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ドナルド・ジャッドの顔(最後、少し加筆) [新・美人論]

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ドナルド・ジャッドの顔である。
美しい人である。

《イメージ判定法》で、《1流》の人。
《言語判定法》で、《超1流》から《7流》までの多層的重層的人格。
《現実判定法》で、《8流》の人。

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《象徴界》の人で、
《想像界》《現実界》がない。

気体人間で、液体性、固体性がない。

そういう意味では、
フーコーと同じタイプの人間である。

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二人とも、《象徴界》しか無い人格。
分かりやすく言えば、規範的な言語だけで考えている人たちである。

ジャドは、美術評論家であって、
その批評的視点から作品が出て来たとも考えられるから、
そう考えれば、彼の作品は、
美術に於ける規範的言語で作られていると見ることが出来る。
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私自身は、ジャッドの作品を《超1流》の名品として、
深く尊敬しているが、
しかし作品の、ある異様さは、
この象徴界の規範言語だけによって制作された作品としてみる事で、
理解が出来る。
この作品は、言語的規範作品なのである。

普通で考えれば、ジャッドの立体は、
芸術を《現実界》に還元したと考えられる作品であり、
事実日本では、そういう文脈で見て来ているように思うが、
作品は《象徴界》の作品であって、
《現実界》性を欠いているのである。
その異様さは、
この立体が、実は《象徴界》の言語的規範作品であると、
理解すれば、説明はつくのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
同時にジャッドは、気体人間なので、情報化社会の人間タイプである。
共同体的な固体性(前近代性)は無いし、
運動体的な液体性(近代性)は無い。

ジャドの作品が、伝統的な絵画や彫刻という
ジャンル的共同体性を切り離してしまっている事も、
気体人間だけの人格ということで、理解する事ができる。

つまり、固体性、液体性を欠いて、気体性しかない人格、
つまり総合性を欠いた人格故に生じた作品と解釈できる。

ジャドの作品が、同じものを作り続けるスタイルに至ったのも、
そういう意味では液体性を欠いているからであると、理解できる。

つまりジャッドの作品に感じる、素晴らしさと同時に存在する物足りなさを、
そうした総合的人格性を欠いたアーティストの作品として、
理解しうる。

フーコーも、ジャッドも、
ともに《象徴界》しか無い人格であり、
ともに気体人間ではあるが、
その共通性だけではなくて、差異も、存在する。

フーコーの顔には、
《超1流》から《41流》までの全領域を網羅した、
多層的重層的な人格性がある。
それは《41流》性の人間の暗黒領域までも含む、
総合性があるのである。

それに対して、
ジャッドの顔は、《超1流》から《7流》まのでの多層的重層的な人格であって、
《8流》から《41流》までの倒錯的暗黒領域を含んでいない。
だからジャッドは、美しい!
清らかなのである。

それは同時に、作品の、清らかで、
清潔な美しさになっている。

その作品には、人間の暗黒面は、内包されていないのである。

私の個人的な趣味は、実は、この清潔な美しさこそが、好きなのである。
しかし現在のこの混迷期には、そういう分けにも行かないのである。
人間社会は、暗黒時代へと向かっているのだから・・・。











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