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《第8次元》という信仰の世界とイスラエル [アート論]

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世界最強のイスラエル軍。
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 「アートの格付け」で私が最初に発見したのは《8流》という、《第8次元》領域の発見でありました。その事情を書きます。それは韓国で開催されたアートフェアに、東京画廊が出品していて、作家の弘田一成、富田瑞穂、そして私が渡韓した時でした。

 そこでの弘田一成の作品に対する韓国側の反応と、日本側の評価のズレがありました。つまり日本側は、弘田の作品を良いとして肯定的に見るのですが、韓国側には、弘田の良さが伝わらないのです。何故なのか?それを対象化しようとして、初めて「アートの格付け」を試みて、《言語判定法》を使って、その結論が《8流》というものでした。
 《8流》というのが、他にもないかと、会場を探すと、伝統的な東洋画の1枚が《8流》でした。奇異な感じがしました。弘田の作品とは、ずいぶんと違う様式の作品だったからです。

 日本に帰って、《8流》を探して行くと、武満徹の音楽が《8流》でありました。これも奇妙ではあります。なにしろ前衛音楽ですし、評価の高い、《1流》のはずの作曲家だからです。この武満徹の音楽に関しては、江戸東京博物館の学芸員の方と、アートスタディーズのメーリングリストで、かなりくわしく討論したことがあります。詳しく述べると長くなるので省略しますが、武満の音楽は、《第8次元》性が強くあると、私は今でも言えると思っています。簡単に言えば、武満徹の音楽はマイナーで、良いと思える人々の中だけで、良く聞こえる音楽なのです。

 こうして探して行くうちに、そこが、どうも信仰の世界で、良いと信じれば良いと言う風に思えるらしいところだと、分かって来ました。文化とは、そういうものだとも言えますが、その閉鎖性には、疑問を感じました。先日の糸崎公朗さんとのコメントでのやり取りで、
西尾康之の作品を巡る評価の食い違いでも、
それが糸崎公朗さんの個人的な感覚の迷信世界になっていたから、
私が議論をしたくなかったのです。日本の現代アートが迷信化していて、
西尾康之の作品を良いと信じる迷信があるのは知っていますが、
私は、その迷信の外の人間なのです。
議論をずらして、平面論に移行したのは、そういう事であって、
人類の描いて来た多数の作品の構造分析の中で、
私は西尾康之の作品をBクラス絵画がであると言っているのであって、
迷信の応酬としての議論をしたくないのです。

 糸崎公朗さんは古典的なデッサンをもはやする必要がなくなったと2度
書いていますが、これも迷信であって、人類史の中では、何も終わってい
ない事です。具象画の描写絵画を描く場合、デッサン力は、今でも重要な
習得すべき事柄なのです。そして多くの画家が、実は、まともに描けない
のです。つまり単なる技術ではなくて、外部世界を見る時の精神の問題で
あって、低い精神には、外部をきちんとは描き得ないのです。
 
 つまり私は《第8次元》の領域での論争は、無意味と思っているのです。
 それは、迷信と迷信の戦いです。宗教戦争に興味はありません。

 あくまでも全人類の美術を、具体的に見て行く事、検討して行く事、
 そしてその構造を厳密に分析して行く事に、私は興味があるのです。

 ラカンの理論を関連づけていうと、この《第8次元》というのは、
ラカンの有名な図式である《シェーマL》との対応領域である、
ということが浮かび上がって来ます。

 《シェーマL》もラカン理論として難解であるだけでなくて、ラカン理
論として解説しても、その事自体が、秘教的なものになってしまいます。

 観念的図式の解説については、ネット上にもあるので、多くの論者にお
任せしたく思います。私の興味は、現実の中で、そうした《シェーマL》
の事例を、採取し、観測する事なのです。

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 私は、いわゆる「現代美術」の作家として1969年から72年くらいに、
デビューしています。

 その時代の現代美術は、いわゆる団体展というものを否定して行ったわけです。
その時代の美術大学の教授は、団体展の作家でありました。

 なぜに、団体展は、駄目になったのか?

 このことも、だれも表現論として、きちんと論じていません。

 80年代になると、辰野登恵子さんが、団体展の作家でも、
絵が描けているといった内容の発言をするのを聞く様になります。

 しかし、現在の辰野登恵子の絵画も駄目ですが、
団体展の美術の、ほぼすべてが駄目なのです。

 それはラカン的視点を分かりやすく彦坂的に言い換えて行くと、

 人間が美術の団体展のような集団を作ると、
その中の人々は、その共同体に特有の言葉と、
内部の価値観や理論を形成して、
その中に閉じこもる様になります。

 団体の中に自閉するのです。

 閉じこもってしまうと、
その中で、果てしなく、同じ言葉と、価値観と、理論を反復して、
迷信の価値体系を作るのです。

 代表的な一例をあげると、独立美術協会ですが、
「独立の仲間ぼめ」と言うのは有名でした。

 独立の作家どおしが、お互いの作品をほめ合うのです。
こうして、お互いの作品を認め合う言葉の繰り返しの中で、
迷信的な価値世界が作られて、その中から出られなくなります。

 同じ同義反復の会話を続けることになるのです。
そこでは批評は成立しません。

 団体展の美術作品が、模倣の連鎖になり、創造性を失うということに
なるのは、この共同体固有の迷信世界の円環化を生み出すからです。

 閉じた円環の外に出られなくなるのです。

 正確には、出られないというよりも、
出る事を拒否します。

 自分が正しいと信じる世界の、
閉じた円環や球体の外を見る事を拒否します。

 たとえばパンク右翼を自認して登場した福田和也は、
この彦坂のブログでも取り上げている映画『靖国YASUKUNI』に対して、
「見ない」と言っていました。

 すべてを見る必要はないのですが、
しかし自閉した迷信円環を生きている人は、
事実を直視することを、避ける傾向を、持っています。
私はいくつも観察して来ています。

 もちろんですが、私自身の内側にも、
そういう面は、観察されます。
性欲や食欲が人間の自然性である様に、
自閉性もまた、人間の自然性なのです。
しかし性欲や食欲を抑制しなければならない様に、
自閉性もまた、抑制される必要があるのです。

 現在も団体展が継続していますが、
こうしたシステムは、実は、人間の《第8次元》という、
具体的に生活して行ときに不可欠な、
「自明性の世界」として重要なのです。

 人間は、自分がそうだと信じる多くの自明性の中に暮らしていて、
その自明性は、実は迷信でもあるのです。

 私の若い時代は、まだお酒が自由化していなかったので、
サントリー・オールドを美味しいウイスキーと信じていたのです。
サントリーは広告活動に力をいれていて、
宣伝部には、文学者の開高健山口瞳柳原良平も所属していて、
その宣伝力の強さもあって、オールドは美味しいという迷信が、
作られていたのです。

 洋酒の自由化が始まると、
オールドの迷信世界は崩壊しました。

 日本という社会は、島国ということもあって、
多くの強力な迷信が形成されていて、
その中で、さらに小さな団体があって、またそこで迷信がつくられていて、
そういう迷信の果てしない入れ子構造の中に、
私たちは生きています。

 つまり私たちの生きる世界は、
こうした閉じた球体の連鎖の入れ子構造であって、
それは石鹸を溶かして、ストローで吹いた時にできる、
泡の山のような世界なのです。

 ですから、むしろ自閉して、
迷信を積極的に形成することを目指しているとすら、
言えるのです。

 村上隆の主張は自閉であり、とじたオタクの世界にこそ、
真実と、内実があると言うものでありました。

 いわゆるB級グルメの多くは《第8次元》です。
それだけでなくて、駅売りのゆで卵の味から、
コンビニエンスストアーで売っている駄菓子類まで、
下流階級が口にする過半の日常食品は、
《8流》のものなのです。

 柿のタネは、その代表的なものです。
基本的には、どのメーカーを買っても同じ味がします。
もちろん高級な柿のタネも存在はしますが、
多くの安物の柿のタネは、同じ様な味がするのです。
これが《第8次元》領域です。
この味が、美味しいでしょうか?

 ですから、実際に、こうした自明性の泡の自閉空間の中で、
私たちは生きているのです。

 そういう疑問を持たずに食べて、無意識に美味しいと感じている、
そういうものが《8流》の世界なのです。

 彦坂流には、この《第8次元》領域にも、
デザインと、《真性の芸術》があります。
まえに書いたカッパという吉祥寺の焼き鳥屋は、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界が《真性の芸術》になっている、
そういう意味で《8流》芸術の焼き鳥屋さんでありました。

 それに対して、山田うどんとか、すき家 牛丼  とか、
こういうものはデザイン味です。
柿のタネも同様で、デザイン味の《8流》品なのです。

 吉野屋の牛丼のほうが、すき家の牛丼よりも美味いという反応が
ありますが、すき屋は《第8次元》ですが、吉野屋は、《第6次元》で、
次元が上なのであります。
しかし吉野屋もデザイン味であって、芸術味ではありません。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 さて、こうして《第8次元》の迷信世界は、
幻想の世界なのであります。

 1970年代では、たとえば若林奮や、中西夏之といった作家が典型でしたが、
自分の神話や幻想を作ることに、積極的な作家がいました。

 それは彦坂が言うだけでなくて、故・榎倉康二さんをはじめ、
何人もの作家が、陰でですが指摘していたことです。

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 若林奮の作品は、ニューヨークでのアキライケダでの個展まで含めて、
結構な量を見ていますが《第8次元》です。
彦坂の私見では、デザインであって、《真性の芸術》ではありません。
そういう意味で、
日本の現代美術の団体展化の、代表的な作家であったと言えます。

 つまり自分の信念と言う迷信の中で、円環を描いている制作なのです。

 こうして現代美術の《第8次元》化は、
実は深刻に展開していったのです。

 つまり日本の現代美術は、
団体展の外に出る事で、しばらくは迷信世界の外に出ていたのですが、
いつの間にか、現代美術という団体展になってしまいました。

 日本の現代美術は、
強固な《8流》の迷信世界を形成するようになります。

 美術雑誌も、批評性を失って、迷信雑誌になってしまう事で、
一般性をうしなって、発行部数を落として行きます。

【続きは下記をクリックして下さい】
 迷信世界の特徴は調査をしないと言う事です。たとえば、椹木野衣が
「1945年8月15日、日本の敗戦の日、日本列島に雲一つなかった」と言う
事を、書いているのですが、同じ内容を『暮らしの手帖』の花森安治も、
そして磯崎新も書いているのです。だから、皆、この迷信を信じているの
です。
 しかし私は、気象庁に行って、この日の天気図を見て、
さらに予報官を呼んでもらって、解説をしてもらいましたが、
この日、北海道は雨が降っていたのです。

 迷信と事実の差の中で大きいのは、迷信は調査をしないと言う事ですが、
そして、事実が分かっても、それを訂正する事は出来ないのです。
私は椹木野衣さんには、『日本・現代・美術』にある事実誤認を指摘
していますが、椹木野衣さんは「彦坂さん、私が書いているのはサイエン
スフィクションみたいなものですから、読まないで下さい」と言われまし
た。彼は事実誤認の訂正はしないのです。
 訂正できれば、それは迷信ではないのです。しかし《第8次元》の世界
は閉じているので、訂正をする事ができません。事実を認めて、訂正する
という、そういう理性的活動の出来ない領域が《第8次元》の世界です。

 だから、《8流》の混迷は無限に続くのです。だそういう領域を変革す
る事はできません。団体の外に出るしかないのです。常に、外部に出て
行くしかありません。脱ー領土化が、重要な方法なのです。
その具体的例として、イスラエル社会を見てみましょう。

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 この二人の顔が、《第8次元》領域の表情なのです。

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《想像界》の眼で《第8次元》のデザイン顔
《象徴界》の眼で《第8次元》のデザイン顔
《現実界》の眼で《第8次元》のデザイン顔
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 この女性の名前はラリサ(Larisa Trembovler)。
ロシアからイスラエルに移民したユダヤ人女性です。
 夢見る瞳が、特徴的です。《第8次元》の住人の顔をしています。
つまり閉じられた信念の球体の中にいるのです。
 それは同時に、その集団の価値観に完全に同化しているが故に、
個人性は無いので、デザイン顔になっているのです。つまりある特定に
集団の迷信に同化している、信者の顔であると言えます。
 彼女は、2004年8月にイスラエルのアヴァロン刑務所で服役している
暗殺者イガール・アミルと、獄中結婚して、話題になった人です。
 さて、結婚相手の男である
イガール・アミルは、イスラエルの首相であった
イツハク・ラビンを射殺したのです

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イツハク・ラビンの顔
《想像界》の眼で《超1流》の《真性の政治家》
《象徴界》の眼で《超1流》の《真性の政治家》
《現実界》の眼で《超1流》の《真性の政治家》
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 イツハク・ラビンは、イスラエルの左派労働党の軍人で政治家。
1991年ソヴィエト連邦が崩壊し、ロシアからの大量のユダヤ人労働者が
流入して、支持基盤を拡大して首相の座についた人です。

 1987年から1993年の第一次パレスチナ民衆蜂起(インティファーダ)
に衝撃を受け、アラブ側との和平を進めて、
1993年にオスロ合意、1994年の平和条約に調印したのです。
 この段階で、パレスチナ問題は、大きな政治的解決をみたはずであると、
世界の人々は考えました。
 ノーベル平和賞が、ラビンと、パレスチナ解放機構(PLO)の執行委員会議長ヤセル・アラファト、そして現在の大統領であるシモン・ペレスと共にノーベル平和賞を受賞したのです。

 しかし、そのノーベル平和賞を受賞したシモン・ペレス大統領が、裏切って、
現在のガザ進攻をしているのです。

 そして、このイスラエルを和平にリードしたイツハク・ラビンが、1995年、和平反対派のユダヤ人青年イガール・アミルに至近距離より銃撃され、死亡したのです。

 暗殺者イガール・アミルは、イエメンからの移民(イエメン・ユダヤ人)を両親として、
イスラエルのヘルツリヤに生まれました。正統派ユダヤ教徒です。
イスラエル空軍に入っています。
 バル・イラン大学で法律とコンピュータ科学を学ぶ傍ら、
極右学生のサークルに入って、オスロ合意と平和条約締結に抗議して、
イスラエル首相イツハク・ラビンを射殺したのです。

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 そして、イスラエルは、右傾化を始めて、
現在の戦乱へと続く混迷が再開してしまったのです

 暗殺者イガール・アミルは、ラビン殺害の理由について「神の律法によれば、ユダヤ人の土地を敵に渡してしまう者は殺すべきことになっている」と語っています。しかし神の律法では、ユダヤ人をユダヤ人が殺すことも、禁止しているのです。

 不幸な結果になったとは言え、私は、パレスチナ人たちの民衆蜂起に衝撃を受けて、和平の道を歩んだイツハク・ラビンは、《第8次元》の自閉性の円環を切り裂いた、偉大な政治家であった、高く評価します。

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 そして同時に《第8次元》を切り裂く者の多くが、

殺されて来た歴史を思い返すのです。

ギリシアの哲学者ソクラテス、

ドイツ神秘主義のエックハルト、

そしてアメリカのユダヤ系のコメディアンレニー・ブルース

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 イスラエル国民は、再び、《第8次元》の迷信の円環を閉じたのです。

その役割がイガール・アミルでありました。だから、テロリストは実は

彼独りではなかったのです。イスラエルの民衆こそが、テロを熱望してい

たのではないか? 彼は英雄となるのです。

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そして、このテロリストに恋をする女性の登場です。

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このラリサの夢見る顔に、私は衝撃を覚えました。それは信仰者の顔で

あり、イタリアの17世紀の彫刻家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの

聖テレジアの法悦(ローマ、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア

教会堂)を思い出させたからです。

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この作品は、非常に人気の高い作品でありますが、彦坂の私見では、

《第8次元》の作品です。しかも《現実界》の作品であって、すばらし

い名品とは言いがたいものです。

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《第8次元》という信仰領域に対する、不審を、強く思ったのです。

それは信仰の円環を切り裂く者を殺すのです。当たり前と言えば、当たり

前ですが、しかし信じるもの達の共同体の内部では、《シェーマL》のメ

カニズムが作動して、人々は迷信を同義反復して語り、真理から阻害され

ます。空しい語りへと滑って、集団の独語へと変質するのです。

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イスラエル国防軍は、1948年に設立され、5度にわたる大規模な戦争

経験しており、世界で最も練度の高い軍隊なのです。

この世界最強の軍隊が、ガザの貧者たちをねじ伏せる事ができるのか?


 











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コメント 7

minako_s_b

>いや、むしろ迷信を積極的に形成することを目指しているとすら、

実はずっとぼんやりと感じていた事に光をあてて頂いてすんなりわかりました、嬉しいです、ありがとうございます。
by minako_s_b (2009-01-09 13:26) 

ヒコ

相変らずの彦坂節で、とんでもない展開ですが、書くのが結構大変で、時間を取られました。途中で、間違いで数回、途中段階がアップされて、ご迷惑をおかけしました。

minako_s_b様
途中でしたが、読んでいただいて感謝です。こんな文章を読んで下さる方がいる事が不思議ですが、だからこそ、感謝します。最初と最後の写真を同一にして、円環を描くという、極めて通俗的な手法
を使いまして、お恥ずかしい次第です。この手法はもちろんジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』に出典があります。『フィネガンズ・ウェイク』の最後の一節は、冒頭の一節とつながっていて、一つの大きな円環構造を形作ているというものです。これ以降、多くの模倣が繰り返されて来たものです。絵画でもこの手法でジャズパー・ジョーンズが描いていたと思いましたが、正確な記憶ではありません。日本では越前谷嘉高が繰り返し描いていましたが、絵画としては失敗に見えました。私のこのブログでも、まあ、強引過ぎる手法で、良いとは思いませんが・・・・。
by ヒコ (2009-01-10 00:56) 

糸崎

迷信のお話、なかなか興味深く読ませていただきました。
実はぼくも、自分のブログに『現代の「宗教世界」』と題したテキストを書いたのですが、その内容とちょっと重なるかもしれません(まぁ違うかもしれませんが)。
http://itozaki.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-7b02.html 
要約すると、ぼくはあくまで凡庸な頭脳の持ち主ですから、物事の正否を「深いレベル」で判断することが出来ず、ですから宗教的世界観の中に留まる他はありません。
そしてそういう人間にとっての「自由」は、自分が信じるに足る宗教的世界観を、自分の意思で「選択」することにあるんじゃないかと思うのです。
自分の意思で選択するわけですから、その時々の判断で宗旨替えも自由であり、一つの信仰に縛られることもなくなります。
これを実現するには、自分が宗教的世界観に囚われるしかないことを、「自覚」する必要があります。
それと同時に、自分が無前提に信仰している世界観とは異なる、さまざまな宗教的世界観があることを「学ぶ」必要があります。
そのようにして、自分が選びうる宗教的世界観の「選択肢」を広げることが、その人にとっての「自由度」を広げることになります。

と言うことで、ぼくの芸術についての理解が「迷信だ」と彦坂さんに言われれば、素直に「そうなんでしょうね」と思うわけです。
ただぼくは、芸術について「自分が無前提に進行していること」以外の「選択肢」を知らないので、それを彦坂さんが示されているのであれば、こちらにも素直に興味があります。
しかしだからと言って、彦坂さんを盲信し安易に同調しても仕方ありませんから(笑)分からないことについては、素直に「分からない」と答えているだけなのです。
つまりこの件について、ぼくは何かに固執してるわけではなく、全て「保留」にしつつ、彦坂さんの理論は気長に理解を深めてゆこうと思ってる次第です。

>糸崎公朗さんは古典的なデッサンをもはやする必要がなくなったと2度
書いていますが、これも迷信であって、人類史の中では、何も終わってい
ない事です。

ぼくのつもりとしては、自分が「古典的なデッサンをもはやする必要がなくなった」と学んだという「事実」を示したまでです。
具体的かつ簡単に言うと岡本太郎の『今日の芸術』なんですが(笑)、この内容が「迷信だ」と言われれば、ぼくは「そうかもしれませんね」と思うまでです。
かと言って、彦坂さんが提示されるロジックを理解しないまま、それまでの自分の信仰を捨てることは出来ませんから、全てを保留にしつつ気長に学んでいくつもりでいるのです。
by 糸崎 (2009-01-10 11:45) 

ヒコ

糸崎公朗様
素晴らしい返信をいただき、感謝します。感動しますよ。糸崎さんの透徹性が、良く理解することが出来ました。素晴らしいご意見です。
「物事の正否を「深いレベル」で判断することが出来ず」というのは、ラカンの指摘する《シェーマL》であって、それは万人がそうなのです。
「人間にとっての《自由》は、自分が信じるに足る宗教的世界観を、自分の意思で《選択》することにあるんじゃないか」というのは、まさに、そうだと思います。そこで、私が選択しているのはフッサールを踏まえてですが「厳密な学問としての芸術」という幻想です。フッサールの誠実さは、この学問の追求の中で、近代の迷信であるデカルトのコギトを解体して行く事です。
 「自分が宗教的世界観に囚われるしかないことを、《自覚》する必要があります」というご意見も、極めて正当です。その通りなのです。常に、どこまで行っても迷信になるのです。何か新しいことが出来ても、制作で言えば正味3年しか持ちません。すぐにそれは迷信化して《シェーマL》として作動してくるのです。
 ともあれ、良いご意見を聞けて、良かったと思います。糸崎さんのその透徹性が分かると、自分が糸崎さんの作品に見たものに,安心感が出て来ます。四国でワークショップと個展は、いつからですか。うまく予定があえば、行きたいと思います。
 
by ヒコ (2009-01-10 13:14) 

symplexus

なぜ団体展がだめになったのかという問題,
自閉的な円環形成からさらに広い集団
 神話の病理に言及するところ,
緊張しながら読ませていただきました.

 生物の世界で遺伝的に均質化していくことは
長い進化過程で極めて危険なことであると考えられています.
変異という生物遺伝におけるランダムな特性を
そのまま人間集団の活力と重ねるのはもちろん無前提過ぎるのですが,
集団としての死をさけるためには積極的にむしろ揺らぎを創り出す,
同質であることの安定・安心を優先しないというのは深い考察に連なりそうです.
社会や組織,また個人なりがもはやどうにも動こうとしない時,
円環の中での自足という迷信に一種の恍惚を見出すというのは
閉塞の現実を暴きだして恐ろしいほどです.

ベルニーニの彫刻には以前から写真でも不気味さを感じていたのですが,
円環恍惚という人物像への実体的密着ということで謎がとけたような気がします.
もしアート的抽象性をつきつめたらこのような世界の表現はどうなるのか,
今日の課題としても取り組む重要性がありそうにも思います.
それにしても,この暗殺者イガール・アミルといい,ラリサといい,
反知性ともいえる相貌に驚かされます.狂気をはらんだ確信というよりは
何事も深く考えたことのない無邪気さというのか.
今の日本のある断面とも重なるこの自閉の病理の深刻さへの驚きでもあります.

イスラエルは世界のどこでも話し言葉として使っていなかったヘブライ語を
母国語として定着させる偉業に成功した国です.新言語の定着というのは想像を絶する知性と情熱が必要で,これなくしては国防軍のレベル改造などは不可能だったでしょう.
アラブ世界でも優れた政治家が輩出したにもかかわらず,
なおこのパレスチナ問題の解決の出口が見えないように思えます.
この難問にもっと世界の知性が正面から取り組んでもらいたいと思うのは僕だけでしょうか.

by symplexus (2009-01-10 23:48) 

ヒコ

symplexus様
先日は、ラカンの読書会に来ていただいてありがとうございました。来月にも、訪問させていただきたく思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
by ヒコ (2009-01-11 00:21) 

symplexus

ラカン読書会,こちらこそ他では得られない貴重な時を体験し,
 無条件で学びの輪に入れていただいたこと感謝しております.
  このような巨人の著書を個人でも読むのは当然としても
 複数の個性の中で読む重要性は
僕のような暴走タイプには小さいとは言えないのです.
 これからも参加の折はよろしくお願い申し上げます.

 工房の来訪,大歓迎です!
車は中央道なら路面凍結の心配は少ないのですが,
 渋滞の可能性は上り,下りとも常にあります.
  とすれば,JRということになりますが,
甲府から各駅二つ目の塩崎からは僕の仕事です.
 日程が決まり次第ご遠慮なくメール頂ければと思います.
アドレスはHPにも有りますし,名刺にも載っています.
by symplexus (2009-01-11 10:39) 

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