ボーメ/BOME(加筆1) [アート論]
もともとフィギュア(figure) というのは、「人の形をしたもの」と言う意味だ。
人形である。
人形と、彫刻は違うのだろうか?
彦坂理論では、
人形というのは、《原始立体》というものであって、
原始的な構造をしている。
それに対して彫刻は、《透視立体》というもので、
これを説明するのは、むずかしい。
実例で言うと、
ロダンの彫刻も、「人の形をしたもの」であるけれど、
これは《透視立体》であるのに対して、
現在の日本で人気のある彫刻家・船越桂の作品は、
彦坂流の視点では、《原始立体》であって、
つまり人形なのである。
それではBOMEのフィギュアというのは、
どうなのであろうか?
だれが見ても人形であるはずのものが、
実は、彦坂理論でみると《透視立体》であって、
彫刻なのである。
そんな馬鹿な!
そうなんです。
だれも同意してくれそうも無いことなのですが、
そういう秘密があるのです。
彫刻の理論というのは少なくて、
彦坂尚嘉が勉強して、影響を受けているのは、
ハーバード・リードの彫刻論です。
ハーバード・リードの彫刻論では、
彫刻は、巨大な彫刻と、中ぐらいの彫刻と、小さな彫刻の3種類に分けられています。
巨大彫刻というのは、ピラミッドとか、アンコールワットとかいう、
そういう神的な理由でつくられたモニュメンタルな巨大建築です。
中ぐらいの彫刻というのは、等身大の人体彫刻です。
小さな彫刻は、アミュレットと言われ、
日本語で言えば護符です。
日本の根付けのような、小さな彫刻を意味します。
現在の携帯電話につけるストラップの飾りの人形も、
アミュレットであって、
あれが小さな彫刻です。
今日のフィギュア(figure)も、
つまり、小さな彫刻なのです。
昨日とりあげた野口哲哉のフィギュアは良くできていました。
船越桂と比べても、
きちんと背骨が通っています。
船越桂は、きっちりと足のある等身大の人体をつくりませんが、
じつは船越桂の作品は、《原始立体》であって、
人形なのです。
それが彦坂尚嘉の見方です。
船越桂の作品は、彦坂尚嘉の言う《透視立体》なのではないのです。
それでは野口哲哉のフィギュアは、人形なのでしょうか?
それとも小さな彫刻なのでしょうか?
すでにお分かりのように、
すごくリアルにできている、彫刻なのです。
いま、《言語判定法》で確認しましたが、
《透視立体》ですから、彫刻なのです。
船越桂の彫刻が《原始立体》の人形で、
なぜに、誰が見ても人形と思う野口哲哉のフィギュアを
彫刻というのでしょうか?
ね、自分でも困るような、とんでも無い意見ですが、
しかし船越桂の作品は、実は本質的に、
まったく人形なのです。
有名人形師の四谷シモンの仕事に、
どこか似ている匂いがありますよね。
このことを論証するのは、別の日にして、
今日は、とにかく野口哲哉のフィギュアに
話を、まず、限ります。
昨日は古い《言語判定法》で書いてしまったので、
改めて、現在の新しい《言語判定法》でやり直すと、
《言語判定法》で《1流》から《6流》の多層的重層的な表現です。
そして《非合法》性や、《退化性》がないことで、
《デザインワーク》であります。
そこで、海洋堂を代表する原型師であるBOMEと比較してみたい思うのです。
ようやく本論になります。
BOMEの評価は、非常に高いのですが、
まず、BOMEのフィギュアは、どれほど、すぐれているのだろうか?
彦坂尚嘉のアートの格付けで見てみると、
野口哲哉が、《1流》から《6流》の多層的重層的な表現であるのに対して、
ボーメは、《超1流》から《7流》までの多層的重層的な表現である。
ボーメの方が、高度な表現をしているのです。
それと、野口哲哉のフィギュアが、《想像界》の作品であるのにたいして、
BOMEのフィギュアは、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界同時表示の作品です。
さらに、野口哲哉のフィギュアが、固体作品、つまり前ー近代の作品であるのに対して、
BOMEのフィギュアは、固体/液体/気体の3様態同時表示の作品なのです。
もう一つ大きいのは、
BOMEの作品は、彦坂が言う《非合法》性があり、さらに《退化性》がある。
野口哲哉のフィギュアには、これが無い為に、デザインワークに止まっているのでしたが、
ボーメのフィギュアには、《非合法性》《退化性》があるので、これは芸術なのです。
今日のフィギュアというのは、キャラクターやロボットなどの立体造形物なので、《きばらしアート》であり、そして《ローアート》であって、
あくまでも人形と見られています。
BOMEの作品も、《きばらしアート》であり、そして《ローアート》なのですが、ところが《原始立体》ではなくて、《透視立体》なので、
これは人形ではなくて、実は小さな彫刻なのです。
人形と、彫刻の見分けというのは、実は、想像以上に難しくて、
一番簡単なのは、背骨を見てください。
その人体の形をした背骨が、きちんと通っているかを、
見てみてください。
人形は通っていません。
平櫛田中という、和風の木彫の巨匠がいるのですが、
この人は人形師のところから出て来たこともあって、
人形の匂いを持っていますので、
なかなかロダン的な西洋彫刻を見て来ている人からは、
彫刻として認知されません。
特に晩年は、彩色された彫刻になって、
しかもそれが自分の手による彩色ではなくて、
人形師に彩色させていることもあって、
大きな人形に見えるので、なおさら人形に見られてしまっています。
ところが彦坂尚嘉の眼からは、素晴らしい《超1流》の彫刻に見えて、
特に、この彩色彫刻が、早いポストモダンの彫刻の、
すばらしい名品と評価されるものなのです。
さて、平櫛田中は、しかし彦坂尚嘉が評価しなくても、
もともと尊敬している人たちは多くいたのです。
そしてBOMEの評価も、高いのですが、
しかし彦坂尚嘉が、BOMEのつくるフィギュアを、
《透視立体》の彫刻であるというと、
まあ、誰も同意してくれなくなります。
こまったものなのです。
もともと、BOMEのような娯楽性の高い作品を、芸術というのは、違うと思う人もいるかもしれない。
しかし、すでに述べた様に《非合法性》《退化性》があるばかりか、
BOMEのフィギュアには、《非実体性》もあるのであって、
極めて高度な鑑賞芸術構造を持っているのです。
そのことは、他の海洋堂の原型師と比較しても、
BOMEだけが、芸術家であり、作品は彫刻なのです。
たとえば、ガールズキャラクターの原型師の
吉沢光正は、《2流》から《6流》の多層重層表現。
しかし《非合法性》と《退化性》はないので、デザイン作品に止まっています。しかも《原始立体》であって、これは人形なのです。
宮園博久も、《2流》から《6流》の多層重層表現。
同様に《非合法性》と《退化性》はないので、デザイン作品に止まっています。そしてこれも《原始立体》であって、人形なのです。
したがって、彦坂尚嘉の《言語判定法》で見れば、
BOMEのフィギュアだけが、小さな彫刻であり、真性の芸術作品であるのです。
ただし《ローアート》であり、《きばらしアート》では、あるのですが・・・。
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さて、昨日のブログで取り上げた
団・DANS The House展の作家60人がすべて、
《非合法性》《退化性》がないために
デザインワークでしか無かったと書きました。
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つまり芸術家のフリをした、デザイナーでしかなかった。
それに対して商業的な海洋堂の原型師、つまりデザイナーであるはずの、
BOMEには、《非合法性》《退化性》があって、真性の芸術家であるというのも、
変なことではあります。
多くの人は、彦坂の意見に同意してくれないでしょう。
この《非合法性》とか、《退化性》というのは、
なんであるのでしょうか。
《非合法性》というのは、作品を作る時に、
その作家個人の無意識の領域を注ぎ込んで制作して行くことによって、
獲得される個人性です。
これが芸術作品には、必須のものであるのですが、
なかなか、それが出来ないのです。
《退化性》というのは、その個人の無意識性が、
幼児時代にまで遡行して行く、そうした歴史性を持っているものです。
実は、この《非合法性》《退化性》こそが、
才能なのです。
こうしたものを作る事が、努力や教育では、獲得が出来ないのです。
村上隆が、自分には才能が無いと、自覚しているのは、
実はこの《非合法性》《退化性》の欠如のことであると、
私は思います。
実際、村上隆の作品は、合法的で、デザインワークでしかないものなのです。
それに対してBOMEには、《非合法性》《退化性》があるのです。
しかし村上隆だけに、これらの才能が欠如しているわけではないのです。
すでに書いた河原温の作品もデザインワークでしかなくて、
《非合法性》《退化性》は、彦坂尚嘉の《言語判定法》で見るとないのです。
実は李 禹煥の作品にも、《非合法性》《退化性》はなくて、
あれは、実は、合法的なデザインワークなのです。
草間弥生には、しかし《非合法性》はあります。
しかし《退化性》はない。
芸術作品としては、半身の弱いものなのです。
さて、この《非合法性》《退化性》を持っているのが、
現代美術の巨匠たちではなくて、
海洋堂の原型師のボーメであるというところに、
日本の現在の天才事情があるのであるのです。
芸術の才能が、こうして芸術の制度性の外部に流出していて、
制度の内部が枯渇して来ているのです。
芸術の天才は、こうして制度の外部で、輝き、
芸術制度の内側には、デザインワークが、あふれているのです。
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