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欲望としてのアート(加筆1) [アート論]

Georgeさんのご質問に、正面からお答えできなくて、申し訳ないと思いますが、異次元での交差しか、なし得ないのが、人間のコミュニケーションなのです。

いま、私が、一番しゃべる相手は清水誠一さんですが、
彼とは美術家同士でありますが、お互いに生きている次元が根本的に違うのです。
それを分かりやすく言うと、清水さんはウインドウズを使っていて、私はマックなのです。
ウインドウズ使用者と、マック信奉者の差異が、コミュニケーションを可能にするのです。
彼とのコミュニケーションが面白いのは、この異次元のずれを持った交差性なのです。

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美術作品を発表して行く時に、観客や、コレクター、そして他の作家とのコミュニケーションも、
こうした《ずれ》を持っています。

今やっているギャラリー手の個展でも、旧現代美術系の作家ですと、
観察していると、
大きな作品だけ見て、私の小さな作品は、見ません。

しかしハーバード・リードの芸術論を下敷きに語れば、
美術作品の大・中・小は、異なる起源を持っています。
つまり美術という言葉で、一つの美術を指し示すしているのではなくて、
3つの別の起源の美術を意味しているのです。

つまり3種類の美術があるのです。
この世には、3種類の芸術がある。

キリスト教の正統教義で言う、三位一一体を理解する必要があります。
父なる神」と「ロゴスである子なるイエス・キリスト」と「聖霊」の3つが、
尊(とうと)さが等しいのです。
神は固有の三つの自立存在でありながら、
実体は同一であるという教義です。

同様の三位一体の構造で、
美術に於ける、大美術、中美術、小美術があるのです。

大規模美術の起源は、建築です。
ピラミッドとか、アンコールワットのようなモニュメント。
そして巨大建築の中に描かれる壁画です。

小規模美術の起源は、護符/アミュレット(根付けのような小彫刻)と、
本の美術(写本、ミニアチュール)です。

そして中規模美術の起源が、
人体彫刻と、
タブロー、あるいは軸ものであって、
ここに鑑賞芸術の自立が成立します。

つまり大美術、中美術、小美術の3つが、
皆、芸術的には重要さが等しいのです。

三つの美術は、固有の三つの自立存在でありながら、
芸術性は同様なのです。

狩野派の2代目である狩野元信が、
勝利を収めて、狩野派の成功を生み出した根本は、
この美術の三位一体を理解したことがあります。

建築美術と、ミニアチュールの統合のうちに、
超越的芸術の確立をなし得たからです。

日本美術の根幹には、この美術の三位一体性確立が、
狩野派の伝統として存在しています。
狩野派を理解する事無しには、日本美術の理解はないのです。
それはキリスト教の三位一体を理解する事無くては、
欧米文化の理解が不可能であるのと、同様なのです。

日本の現代美術の旧派は、芸術の三位一体性を理解せず、
その3分の1の美術である大作しか、見ようとしませんでした。

彼らは、
無自覚に、建築美術と、タブロー/人体彫刻的美術を混同しているのです。

小さな美術に、芸術の本質が宿っている事を見ない彼らは、
トータリティを欠いたことを自覚しない、不具者だったのです。
あるいは、知的障害者と言っても良いのです。
それは辰野登恵子さんにもあって、
彼女は巨大キャンバス絵画という領域しか見ないのです。

彼らは日本美術の伝統の正統ではないのです。

同じ事はコレクターにも言えます。
彼らは、美術の中でも、購入できる小さなサイズのものしか、
興味を示さない。
だいたい買えない大作は見ようとしません。
コレクターもまた、眼の欠損者なのです。
彼らは美術ではなくて、
購買欲に取り付かれ、
そしてまた、マネーゲームに取り付かれています。
いやいや、実は、そういう欲望を媒介して、
美術/芸術という欲望そのものの、隠された本質に到達しているのです。

旧派も、コレクターも、その欲望は、
美術に向かっているのではなくて、
むしろ、隠された欲望の深淵そのものから動かされる
無意識機械なのです。

欲望そのものの無意識の深淵が、
美術それ自身の固有な原理とは、違うものなのです。

多くの日本の美術家が、
美術それ自身の固有な原理や規則や構造を学び、
探求する学問をおざなりにするのは、
作家自身の欲望の無意識の深淵が、美術の外にあるからです。

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建築領域の観察を、ほんの少しですがしていると、
施主の無意識の欲望と、建築家の無意識の欲望は違っていて、
この両者の欲望の差異を、自覚的に差異として構成して、異次元性を取れる建築家が、
成功している様に見えます。

しかし、施主の無意識の欲望と交差しつつ、
次元的な差異を構成するのは、
やさしくはないのです。

フロイト/ラカン、あるいはジラールが言う様に、
一人の人間の欲望というのは、
他の人間の欲望のコピーであるのです。

自分の欲望が、他人の欲望の模倣でしかないという事を、
あなたは、認められますか?

隣のおばさんが、ダイヤモンドを買ったから、
自分もダイヤモンドが、欲しいのです。

他の作家が、国際展に出品したから、
自分も国際展に出品したいのです。

友人が自動車の免許を取ったから、
自分も自動車の免許を取るのです。

欲望が、つねに、他者の欲望のコピーとしてしか現れないと言うことを
自覚しないと、まず、自分自身が分からないし、
そして観客や、施主の欲望を理解できないのです。

それは同時に、模倣の禁止と言う戒律の意味も理解できないことになります。

施主は、だれだれの家のような家が欲しい。
あるいは、この雑誌に載っている様な家が欲しい、
などと、言うのです。
模倣の連鎖を生きる欲望の土砂崩れです。

コピーということは、模倣であると言う事です。
欲望は、他者の欲望を模倣して、横取りするところにあるのです。

模倣というのは、
横取りすることであるという、
そのことも自覚しないと、人間が理解できません。

欲取りというのは、泥棒であり、
略奪なのです。
社会の根底には、この略奪の土砂崩れがあります。

横取りすれば、横取りされたものとの、暴力的闘争が出現するのです。
この暴力の次元こそが社会の根底を形成してしているというのが、
ジラールの指摘なのです。
ラカンの精神分析の根底にも、こうした文明の根源的な直接暴力の次元が、
潜在しているのです。

つまり
そこには模倣と横取り、 
そして横取りに伴う際限の無い暴力=権力闘争の連鎖が潜在しているのです。

Georgeさんが言う、純粋に美術を楽しむという人々の欲望それ自身の根底には、
こうした暴力領域を隠蔽している自己欺瞞の皮膜があるのです。

つまり純粋に美術を楽しむという鑑賞行為そのものが、
美術家の欲望をコピーすることであり、
そしてその喜びは、模倣の喜びであり、
横取りする喜びなのです。

コレクターの場合には、もっと踏み込みます。
実際に買う事によって所有権をとること、
つまりコレクターになるというのは、
美術家の欲望を横取りしていく、略奪の喜びなのです。

しかし、その美術を制作した美術家の欲望自身が、
その起源として、鑑賞者の欲望のコピーであり、横取りなのです。
美術の制作自身が、鑑賞者の欲望のコピーであり、
横取りである事を自覚しないとなりません。

鑑賞者と、美術の制作者の、この相互模倣の欲望の模倣の循環の中で、
美術史が、際限のない循環の転落する円環として出現し、
斜面を回転しながら、落下して行くのです。

それが一番露に現れるのが、
純粋そうに見えるアマチュアの画家です。
彼らは、見る者の欲望に直接に対応しようとして、
うまさや、安易な描写性に流れるのです。
そして求めるものは、安手の賞賛なのです。
そこでは、観客の存在と、美術制作者の欲望が短絡し、
早漏しているのです。

美術を鑑賞者として純粋に楽しむとして現れるものが、
その、他者の欲望の模倣と横取りという、
そういう略奪性にあるということを、
人間は、隠蔽しているのです。

自分の楽しみが、何によって生じているのかを、
反省的には、自覚していないのです。

鑑賞の喜びが、自己欺瞞性の皮膜の上に生じている事が、
重要なのです。

この自己欺瞞性の皮膜とは、何であるのか?

自己欺瞞というのは、
人間存在の根底を形成しているのです。

人間は、事実や真実を凝視することが出来ず、
常に、自分の見たいものしか見ないのです。

ラカンが指摘した様に、自己を写す鏡像しか、見ることが出来ないのです。
多くの人は、自分の事しか考えていないし、
自分しか見ていないのです。

他者や、外部を見ることが出来ない。

他人の作った作品を見ているのではなくて、
自分を見ているのです。

もちろんそれは無自覚なのですが、
真性の芸術は、この無自覚性と、異次元で交差して行く作業なのです。

そして村上隆的な起業論的芸術は、
この他者の欲望をコピーする事で、
欲望それ自身の一致を目指しています。

彼は、客の喜ぶ美術の生産に向かっていて、
自分自身の満足のいく作品を作っていないのです。
あれほど社会的に成功しながら、
自分には才能が無いと、村上隆が言うのは、
彼自身が、自分の満足する作品をつくらず、
客の満足する作品を作っているデザイナーだからです。

他人の自己欺瞞と、自分の自己欺瞞を一致させる技術をして、
アート=デザインという領域が出現します。
浅田彰氏も指摘している様に、村上隆の作品は、
アートという名のデザインワークなのです。

コレクター/施主の欲望と、作家/建築家の欲望が一致すれば、
デザインワークが出現し、消費で完了するのです。
後に残るのは消化された後の残余である糞だけです。

芸術というのは、糞になることへの拒絶であるのです。
つまり消費される事の拒絶なのです。

そこに出現するのが、模倣の禁止と言う、
奇妙な戒律なのです。

模倣しか出来ない人間が、模倣を否定するサーカスです。

そして自己欺瞞しか生き得ない人間が、
この自己欺瞞性を否定し、
逆立する、サーカスでもあるのです。

だからアートは真実にこだわり、純粋を目指すのです。
それもまた自己欺瞞のメタ化にすぎないのですが、
その自己欺瞞の否定によってこそ、芸術は、
真性の人間存在の空無として、出現し、神を超えるのです。
だから、時代を超えて、残るのです。

したがって、この他者との自己欺瞞の一致をいかに拒絶し、
それをどのように組織化し、
そしてまた、この拒絶を、いかにして、再度、
他者の欲望と交差させる異次元性を生み出しえるのかと言う、
抑制された倒錯的戦略が必要なのです。

芸術は、制作者にとって解放ではなく、抑圧であります。なぜなら、模倣しつつ、模倣を否定して、逆立する作業だからです。制作論は、抑圧の教えであって、解放のエクスタシーではないのです。

しかし観客の欲望にとっては、倒錯して、鑑賞は、解放のエクスタシーなのです。
なぜなら、鑑賞とは、模倣への再帰だからです。

この模倣の禁止という抑圧と、模倣への再帰という解放の次元の回転する円環を回転させ続ける動力は、差異と倒錯を生み出す欲望のズレなのです。

横取りの禁止と、横取りへの再帰のエクスターと言う、人間性の根源である自己欺瞞の皮膜一枚を見つめ得るのか?
それがアーティストに問われているのです。

最後にのこるのは、この薄皮一枚の皮膜です。その向こうに、決して到達も、解放もされ得ない、幻視する真性の欲望の異次元が広がるのです。


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コメント 6

George

とても興味深く読ませていただきました。
特に、「自分の欲望が、他人の欲望の模倣でしかないという事」
について、あまり深く考察した事がなかったので、気付かされる部分が多かったです。

by George (2008-06-13 15:01) 

直itoh


 深く考えさせられる素晴らしい文章でありました。
by 直itoh (2008-06-14 01:07) 

ヒコ

George様
コメント、ありがとうございます。
たいへん、きちんとした対応をいただき、感謝しています。

直itoh 様
ありがとうございます。
土曜日、お手数で恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
by ヒコ (2008-06-14 12:01) 

komatta

「欲取りというのは、泥棒であり、略奪なのです。」
すべてがそうではないでしょう。
「横取り」が「泥棒」や「略奪」になるためには、その保持者に自己所有の観念が備わっていなければなりません。
模倣の悪影響について云々する前に、所有の問題を考える必要があると思います。

by komatta (2008-06-15 15:16) 

ヒコ

komatta さん、コメントありがとうございます。ご批判異論は傾聴しますが、理論枠を誤解なさっています。そのことは「保持者に自己所有の観念が備わっていなければなりません」という部分に、一番明示されています。私の議論はラカンやジラールを水準に展開していて、いわゆる経済論やマルクス主義的なものではありません。分かりやすく言えば、心理領域なのです。保持者に自己所有の観念は、いらないのです。それが分からなければ、模倣の本質が分かりません。ラカン理論で言えば、鏡像理論が典型ですが、人間が、自己像である鏡像を模倣するのです。模倣される鏡には、自己所有の観念は持ち得ないのです。そういう理論水準ですので、あなたの誤解、誤読であります。
by ヒコ (2008-06-16 20:18) 

komatta

ご指摘ありがとうございました。
たぶん私の「誤解、誤読」なのだと思います。
そこで、どこを読み違えているのか知るため、もう少し質問させていただけたらありがたいです。
ラカンはたしかに「心理領域」の話として理解できますが、ジラールはどうなのでしょう?
「横取り」が「泥棒」や「略奪」になるというのは、ジラールからの引用だと思いますが。

by komatta (2008-06-17 11:19) 

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