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ホスト・夕聖の顔と、杉本博司の写真 [新・美人論]

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ホストに興味を持ったのは、
中村うさぎの名著『さびしいまる、くるしいまる。』を読んでからである。

桐野夏生の『メタボラ』にも、ホストクラブが出てくる。

さて、そこで研ナオコが入れ子んだと週刊新潮が報道した、
カリスマ・ホスト夕聖の顔である。

想像界の眼で、《1流》のイメージ
象徴界の眼で、《8流》《8流》《8流》
現実界の眼で、《1流》の現実。

特徴的なのは、《現実界》しかない顔。
そして《固体》人間である。
つまり前近代的な存在。

《現実界》で、そして《固体》であるものが、
人を引きつけるというのは、
確かに現在の現象である。

アートの世界でこれを見ると、
杉本博司の写真作品である。
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杉本博司の『劇場』は、
古いアメリカの映画館を対象にしている。
このことと、夕聖の魅力が、何故に女性を引きつけるかを、
同列に論じるときに、
両方とも《固体》で、《現実界》であるという事の指摘は、
奇異にしか、受け取られないのは、
私も自覚している。

夕聖の顔を言語判定法で分析すると、
《固体》と《現実界》と言う言葉が、
重要なキーワードになる。

そして杉本博司の写真を、言語判定法で分析すると、
《固体》と《現実界》と言う言葉が、
重要なキーワードになる。

だから、この《固体》と《現実界》と言うキーワードが、
共通するから結びつけているのである。
つまり、あくまでも分析的言語の共通性なのであって、
それ以外のものではない。

皆さんを説得出来るとは思わないが、
お時間のある方は、我慢して、読んでいただきたい。

杉本博司の『劇場』は、
古いアメリカの映画館を対象にしている。
古い映画館と言う意味で、それは骨董なのだが、
骨董性は、実は杉本博司の本質を指し示している。

事実杉本博司は、骨董商として10年以上のキャリアがあるのである。
この骨董的な視点が《固体》という領域である。

人間は何故に骨董にひかれるかと言うのも、
難しい話ではあるが、
凡庸なものが、骨董になると、失われた過去を象徴して、
人を引きつけるのである。

美術評論家の中原佑介は、
荻窪画廊の『眼』という機関誌に、
「芸術に歴史があるのではなくて、
歴史が芸術である」と、1965年頃に書きました。

つまり蒸気機関車が、現役で走っているときは芸術ではないが、
骨董化して、マニアの対象になると、
そういう古い蒸気機関車が芸術になると言うのです。

本当の芸術になっているのかどうか、
私は本物や、蒸気機関車の写真集を買って検討しましたが、
合法的で、実体的である事はかわらず、
つまりデザイン的なエンターテイメントでしかなくて、
芸術ではありませんでした。
しかし骨董は、確かに人を引きつけるのです。

骨董になった、失われた時の記憶は、
その喪失と言う意味で、
ジャックラカンの言う、《対象a》になっているのです。

ラカンの《対象a》というのは、
失われたものが、人を引きつけると言う指摘なのです。

つまり、何が、人間を魅了するのか?
と言った時に、実は喪失されたものが、人を引きつけると言う指摘が、
ラカンの《対象a》という概念です。
ラカンはフランス人なので、《対象a》は「たいしょうアー」と読みます。

さて、それが骨董なのですが、
前にも説明した私の《固体》と言う概念は、
水であるH2Oの比喩で、
水が、凍っている状態を、前ー近代として象徴します。

そして人は、この失われた前ー近代性に、《対象a》として引きつけられるのです。

さて、これが《固体》です。

もう一つの《現実界》性と言うのも、
説明するのは難しいのですが、
人間の精神の中で、
禅宗が指摘したような、精神領域であり、
そして科学が対象にしている領域が、
《現実界》です。
もっともこういう言い方は、ラカンではありません。
ラカン用語を、彦坂的に変形して使っています。

つまり、物事を見る精神性が、
禅的な、《空》性を帯びている領域なのです。

そしてこの《現実界》的な精神の《空》性と、
骨董的な《固体》の、失われたものとしての《対象a》が、
組み合わさっているものとして、
杉本博司の劇場と言う写真があります。

そして同じ精神構造として、
夕聖の顔がある、というのが、
彦坂尚嘉の言語判定法での、指摘なのです。

つまり夕聖の顔は、
前近代的な氷の様な固体性、そして古さがあります。
同時に《現実界》の空虚な精神性があるのです。
この2つの性格が、
研ナオコを魅了したというのが、私の見方です。

人は、空虚な、穴に魅了されるのです。
喪失したものに、引きつけられる。
この喪失性は、いろいろな形をとって現れるのですが、
一番分かりやすいものが、
杉本博司の写真と、
夕聖の顔に表れているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この固体性と、現実界性が、
人を魅了するのは理解しますが、
しかし、正直言って、
こういう質は、私はあまり、好きではありません。

骨董的な魅惑も、私は好きではありません。

それと禅的な《空》の思想も、
下品に思えるのです。





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イヤラシイ

トップクラスの熟女・人妻と楽しみませんか+.(・∀・).+ http://www.b8y.in/
by イヤラシイ (2012-07-13 15:58) 

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