1流》が出現してくるのです。

薮内佐斗司氏のマスコット・キャラクターは、
この伝承的な文明の《1流》性がもつ形式性や、
《1流》の常識的理性の外に出てしまっていて、
それを維持する事の大切さを忘れてしまっているようなのです。

しかも、先に指摘した様に、
薮内氏のマスコット・キャラクターには《非ー合法性》があります。
《非ー合法性》というのは、芸術性なのですが、
しかし《非ー合法性》があるということは、デザインではないと言う事なのです。

デザインと芸術は、違うのです。

「公私混同するな!」と言う言葉がありますが、
デザインというのは《公的表現》であり、
《社会的表現》ですので、「私性」を排除した表現が求められるのです。

薮内氏のマスコット・キャラクターは、
《非ー合法性》があります。
《非ー合法性》というのは、「私性(わたくしせい)」ということです。
芸術というのは《非ー合法性》があって、
つまり「私性」を含んだ表現と言う事なのですが、
薮内氏のマスコット・キャラクターは、芸術であって、
デザインになっていないのです。

平城遷都1300年祭の マスコット・キャラクターという、
まさに日本文明の古典的継続性を象徴するイメージに、
文明の基本である《1流》性が無いと言うのは、
根本的な欠陥であると、
私は思います。

そして マスコット・キャラクターという《公的表現》のデザイン領域に、
薮内佐斗司氏の《非ー合法性》を持ったマスコット・キャラクターは、
デザイン的な社会性を欠いていて、
原理的な錯誤であります。

マスコット・キャラクターという領域は、
デザイン表現の領域であり、
《合法性》が必要なのです。

「ひこにゃん」と「はばタン」には、
《合法性》と《1流》性とがありました。

薮内佐斗司氏のマスコット・キャラクターは
《合法性》と《1流》性とが無いために、
多くの人を説得する力を、
欠いているのです。

薮内佐斗司氏が失敗した
そもそもの、原因はどこにあるのでしょうか?

今回の問題をマスコット・キャラクターの歴史という事に限定して絞れば、
先人が形成して来たマスコット・キャラクターの根本の継承性を、
薮内佐斗司氏が、見失っている故に起きた事件なのです。

薮内佐斗司氏は、ホームページで次の様に書いています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■ご意見のなかに、彦根市やそのほかの自治体キャラクターと比較して、私のデザインが今のキャラクターデザインの主流から逸脱しているとの批判が多かったことは、永く創作の現場にいた者にとってある意味で衝撃でした。

 今回の制作にあたって、今のマスコット業界の主流の範疇に収まるための傾向や対策を講じるということは、私は考えもしませんでした。


 数ある自治体イベントのマスコットキャラクターの範疇に入るものを制作したのではなく、平城遷都1300年祭のためのマスコットキャラクターを作ろうとしたのです。■

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
薮内佐斗司氏自信が書いておられる様に、
薮内佐斗司氏は、先人が形成して来たマスコット・キャラクターの歴史の根本の継承性を見失っていたのです。

マスコット・キャラクターという表現には、
それなりの歴史と継承性があるのです。

マスコット・キャラクターという表現は、芸術というハイアートの表現ではなくて、
民衆性をもつローアートの表現である故にこそ、
《伝統性》と《継承性》と、
多くの庶民の《了解性》の中で成立する質が、必要とされているのです。
それが、《1流》性、《3流》性、《合法》性、《実体》性という領域なのです。

《1流》性と、《合法性》を欠いている
薮内佐斗司氏のマスコット・キャラクターは、
ただ単なる鹿の角と、「童子」のキャラクターの、
シュールリアリズム的コラージュに過ぎない様に見えます。

そこにあるのは、使い古されたシュールリアリズム的操作であって、
それ以上のものが無い。

なによりも、多くの人々が
マスコット・キャラクターを愛するという《1流》性と《合法性》がたち現れない。

愛せないのです。

愛の問題に目配りがされていない。

人々は、
驚くほどに《1流》のもの、そして《合法性》を深く愛するのです。

薮内佐斗司氏は、人々が、何を愛して生きているかを、
理解していないのではないか?

《1流》と《合法性》いうのは、
社会的に愛する事に欠かせない
社会的《美》の質なのです。

「ひこにゃん」と「はばタン」には《1流》性と《合法》性があって、
多くの人々は、深く愛しているのです。

そう、愛せないのです。
薮内佐斗司氏のつくったマスコット・キャラクターを市井の人々は、愛せない。
深く愛する事ができない。

日本に生きている多くの凡庸な人間の中に培われて来た、
マスコット・キャラクター文化の蓄積としての《1流》で《合法》のイメージの《美》が無いのです。
あるのは薮内佐斗司氏特有の私的でグロテスクな諧謔の黒い世界です。

彫刻家としての薮内佐斗司氏の個人の作家性としては問題が無いかもしれないのですが、
無名な普通の人々が、愛して所有し、
共有するための社会的理性表現としての《1流》性と《合法》性の美が無い。

《1流》性と《合法》性というのは、
人間が社会を形成している基本的な常識性であり、
社会的な理性なのです。
これを欠いては、人間は社会を、形成出来ないのです。

私は、
多くの人々が、
この薮内佐斗司氏のマスコット・キャラクターを、
嫌悪するのは、
文明的根拠がある事だと思います。


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コメント 3

コア

深く納得しました。「一流性」、「合法性」は、消極的には「目障りでない」程度の表現と言う事でもあるかと思いますが、公募展の抽象絵画のほとんどがなぜデザインにすぎないかも分かる気がします。
by コア (2008-04-04 13:26) 

ヒコ

《1流》性というのは、決して「目障りではない」というような消極的なものではありません。芸術、社会の本質に関わる重要なものであります。
by ヒコ (2008-04-12 16:36) 

コア

このキャラクター、評判の悪い事が話題性となって、結果として1億2千万円相当の宣伝効果になったとか。デザインとして「失敗」かと思いきや社会的には「成功」したのですね。「一流」性があったらこういう効果があったかどうか。デザインと社会性には経済効果を通してねじれた関係があるようですね。
by コア (2008-05-15 11:37) 

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