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絵画の歴史(6)建築と美術/音楽と美術 [日記]

2007年8月11日(土)

  建築家と付き合って、ポルトガルに行って、多くを学んだ。
 学ぶというのは不思議なもので、知識として表面的に知ることを超えていかないと、学んだとは言える深さを獲得できない。

 さて、その学んだことの一つは、建築は地着きであると言うことである。
 
 コルビジェ的に言えば、建築は住む機械でるということになる。住む機械ならば、キャンピングカーのように、自動車であっても、住んで生活するのならば、建築である。

 人工衛星も、住んで生活する機械であると言うことでは、建築である。

 キャンピングカーも、人工衛星も、豪華客船も、飛行機でさえも、住む機械であるとは言える可能性があるけれども、こうしたものを建築とは言わないのである。

 人工衛星を建築と言っても良いのだが、しかし建築家という認識を、私たちは人工衛生を作る人々に、投げかけることがない。

 つまり人間の認識とか、了解過程では、建築というのはどうも、地面にくっついて建っている建造物を、建築と言い、それを設計する人を建築家というらしいのである。

 建築が、船に乗って移動する映画を見たのだが、移動する家は、家に見えないところがある。つまり大地に根を生やしていないおもちゃの家の様なものは、どうも建築ではないのである。建築というのは、建築家にとって、厳密に、その場所に、根が生えるように建っている個別化された存在のもののようである。

 地べたに建っているということは、同時に、その場所に、溶け込み、切り離せない状態で存在していると言うことを意味するのである。

 こうした認識は、絵画の歴史で考えると、興味深い。
 絵画は、壁画として、もともと建築の中に組み込まれていた、絵画は、そういう意味で建築と密接な関係にあったのだが、もう一つ別の絵画もあった。それは本の絵画で、ミニアチュールとか写本の挿絵とか、源氏物語絵巻もそうだが、本に組み込まれた絵画である。

 つまり絵画は、壁画と、本のイラストであるものの、2種類があった。

 建築に着いている絵画は、建築から離れて、タブローとして自立する。
 タブローとなって自立したときに、それはどこにくっついているのかというと、市場という、アートマーケットの空間を移動して、そして別の所有者の手に渡って、そして展示されれば建築の壁の上に展示される。そうして建築にくっつくのだ。

 しかし市場の上を移動するという性格が、次第に絵画というものの性格であるという認識を強固に持つようになる。

 それでも絵画は、支持体という物質的な基盤に根を生やしていた。

 しかしデジタル映像が登場すると、この物質的な基盤である支持体から自立する表現が成立するようになる。そうすると、実際には物質的な側面を持っている表現でも、どこか浮遊しているというか、やたらに幽霊のような存在感の作品が増えてくる。

 つまり支持体から自立したデジタル映像の意味は、ずいぶんと大きな影響を美術に与えるのだけれども、建築の例にもどると、建築が大地に根を生やしているものだけを建築というように、美術もまた、支持体に根を生やした、物質的な大地に根を生やした表現だけを美術というのではないか?という問題を生じる。

 1980年代の後半以降、特に1990年代になると、国際展は急速のデジタル表現に移行して、映像作品が増大して、情報化社会の芸術の時代に入っていく。

 しかし、そこで絵画は排除されるのだが、その排除された物質的な支持体を持つ絵画作品は、アートフェアやオークションという美術市場に流れ込んでいった。

 つまり美術界が、2つに割れたような状態になったのだ。

 一つはデジタル映像と、デジタル的なインスタレーションの国際展。

 もう一つが、支持体をもった絵画という、売り絵化したコマーシャリズムぷんぷんの美術市場の世界である。

 さて、本稿が問題にするのは、エリザベス・ペイトンに見られるような支持体をもつ界が表現が、持つ、可能性の問題である。

 私見では、デジタル映像の作品も芸術であって、芸術であると言うことは、必ずしも物質的な支持体を有さなくても良いのだが、しかし地着きではない建築を建築とは言わないという意味では、支持体を持たない映像作品を美術とは言わないという、そういう認識の限界も、あるのではないか?と思う。

 それは単なる古さとも言えるのだが、それでもなお、支持体を有する表現に固執する道もありえる。無いとは言えないのだ。

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上記の問題を、音楽で考えると、もう少し分かりやすく言える。

 デジタル時代になると、音楽制作も、コンピューターによる打ち込みで音楽ができるようになる。演奏者がいらなくなるのだが、コンピューターの打ち込みだけでの音楽表現の限界性が言われるようになる。

 演奏者の存在がある演奏と、コンピューターの自動演奏とが、違うというのは、重要な問題になってくる。

 まあ、この差、程度のことが、支持体のある美術と、無いデジタル化した美術の差なのかもしれないが、この差が、思ったよりも大きいとも言えるのである。

 たとえばブライアン・ファーニホウの場合、楽譜が複雑になり、演奏不可能とまで言われるようになって、しかしそれをほぼ完全に演奏する演奏者が出てくると、その演奏は、実に緊張感に満ちたものになる。こうした演奏によって聞こえてくる音楽は、コンピューターの打ち込みとは、明らかに違う質になるのだ。

 日本の作曲家でも、たとえば川島素晴は、「演じる音楽」を方法として自覚して作曲しているので、その音楽は演奏者自身のパフォーマンス性を重視したものとなっている。演奏者のパフォーマンスが、作曲として書かれることで、つまり音楽という音の振動の根拠が、演奏者の身体にまで根をはったものとして、音楽が考えられ、作曲が、演奏する演奏者の身体性や知的解釈性を拡張する要求の形で追求されているのである。

 ジャズの演奏が、演奏者の存在に根を下ろす演奏を抜きにあり得ないのは当然であるが、私の友人では木村昌哉のテナーサックスは、超一流で、《超1流》の《超1流》の《超1流》で、パーフェクト。しかも 気体音楽だ。たぶん、この演奏者の存在に根を下ろす変奏というのと、気体性をは連動しているものではないのか?
 気体というのは、水のH2Oの比喩で言っているのだが、水が凍ていると氷という固体になっていて、彦坂理論では、固体音楽は、2種類あって、何にも変化しないし、動かない絶対零度の固体と、少し溶けながら氷河のようにゆっくりと流れる固体音楽である。それが産業革命がはじまると温度が上がって、溶けて水という液体になり、川になって流れる。海に流れ込んで、さらに蒸発して気体分子状態になる、同じH2Oの水が、様態をこのように変えるように、音楽もまた絶対零度の音楽、固体音楽、液体音楽、そして気体音楽と様態を変える。木村昌哉のジャズは気体ジャズである。

 ロックでも、メガデスのデイヴ・ムスティンの追求するインテレクチュアル・スラッシュ・メタル"は、何よりも複雑なリフの展開が、演奏の困難さをともなっている。演奏者をアルバムごとに代え、ジャズ系の上手いミュージッシャンを次々に採用しながらアルバム展開するその、音楽性の高さは、瞠目に値する、したがって彼らのライブパフォーマンスは極めて地味なものとなる。必死で演奏に集中する様は、音楽の演奏のシリアスさと緊張を生み出す。メガデスの音楽は、《41流》の《超1流》の《超1流》の気体音楽である。
 
 美術の場合でも、美術の可視性が、デジタル化することで自立化するとき、この逆転として、美術の視覚性が、支持体の物質性に根を張るかたちで、成立する支持体のある絵画の増幅化の追求は、可能なのである。
 それは絵画の視覚性という表象が、物質的な矛盾として出現してくるとの追求になる。

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 それでも私の歯切れが悪いのは、支持体のある絵画というのは、すでに過去にあるのであって、この差の重要性を言い過ぎると、分かりやすくはなるが、しかし違うという思いも大きいからである。

 単に手あかの付いた、古い価値を強調しても意味はないのだ。絵画なり芸術を成立させる要素は多いので、問題はもっと複雑なところにある。
 それでも尚、あえて、単純化して絵画制作の手法を抽出すれば、次の様になる。

 エリザベス・ペイトンの場合、インタネットの画像で見る印象と、実物で見る印象が大きく違う。
 つまり作品の映像性と、支持体の部分の結合の2重性として整理できる。

 その視点は、川久保玲の手法と重ねると、分かりやすい。川久保玲は、服のファルムの開発と、素材の開発を別々のチームやらせて、おのおの知らない状態にしている。そしてこの2つを合体しているのである。
 
 この川久保のやり方を比喩としてエリザベス・ペイトンを語れば、画像の開発と、支持体の開発を別々に行って、合体させていると、語ることができる。
 
 つまり絵画の制作を、絵画のイラストレーション的図像の開発と、支持体の開発を別々に行って、それを合体させるという風に、制作を考える。

 単に物資的な支持体をもてば、優れた絵画になるわけではないのだ。すでに多くの失敗の歴史がある。しかし再度、デジタル表現を見据えながら、あえて、支持体をもった作品の再展開を模索することは、可能なのではないか・・・。

 

  


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