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絵画の歴史(5)エリザベス・ペイトン [日記]

2007年8月10日(金)

 芸術に歴史があるのではなくて、歴史が芸術であると、定義したのは、中原佑介であった。中原佑介の議論は、蒸気機関車が機能をもって、実用として走っているときには芸術ではないが、しかし電化によって、SLが実用性を失うと、蒸気機関車は鑑賞物になり、芸術化するのであるという、議論であった。これが書かれたのは1965年前後の荻窪画廊の『眼』という小機関誌であった。

 この議論は、表面的には、間違っていると言える。蒸気機関車は、確かに鑑賞物にはなったが、しかしそれでも芸術にはなっていないからである。

 中原佑介氏のばあいも、何が芸術であり、何が芸術ではないのかは、分からないままに批評が展開されたのであって、それは氏だけではなくて、日本の美術批評の大きな欠点であった。

 しかしそれでも尚、中原佑介氏の理論が示唆に富むのは、モダニズムペインティングそのものが、実は、手描きの絵画そのものの骨董化によって、芸術化した事を、私に示唆したからである。

この問題は、芸術論としても重要で、文字通りに受け取ると間違えるが、しかし本質をついているのだ。つまり骨董は芸術ではないが、技術の骨董化が、芸術を生み出していると言える面があるのだ。細かい論証はともかくとしても、手描き絵画が、手描きの技術の骨董化を経ることで、意味を変えたことは言い得るのである。

 たとえば、かつては和紙は、日常で使われていた紙に過ぎなかった。ところが、手漉きの和紙が、紙の工業化によって技術として滅びると、突然と、手漉きの和紙は、芸術化し、価格を高騰させ始める。

 同様のことは、手作りの田舎料理にも言えて、外食産業が反映して、家庭料理が滅びていくと、手作り料理は、芸術化してきているのである。

 絵画もまた、骨董化することで、芸術化する面を持っている。繰り返すが、それだけでは芸術にならないのだが、それでも、2重に骨董化されたと言える現在の状態は、考察に値する事態である。

最初の骨董化は、写真技術=感光材料の登場によってだが、

2度目の骨董化は、デジタル技術の登場によってである。

デジタル技術は、物質的支持体からの表現の自立化を果たすことで、
絵画を疎外するのだが、これに対する対応は、
かならずしも、単純ではないのだ。

アナログ写真の登場が、絵画を、純粋芸術化、つまり抽象美術への地平を切り開かせ、
芸術至上主義を、その根拠としたのだ.
今日から見ると、芸術至上主義を成立させたものも、大きな物語の成立であったのだろうか。

重要なことは、デジタル技術の登場による手描き絵画の疎外は、芸術市場主義に、その可能性を切り開いたのだ。なぜなら、デジタル表現が支持体を失ったときに、コレクターは、買える意欲を、かなり弱めたからだ。買うためには、物質的な支持体を持つ表現に、魅力を感じる。支持体を持つ表現それ自体が、骨董性を帯びたのだが、この事が、単なる反動なのか、それを越えた意味を持ち得るのか?

この問題をシリアスに突きつけたのはエリザベス・ペイトンであった。エリザベス・ペイトンの絵画を、インターネットの画像、あるいは分厚い画集の複製で見る限り、彼女の作品の根拠を理解することが出来ない。下手なイラストに過ぎなく見えるのだ。
 ところが、実物を見ると、まず、その小ささと、シリアスさに驚く。彼女の作品の魅力は、実物の支持体付きの表現の魅力なのだ。つまり支持体の付いた絵画の魅力というのは、骨董化されたのだが、この骨董化の問題を、シリアスにかいま見せてくれたのが、ペイトンであった。

彼女の作品は、小さく、しかし発色は高く、実物を見たときに感じるシリアスさは、奈良美智の実物を見たときの、弱さ、駄目さとは、正反対のものである。

なぜに、デジタル映像時代に、表現は、芸術市場主義になり、支持体のある絵画が、美術史の外に、違うコミュニケーションの領域を拡大し得たのか?

 すでに、述べたように、それは何よりも、近代が、大きな物語時代であって、そして脱ー近代が、物語の喪失の時代であるという、東浩紀の議論に重なる、構造によってである。

 つまり大きな物語としての美術史そのものの終焉であり、大きな物語としての批評が終焉したときに、それに取って代わるものとして、コマーシャリズムの領域が、登場したのであるとする考えである。

 驚くほど美術史も、批評は衰弱し、美術史も、批評はもはや、作家個人のこうしたブログの中にしかないのである。他者との関係としてあり得るのは、もはや問答無用の市場のやりとりだけなのかもしれない。

 少なくとも、美術界は2重化していると言える。一つはデジタル化した表現の領域としての国際展的領域。

 もう一つは、商品としての絵画領域に組み込まれながらも、それでも、なお本質的な差異を生産し続けるシリアスな芸術の系譜である。それを見せたのがエッセンシャル・ペインティング展(国立国際美術館)であった。

 この2つの領域は、しかしそれほどには、自明ではない。絵画を描いているから、アートフェア的市場に向いているとも言えなくて、むしろ国際展に向いているとも考えられる作家もいる。
 そしてまた、どちらにも向かない、そういう作家も多いのである。
 中途半端というか、現在のデジタル的国際展化と、骨董化的市場化の、両方に適応しない作家が、8割なのである。中途半端の中で、さまよっていく先は・・・、知らない。

 どちらににしろ、淘汰の中を生き延びるか、否かだけである。


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