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押井守のスカイ・クロラ(改稿3/加筆2校正1重複画像削除) [アート論]

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押井守の新作『スカイ・クロラ』を見てきました。
さすがの作品で、参りました。
とても私には作り得ない、非常に硬質な良い映画でありまして、
感銘を受けました。

雲の表現が、凄い!

今までの傑作、たとえば機動警察パトレイバー 2 the Movie』や、
GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』『アヴァロン』『イノセンス』と比較してどうか?
と言われれば、比較する事自体が難しい。

表面の印象で言えば、原作・脚本だけを押井守がやって、監督は沖浦啓之がした人狼 JIN-ROH』(2000年)に近い感じがする。イノセンス』の持っていた異様すぎる《超1流》の古酒のような濃密さは大幅に薄まり、白ワインの水割りという飲みやすさになっている。細部や、会話がスムーズになっている。従来の押井作品にあった膨大な長ぜりふがなくなって、量産品的なろやかさがすあるからである。ラストは小説と違った描き方になっているそうで、この最後は、特に良いエンドロール後も映像が続いて出て、これも優れている。

今回の特徴は、多数の人を説得してまとめた今回の作り方にあるのだろう。むしろ製作の組織化の仕方が、より現代の産業性をおびることで、新しい次元に押井守が達していると言うべきものである。そういう意味も込めて、このスカイ・クロラは傑出した佳作である。。

押井守自体が、映画館の大きなスクリーンを大切にしていることと、
風景と、大空の戦闘シーンの面白さ、
そして驚くべき海の波、雲の表現、
DVDではなくて、
これは映画館で見る事をお薦めします。

しかし、押井守の映画は、芸術であって、
エンターテイメントではないので、
決して万人向きではありません。

8月27日開幕のベネチア国際映画祭コンペティション部門出品作にも選ばれているが、私は、受賞は期待しません。

嫌いな人は、嫌いだと思うので、
私の推薦で、見に行っても、責任は取りませんよ。

もっとも、この押井守の映画を嫌いな人は、
私は差別しようと思う様になりました。

たとえば、次の様な感想があります。

同じような繰り返しで見るとこなし。
確かに実写らしきものを交えているが、面白みにかける。
尻は痛くなるは、眠たかったです。
きっと寝ていたのでしょう。
試写会に期待していったのにハズレでした。
少なくとも私には合う映画で有りませんでした。
家でテレビでも見ていたほうが良かった。


この人の気持ちは分かりますが、こういう人は、
家でテレビを見ていればいいのです。
こういう人は、私の作品も無理です。
多分この人は、長い小説も読めないだろうし、
私の尊敬する桐野夏生の最良の時期の本も読めないだろうし、
もちろん音楽も、私の好きなものは受け付けないだろう。
この人と、私は無縁であって、関係がないのです。
あるとすればコンビニのレジで、買い物で接触するとか、
そういう関係であるだけでしょう。
文化的な関係は、無関係なのです。


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原作のスカイ・クロラ』(The Sky Crawlers)とは森博嗣小説
戦争請負会社の日本人部隊で、
戦闘機に乗って戦う若者の物語で、
永遠に子供であると言う人々。

舞台は、完璧(かんぺき)に平和な世界。そこでは紛争解決のための戦争は起こらないのだが、「ショーとしての戦争」が行われている。誰かがどこかで戦い、死んでいるという事実が存在しなくなれば、平和の価値が実感できなくなるからだ。空中戦のパイロットとして戦闘機に乗るのは、キルドレと呼ばれる子供たち。戦争で死なない限り、思春期の姿のまま永遠に生き続ける運命の彼らにとって、地上での日常は退屈な反復でしかない。生きている実感を得られるのは、死と隣り合わせの戦いに挑む時だけ。手描きの平面的なアニメーションで表現された地上世界に漂うまったりとした空気と、3Dコンピューターグラフィックスで描かれた空の上の世界を戦闘機が自在に舞う様子の対比が、そのことをはっきりと示す。(恩田泰子)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/cinema/review/20080801et06.htm

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栗山千明が出演している。
【キャスト】

部署のエースパイロット・三ツ矢を演じた栗山千明は、アニメ好きを公言するだけあって(?)、見事な声優ぶりでした!あまりに上手くてプロの声優だとばかり思っていたので、少々演技が硬いかな…なんて思ったりもしたのですが、優等生的役柄をメリハリの利いたハッカリとした物言いで強気に表現しながらも、キルドレとしての自分の運命を上手く受け入れられずにいる情緒不安定な様子を、感情的になって上擦ってしまう細かい声の表情までも見事に表現して演じ切っていて流石だと思いました
みさと http://movie.goo.ne.jp/review/movie/MOVCSTD12529/1_1/index.html


アニメーションでありながら、エンターテイメントではなくて、
芸術になってしまっていると言ったが、
多くの観客の不満は、現実にあるのである。

たとえば次のような批判があります。

物語の流れというものを完全無視した平淡さだったので飽きが来てしまい残念に思いました…。とはいえ、独創的なCG映像で見せる空中戦闘は良かったですね!イマドキのCGのようにリアルを追求したというよりは、飛行機の美しさや戦闘シーンの凄味をじっくりゆっくり見せている不可思議な映像は、独特な雰囲気をまとっていて面白かったです!ただ、人物が平面なセル画なので、そのギャップは遺憾ともしがたかったので、どちらも同じ手法で描いて統一感を出して見せて欲しかったです。

この、みさと という人の批判は、ごもっともなのだけれども、しかしそれが逆であって、その欠点こそが面白いのであり、そして実はこの退屈さにこそ、押井守の映画の時間が流れているのであり、世界観が表出されているのです。ある意味での抽象映画と言えるものなのです。

物語の流れというものを完全無視した平淡」ということが重要であって、〈物語〉というものを否定的に抑圧しない限り、物語は、ハリウッド娯楽作品的な「ジェットコースタームービー」になってしまって、押井守が追求している「時間」が出現してこないのである。この〈物語〉の抑圧という視点そのものが、大衆娯楽性の抑圧になっているから芸術になりえるのであって、この抑圧を解除してしまっては、
押井守の芸術性は成立しない。つまりここには、妥協の出来ない一線があるのである。

みさとという人が評価する「独創的なCG映像で見せる空中戦闘」というものと、「物語の流れというものを完全無視した平淡さ」というものは、実は銅貨の裏表であって、この両方が切り離せない構造なのです。

同じ事は、「独創的なCG映像で見せる空中戦闘」と、「人物が平面なセル画なので、そのギャップは遺憾ともしがたかった」というところにもあって、この手法の並列化による違和感こそが、押井守のアニメを成立させている。

ハリウッドの、たとえばピクサー・アニメーション・スタジオが1995年につくったトイ・ストーリー』というようなフルCG作品というのは、制作費の高騰を生み、全世界に配給して多くの年齢層の観客をとりこみ、できるだけ多くの興行収入を確保するというシステムになっている。それに伴ってストーリーや題材も当たり障りがなく、どこからも苦情が来ないようにあえて工夫されて作られているものが多くなっている。製作費の高騰が、凡庸性のあるエンターテイメント・アニメに至りつくのである。

押井守という作家性を高める日本的な製作とは、アメリカに比較して低予算であり、アメリカとは反対に、凡庸性を抑圧して、異様なまでの作家性を前に出した押井守のアニメを成立させたのである。

低予算、そして少数の観客という限定性が、作家性を許し、芸術作品を成立させるのである。だから、大きなマーケットとは別の、小さなマーケットが必要なのである。

日本アニメは、低予算で、多くのアニメスタジオが競って作品を作っていくなかで、押井守のような芸術化した異様に高度なアニメ作品を生み出したのである。そこには予算の比較でアメリカとの歴然とした差があるのであって、その低予算を逆手にとるからこそ、このCGとセル画の並列を生んだ。CGアニメは高いのであり、伝統的なセル画を使う事で、セル画の職人の存在を維持し、価格を低くしているのである。しかもCGとセル画の並列の違和感こそが、劇作家ブレヒト的な意味での《異化効果》を生んでいるのであって、それこそが押井守の芸術的手法であると言える。2Dのアニメと3DのCGの融合というのは、押井守が発達させた芸術的手法なのである。

同様のことは、デジタルカメラで撮影した俳優写真や風景をデジタル加工し、ハイパーリアリズムを思わせる実写的要素を取り入れたアニメのパーツとして使用する技法オシメーション (スーパーライヴメーション)やレイアウトシステムの導入、アニメにレンズの概念や、、更にそれら素材にデジタル加工を施し質感の統一を図ったエフェクト処理などがある。押井守のアニメは、こうした独自の技術的増幅において成立しているのである。

エフェクト処理の多用は、極めて印象的である。以下のイラストにも使われている。



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【下をクリックしてください】
 さて、みさとさんの押井守批判の続きである。

 私の読解力が足りないのか、はっきり言って、今作で描きたかった事が何であるか…私には全く分かりませんでした…。何故なら、登場人物や世界観のバックボーンがあまりに抽象的な描かれ方をしているので、どこに焦点を当てて見てよいのか分からなかったからです。

 多分、劇中の言葉によると"ギルドレ"達は大人に"なれない"のではなく、自らの意思で大人に"ならない"そうだし、子供と言っているワリには大人がするとされているタバコの嗜好に、セックスや出産、大人びた考えをする事が、現代における大人への境界線の曖昧さや、大人と認められる20歳という境界線を過ぎても尚、大人になるという自覚がないまま過ごしている現代の若者たちの事を指し示しているのかな…などと考えてみる要素があったり、

 パイロットとしての素晴らしい才能を活かして、仕事をこなしながらも無気力なまま惰性的に日々を過ごしている主人公・優一、自らの命も戦争の道具として扱われている運命に抗う事なく受諾している土岐野、"キルドレ"としての自らの宿命を受け入れる事が出来ずにいるネンネな三ツ矢…そして、死に急ぐように"今"を生きながらも、少女のままで生きる事を決意している草薙といったように、戦争という重大な使命は担っているものの、様々な"キルドレ"達から、現代の若者の傾向というものが垣間見えるものがあり、そんな彼らが幼き姿のまま"死"と向かい合わせの戦争に参加し、様々な死を目の当たりにする事から見えてくる"生きる事"の意味や、"他者との距離感"…そして、"大人"という絶対的な存在に対する価値観などなど…そんな事を描いていたのかな〜と思ってみたり、

 "キルドレ"達の歩んできた道なりを何となく憶測する事は出来るのですが、彼らの行動は色々と描かれているものの、心情を吐露するようなシーンもなければ、モノローグででも語るような事もあまり無く、回想と呼べるものも一切ないので、彼らがどのような経過を辿って"今"のような思考を持ち、何を考え、行動しているのかイマイチ把握出来ず、今作を見ただけでは理解する事が出来ないのです…。それから、馴染みの店のオーナーと、その店の前に佇む老人との顔の類似性や、"絶対に墜せない"というルールが敷かれている"ティーチャー"の存在、草薙の娘だと噂される瑞季の存在意義、などなど…他にも色々意味深なシーンが盛り込まれているのですが、何かある事は予見させるものの、やはり読解力の無さが仇となり、汲み取る事が出来ないままに終わってしまい、理解出来ない悔しさというか、消化出来ない悶々とした気持ちだけが溜まってしまい、非常に居心地が悪かったです…。

 こうした「非常に居心地が悪かった」たという説明性の欠如こそが、押井守の作品を貫いているのである。アメリカで、同ビデオの売り上げが『ビルボード』誌のホームビデオ部門で売上1位を記録したGHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊は、スティーブン・スピルバーグジェームズ・キャメロンなどが絶賛し、ウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』はその影響を強く受けたものである。しかし、実は日本の観客にも、アニメの専門家にも受けは悪かったのであり、日本人の評価の範囲の作品ではないのでした

 日本人の多くは、自然な日常性と世間の常識を前提に物事をかんがえ、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という《同調性》を規範として生きている。そこには、物事に対する反省もない。あるのは他人を機械的に模倣する精神である。夜に光る蛍は、一斉につき、一斉に消えるのだが、こうした蛍の同調性は、隣の蛍に合わせているだけなのだが、こうした全体の《同調性》を生み出す。日本人の多くは、自立した個人の人間ではなくて、蛍であり、それは『日本昆虫記』で今村昌平が描き出した様に、人間ではなくて、昆虫なのである。昆虫には、芸術は理解できないのである。

蛍だけでなくて、女性が1軒の家に集団で住むと、生理が《同調》するのだが、こうして《同調性》というのは、自然をかたちづくり、女性的生理集団の自明性をつくりだす。こう聞くと、良い事のように思うが、《同調性》というのは、ネズミが集団で海に飛び込んで集団自殺をするように、新興宗教の集団自殺行動にいたるのも、実はこの《同調性》のメカニズムなのである。それは太平洋戦争での日本の無謀な開戦や、集団自決への強制を生み出したメカニズムである。つまり日本人の集団は、海に飛び込んで行くメスのネズミ集団なのである。メスのネズミ集団には、芸術はいらないのである。エンターテイメントだけが、必要なのである。

 押井守のアニメーションは、こうしたメスのネズミ集団の《同調性》の外で作られていて、意識的に、一般的な了解から、ずれているのである。今回で言えば、原作とは違って、物語の舞台は欧州に ある空軍の前線基地にずらされている。だから話は、日本的常識のそとになる。実際言語も、英語やポーランド語が使われる。この手法は『アヴァロン』で、日本映画でありながら、すべてポーランドで撮影されている。出演している役者もすべてポーランド人で、日本人はいない。使われている言語もポーランド語である。登場する戦車や、軍用ヘリコプター、銃火器や軍用車輌などもポーランド軍の本物であり圧巻である。こうして、押井守は、意図的に日本の外部に物語を出しているのである。

 このことは宮崎駿と比較すると、大きな違いがあると言える。たとえば宮崎駿の千と千尋の神隠し』は、観客動員数2300万人越えるという、日本国内の映画興行成績における歴代トップの記録を打ち立てたものですが、アメリカでは、アカデミー賞を受賞し大規模な広告キャンペーンが行われたにもかかわらず、興行収入1,006万ドル(同時期のディズニーアニメの30分の1以下)という結果に終わっています。それはキリスト教の文化的背景に生まれ育った観客には「八百万の神々」という概念が理解しにくいためと思われるという解釈や、アメ勧善懲悪劇のような明瞭で一貫したストーリーを持たず、様々な出来事がいくつも起きて大団円を迎えるという展開がアメリカ人には分かり難かったとも考えられるという解釈がなされている。
 が、基本的に宮崎駿の作品は、日本社会の同調性の常識の中で作られているからであって、本質的な無国籍ものである押井守の作品との差があるのです。だからこそ、押井守の攻殻機動隊は、アメリカで売れたのである。私が言っているのは、機械的な無国籍アニメが良いと言っているのではなくて、日本人がよく考えないで、分かりやすい同調性だけを求める心性を強く持っており、この心性では、芸術の了解が今日ではつかなくなって来ているという事である。押井守の手法については、次の様に書かれている。

Wikipediaによれば、次のようである。

一般的には映画を構成する要素(A『キャラクター』・B『物語』・C『世界観』)はA→B→Cの順番で構築されるケースが多いが、押井作品では逆にC→B→Aとなることが多く、まず『世界観』ありきでそこから無理の無い『物語』・『キャラクター』が逆算で割り出される。

押井の永遠のテーマとも言えるシナリオの方法論として、「虚構と現実・真実と嘘の曖昧さ」がある。これも上記と同じく押井が源流ではない(前例として古くは荘子、近年では楳図かずおフィリップ・K・ディック等が挙げられる)。

押井は自らを「娯楽作品をつくる商業監督である」と語っているが、一方で「自分の作品の客は1万人程度でいいと思っている」、「1本の映画を100万人が1回観るのも、1万人が100回観るのも同じ」といった発言があることから大衆・万人に受け入れられる作品づくりにはあまり興味がない模様である

 こうした押井守の少数の観客主義に対しては、押井守のアニメ業界での師匠であるアニメ監督の鳥海永行や、身内とでも言うべきほどに近しい北久保弘之から、苦言を呈されているという。

 また、作画監督の黄瀬和哉からは宮崎駿の『千と千尋の神隠し』の試写の後「あんたにはああいう映画は作れない」という、間接的ながら批判を受けているという。

 さらに『イノセンス』制作後のインタビューで「たけしでさえ『座頭市』を撮ったのに…」とのコメントがあったそうで、これも押井守の前衛性に対する批判といえる。

(以上はウイキペディアより) 

 しかしビートたけしの座頭市は、愚作であって、何も無かったのであると、彦坂尚嘉は思うのである。押井守の路線の方が、正しいと、私は思う。バランスはあるにしろ、多数者のマーケットは切るしか無いのである。

 押井守のこの制作方法を、私が独自に分析することの立場にはないが、私自身の製作法と、さらに私の作品を評価しない若い友人たちとの軋轢から、実は、私は押井守に、強い興味を持つのである。

 日本の観客も作家も、作品が独自に自立してピラミッドのように、異化物として自立する必要がある事を理解していないのである。

 みさとさんの批判や戸惑いを理解はできるが、しかし現実に私たちが生きている世界は、彼女が押井守のストーリーの分からなさと同様であって、私たちは良く分からないままに現実を生きているし、経歴も良く分からない人々と接して、日々を暮らしているのである。こうした事の不確かさと、世間そのものの分からなさが、押井守の作品の根底にはあるのである。

 そして芸術というのは、こうした世界と歴史と向き合う作家個人の志向と視線が生み出すものであって、観客とのズレにこそ、他者性があり、他者と向き合うというその齟齬にこそ、芸術が立ち現れる場所があるのである。

 実は私の回りにいる若い作家に、かなりいらだっている。彼らは自分が良いと思わない私の作品を見に来ないし、そしてパーティにも来ない。それは私の権力としての弱さなのだが、しかし根底にあるのは、みさとさんと同様な、心性である。自分に自然に分かるものが良くて、分からないものがどれほどに高度の芸術性を持っていても、批判し、そして見ないという形で、切り捨てるのである。

こうした若い人をどうするのか? 彼らが切り捨てるのだから、こちらも彼らを切り捨てる。その決断は重要である。そして、より才能がなさそうに見える無力性のある若い人と付き合う。だからもっと、別の関係を、より若い人々との関係に求めようと思う。押井守の新著が2冊出版されたのだが、1冊は『他力本願』、もう一つは『凡人として生きるということ 』というものである。中途半端な才能は、枷になるのであり、芸術の基本を伝達し得ない。中途半端な才能は、5年で枯れてしまう。だからより凡人に見える人々の関係へと降りて行く。次世代の美術を支える人々は、底にこそいるかもしれないのである。

おそらく、中途半端な才能を持つ若いアーティストたちも、この押井守の作品を見ないだろうし、見ても評価しないだろう。

なぜなら彼らは《8流》の、自己中毒的な、新興宗教の世界に入っているからである。《8流》のアーティストには、《超1流》の押井守は分からないのである。何よりも、他人が自分よりも優れていて、そして自分にわからない大人の芸術があることを知らない。彼らはチルドレなのである。しかし子供のままで、他者無き作家には、未来が無い。戦死するのである。生き延びる事が出来ない。

死ね死ね押井守というサイトがあって、これは面白い。

押井守」が大嫌いだ。嫌いなだけじゃなく、映像監督として、エンターテイメントに携わる送り手として、表現者として「クソ」だと思っている。
http://www.kiwi-us.com/~amigo/otakuuta/osii.htm

 こうしたエンターテイメントの立場からの批判は、だから、当然なのである。《8流》の自閉した子供には、押井守のアニメは分からないのである。そういう意味で、今日の芸術判定の踏み絵として、押井守の作品はあると言える。

 宮崎駿の佳作に紅の豚』というのがあって、劇場用アニメ映画の興行成績日本記録を更新した作品である。私も劇場に行って見ている。この2つの飛行機乗りの物語の差にこそ、エンターテイメントとと、芸術映画の差があるのである。


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アニメといっても、完全な芸術映画である。

《想像界》の眼で、《超1流》
《象徴界》の眼で、《41流》から《超1流》の重層多層表現。
《現実界》の眼で、《超1流》

パーフェクトな映画で、その完成度の高さと、抽象性の高さは、
傑出している。

美術界の現代アートの大半のものとは、比較にならない芸術性の高さである。

非常に洗練されていて、しかも色調も押さえられ、
きれいな、大人の映画である。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で、すべて真性の芸術である。

それといつも思うのだが、押井守も非実体性の強さは、
驚くべきものであって、賛嘆にあたいする。

宮崎駿のアニメは《超1流》だが、しかしそれはエンターテイメントである。
それに対して押井守のアニメは、真性の芸術なのである。

みさとさんや、私のまわりのある種の若い人は、宮崎駿を見ていれば良いのである。
たぶん村上隆や、会田誠、そして奈良美智もまた、押井守の作品は分からないだろう。
宮崎駿は偉大であるが、しかしそれはエンターテイメントであり、子供にでも分かる世界である。
押井守のアニメは、子供には分からないのである。
子供には、分からない世界や、芸術はあるのである。
この映画の主題であるチルドレは、大人にならない永遠のピーターパンであるが、
日本人の多くは、永遠のピーターパンで死ぬのである。



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この映画に合わせて押井守の著作が2冊出ていて、
その一冊の『他力本願』を買って来て読みはじめた。

自己満足の作品ではなくて、他人の欲望を受け入れた他力本願の作品に目覚める事が書いてあるが、極めて正当な意見である。

非常に透徹している人で、感心する。

もう一冊の方も買うつもりでいる。


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押井守の顔である。

《想像界》の眼で《8流》。
《象徴界》の眼で《超1流》から《41流》までの多重層的人格。
《現実界》の眼で《超1流》。

《超1流》〜《41流》の人格だからこそできる、
非常に多層多重な表現の映画なのである。

今回のスカイ・クロラは、押井守の第2ステージの作品として、
成功している名作であると言える。

私はもう一回は、行って見るつもりです。
2回目は映画館を替えようと思います。


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