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松井冬子と円山応挙(画像後半に増補、加筆6) [アート論]

松井冬子は幽霊画を描いている。

fuyuko1.jpg
この幽霊には足が無い。
足が無い幽霊を初めて描いたのは円山応挙であると言われている。
その代表的な1枚を見てみよう。

eabb8503.jpg
足の無い幽霊という事では、
この2枚の幽霊画は、共通性がある。
しかし応挙が生まれたのは1773年、
松井冬子が生まれたのは1974年だから、
その間には201年の差がある。
201年の差を経て、同じ様に幽霊に足が無いのである。

この2枚の絵を並べて見よう。

松井円山.jpg
円山応挙の絵には、ふくらみがあるが、
松井冬子の絵は、奇妙に細長く、丸く歪んだ凹面鏡の鏡に映ったかのような、
長体がかかった画像のように、見える。

何よりも、絵画としての存在感が、薄いのである。

絵画としての存在感が薄いと言う印象は、
この松井冬子の実物の絵画を、
東京都現代美術館が開催した展覧会『MOTアニュアル2006 No Border - 「日本画」から/「日本画」へ』で、
私が実物を見て、
一番感じた事である。

幽霊を描いているから絵画として存在感が薄いというのではない。
円山応挙の絵画もまた、同じ様に幽霊を描いているのだし、
応挙は201年も前の骨董なのだから、
むしろ松井冬子の方が現在の絵画としての存在感があっても良いのだが、
それが無いのである。

日本画も含めて多くの絵画を見て来た私の経験から言っても、
松井冬子の絵画のありようは、
この影の薄さにおいて、特徴的であると言える。

さて、円山応挙の絵画を、
彦坂流の《言語判定法》で芸術分析してみる。
《言語判定法》というのは、言語を投げかけて見る方法なので、
普通の《イメージ判定法》とは違う面が見えるのである。

eabb8503.jpg
《想像界》の眼で《6流》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《6流》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《6流》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ハイアート》
シニフィアン(記号表現)の芸術
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
実を言うと《6流》嫌いの私は、
この円山応挙を評価しないで、軽視して来たのだが、
このように、きちんと芸術分析をしてみると、
驚くほど、きちんとした絵画である。

次に松井冬子の絵画を芸術分析してみる。

fuyuko1.jpg
《想像界》の眼で《41流》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《8流》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《8流》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の美術
気体美術

《気晴らしアート》《ローアート》
シニフィエ(記号内容)の美術
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の芸術分析は、精神分析の【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】なので、
《真性の芸術》というのは、作品における《非合法性》や《退化性》の有無で
判断している。

この判断と別の視点で見れば、当然違った判断が出て来てもおかしく無いので、
あくまでも、この芸術分析は、彦坂尚嘉の私的な主観の判断である。
それ以上のものではない。

そうした限定付きでだが、
松井冬子の作品は、《真性の芸術》を全く持たない、
デザイン的エンターテイメントである。
それは大琳派展のブログで私が書いた様に、
鈴木其一の絵画の性格と同じなのである。
松井冬子の日本画は、現代の鈴木其一であると言えるのである。

それは《想像界》の美術であって、
分かりやすく言えば、イメージ美術なのである。
つまりイメージを作っている。
この性格は、奈良美智の絵と共通するものであって、
松井冬子は、日本画の奈良美智であると言える。

しかし奈良美智の絵画は、《想像界》において《6流》だが、
松井冬子の絵画は《想像界》において《41流》である。
《6流》というのは自然領域ということなのだが、
《41流》というのは戦争や生け贄といった根源的な暴力領域である。
だから、その《6流》と《41流》の差は、
大きく奈良美智と松井冬子の絵画の性格を隔てている。

松井冬子の作品は気体美術で、
その意味で、極めて現代的な絵画であると言える。
この意味でも松井冬子は、日本画の奈良美智であると言える。

円山応挙は《シリアス・アート》であったが、
松井冬子の芸術は《気晴らしアート》である。
絵画論的には、それ故に存在感が薄いと言えるのだが、
しかし、《気晴らしアート》であるが故に、
観客にとっては楽しめるし、
巧さをもった美術家として、見えるのである。

このことは例えばピカソでいえば、
薔薇色の時代がピカソの《気晴らしアート》の時代で、
この時期の作品は一番、観客にとって楽しめるし、
ピカソの絵画的な巧さが、際立っているからである。

円山応挙の絵画が《ハイアート》であったのに対して、
松井冬子の絵画は、《ローアート》である。

彦坂尚嘉の芸術分析としての用語で、
《ローアート》というのは、
模倣の連鎖の中で生まれる民衆芸術的な性格を持つ芸術を指している。
つまり松井冬子の絵画は、
模倣の連鎖の中で作られていて、
201年前の円山応挙の発明した足の無い幽霊画の様式をなぞるという、
分かりやすい了解性をもったものである。
人気の秘密の一端は、ここにある。

最後に,円山応挙の絵画は、
シニフィアン(記号表現)の絵画であって、
その意味でも《真性の芸術》である。
ラカン的に言えば、シニフィアン(記号表現)であることにおいて、
芸術は意味を有している。

それに対して松井冬子の絵画は、
シニフィエ(記号内容)の芸術で、
ここでも奈良美智と共通して、
極めて今日的な情報化社会の芸術の特徴を示している。
シニフィエ(記号内容)の美術は、
作家の脳内リアリティをダイレクトに表現していて、
ストレートに、その表現の本質を、観客に伝達するのだが、
しかし、意味を構成しないのである。
だから、松井冬子の絵画を見ても、
伝統的な意味での芸術鑑賞の感動する充実性がない。

しかし今日の観客には、
こうしたデザイン的エンターテイメント性や,
さらにシニフィエ(記号内容)の芸術であることにおいて、
圧倒的な直裁な伝達性を持っていると言える。

◆《真性の芸術》◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

幽霊画は多くあって、
それを以下紹介する。

以下は《真性の芸術》の芸術性を持つ幽霊画である。
デザイン画でしかないものは省いている。
私の怠惰で、作家名を省略するが、お許しください。

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【下記をクリックして下さい】
上に掲載した画像は、《真性の芸術》性を持っている作品である。

これと松井冬子の作品を比較してみる。
松井冬子の作品には、《真性の芸術》性はなくて、
デザイン的エンターテイメント美術に過ぎない。
このことを見ていただきたいと思う。

松井いいい.jpg
松井あああ.jpg
松井えええ.jpg
松井かかか.jpg
松井おおおお.jpg
松井うううう.jpg
さて、どうだろうっか?

私の眼には、
絵画としての存在感や強さが、
松井冬子の絵画には欠けていて、
弱いものに見える。

つまり
松井冬子の作品は《真性の芸術》ではなくて、
デザイン的エンターテイメントに過ぎなく見える。
デザイン画というのは、芸術絵画に比べると、
弱いというのが、その本質的な性格なのである。

しかし人それぞれである。
違う意見の方もあると思う。
違う意見の方を、私は間違っていると、
非難しているわけではない。
人それぞれなのである。

私の場合には、
過去に見て来たたくさんの名画と比較して見ている。
その結果として彦坂尚嘉は、
松井冬子をデザイン的日本画であると、
思うのである。

繰り返しになるが、それは現代の鈴木其一なのである。

しかし、あまり絵を見て来ていない人は、
松井冬子の絵だけを見て、感動しているということは、
あるのである。
それが間違っているわけではない。
人はそれぞれであって、経験も教養も違うのである。
人間は、けっして均質ではない。

各自、各自の責任で感じて、
自分の意見を言えば良いのである。
表現の自由、精神の自由、思想の自由、良心の自由、言論の自由等々は、
憲法でも保証されている、重要なものである。

その事自体を否定することも自由だが、
しかし、ある範囲を超えれば憲法違反と言える。
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《想像界》の眼で《41流》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《8流》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《8流》のデザイン的エンターテイメント

《想像界》の美術、気体美術
《気晴らしアート》《ローアート》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

上に掲載した松井冬子の日本画もまた、
彦坂尚嘉の私見では《真性の芸術》ではなくて、
デザイン的エンターテイメントに過ぎない。

死体画のイラストレーションである。
内蔵を描くのも、歴史上にはある。
少なくとも解剖図には、普通にあるのである。
有名なものの代表はレオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図である。
97_4.JPG
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《想像界》の眼で、《超1流》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で、《超1流》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で、《超1流》の《真性の芸術》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現

《シリアス・アート》《ローアート》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
日本のものを見てみよう。
解剖存真図である。
江戸時代末頃に、
貴志孫太夫忠美(きしまごだゆうただよし)が精密に書き写したものである。
【出典】
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kaibou5のコピー.jpg
《想像界》の眼で《41流》のデザイン的エンターテイメント
《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント
《現実界》の眼で《41流》のデザイン的エンターテイメント

固体美術、《現実界》の美術。
《シリアス・アート》《ローアート》
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
この貴志孫太夫忠美の解剖図は、
デザイン的エンターテイメントである事においても、
松井冬子の死体画と良く似ている。
2枚を並べてみる。

松井kaibou6.jpg
非常に良く似ているので、
松井冬子は、この解剖存真図を参考にしている可能性は、
大きいのである。
少なくとも、この解剖存真図を知っているはずである。

もちろん参考にして描いて悪いわけではない。
悪いどころか、正当な方法であると言える。

私が指摘しているのは、この2枚の絵が、
《真性の芸術》ではなくて、
デザイン的エンターテイメントであるということだ。
つまりデザイン画であり、イラスト画であると、
彦坂尚嘉の私観では、そう見えるという事である。

松井冬子の絵画は文学的な主題性でなネガティブではあるが、
絵画としては《実体的》だから、
その面から見ても芸術ではなくてエンターテイメントである。

危ない死体画を描いている様に見えても、合法的な絵であって、
グラフィックであって、印刷に良く乗って、
多くの観客を魅了するのである。

デザイン的エンターテイメントというのは、多くの人を魅了するのである。
その意味で、デザイン的エンターテイメントこそが、
今日の重要な表現になっているのである。
それゆえ、松井冬子は、極めて現代を象徴する日本画家と言える。
デザイン画こそが、
芸術=日本画の名において鑑賞されるべきものなのである。

東京都現代美術館で長谷川 祐子が開催した,
SPACE FOR YOUR FUTURE――アートと デザインの遺伝子を組み替える』という美術展の主張である、アートがデザインになり、デザインがアートになるという、そういう味噌と糞が入れ替わる様な、反転現象に、現在の美術界はなっている。

松井冬子現象が指し示している事は、鈴木其一に見られた様に、模倣の連鎖を繰り返せば、最後にはデザインになるという、終局の姿に重にほかならない。

このような現象は、人類の歴史の中では繰り返し現れて来ている。
中国における青銅器の歴史は、夏やの偉大な造型性は失われ、長い歴史の中で凡庸なデザインワークに至り着く。

日本の仏像の歴史も同様で、鎌倉以降は、国宝の仏像はなくなる。

日本刀の歴史にも同様の衰退がみられる。安土桃山あたりから衰弱し、江戸時代には《41流》《8流》化して、《41流》《超1流》のものは無くなる。

ブルースの歴史もしかりである。

・・・等々、歴史を振り返れば、芸術は頂点を迎えると、その後衰弱し、デザインに至り着くのである。デザインになることで、際限のない再生産が続く。アートのデザイン化は、歴史を見る限り、墓場への到着であるとともに、永遠のデザイン生産を意味する。

芸術は、賞味期限を過ぎればデザインになる。

松井冬子の日本画は、日本画そのものの賞味期限を象徴しているのかもしれない。
逆に言えば、デザイン画としての日本画の、千年王国が始まったのかもしれない。
日本画は、デザイン画として、永遠に制作を続けられて行くのだ。
なんと、すばらしいことであろうか!


伝統とは、そういうものなのである。


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mizuti

私の場合、松井冬子の幽霊画の実物は見たことはありません。
代わりに見たのが、「終極にある異体の散在」という、鳥や犬に食われながら走って逃げている、女性の裸体像でした。
率直に言って、人体解剖に興味を示しているのに、どうしてこういうデッサンになるのか理解できませんでした。
私の視点は、古典的西洋画や彫刻の人体なのですが、現代日本画の人体というものは、どうしてこんなに動性も人体構造の表現も弱弱しく、構成的にも不自然で、貼り付けたように平面的なものになるのか、理解できず、そうした意味で「存在感」がありませんでした(もちろん、前述したとおり、私には近代以後の日本画の鑑賞能力がありませんから、こういうことを言う資格はないのかもしれません)。
また、なるべく彦坂様独特の概念を理解しようとして、いま「彦坂尚嘉のエクリチュール」を読ませていただいてますが、その中に、透視画面と原始画面、気晴らしとシリアスアート、固体液体気体美術等々の説明は出てくるのですが、シニフィエとシニフィアンの美術という概念は、いまのところ良くわかりません(どこかに書いてあるのでしょうか)。これらは言語学や記号学の用語なのでしょうが、それが美術に適用され、想像されるものは無意味である、とか、どういうことなのか、いまひとつ私にはわかりません(意味というのは、言葉によって表現しうる、ということでしょうか?)。12月8日のアート・スタディーズのメール申し込みをしてありますので、そこで勉強できることかもしれませんが。

by mizuti (2008-11-29 17:38) 

mizuti

失礼致しました。
「シニフィエの露出した《悪魔の時代》」
の部分に、単に言語学の概念ではなく、ラカンによってシニフィアンが重要視された、との説明がありました。
by mizuti (2008-11-29 21:32) 

中島佳子

松井さんの絵は見た事が無かったのですが、前にこのお腹の中の出ているものを、展評記事か何かで見かけ、<やはり今はこういうデザイン的なものが「芸術」としての流行なんだなぁ~>と感じた事をこちらのブログを読みながら思い出しました。。
彦坂さんの御言葉を辿る事により、更に自分の考えが具現化される様な勘違い?の中に今おります。そもそもこの勘違いさ加減が2チャンネル隆盛というか、最近というか昔からの、「人間」の卑怯さの発露部分なのでしょうか・・・・???

それにしても最近の美術?傾向にはなかなかついて行けない自分がよくわかります。生物が作り出すものである以上、変化?同時に不変ではないという不変さがあるのは仕方無いとは思いますが・・・。

絵画を見る時、常に「この人は何をこの行為の目的としているか」という部分が、考えようとせずとも感じるような作品に出会うと(事前情報を持って
いない作品であっても)深い感動というか、「人として生きる」事を続ける
意味とつながるようで、随分助けられて来ました。だからこそ、美術に限らず芸術を「生きる指針」として使って来たし、現在も使っているのですが・・・。

何だか取り止めのない悪文になって来ました・・。
松井さんについてのブログ、非常に興味深く拝読しました。前回(名前を忘れましたが)自分自身の着せ替えごっこをして、それを人に見せるという愚挙を行っている方の批評を読ませていただいた時も非常に面白く感じ、コメントを書かせていただきました。彦坂さんがこちらのブログで書かれている体の美術評論集みたいな冊子があると良いのになぁ、とシンプルに思いました。

by 中島佳子 (2008-11-30 15:54) 

名無し

エンターテイメントと蔑むのもいいだろうけど本日終了した横浜トリエンナーレですがエンターテイメントのかけらもなくつまらない展覧会でした。個別にいえば2,3の作品に優れたものはありましたが展覧会の体をなしていない。タイムクレバスという抽象的でいかようにも解釈可能なところに逃げた無能なディレクターが数億という血税を浪費し神奈川県民だというだけでやりたくもない大規模展を組織してしまったのが正直なところだろう。税金の使途ということだからキュレーター会議の議事録を開示すべきだろうが生きた美術を知らぬ鎌近の呑気な官僚の語る言葉は知れている。話題にも上らない大規模展は近年珍しい。無能な学芸員の仕業に僕は失望しましたよ。
by 名無し (2008-11-30 20:29) 

ヒコ

MIZUTI様
コメントありがとうございます。松井冬子の日本画の”うすさ”は、奈良美智と共通するものがあることに、気がつきました。この反応が遅くて、ようやく、というところです。シニフィエ(記号内容)シニフィアン(記号表現)のことが分かりづらいというのは、ごもっともですので、ブログでとりあげて、独立して書きます。

中島佳子様
コメントありがとうございます。書いていられる様に、美術が変貌して来て、驚きがあります。この変化を何とか捉えようと悪戦苦闘して来ているのが、私の文章です。何とか、どこかでまとめたいと思っています。

名無し様
 ご指摘は同感です。私の文章の流れでは、エンターテイメントを確かに軽蔑しているような主張になっていますが、芸術とエンターテイメントというのは、銅貨の両面です。エンターテイメント性のなさすぎるものが、すぐれているとは、私も思いません。
 横浜トリエンナーレに対する失望も、良く理解できます。ディレクターの方は、学芸員としては《1流》のすぐれた方です。しかし横浜トリエンナーレのような大きな国際展は、《1流》の方の優良性では無理なのです。《超1流》のディレクターが必要でした。何よりも、独立して自己責任の取れる方でないと、面白いものにはなりません。そういう《超1流》の人間を、日本社会は、排除する構造になってしまっているのです。それは社会性というものを、同調性を基調にして組み立てて、《超1流》性をもつ人物を、異分子として社会の中心から排除するシステムになっているからです。
 私見では、日本社会のシステムそのものが原因です。特に美術界は、こうした無能性において、ひどいのです。国際展を運営する事ができないということです。そういう無能性が明確になった事において、重要な経験であったと言えます。


by ヒコ (2008-12-01 03:19) 

NO NAME

松井冬子と円山応挙を比較することに何の意味がある?

まあ、貴殿の作品群よりはマシだと思うが?

美術史批評家など、アーティストあっての商売故、お気楽なものである。

作品を補うための講釈ばかりの作家が増えてつまらないですな。
by NO NAME (2010-02-15 04:37) 

サイファ

丸山応挙の「お雪」は、幽霊画ではありません。

病弱であった彼の奥様が亡くなった後に、彼女を偲んで描かれたものです。
暗がりで厠に立つ姿なので、足元が暗く見えないだけです。

この絵を幽霊画としたのは後にこの絵を見た人々で、応挙自身は彼の奥様を描いた絵です。
後の人々が想像する幽霊と言うものにたしかに影響を与えたでしょうが、この絵を幽霊画としてカテゴライズするのは明らかに間違えです。
by サイファ (2011-08-28 00:10) 

かえで

何年か前、地元の小さな美術館で松井冬子さんの絵画を見たことがあります。ここにアップされている幽霊画の実物全てを鑑賞しました。

私は絵画を専門的に習ったこともなく、美術鑑賞が好きなだけの単なる素人ですが、あまりにも迫力のない幽霊画に物足りなさを感じた記憶があります。
臓物が出ている女性の亡骸でさえ、どこか薄っぺらで、見る者に訴えかけるリアルな迫力がないというか。専門的なことはわかりませんので、感覚的な私見でしかないのですが。
ただ一緒に見た友人には概ね好評でした。
その理由が、彦坂さんの記事をみてようやくわかりました。

ただ絵画そのものは、技術的には素晴らしい出来栄えで、さすが某大学で博士号を取得した方にだとは思いました。
by かえで (2012-01-04 00:16) 

無記名

間違えて「いいね!」をクリックしてしまいました。こんな記事に好感など持てませんが、取り消すことができないようです。カウントしないでください。
by 無記名 (2012-01-19 01:51) 

Yasukoo

愚昧の論理・・・否、松井冬子を評論できない天動説者の妄言です。
持ち出したあまたの名作も貴方の評論に使用されて迷惑でしょうに。
今後幾度松井を評論しようともその筆先に幾許も揺るぎはありません。

客観的に述べているだけの凡者です、ワタシは。
by Yasukoo (2012-05-12 22:05) 

mb

絵描きの外国人です。
松井冬子と奈良美智への評価は私も共感するので、興味深く読ませていただきました。
その絵の薄さはどこに原因があるかを考えたら、結局センスか画面構成のバランス感覚に問題あると思います。
幽霊の絵は長い髪の毛がほぼ真ん中に翼に隠される以外は変化がないです。比べたら、ほかの幽霊画はどれも多彩な「髪型」をしています。そこに見応えがあります。
また、下の死体の絵は、手前にある草の葉は大きさや位置や向きなどは工夫したように見えない。左右対称に見える黒い部分も調和しない。こんな感想をもつのは私だけでしょうか?
by mb (2012-07-08 14:39) 

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