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《自己愛》性人格障害とアーティスト[改稿版] [アート論]

《自己愛》性人格障害とアーティスト

◆前書き◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

《自己愛》性人格障害とアーティスト』という文章は、
一度2008年8月29日にアップしたのですが、
ここに全面的に改稿して、再提示ししたいと思います。

再提示のポイントは、読者を怒らせない様に注意して書き直すという事。
実際の反応を超えた深い所で、地雷を踏んだと言う判断が私にあるのです。
そこで、今日の誰でも人格障害者であるという視野に立って執筆する事。
そして自己批判、自己検証性を増やし、自分自身の人格障害を明らかにする努力をする事です。


◆◆1◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

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さて、「自己愛性人格障害」という精神鑑定結果が、
金川真大(まさひろ)容疑者/韓国名 金 真(24)に出ました。
茨城県土浦市のJR荒川沖駅周辺で、
8人を殺傷した事件の犯人です。

「自己愛性人格障害」の人が、無差別殺人テロをするというのも、
ずいぶんと刺激的な話です。
この殺人者の顔を、彦坂流に人相見をしてみます。

金川真大(まさひろ)容疑者の顔

《想像界》の眼で《16流》
《象徴界》の眼で《16流》
《現実界》の眼で《1流》

《現実界》の人格。
気体人間

金川真大容疑者の顔に、《16流》が存在していることは、驚きです。《16流》というのは崩壊領域です。前に山部泰司さんのところで、彼の作品が《16流》を内包していることを書きましたが、崩壊領域を内包している人というのは、珍しいものです。バンドで言うと、ポップグ・ループ、そしてモーターヘッドです。モーター・ヘッドは長期の活動を展開している例外的なバンドですが、《16流》という崩壊領域を《想像界》《象徴界》に持つ、金川真大(まさひろ)容疑者は、殺人に至らざるを得ない精神的荒廃領域を2つ抱えていたと言えるでしょう。大変な事です。
しかし、《現実界》では《1流》の人で、なかなかハンサムな青年であります。この《1流》性と言う社会的理性性の面で、踏ん張って生きる事は、出来たかもしれません。
せっかくの人生を、殺人犯に転落してしまうのは、もったいない話で、亡くなった被害者の方も気の毒ですが、人者になってしまった金川真大に対しても、残念に思います。
しかし殺人に走る動機が、自己愛性人格障害であると言うのも、極めて矛盾する話ですよね。自己愛が、殺人者になるという、いわば自己破壊に結果しているのです。

自己愛というものが、自己破滅になるということが、実は重要なのです。自己愛というのは、そういうものなのです。自己愛は、フロイトの言う《死の欲望》を抱え込んでいるものなのです。自己愛とタナトスは、密接に関係があります。

たとえば、明日は試験。
勉強しなければならない。
しかし、嫌でテレビを見ている。
勉強しなければ、自分の不利益になるにもかかわらず、
テレビを見ている。
この欲望が、自己愛です。

たとえばタバコを吸っている。
肺癌の危険性もある。
友人のテッちゃんは、少し前だが、肺癌で死んでいる。
しかし禁煙が出来ない。
止める事を考えながらも、
高いお金を払いながら、健康に悪いタバコを吸っている。
タバコを吸っている、そういう欲望が、自己愛です。

たとえば先生の葬式がある。
葬式に行かなければと思いながら、
画廊で酒を飲んでいる。
大学葬だし、行かないと教授というてまえ、
まずいのに、行かないで酒を飲んでいる。
社会的な信用を失ってもなお、
酒を飲む欲望が、自己愛です。

自己愛というのは、自己破滅を内包した、不思議な欲望なのです。本質的には、フロイトの言う死への衝動を内包している欲望と言えるものです。そこでその逆を考えてみたいのです。自己憎です。自己愛が死への衝動を内包し、自己破滅に導くとすると、その反対の自己憎は、実は自己破滅の反対である自己達成へと展開するのです。

自己憎があれば、明日が試験であれば嫌でもテレビは止めて、
勉強をするのです。
つまり自分が嫌な事をするのです。

自己憎があれば、苦しくてもタバコを止めて、
禁煙に成功するのです。

自己憎があれば、
嫌でおっくうでも、
恩師の葬式に出席して、
社会的信用を維持するのです。

自己憎こそが、実は、人間にポジティブな成功をもたらす、
基本なのであります。
ですから、自分を憎む事をお薦めします(笑)。

◆◆2◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

こうした犯罪者と、アーティストの人格が、かなり似ているのです。
私自身を考えても、精神の内側に荒廃はあるし、殺意や、破壊衝動は、幼年期よりありました。小学校から帰る道すがら、イメージの中で、刀で気に入らない人物を袈裟切りで斬り殺すことは、繰り返していました。これも成長期化期において、避けられない痛みや恐怖から自己を守るための働きであって、
自分を守る為に他者を攻撃し、排除しようとしていたのでしょう。

芸術家と犯罪者が地下茎でつながっていると考える考え方は、実は昔からあるものなのです。一つは1963年に犯罪者同盟というのが、平岡正明と宮原 安春によって結成されますが、この犯罪者同盟とハイレッドセンターの活動は、つながっていたのです。赤瀬川原平の『オブジェを持った無産者/赤瀬川原平の文章 (1970年)の中に、そうした記述があったという記憶があります。そして事実、赤瀬川原平の千円札事件は、この犯罪者同盟との関係で、摘発されたのです。

もう一つ最近では、村上隆が、ワシントン条約で禁止されている絶滅にひんしている動物の皮をつかったランドセルの作品が有ります。この作品は、何回かの回顧展には出て来ていません。こうした犯罪性を芸術が、何らかの形で共有する事は、一つには芸術が持つ《非合法性》という性格ゆえのものです。このブログにたいしても、何人かの方からご批判があるのは、どこかに潜む《非合法性》ゆえのものです。このブログそのものを、私は作品と考えているからです。いろいろなご批判は分かりますが、
私自身は確信犯です。ですから、極めて注意深くしています。同時に本名で、責任を取る形で、書いているのです。私は実名で書いていて、一切の責任を取ると言う、そういう立場でいるのです。

ナルシズムというか、自己愛の強い人は、
現代アートの作家に多いのです。
私自身も、昔は、ナルシストであると言う批判を友人から何回かもらっています。
しかし、なぜに言われるのか、本人には自覚がありませんでした。
自覚が無いという事は、逆に言えば、ナルシズムが強かった可能性があります。

もっともナルシシズムは幼児の6ヶ月から6歳でしばしばみられ、
子供の成長の中で、お母さんから分離して、自立化していく成長期化期において、
避けられない痛みや恐怖から自己を守るための働きであって、
これを一次性のナルシズムと言って、正常なものです。

つまりナルシズムというのは、痛みや恐怖から自分を守るための働きなのです。
そのことは重要です。しかしナルシズムが行き過ぎると、今度は自分を守ることが反転してしまって、自分自身を破壊して行く様になります。
防御機構が、自己破壊機構に転倒するのです。
自分自身を本当に守る為にも、
自己愛が自己破壊になるというメカニズムを知っておく必要があるのです。

思春期にみられる二次性ナルシシズムになると、
ナルシズムは自己破壊性を持って、病的になる可能性が出て来ます。
思春期から成年にみられる自我の確立と深く連動したもので、自己への陶酔と執着がつよくて、他者の排除に至る思考パターンをつくります。

自分を守る為に他者を排除するのですが、しかし人間は独りでは生きて行けません。社会の中に入って生きるが必要なので、他者を排除しすぎれば、社会に入る事がうまくいかなくなり、自分の不利益に跳ね返って来ます。美術家や芸術家になるタイプの人は、多かれ少なかれ、社会の入って行くというイニシエーションを拒絶する面を持っていて、ナルシズムが強く、社会的不適応性を持っていると言えます。

この他者の排除をする思考パターンを持っているところが問題を起こすのです。強く他者を排除しますから、他人の感情に鈍感で、他人に感情移入することが少ない人になります。他者を排除するくせに、矛盾するようですが、逆に過剰に他人に依存する形になります。この転倒機構も、重要な事であります。

日常生活における自分の役割について過剰に他人に依存することが、問題を病的にして深めて行きます。過剰に他人に依存するというのは、いろいろな例があると思いますが、アーティストのばあいであれば、アートを続ける為に、大学の職に就職といったこともそうだし、親のスネをかじっているというのもそうであります。

美術家の場合、美術作品だけで食べていない場合、基本的に職業構造として、他人に依存していると言えます。つまり大学教授をして、美術作品も作っている場合、他者に依存していると言える例が、すべてではないにしろ、あると考えられます。依存しているくせに、自分の制作や作品になると、他者を排除しますから、他人の感情に鈍感で、観客のに感情移入することが少ないアーティストになります。つまり他人を魅了する形で作品を作れなくなります。独りよがりのつまらない作品を、延々とつくって、自己満足に浸る作家になるのです。

美術で食べて行くというのは、しかし多かれ少なかれ売り絵なり、売り彫刻を作っていると言う面を持っています。高度の美術作品をつくっていても、売っていない人は、他人を魅了するということに全力を賭けてはいませんので、そういう姿勢は作品に出ます。

確かに高度なのですが、サービス精神がないどころか、わざっと、面白さを排除し、他人の注意をひかない様な作品をつくって、自分が高度であると言う自負心に、のけぞるほどにプライドをもつのです。

そういう高度な表現者でありながら、それを売って食べていない人は、当然他の依存によって収入を得ているので、そういう形の場合には、自己愛性人格障害の症状が出ている可能性はあるといえます。

そして高度の芸術性を達して、あるいは文化的勲章をもらうなど社会的地位や目標の達成により、自分の満足と周囲の注目を得ようとすること、さらにその自慢することが挙げられます。
こうした二次性ナルシシズムが、「自己愛性人格障害」を引き起こす例が、すべてではないですが、あり得ます。

村上隆さんが指摘していた事ですが、日本の社会というのは、何か傑出しても、評価をしない社会と言えます。イチローが日本でいくらヒットを打っても、そして野茂がいくら頑張っても、日本では十分な評価を得られず、外に出て行ったという事には深い意味があります。その意味では、周囲の注目を得ようと言う努力そのものが、日本では意味が無い事と言えます。

先日会った女性は、インドに住んでいる人でしたが、インドもそういう社会で、他人の傑出した活動を評価しないと言っていましたが、アジアにはそういう傾向があるのかもしれません。

その理由は、社会そのものが同調性で動いていて、異質なものを排除するシステムだからです。そういう同調性の社会の中に、自己愛性人格障害が多いのか、少ないのか、興味のある事です。




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 精神鑑定の結果、金川容疑者は、極度に自分が重要と思い込む性格の「自己愛性人格障害」であるということです。金川容疑者は「おれは神」という内容のメールを、事件の数日前に自分の携帯電話から自宅に残した別の携帯電話に送っているのです。

こういう「おれは神」と信じるような「自己愛性人格障害」的な面は、アーティスト全般にあるのかもしれません。草間弥生さんとかには、強く感じます。

私自身は、中学性の時に内村鑑三の無教会主義のキリスト教をくぐっていますので、自分を神とは思いませんが、金川容疑者とまったく無関係とも思えない所があります。それは空手をやってもそうですが、立ち会いというか、殴り合いが好きです。命をかけて人と争う時の精神の緊張と、死の匂いが好きなのです。

しかし「自己愛性人格障害」というのは、変な精神障害です。自分を強く愛するのならば、殺人者になることはしないはずの事です。殺人者になって、逮捕されて、死刑になったとすれば、それは自分の人生を愛することではなくて、自分自身を破壊する行為であって、自分を憎んでいるように思えるからです。

新聞で読むと、金川容疑者が特殊な人の様に思えますが、実はこうした「自己愛性人格障害」の人物は社会の中にたくさんいて、そして美術界にはさらに沢山いるのです。作家はもちろんですが、評論家、学芸員、そして貸し画廊の経営者、さらには画商、ディーラーにも、多くいる様に、私には思えます。

もっとも人格障害の病名はたくさんあります。妄想性人格障害、統合失調質人格障害 、非社会性人格障害、情緒不安定性人格障害、演技性人格障害 、強迫性人格障害、回避性(不安性)人格障害 、依存性人格害。

確かに人間はおかしいし、社会的に不適応性を示す人は、普通にそこいらにごろごろいる事も確かであって、人間全体が、さまざまな人格障害を持っていると言えます。障害者に怒りを向けても、始まりません。その意味では、障害者にやさしくするという意味で、あらゆる他人にはやさしくするべきであると、改めて思います。

最近は言わなくなりましたが、人格者という言葉があって、すぐれた人格者になるというのは、人生の努力の大きな目的であったのです。人格という言葉自体が、明治の時期に哲学的な概念として輸入され、井上哲次郎が造語したものです。 人格は英語ではperson、ドイツ語でもPersonですが、もともとはラテン語のpersonaから来たそうで、ギリシャ語のπρόσωπον(顔、仮面)が語源であるといいます。

そういう意味で、顔に人格が表れると、言えるのだろうと思います。私は人の顔を重視して、顔を一つの絵画として鑑賞し、芸術分析をしているのです。そして美術作品というのは、おおむねその作家の人格構造と類似性が高いと考えます。つまりその作家の顔から、その作家の人格構造が読み取れ、さらにその作家の作品構造が推定しえると考えるのです。それは自分が作家である事の反省と、他の作家の観察からの経験的な類推です。

もちろん顔の問題も、そして人格障害も、私自身に跳ね返ってくるものです。そういう意味で、私自身にも自己愛性人格障害も、境界性人格障害もあると思います。

自分を神と思い、
自分を世界の中心に置いて、
自分を中心にしてしか物事を考えない人間は、
美術の世界には、
沢山います。

それが芸術家の道であると信じられています。

アメリカ精神医学会の診断基準「DSM−4」(「精神障害の分類と診断の手引き」の第4版、1994年によると、自己愛性人格障害は「自分が重要で素晴らしい」という大げさな感覚を持つことだというのですが、それは『下流社会』という本が指摘していた様に、下流の人間に色濃く有る《万能感》の問題でもあります。

自分を愛するという行為は、健全な心の発達のためには必要なものです。しかし、それが病的に肥大化してしまう場合があるのですが、その肥大化と芸術家であることは、連動しているのです。他人にはあまり関心がなくて、自分のことにしか関心がない人というのが、そうです。こういう美術家は沢山います。他のアーティストには興味が無いし、過去の偉大な美術家にも興味が無くて、パリに行ってもルーブル美術館にも入らないといった美術家が、何人もいるのです。彼らは自分の作品だけに意識を集中しているのです。しかしそれ自身は、他人にそれほどの害を直接に与えるものではありません。

自分が世界の中心にいて、自分の感覚だけで、すべてを判断します。そうしなければ純粋な芸術は出来ないと信じています。芸術とは、一つの宗教であって、その宗教は、自分自身を絶対者として信仰し、崇める事なのです。ですから、たとえば「セザンヌは良くない作家であり、ドナルド・ジャッドはくだらないし、プッサンは面白くない。下品なものは、良いよね。おもしろいから。」という女性作家が、
現実にいましたが、すべてが自分の感覚で判断して、自分に分からないものが存在するということすら認めないのです。すべて、自分の感覚だけで捉え、自分の頭だけで考え、自分がすべてを決済するのが、芸術家の純粋性をたもつ正しい道であると言うのです。それはそれで、そう考え立てれば、事故中毒であっても、良いのではないでしょうか。多かれ少なかれ、人間は自分のことしか考えていない自己愛性人格障害なのです。

そして裏付けとなるものがなにもないのに、一目置かれる存在であることに非常にこだわります。こういう人は、普通にたくさんいるし、そして美術家にも多くいます。非常にプライドが高いのです。しかしプライドが低いというのも、病的なので、そのバランスだけだと言えます。





私がかなり付き合ったAさんはそういう人で、
こういうこだわりは芸術家特有ではありますが、同時に、よ自己愛による障害としても理解できることなのです。
私自身も含めて、作家になるタイプは、
普通の人とは違う経路をへてくるので、
こういう障害との境界性を持っているのだと思います。
しかし作家の場合には、美術そのものの構造や規範、技術、そして歴史といったものを学ばないとなりません。ここでは謙虚に、先人の人々から学ばないと、始まらないのです。
そころが、こうした美術に関する専門知識も学ばないタイプのアーティストが、大量に出現していて、その場合自己愛性人格障害であると、判断というより了解してつきあう方が良いということになります。

他人に対する共感に乏しく、
他人を自分のために利用します。
他人の業績を横取りして自分のものにしたりします。
優越感に浸るために他人を利用します。
他人の存在とは、
素晴らしい自分を映し出す鏡である、
としか思っていないのです。

こういう症状を読むと、思い当たる経験がたくさんあります。
私に対する批判は沢山ありますが、しかし他人に対する共感性は、
私の場合には、あります。
むしろ情が深過ぎる問題があるのです。

なんでも自分の思い通りになるという空想に耽たり、
自分の万能感を満たすようなものになります。
すべて自分にとって都合のいいように事が運んで、
最後には自分がすごいアーティストになって絶大な称賛を浴びるといったようなものです。
自分だけが特別に評価されて大抜擢され、
とんとん拍子に出世すると信じて、
高慢で横柄な態度をとります。

まあ、こういう作家は沢山います。
何人も見て来ています。
まあ、難しい問題ではあります。

批判に対して過剰に反応します。
他人から批判されたりすると、すぐにカッとなって怒ります。
あくまでも自分は優れた存在なのです。

この批判への敏感性の問題は、昔は批判にそんなに敏感ではなかったのですが、
最近は、非常に反応が強いのです。
私はたとえば東野芳明さんから批判をされていますが、
それでも会えば、ニコヤカに飲んでいたものです。
昔は批判も評価の内であったのですが、
現在はそうではなくなりました。
しかし評価していなければ批判もしないものなのです。
今日の批判過敏症というのは、
この《自己愛》性人格障害が蔓延化しているからなのでしょうね。

虚栄心から、すぐに、こまめに嘘をつく。
なるほど、嘘をつく人も美術の作家にいます。
裏付けのない優越感にとりつかれているので、
話のつじつまを合わせるために嘘をつくことになるそうで、
本人には嘘をついているという意識はあまりないということです。
ときにはホラ話のように、
話がどんどん大きくなっていって、
どこまで本当なのか分からなくなります。

聞かれもしないのに、
やたらと自分のことをしゃべりたがる人も、
《自己愛》性人格障害です
話の内容は自慢話的なものばかりで、
聞いている方はうんざりしてきます。
他人にはあまり関心がないので、
相手がうんざりしていようとお構いなしです。


  1. 有名人に近付くことで自分を特別な存在だと思い込んだりします。
    政治的な大物に近付いて自分の誇大感を
    膨らませることもあります。
    自分も同じ世界の人間になったように錯覚して、
    裏付けのない空想的な野心にのめり込んだりすることもあります。
    偉大な独裁者を崇拝する献身的な国民、
    偉大な神に身を捧げる熱狂的な信者、
    ワンマン経営者に心酔して滅私奉公する素晴らしい幹部社員、
    有名な歌手の応援をする熱狂的なファンなどです。

    こうした人は、ありのままの自分が愛せないというのです。

    しかしありのままという等身大性も問題があります。

    自分は優越的な存在でなければならず、
    素晴らしい特別な存在であり、
    偉大な輝きに満ちた存在でなければならない。
    愛すべき自分とは、とにかく輝いていなければならない。
    しかし、これはありのままの自分ではないので、
    現実的な裏付けを欠くことになります。
    自分より優れたものを認めたがらず馬鹿にしているので、
    他人の能力や才能が見えまず、
    他人の優秀さを無視します。
    そして、他人を見下したり軽蔑したりすることに快感を覚えたりします。

    さて、以下がその診断基準です。

    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

自分が神であると言う、《万能感》はどこからくるのだろうか。
これは全く私見だが、
方法序説』(1637年)を書いた近代哲学の祖とも言うべきデカルトの、
「我思う故に我有り」という個人主義は、デカルトの生きた17世紀においては、
知的エリートの一部の人間の特権的な思想でありました。

しかし今日では大衆規模の思考形態になっているのです。
みんな「我有り」と思っているのです。しかし現実は「我無し」なのですが。

多くの人が、自分を世界の中心に置いて、
自分が神であるかの様に思っているのですが、
現実は、自分は無力であり、
世界の片隅にいるゴミにすぎません。

つまりデカルト主義の風化形態は、大衆状況をつくっていて、
多くの人が「我有り」信じて、
自分を万能の神と思い、
自分という神を信じる『自己教』を確立しているのです。
いわゆる自己中毒です。

金川容疑者は、極端ではありますが、その一人と言えるのです。
つまり近代哲学の風化形態が、
大衆状況となっているのです。
そして現代アートの作家も、この無差別殺人者と同位なのです。


美術界にも、
この「《自己愛》性人格障害者」という精神鑑定を下せる作家の数は多くいます。
ほとんどの作家は、自己愛に溺れて、視覚障害になっているのです。
普通の社会生活も出来ないくらいです。
まず挨拶すらが、出来ない。
メールでも、すぐにプッツンする。
冠婚葬祭などの社会的な儀式や儀礼の意味を理解できず、欠席する。

自己愛ゆえの異様な頑固さは、美術そのものの学習や理解を欠くまでになっている。
そう、異様にまで頑固で、頑固である事は単なる適応不全なのですが、彼らは逆に深い意味があると信じている。
自分の事はしゃべるが、
他人の言葉は聞かない。
社会的にデビューする能力も、欠いている。
画廊や画商との継続的な関係も取る事ができない。
他人の作品を見ない。
美術について勉強しない。

これでは、現代美術は滅びるはずであります。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

男女を問わず、若いアーティストと話をしていると、
基本的な錯誤があります。

《純粋さ》というものを、
変に錯誤しているのです。

そういう錯誤のあるアーティストというのは、
デビューも出来ないし、何よりも美術史に参入できない。

低空飛行で、ただひたす自己満足で終わるのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

しかし若い現代アーティストだけでなくて、
私の世代や、少し上のアーティストや評論家でも、
同じ様に《自己愛》が強くて、
自我や自己、そして欲望についての、
基本的な錯誤があって、
病気とか障害者のレベルになっているのです。

まず、基本的に、人間の自己というものが、
デカルトが言った様に「我あり」というものではないのです。
それは間違いであるということです。
自分は、無いのです。

ジャックラカンの鏡像理論が明らかにしたのは、
人間はというものは、空虚なものであるということです。
まず、この空虚性を認識しなければなりません。


村上隆はアエラのインタビューに答えて、
「俺なんか、空っぽですよ」と答えていますが、
これは正確な認識なのです。

村上春樹や村上龍も、自分が文章を書けないと認識してから、
書ける様になったと書いていましたが、
私自身も同様であって、
自分が無知無能で書くべき内容もなければ、
作るべき作品も無いという事を認識した時に、
ようやく制作が出来る様になったし、
文章も書ける様になったのです。

自分が全知全能の神ではないという事実を、
受け入れることが重要なのです。

人間は神ではないのです。
自分は全知全能の神ではなくて、
無知無能の悪魔なのです。

このことを認めないと、
すべてが始まらないのです。


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