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批評について(1/加筆1)人間関係 [アート論]

建築家の松田逹さんと、
批評の話をしていて、一貫性のある形で、
批評をなし得るのならば、それは信用できるし、
意味があると言う話を、してくれた。

同じく南 泰裕さんと批評の話をしている時に、
反対の内容が話された記憶がある。
つまり、言いたい事を言っている人は滅びると言う様な内容である。

人間関係を配慮すると、文章というものは、つまらなくなる。
実例を上げると、私の尊敬する文学者の幸田文で、一番面白い小説は『流れる』であって、これは芸者の置屋の話だが、実際にそこに住み込んで書いたものだが、書いている時は離れているので、いっさい遠慮をしないで書いている。そうすると内容も面白いし、文学としての言葉の輝きもすばらしい。ところが晩年の『崩れる』は、山奥まで山崩れの取材をして書いているのだが、そこに関わった人々への配慮があって、文章としてつまらなくなっている。
しかし自由に書けば、南 泰裕さんの言う様に、
人間関係は破綻する。
言葉というのが《象徴界》なのであって、《象徴界》というのは規範であって、その事自体が嫌われるのである。だから人間関係を重視して生きるのならば、《沈黙は金》という原理が正しいのである。
人間が生活しているのは、人間関係の中なので、
社会に生きている以上、人間関係を配慮して、
批評的な言語を発しない方が良いのである。
それは確かである。

中原佑介という批評家は、
1955年に創造のための批評」という文章で、『美術批評』という雑誌の第2回「芸術評論募集」登場して、一席をとっている。創造のための批評」という文章は、作家と批評家が、協力して創造的場を形成して行くと言う主張したものである。
作家と批評家がコラボレーションのように呼応することで創造性を探求するというのは、ポロックと、グリンバーグの関係が生み出したものとして、この1950年代の近代批評とモダンアートの関係の理念的理想であったと言えるのである。

中原佑介のこうした批評と作家の関係性の追求は、まず岡本太郎との関係であったろう。岡本太郎という作家を批評化して評論を書く美術批評家というのはいなかったのだが、それを中原佑介は書いたのである。何故に批評家が岡本太郎を書かなかったかと言えば、それは岡本太郎が文章を書いたからに他ならない。正確には初期のもの以外は、実際には岡本太郎が書いたものではなくてゴーストライターが書いたものだと私は思うが、岡本太郎は敬遠されて行く。そういう中で『美術批評』という雑誌に1949年制作の岡本太郎の《重工業》を評価している。いま手元に資料はないので、この文章の執筆年は分からないが、1949年ではなくて、描かれてから6年以上は経ってからのはずである。現在、北川フラム氏のやっている現代企画室という出版社で、中原佑介全集の刊行が企画されているから、将来は簡単に年号を書ける様になるだろう。こうして岡本太郎と中原佑介は同伴するのであって、それは死ぬまで続いた中であったと、私には思える。

もう一つは1963年に内科画廊で開かれた『不在の部屋展』で、これはグループ展だが、重要な展覧会であったと思う。この展覧会が、実は高松次郎と言う作家を生み出したのではないかと、私は根拠無しにだが思うのである。『不在の部屋展』の視点が再度繰り返されるのが、1970年の東京ビエンナーレ『人間と物質のあいだ』であったのであって、そういう中原佑介という批評家と企画展の創造性と作家が、呼応した黄金時代であった。

この時代に最大に同伴する作家は、高松次郎であって、この中原/高松の関係は、極めて親密であったと、私には見えたのである。1980年に大阪の国立国際美術館で開催された回顧展、正確には2人展で、「現代の作家2 高松次郎・元永定正」というのが開催される。『みずゑ』の5月号は高松次郎特集号であって、そこに中原氏は、『知覚の統御』という文章を書いている。実はこの文章の執筆に私は少しだが関わっていて、この国立国際の回顧展で見えた高松次郎の作品については、否定的な感想を聞いている。同様の失望は、村松画廊の川島良子氏からも聞いている。こうした視点は、しかし中原佑介の文章にはかかれなかったと、思う。確認はしていない。しかし『みずゑ』の編集長であった椎名節氏の編集には生かされていて、藤枝晃雄氏と多木浩二氏の対談という形で、高松次郎批判がなされている。

作家の作品が悪く見える時に、それを批評として提出していくことができるのか? という問題は、実は難しいのである。高松次郎氏の、ある種の衰弱というのは、その当時の人間には明確に見えていて、バーで高松次郎は泣いていたし、その高松次郎の肩を抱きかかえて、中原佑介氏が、綿々と語っているのを何回か見ているのである。

作家の作品を批評が明確に批判しえるのか? という問題は、斎藤義重の場合になると、より問題を露にする。生前から斎藤義重の作品を批判的に見る人々(藤枝晃雄、山田正亮、建畠哲、中上清ら)はいたのだが、それと斎藤義重を神格化する(飯塚八朗、守屋行彬ら)2つの勢力が拮抗していたのである。私は、実は両方と酒を飲んでいると言うコウモリのような両義的な場所にいた。

中原佑介氏は、神格化しているというものではなかったにしろ斎藤義重の陣営の方にいたのだが、ところが、斎藤義重さんが死んだ後で、斎藤義重批判をしたのである。これは千葉市美術館でのシンポジウムであって、私は聞いていないので、風評でしかないから、事実が違えば訂正して謝罪するが、私が感じたのは、作家を批判するのなら、生きているうちにするべきであるというモラルであった。死者を鞭打たないというのは、人間の道と言うものであるだろう。創造のための批評」という視点を提起して登場した批評家なのだから、斎藤義重の作品について、生前に批判しておけば、作品は最晩年でも、何らかの進展はあったはずと、私はロマンティックかもしれないが、思ってしまうのである。

日本の新聞批評というのも、作家を批判する事が無い。
しかしアメリカの新聞は批判をする。
どうして、こういう差が起きたのかを、歴史的に今ここで書けるけれども、
書くと話が脱線するので、
元に戻して、
人間関係が悪くなって、その批評家が社会的に滅びようとも、
やはり、書くべき事は、抑制してであれ、書くべきではないかと言う問題である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これが僕らの生きる道.jpg

さて、そういうわけで、人間関係がまずくなる所から、書いてみる。
一番に、書いてはまずい人から書くとすると、一人は白濱雅也さんであって、実際にアートスタディーズを一緒に手伝ってもらっているので、今回のマキイマサルファインアーツでの企画展についてとか、そこに出されている白濱雅也さんの作品について、格付けをするといったことは、人間関係をまずくするから、やらない方が良いのである。

ならば、勇気をふるって、書かなければならないだろう(笑)。
白濱雅也さんと、まずくなることは困るけれども、困っても、書くべき事は書いて行く必要がある。

さて、そういうわけで白濱雅也さんの今回の作品だが、ずいぶん頑張って、木彫を展開しているのだ。それは高く評価するのだが、しかし完成しているとは言いにくいもので、未完成とするべきであろう。

これは私の意見ではないが、Aさんの白濱さん批判は痛烈で、展覧会の予定が決まって、そのために作品を作っているという作り方が駄目なのであって、制作は、展覧会と切り離して、きちんと制作されていなければ作家ではないというものである。つまり専従作家でなければ作家ではないと言う考え方で、それは正論ではある。実際に木彫を展開し、しかもそれを彩色木彫で成立させようとすれば、かなりの時間と経験が必要あのであって、並大抵ではないのである。しかも作品を作るという事は、実は、かなりの苦痛がある。

作家を続ける事は苦痛な事であって、そういう事を実はみんなしたくないのである。白濱さんも、作家で専従で、作品を売って食べて行くという様な、苦しい事はしたくないのだろうと思う。学校で、学生を教えて行く方が楽なのである。

白濱さんのしたいことは、作品を作って楽しむ事であり、それを見てもらって、他人にほめてもらい、賞賛を得るという、そういう楽しい事をしたいのである。誰でも苦しいことはしたくないのである。と、勝手に決めつけるのもまずいのだけれども、しかし専従作家を人生の目標にしているのだろうか?

まあ、だから、そうであるのならば、実は批評はいらないと言える。批評というのは、あくまでも社会的な事柄であって、公的な意味の中で成立する。その作家が美術史に参加している公的性格において成立するのであって、美術史的存在であるという選択をしていない場合には、それは批評をしないものなのである。だからその作家が公的存在であるのか、私的存在であるのかが、重要なことになる。

つまり作家というのは、私的な存在ではない。美術史参加すると言う公的性格で、成立するのである。その場合、社会性だけでは、駄目である。実例を挙げれば、前田常作という作家は、武蔵野美術大学の学長までした立派な作家だが、曼荼羅の今様仏教絵画は、美術史的な意味はないのである。こうした場合、批評する値打ちは無いと、私は考える。つまり社会的にどれほど売れて有名でも、単なる売り絵である場合には、美術史的な評価は生じないから、批評は必要がないのである。

作家は、私的な面と、公的な美術史の面との交差として存在するのであって、この交差を形成できない作家は、基本的に無視していいのである。

つまり売文で、作家から10万円をもらって駄文を書く美術批評家の文章を、《批評》とは言わないのである。それは提灯記事というものにすぎない。こういうものは、ある種の必要性であって、実用文の一種である。人間が社会を生きて行く以上、こうした実用文は必需品なのである。だから書いてはいけないと言っているのではない。商売というのは、法を犯さない限りは、自由なのである。

白濱雅也さんは、美術手帖の1997年7月号の特集『これがぼくらの生きる道』に掲載されている。そういう意味では美術史的な存在である。その限りでは、批評は成立すると言えるのかもしれない。何も美術手帖が美術史の基準であると言っているのではなくて、まず社会性を獲得しないと、歴史化も起きないのである。

それと先生の問題がある。最近それを特に感じるのだが、師を通して作品が成立するのではないか?
私の作品で言えば、FLOOR EVENT は、現代音楽家の刀根康尚氏に私は師事していて、フルクサスとジョンケージの流れである。ウッドペインティングでは、斎藤義重に間接的にだが師事していて、この木のレリーフの流れであると言える。さらにキャンバス・ペインティングでは、日展作家の清原啓一に師事していて、この日本洋画の流れである。

こういう人脈こそが、美術史を語る基礎ではないのか?
そういうことは、建築家を語る時にはついてくる問題であって、その建築家の出て来た事務所、つまり先生が誰であると言う系譜論が前提にあるのである。たとえば石上純也氏は、妹島和世の事務所から出ている。

アニメの場合にも言えて、押井守の先生というのは、科学忍者隊ガッチャマン』の鳥海 永行である。

白濱雅也さんの絵画や、発砲彫刻、さらに木彫彫刻の先生は誰なのだろうか?
木彫は、エサシトモコさんであるとは、言える。実際私が紹介して、教えをこうているのである。
私はエサシトモコの弟子として振る舞って行くので良いのではないのか、と思えるのである。

格付け以前に、まず、作家として専従作家を目指しているのか?
そして系譜学として、どの先生の芸術をひいて行くのか?

その辺の決意性が、もう一つ、私が執筆しようとすると、躊躇を生む、緩さがある作品であると言える。曖昧さがあるのである。白濱さんの凄さというのは十分に認めるのだが、総合力は高いが、器用貧乏と言うか、もう一つの凝縮力が見えてこない。その凝縮力を生み出すものは、何なのだろうか?

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最近思う事は、アーティストをやって行く事は、大変である。難しいのである。自分は自分でアーティストをやるだけで大変であって、他のアーティストは、知らないという気持ちに、初めてなって来ているのである。作家を成立させる凝縮力というのは、並大抵ではないのである。そうした決意が必要なのである。

問題は、決意と、覚悟なのである。そうであると言っておきたい。決意と覚悟なくしては何も始まらないのだから。古くさい言い方だが、決意や覚悟は重要である。そして実は、決意する事が、かなり難しいのである。決意をしないで作家になるというのも分からない事ではあるが、うまく行けば作家になって、まずければあきらめてデザイナーにでもなろうと言う様な人ばかりである。そういう人について、批評をする必要というのは無いのである。その程度の決意と覚悟では、作家にはなりえないから、ほっておいて、自然淘汰に任せるので良いのである。

作家自身が決意をして、人工的に作家になって行くと、つまり自分自身をボディービルダーのように、審美的に芸術家にしていかないと、作家にはなれないのである。等身大の作家などというものはあり得ない事で、オリンピックで金メダルを取る様に、人工的な学習と訓練を経て、初めて、美術史的傑出性のある作家になっていくのであって、そこで初めて批評という他者の視線が機能するのである。批評というのは人工性であるから、こうした人工性のゲームの中でしか、必要がないのである。

さて、今まで書いて来た事と矛盾するようだが、しかしもはや時代は《天才》や《巨匠》の時代ではない。松井みどりさん的に言えばマイクロ・ポップということだが、《小さなアーティストの時代》であるとは、言えるのである。私が考える創造のための批評」というのは、もしかすると、《凡人》や《小さなアーティスト》の探求であるのかもしれない。では白濱雅也さんの作品を、《凡人アーティスト》や《小さなアーティスト》の探求としての批評の視点で見ると、どうなのであるだろうか?

そこでも、つまり《凡人アーティスト》や《小さなアーティスト》という視点でも、批評という人工性の視点では、白濱雅也さんは見えてこないものがあるのである。それが何故なのか? 
《小さなアーティスト》になるという謙虚な決意とか、断念とか、そうした、人間の意思が持つ人工性が無いのである。

しかし、《小さな作家》であっても公的に生きるという人工的な意思や決意のある作家はいるのだろうか?
最近では、石上純也さんには、あるだろう。
門井幸子 さんには、感じられる。

松山賢にも感じられない。
ASADAにも感じられない。
彦坂敏昭さんには、感じられない。
三木サチコさんにも、感じられない。
公的なものと私的なものを交差させて生きると言う、そういう人工的な決意が、
感じられないのである。
だから白濱雅也さんだけの問題ではないのである。





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コメント 3

komatta

「人脈こそが、美術史を語る基礎ではないのか」

これは確かだと思います。
たとえば日本画とは何かという議論がありますが、日本画の先生に習い、そのやり方を受け継いでいるという意識があるかどうかです。
作品の技法や内容からは判別できません。

by komatta (2008-08-05 11:56) 

満腹

久々のわかりそうで理解ししづらい文章、ありがとうございます。
私が思うに、
これだけ価値観や世相が入れ乱れた雑多な世の中で、小さなアーチストなる存在が出てくるのは、いやおうにしてありえることであり、それらを彦さんが好かない「天才」や「巨匠」と奉り始めるのが批評という制度のような気がします。
 それゆえ、やはり、批評と作家(決意と覚悟との度合いにもよるが)は壁一枚隔てた存在であることこそ、その発展性があるようには思いますが、面倒くさくなって、途中で投げ、あとは各人で感じてくれという作品を完成品と世にだし、それをまことしやかに批評するのは悪循環になっているような気もしていますが、どうでしょうか?
小生意気ですいません。
by 満腹 (2008-08-05 12:35) 

ヒコ

私が《批評》と言っているものは、日本の美術批評の水準ではありません。そのへんが、誤解があるようです。
by ヒコ (2008-08-05 21:58) 

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