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法とは何か?/大麻をめぐる対話(加筆4最後に追加) [歴史/状況論]

NO NAMEさんとのやりとりが、コメント欄で続いています。
私自身が、説得はしないと言いながら、何故に対話を続けているのか?

ジジェクによると、人間は言っている事と、やっていることが、違うのです。
常に自己欺瞞の上にしか、人間という機械は作動しないのです。

ですから、こういう自分の行為のつじつまの合わないところで、
自己嫌悪におちいって、傷つかない事が重要です。

自己欺瞞ということは、すべての人間にある普遍的な構造なのです。
ただし、自分の欺瞞を認める人と、認めない人がいます。

さて、本論です。
コメントを再録して行きます。

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ヒコ

 

 

 

NO NAME様
ご意見、ありがとうございます。
大麻が麻薬ではないという議論をなさる事は良いと思いますが、
私の論点ではありません。

その主張は、有効性を生みそうな相手になさるのが、良いのです。

私自身は、大麻を強い麻薬とは思いません。

しかし大麻について勉強をする必要は、全くないのです。
私自身の世代は、大麻や、LSD、シンナー、睡眠薬(ハイミナール)は、
普通にごろごろとあった世代です。

1968年前後の新宿凮月堂では、普通に大麻は吸われていました。

新宿駅の東口周辺では、公然とシンナーを吸う人が、ごろごろといたの
です。友人の中にも、これらの常習者はいたのです。

私自身も、なんどもLSDの誘惑を受けて来ているのです。

そういう中で、どれほどの被害が出て行ったかも、見ているのです。


重要な事は、私が若麒麟を逮捕しているのではないのです。
文句があるのなら、あなたが本名で、警察や日本相撲協会に文句を言い
に行きなさい。それが一番早いのです。

日本社会は、それなりの主張と禁止を、
大麻に対して示していると、私は思います。

それに対してあなたが不満を持つなら、
そういう議論を社会的に有効に展開したければ、
具体的に法改正を勝ち取れる社会勢力をお作りなさい。


私の判断は、大麻の善し悪しを言っているのではありません。

基本的に、なにによらず、
文明の中には理不尽な禁止と言う《象徴界》の領域があるのです。

その領域をなめていると、どこかで、社会的に淘汰されると言う事です。
そこでは問答無用なのです。

そして、こうした禁止という《象徴界》の領域との、
人間の精神の関わり合いのなかで、心的領域が出来るのです。

私の論点は、あくまでも《言語判定法》での人相見を展開する事での、
そうした精神の構造の認識の展開なのです。

by ヒコ (2009-02-14 13:52)  

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(前略)

あなたの文章に
「私の判断は、大麻の善し悪しを言っているのではありません。
基本的に、なにによらず、文明の中には理不尽な禁止と言う《象徴界》の領域があるの
です。その領域をなめていると、どこかで、社会的に淘汰されると言う事です。そこで
問答無用なのです。」

とありますが、それは日本人のみに対して言ってる事でしょうか?

スポーツの国際化に伴いあらゆる国のスポーツに色々な国の選手が交流しだしてきます。
相撲に関してもそうですね。
そういった状況でそういう鎖国精神丸出しの「日本では駄目だから駄目なんだ」の一言で
片付けてよいのでしょうか?

(後略)

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ヒコ

 

 

 

 

「文明の中には理不尽な禁止と言う《象徴界》の領域があるのです」
と、書いているのは、全人類史の中での、文明と言う事です。

私の視点は、全人類史という枠組みで、見る事です。

ですからエジプト文明や、黄河文明、もちろんローマ帝国といった、
文明の中に禁止としての《象徴界》の領域があります。

by ヒコ (2009-02-15 12:04)  


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抽象的でどっちでもとれる返事ありがとうございます。
全人類史の中での、「文明の中には理不尽な禁止と言う《象徴界》の領域があるのです」

そのものこそ抽象的でボーダーラインが曖昧ですね,

特に時代や国々、カルチャーによって。
同じ事でもあるときは罪人、あるときは英雄。

つまり、価値観の違いでおこるんではないですか?
それでなければ宗教がらみで世界規模でこんな争いは起こらないんじゃないでしょうか?
宗教の違いで「理不尽な禁止」がそれぞれちがうことについてはどう思いますか?

by NO NAME (2009-02-15 17:10)  

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ヒコ

 

 

 

NO NAME様

人類が、定住して、農業が始まると、戦争が始まります。
そして、負けた側を奴隷にしたのです。

私見によれば、奴隷制こそが、文明の基礎です。
日本の社会の中では、歴史文書に初めて登場するのは弥生時代であり、
後漢書』の東夷伝に、「倭国王・帥升が、生口(奴隷)160人を
へ献上した」(107年)という趣旨の記録があります。
魏志倭人伝にも、邪馬台国女王卑弥呼が婢を千人侍らせ、
西暦239年以降、王へと生口を幾度か献上した旨の記述があります

近代の工場労働者というのは、
奴隷制の近代的展開であって、賃金奴隷ということです。

アメリカの南北戦争で、奴隷制が争われた背景には、
北部の急速な工業化の進展で、工場で賃金で働く、
近代的な流動的な労働力=賃金奴隷が必要だったからです。
その場合、南部の綿花の農園経済は黒人の奴隷により支えられていた
のです。この鎖でつないで、鞭で打って働かせるシステムは、
北部では、古くなったシズテムで、容認できなかったからです。
鉄鎖奴隷から、賃金奴隷へという変化が、近代の変革の
一つだったのです。

今日の派遣切りというのも、
この情報化社会のでの賃金奴隷制の変化を示しているのです。
コンビニでのマニュアル的な話し方は、今日の新しい賃金奴隷制の
変化の一端なのです。

工場のロボット化によって生産性が上がる事で、
工場労働者の人数は減って、サービス産業へと労働力移っただけ
ではなくて、労働力の流動性の増大が、この高度資本主義社会で
は必要で、そのために、従来の年功序列、終身雇用制が崩れて、
派遣労働が、法律的にも解禁になったのです。
それが2004年です。つい最近なのです。

文明社会の基本を、戦争と奴隷制に見ると言うのは、
賛同しない人が多いでしょう。
あくまでも、彦坂尚嘉の私見です。

しかし現在の派遣労働者や、その首に仕方を見て、
社会の根底に新賃金奴隷制を見る事は、可能であると、
私は考えます。
そして古代文明の成立そのものの中に、戦争と奴隷制の起源を
見るのです。

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さて、話を戻します。

自然採取で、移動し続けていた時代には、
戦争は無かったのです。

戦争をすると、人が殺されて、その傷ついた骨の集積が残るので、
考古学で、戦争の跡を調査できます。

アボリジニのような自然採取生活で、移動し続ける人々は、
群れとしては120くらいまで(猿の群れの数からの彦坂の推理)で、
共同体としては、このくらいが、自然的共同体の規模です。

この規模で移動し続けているところには、
戦争の遺跡が発見されません。
自然採取生活では、
戦争は無かったのです。


人類が定住をはじめ、農業を始めると、戦争も始まります。
負けた方を奴隷にして、規模の大きな共同体が形成されます。
それが古代文明の形成です。

戦争と、奴隷化だけが、大きな共同体を形成したのかどうか、
専門家の意見は違うかもしれませんが、
彦坂は、美術家の思考として、そのように考えると言う事です。


ですから、彦坂尚嘉の歴史観では、文明の基盤には、
戦争という《第41次元》が隠されています。

文明の基盤そのものが根源的な暴力領域なのです。

これが、文明の《第1次元》の社会的理性の装いによって、
隠蔽され、隠されているのです。

仲間由紀恵が、税務署の広告に出て笑う事で、
税金徴収の裏にある強奪性と、
その強奪を可能にしている暴力装置を
隠蔽しているのです。

税金の起源は、暴力的な侵略と強奪にあります。

社会の根底に暴力が存在すること。
このことを指摘したのがルネ・ジラールです。

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《想像界》の眼で《超次元》の《真性の知性》
《象徴界》の眼で《超次元》の《真性の知性》
《現実界》の眼で《超次元》の《真性の知性》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な知性
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な知性

《シリアスな知性》《ハイアート的知性》

シニフィアン(記号表現)的人間。
『真実の人』
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著作
『欲望の現象学--文学の虚偽と真実』 (叢書・ウニベルシタス) 
『暴力と聖なるもの』(1972年) (叢書・ウニベルシタス) 
『世の初めから隠されていること』 (叢書・ウニベルシタス) 

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【続きは下記をクリックして下さい】


人間は農業をやるようになると、戦争を開始したのです。
農業と戦争はセットなのです。
農業を平和なものと考える事は、
ですから、一面しか見ていないことになります。


文明/戦争/奴隷制/農業/古代都市の建設/世界宗教の登場/
芸術の登場・・・ですから、戦争は止む事無く続いているのです。
文明がある限り、戦争は起こります。

人間には、性欲があって、その性欲を抑制抜きで発動して、
地下鉄の中でレイプをするような状態は、まずいのです。
だから、抑制が要求され、罰則があり、
警察の暴力で抑止しているのです。
戦争への欲望も、この性欲の抑止に似ていて、
ほっておくと、やたらに侵略をするので、隣国に対する防衛力の
維持は重要で、軍事力の保持によって、
相互に抑止する必要があるのです。
琉球王朝は、琉球統一の後に、武装解除をしたために、
島津藩の侵略を受けたのです。
武装解除をしてはいけないのです。

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「同じ事でもあるときは罪人、あるときは英雄。
つまり、価値観の違いでおこるんではないですか?」

NO NAMEさんのおっしゃるとおりです。
戦国時代には英雄になる力の強い男が、平和な時代には、
ヤクザで人を殺して、監獄につながれるのです。

自然科学のような普遍性は、文化価値や社会的価値には無いのです。
時代に適応してしか、人間は生き得ないのです。

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自然採取時代には、呪術でした。呪術は、偶像崇拝で成立していて、
それは《想像界》に位置しています。

文明が発生すると、世界宗教が成立します。仏教、キリスト教、
イスラム教、これらの宗教は、偶像崇拝を禁止し、
言語を基盤とする《象徴界》の精神で、
「理不尽な禁止」で成立しています。

前にも書きましたが、
世界宗教は、教義では厳しく偶像崇拝を禁止しています。
しかし、それが崩れて、
仏教成立後、300年くらい後から、仏像が造られ始めます。

キリスト教のキリストの絵や、像の制作も、まずい事で、
プロテスタントは、教会にあった美術品を
すべて排除して、十字架だけにしています。

宗教がらみで戦争が起こる事は、ですから、定着/農業/宗教の成立/
戦争/奴隷制・・・とセットになっているのです。

宗教の違いで「理不尽な禁止」がそれぞれちがうということは、
まさに、そういうものなのです。

禁止自体が、言語で成立しているのです。
言語が地域で違うように、禁止そのものも。地域で違うのです。

禁止そのものは、普遍的なものではないのです。

つまり《象徴界》そのものが、恣意性を持っています。
どうにでも、なるのです。
松本清張の小説に『象徴の設計』というのが、あって、
これは名著です。

松本清張の『象徴の設計』は、徳川幕府を倒した薩長連合・明治政府の
山県有朋が、絶対天皇制を確立して行く過程を描いているものです。
そこには、どうにでもなる恣意性があるのです。

大麻にたいする日本の過剰な禁止は、日本という地域の個別性であって、
科学のような普遍性によって基礎づけられているものではありません。

もともと法自体が、個別的な経験の集積なのです。


コモン・ローという法概念があります。イギリスの法です。
イギリスの法は、不文法で、つまり日本の成文法のようには、
文章で書かれていないにもかかわらず、法として機能するものです。

不文法は、幾多の判決(判例)が積み上げた合意を基盤として
成り立っているのです。
この不文法の方が、法律の形成の根拠を良く示しているものです。

ですから法と言うのは。いくつもの争いを裁判所で行って、
その経験の積み重ねの中で、経験的に出来てくる、
人間の経験と合意の集積物なのです。
歴史的な堆積の上に法が、成立しています。

だから、ある意味で、不透明で、分かりにくいし、理不尽です。
ですからそれは自然科学とは、原理が基本的に違うのです。

法と言語に代表される《象徴界》は、
同時に無意識を成立させています。
つまり経験の歴史的な堆積としての法というのは、
その地域の社会文化の、無意識の領域なのです。

この《象徴界》は、地域によって違います。
方言のような性格を持っています。

アメリカやスイスの場合、州が日本の国家の水準です。
州で、法律を作っているのです。
こうした地域性が出ると言う事は、
法という《象徴界》の基本的な性格です。

ですから、ある法律が気に入らなければ、
違う地域に移動するのが良いのです。

たとえば大麻を禁止していない地域があれば、
そこに移動するのが良いのです。

法と言うのは、実はそういう逃亡性を持っています。

嫌なら、逃げるしか無いのです。

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逃亡する自由は、極めて重要なのです。
ご存知のように、アメリカ合衆国は、ヨーロッパでいじめられた人
たちが、逃げてきて、つくった世界です。

日本の中にも、社会から逃げた人たちがつくった村が、
いくつもあります。
私が越後妻有トリエンナーレで、新潟の山村に入って、
インタビューを重ねて分かったことは、こうした逃亡で、
村が生まれている事でした。
日本の中にもアメリカがあるのです。

by ヒコ (2009-02-16 01:23)  

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解りました。結局、キッパリ物事を言ってるようで質問されると、一番肝心の部分は逃げ道を作ってどっちでも取れる答えですね。まあ、心理学者系特有の答えですね。私の友達は生きる望みを無くしたときに、或る心理学者系のひとに相談して結局同じような答えだけで失望し自殺しました。如何なることにも、「これはこうです。あれの理由はこうだからこうなる」ということは文明がどうのこうのでは答えがでませんね。つまり人の心理を文明に合わせる矛盾がせいじた時には、答えが出ないと言うことですね。精々本当の人の心理を人間が作ったコロコロ変わる理論に当てはめる努力を頑張って下さい。自然の方程式を人間の文明に合わせることの矛盾を心理的に分析して楽しんで、もっともらしく語っても本当の幸せは無いんじゃないですか? 
by NO NAME (2009-02-17 02:05)  
ヒコ

 

 

NO NAME様
 人間の欲望の一つに、「幸せに生きたい」というのと、「強烈な快感を得たい」という2つがあると、フロイトも言っています。
 私見では、幸せに生きると言うのは、20人から120人くらいの村の規模の、原始共同体レベルで生きる事です。老子も、同様のことを言っています。
 
 ですから文明という大きな社会の中で生きる事は、人間の取って、不幸な事なのです。そして120人くらいの規模の社会の中では、大相撲の興行は出来ないのです。
 
 NO NAME さんが、幸せに生きたいのならば、大麻は吸わない事です。大麻が、幸せに生きる事を保証してくれるのではないからです。
 
 麻薬と言うのは、結局は、脳内モルヒネを、脳の中に出す事です。脳内モルヒネは、マラソンをしても出ますし、熱いお風呂に入っても出ます。油濃い食べ物を食べても、出ます。それどころか、相撲で勝っても、脳内モルヒネは出ますし、
 
 良い芸術作品を鑑賞しても、脳内モルヒネはでます。勉強をして、良い成績をとっても、脳内モルヒネは、出ます。人間の活動の中での、達成感があると、脳内モルヒネは出ているのです。ですから人間はジャンキーなのです。どこで、脳内モルヒネをだすのかを、選ぶ事で、その人の人生は変わるのです。

 ですから、大麻をすって、幸せになると言うのは、社会的な達成を欠いていて、ショートしてしまった人生なのです。社会的な敗者の幸せです。

 人間が社会的に生きる事は、断念が必要であると、フロイトは言います。その断念が去勢です。去勢をして、初めて大人になって、社会のシステムの中に入って行くのです。

 NO NAMEさんは、断念ができないのでしょうね。だから苦しい。社会の中に、うまく、入って行けないのです。それを解決する方法は、ありません。


 ただ、アーティストというのも、去勢を拒絶している社会的不適応者です。しかし同時に、幸せに生きる事は断念しているところが、どこかにあります。芸術的な達成のところで、脳内モルヒネを出しているジャンキーなのです。これも困ったものであります。
  
by ヒコ (2009-02-17 08:05)  

前の文章は私が書いた文章では無いのにだれか別の人が書込みしてますね。取りあえず私は大麻はすってませんし興味もないです。だから勝手に物事を決め付ける癖は止めてください。120規模の村でも現代の文明社会でも不幸な人も幸せな人もいます。人間は同じ事があってもある人は平気で、ある人は悩んで寝れなくなりますね。だから人間は感情の生き物ですよね。そんな複雑で人それぞれ10人10色の生き物を簡単な心理学のパターンにはめ込み批判することも罪な事じゃないですか?大麻を吸ってない人間に勝手に思い込みで大麻を吸わない事とかいったり。 
by NO NAME (2009-02-17 14:35)  
ヒコ




NO NAME様
 別の人の書き込みですか。しかし、同じNO NAMEならば、NO NAMEなのですよ。NO NAMEはあなたの専売ではないのです。NO NAMEという意味はそういう事です。特定できないし、責任を取らないと言っているのですから、それは無理なのです。
 お気持ちは、分かりますが、人の癖を直せと言うのも、無理な話です。嫌であれば、読まなければ良いのです。2チャンネルなんかで、まず、文句を言って下さい。表現の自由も、そして学問の自由、批評の自由もあるのです。それが不愉快な事は、分かります。
 私はこうして、生きて来ているのです。あなただけではなくて、多くの人を敵にして来ているし、ダメージもたくさん受けながら、こうして自分の考えと意見を書き続けて来ているのです。何故に、私のそれを止め得るのですか。あなたにも自由があるように、私にも自由があるのです。フロイトも多くの人の怒りをかいました。ラカンも、パリ精神分析協会を永久除名になり、一切活動を禁止されました。しかし彼は活動を止めずにパリ・フロイト派を立ち上げます。
 細部での行き違いは、人間のコミュニケーションの基本なので
す。お互いに誤解しながら、意見を言い合い、すれ違って行くのです。お互いが別の人間である以上、その齟齬は止む終えないのです。あなたがそれに耐えられないのは、分かりますが、耐えるしか無いのです。他者は他者であって、赤の他人は、あなたではないのです。他人の頭脳の中を支配する事は出来ないのです。 
by ヒコ (2009-02-17 19:13)  
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