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《6流》と《超1流》の統合/ダミアン・ハースト分析として [アート論]

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このダミアン・ハーストの作品は、
私は当初好きではありませんでしたが、
先のブログで書いた様に、
ダミアン・ハーストの作品を、
新・中世の宗教美術として解釈すると、
何故にダイヤモンドを使うのかということを含めて、
理解できるようになります。
昔の中世美術には、金や宝石を使った美術は存在したからです。

ダミアン・ハーストの作品と言うのは、
多様ではありますが、
しかし作品構造は完全に安定していて、
どれも同一なのです。

その構造とは、以下のようなものです。

《想像界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《超1流》の真性の芸術。

《現実界》の作品。
気体美術。

つまり《現実界》だけで《超1流》で、
そして真性の芸術なのです。

骸骨を使ったものは、巷にたくさんありますが、
普通は《41流》になるのに、
ダミアン・ハーストの場合は、《41流》にはならないで、
《超1流》であることが、
この作家の特色を表しています。

村上隆と比較してみます。


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村上隆の作品は、実は、かなり不安定で、いろいろありますが、
しかし重要な作品は、次の様な構造をしています。

村上隆の作品
《想像界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《13流》の真性の芸術。

《現実界》の美術。
気体美術。

村上隆もまた《現実界》においてだけ、
真性の芸術の芸術になっている作品です。
こうした《現実界》の美術というのが、
新しいと同時に、多くの日本人の理解の外にでてしまった理由です。

つまりダミアン・ハーストと村上隆の差異は、
《現実界》において《超1流》と《13流》の違いだけなのです。

もちろん現実は多様であって、
様々な差異がありますが、
これを本質において単純化して見る事が、
芸術の時代構造を把握する上で、
重要であると私は考えます。

そして《超1流》と《13流》における差異としては、
私の私見では、ダミアン・ハーストの方が、
村上隆よりも重要な作家であると考えます。
その理由は、あとでもう一度論じます。

さて、そうした中で、
ダミアン・ハーストの作品の構造の中で重要なのは、
《現実界》での《超1流》性もさることながら、
実は、《想像界》と《象徴界》において
《6流》のデザイン的エンターテイメント性を持っている事なのです。

私見によれば、
人類の作り出して来た名品には2種類のものがあります。

一つはティツアーのを代表とするような《6流》の美術です。

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ティツアーの評価というものは高くて、
ケネスクラークなども激賞しています。

しかし彦坂尚嘉の私見では、
《6流》のデザイン的エンターテイメント作品に過ぎません。

この上の作品では、裸婦と窓の外の風景の関係を見ると顕著のように、
窓の外の風景と裸婦の空間関係は描かれていなくて、
風景は「書き割り(背景画)」になってしまっています。

同様のことは、裸婦と左の男との関係についても言えて、
左の男と裸婦の空間関係は描かれていません。
この関係はコラージュというようなものではなくて、
曖昧なままになっています。

こうした水準の絵画は、
グリンバーグの言う「深いイリュージョンの絵画」にはなっていません。

これは原始画面上の絵画であって、
真性の芸術の絵画構造を欠いているのです。
これが、グリンバーグの言う「ペンキ絵」なのです。

ティツアーノの作品
《想像界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。

《想像界》の絵画。
固体美術。

しかしティッツアーノが大成功した画家である事から分かる様に、
歴史上、高い評価を社会の中で得て、
富と名声を手にしたアーティストの描く作品は、
すべて《6流》のデザイン的エンターテイメント作品なのです。

これは厳然たる事実と言えます。
《6流》は社会的には強いのです。
世俗の王者です。

こうした歴史的社会的な事実を踏まえれば、
《6流》のデザイン的エンターテイメント作品を作る以外に、
美術家は社会的な成功を得ることは、出来ないのです。

こうした結論に乗って、
日本の美術界には、《6流》のデザイン的エンターテイメント美術が、
繁盛しているのです。

これのどこが悪いのか?

もう一つの美術作品が存在するからです。
それはレオナルド・ダ・ヴィンチ型の作品です。
そして真性の芸術の名品とは、こちらの作品なのであります。

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レオナルド・ダ・ヴィンチの作品
《想像界》の眼で《超1流》の真性の芸術。
《象徴界》の眼で《超1流》〜《41流》の重層的な真性の芸術。
《現実界》の眼で《41流》の真性の芸術。

《想像界》《象徴界》《現実界》の重層的作品。
固体/液体/気体の総合的な作品。

こうした《超1流》の真性の芸術作品というのは、
しかし、社会的には、実は評価を得られないものなのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチの人気も19世紀までの低くて、
ティツアーノや、ラファエロの方が、格段に人気が高かったのです。

レオナルド・ダ・ヴィンチは有名にはなりましたが、
有名になり損なっている、
優れた《超1流》アーティストがたくさんいるのです。

たとえばマニエリズムの時期ですと、
ヤコポ・ダ・ポントルモがいます。
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《想像界》の眼で《超1流》の真性の芸術。
《象徴界》の眼で《超1流》〜《41流》の重層的な真性の芸術。
《現実界》の眼で《41流》の真性の芸術。

《想像界》《象徴界》《現実界》の重層的作品。
固体/液体/気体の総合的な作品。

ポントルモの作品が、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザと、
同一の構造をしていることに注意してください。

こうしたレオナルド・ダ・ヴィンチ型の優れたアーティストが、
あらゆる流派に、一人はいるのです。

ランダムにいきますが、
ラファエロ前派の結成時3人のアーティストの中では、
一番評判の悪い?
ウィリアム・ホルマン・ハントが《超1流》のアーティストなのです。

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ハントの作品
《想像界》の眼で《超1流》の真性の芸術。
《象徴界》の眼で《超1流》〜《41流》の重層的な真性の芸術。
《現実界》の眼で《41流》の真性の芸術。

《想像界》《象徴界》《現実界》の重層的作品。
固体/液体/気体の総合的な作品。

ハントのこうした作品は、一般には知られていないです。
私は大好きですが、多くの人は嫌いでありましょう。

重要な事は、ハントの作品もレオナルド・ダ・ヴィンチの
モナリザと、同一の構造をしている事です。
これこそが、彦坂尚嘉が考える《真性の芸術》なのです。
しかし、社会的には拒絶される作品であります。


ラファエロ前派の中で一番有名なのは、
たぶんジョン・エヴァレット・ミレーでありましょう。

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ミレーの作品
《想像界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。

《想像界》の絵画。
固体美術。

ミレーのこのオフィーリアは、有名な作品ではありますが、
《6流》のデザイン的エンターテイメントに過ぎないのです。
そしてこの構造が、ティッツアーノと同一であることが重要なのです。

この構造パターンこそが、贋の芸術のそれであって、
名画という名の駄作なのです。
グリンバーグが、「ペンキ絵」と呼んだ作品構造なのです。

しかしレオナルド・ダ・ヴィンチ型の《真性の芸術》と、
そしてティツアーノ型の「ペンキ絵」とに2分して、
「ペンキ絵」を罵倒して、排除するだけでは、
問題の解決にはなりません。

実は私はこれを繰り返して来たのですが、
このブログの作業の中で、次第に成長して、
何とか、冷静に事態を把握し、
別の解決の道を見いだそうと努めるようになりました。

なによりも社会的にも、歴史的にも、
これら「ペンキ絵」こそが、美術の人気を形作り、
美術という名の凡庸な大地を形づくってきているのです。
これは事実ですから、認めなくてはなりません。

だからといって、おおくの人々が嫌う《超1流》の美術がないと、
実は、美術という大地は、画竜点晴を欠いて、
つまらないものになるのです。

レオナルド・ダ・ヴィンチのいないイタリアルネッサンス美術というのは、
考えるだに、退屈で、凡庸であります。

《真性の芸術》と「ペンキ絵」の両方があってこそ、
人類の美術とその歴史は、おもしろく、活性化して来たのです。
まあ、この様に考えられる様に、
私は成長して来たのです。

ならば、この両者を統合すべきではないのか?
そう考える様になって来ました。

もう一度、2つの構造を見てください。

《6流》のペンキ絵
《想像界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。

《超1流》の真性の芸術
《想像界》の眼で《超1流》の真性の芸術。
《象徴界》の眼で《超1流》〜《41流》の重層的な真性の芸術。
《現実界》の眼で《41流》の真性の芸術。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ダミアン・ハーストの作品は、
この《ペンキ絵》と《真性の芸術》を統合した作品として、
解釈することが出来ます。

ダミアン・ハーストの作品構造
《想像界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《超1流》の真性の芸術。

《ペンキ絵》と《真性の芸術》を統合というのは、
簡単に言えば折衷という事であり、
コーヒーのブレンドのようなものであります。
ブレンドは、ブレンドで、さまざまなものがあるので、
ダミアン・ハーストのブレンドは、その一つの答えであるにすぎません。
しかし、もう少し真面目に言えば、

正反対のものの統合というのはカント哲学の構造であり、
そして日本美術史では、
狩野派の実質的な祖である狩野元信の絵画構造であります。

正反対なものを統合する事で、
新の美術的総合を実現している作家の一つのサンプルとして、
ダミアン・ハーストを、
私は見てみたいのです。

さて、そういう眼で見るというのは、
《6流》と《超1流》の混在を計るという構造なのです。
この構造にはいろいろなものが、あります。
それを考えていこうと、私は思っています。

さて、そういう意味では、
村上隆の作品の中には、
《13流》が中心にあるので、
こういう人類の美術の統合と言う視点で解釈できる構造が無いと言えます。










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