SSブログ

階段を降りる裸体No.1 [アート論]

>2007年10月14日(日)

清水誠一さんが、
デュシャンの階段を降りる裸体のナンバー1の画像を見つけて、
送ってくれた。
フィラデルフィア美術館が所蔵しているので、
見ているはずなのだが、覚えていない。

1911年の作品で、
デュシャンの展開の中では、重要な作品。
この年、妹シュザンヌが結婚している。

〈想像界〉の眼・・・《8流》のイメージ
〈象徴界〉の眼・・・〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
〈現実界〉の眼・・・《8流》の現実
………………………………………………………………………………

友人の彫刻家・作左部潮さんは、石を空中に浮かべる作家。
9月の15日より今月の8日まで、群馬県の中之条町で開催されている中之条
ビエンナーレに参加出品していた。

5月には100匹もの鯉のぼりが吊り下がる、公園に設置されているワイヤーを使って作品ができないかという話がきたから、自己負担にて参加したということで、作品の下は公園の駐車場。

期中に4万5千人程の見物客が来たということで、
ちなみにこのたけ山(嵩山)はよく見ると左の方の岩山が男性の
シンボルのように見えるよいうことで、昔から子宝に恵まれない婦人らが
これを見て拝んだそうです。

私は残念ながら見に行けなかった。
………………………………………………………………………………

さて、誰も読まない硬い話の続き。

■芸大建築科修士2年の鈴木隆史さんのメール
>ミースは新古典主義を再解釈しつつ、ある意味ではギリシャ建築を新素材、新工法で
>量産しようとしていたのかなと感じました。
>その意味では彦坂さんのいう超一流にはなりえないのかもしれませんね。

ギリシア建築というのは《基壇》が、こういう風に礼拝性をもってあるのですね。
ミースの《基壇》というのは、ここに起源がある。

〈想像界〉の眼・・・〈超1流〉
〈象徴界〉の眼・・・〈1流〉
〈現実界〉の眼・・・〈1流〉

〈想像界〉の眼で見ると、ミースは〈超1流〉なのを、今回発見しました。
ミースは、ミースで、〈超1流〉を追いかけていたのでしょうね。
それは〈想像界〉的な〈超1流〉であった。

つまり新古典主義そのものもそうですが、古典という成果を、
イメージでとらえて、逆算的に再生産していく、そういうものですね。

つまり人間の文化の摸倣的再生産性を肯定的に見ていく視点ですね。

■鈴木隆史
>そこにはドイツ特有のロマン主義的な意識も関わっていたと思いますし、
>その最たる表象が、オーダー(列柱)と、ある意味では「基壇」の再解釈だったのかなと思>います。(通常、前者が語られることが主です。)

■彦坂尚嘉
列柱と基壇という眼で見ると、
二枚の水平な板の間を、列柱で支えるという関係ですね。

《梯子構造》を横倒しした状態です。
それだけを考えると、基壇と天井というのは、等価なものになります。

実際のミースの構造は等価ではありませんんが、
それはミースが、一見したところ構造的で、規則的に見えても、
実はイメージで考えているからではないでしょうか?

私は原理主義者ですから(笑)、等価の《梯子構造》を想定します。

■鈴木隆史
> 均質空間というどこまで続くグリッドを建築化していこうとしていたミースにとって、
>ギリシャ的な基壇というモチーフは、
>現実の敷地や歴史から自身の空間設計を分離して
>現在に浮遊させる可視化したグリッドであり、
>概念的な意味での歴史や大地との再契約だったようにも思います。

■彦坂尚嘉
なるほど。
鋭い、ご指摘ですね。

現実の敷地や歴史から、分離できるという考えが、
モダニズムの、《タブララーサ 白紙還元》という考え方です。

私の考えでは、この分離は、結局は出来なかったのだと思いますが、
だからといって、日本の分離派の建築の成果を、私は高く評価します。

つまり分離は、不可能なのだが、
しかし、分離は可能なのです。

そしていまは、シニフィエ(意味されるもの)と、
シニフィアン(意味するもの)そのものが分離した時代だと思います。

正確には、その間をつないでいた
理論や設計図に基づいて物を作る「エンジニアリング」もまた、
自立したのです。

しかし、シニフィエと、シニフィアンの分離は可能なのです。
元々、実は分離していたのです。
つまり人間の頭の中だけにシニフィエがある状態というのは、あるのです。

頭の中だけにあるシニフィエというものが、一概に〈想像界〉であるかというと、そうではなくて〈象徴界〉も、〈現実界〉もあるのです。
もともとラカンが考えた3界というのは、人間の精神の構造ですから、これは頭の中にある。

これが外在化させたときに、物質と統合化されたシニフィアン(意味するもの)が生まれる。
このシニフィアン(意味するもの)が生み出されるときに、「エンジニアリング」が必要なわけです。
つまりシニフィエの外在化というのは、「エンジニアリング」による、必ず物質化をともなったシニフィアンの生産なのに、
問題を複雑化する事態が起きた。

コンピューターという形で、
人間の脳の部分を道具として外在化することで、
シニフィエそのものを、物質性を持つものであるシニフィアンにしないで、
シニフィエのままに、つまり非物質化のままに外在化できるようになった。

それがヴァーチャルな世界です。
ここでは人間は万能観をもって誇大妄想になれる。

つまりデジタル情報としてシニフィエが、
ヴァーチャルな世界として外化されたのです。
その交通化がインタネットなわけです。

そしてこの非物質的なシニフィエ=ヴァーチャル世界が世界を覆うようになった。
これがボードリヤールが晩年に言っていた《透明な悪》です。
実はシニフィエ=ヴァーチャル世界というのは《透明な悪》なのです。

私が《皇居美術館空想》と言うときには、
分離が可能だとしているわけで、
シニフィエ=ヴァーチャル世界の自立化として、
《空想》という領域を設定しています。
「エンジニアリング」を欠いている。

同時に不可能性を自覚している。
不可能だというのは、シニフィエの自立化というのは、
「エンジニアリング」を持たず、
つまり物質化し現実化する見通しを持っていないのだから、
今日で言えば情報化と言うことしか意味しない。

人間の脳の中にあるシニフィエ=ヴァーチャル世界が情報として流通していった時に、
実はシニフィエとシニフィアンが統合されない限り意味は発生しない。
情報=ヴァーチャル世界だけが流通して、この統合が起きにくくなってしまった。
「エンジニアリング」もまた、このヴァーチャル世界を拡大する面が発達してくる。

つまり《皇居美術館空想》というのは、
情報アート=ヴァーチャル世界でしかない可能性が、非常に高いのです。

私の建築模型も、シニフィエ=ヴァーチャル世界の自立化の中で構想されています。
でないと、建築教育も受けていない私が、建築を構想することは出来ない。
しかし、模型をつくる「エンジニアリング」は必要なわけです。

とは言っても、ミケランジェロや、ベルニーニも建築をやっていますよね。
つまり後藤武さんも建築文化のコールハース論で書いていますが、
大文字の《建築》といものが問題なのです。

「エンジニアリング」としての建築が前提にしているのは、
私の今の論理でいえば、それは人間の頭の中だけにあるシニフィエの自立化=ヴァーチャル世界したものとしての《建築》であって、それは実は情報として、今、外化しているのです。

ミケランジェロが建築を出来たのは、建築を作るというのが、実は情報=ヴァーチャル世界の問題であるのを知っていたからではないでしょうか。

つまり物質性のあるシニフィアンの方に馴れている「エンジニアリング」だけの建築家の思考からは考えられないことでも、情報=ヴァーチャル世界の自立化の方からしか考えられない《建築》があるのです。
もっともミースも、似たようなものですものね。

ミースの建築の本質は、
シニフィエの自立化=ヴァーチャル世界なのです。

ミースが作ったクレーラー=ミュラー邸の原寸大模型に
コールハースが興味を強く持ったと、
後藤武さんが書いていますが、
ミースの建築は、もともと原寸大の模型なのではないでしょうか。

クレーラー=ミュラー邸の原寸大模型というのは、
シニフィエの自立化ですから、シニフィアンとの統合性を欠いていて、
意味を生じないのです。
これを見た施主のミュラー夫人の内側に意味を生じなかった。
このことをミースは、無自覚なのです。
だから、実際には建築は建たたなかった。

私の皇居美術館の根拠も、シニフィエの自立化=ヴァーチャル世界にありますから、
正確には「構想」ではなくて、「空想」なのです。
しかしその事の無意味性を自覚化している。

結局、どちらから考えるかだと思うのです。
情報の自立化=ヴァーチャル世界から考えるのか、
それとも現実の物質性を持ったシニフィアンの自立化から考えるのか?

シニフィアンそのものが自立化して、自動化していく。
そういうシニフィエを欠いていくということも、
起きているのですね。
仮に、それをブリコラージュの世界と言っておきましょう。

今日の世界は、
ヴァーチャル世界と、
エンジニアリング世界、
ブリコラージュ世界、
の3つに完全に分裂して、併存している。

こういう今の私の立場からミースを見ると、
横倒しした《梯子構造》の問題は、かなり明確に分かります。

コルビジェは、大地との関係として、横倒しの《梯子構造》をつくった。
これはシニフィエとシニフィアンの統合化を目指している。

大地という外部の台ー物質ー現実界と、直に、統合化を目指す事で、
シニフィアンとシニフィエの統合を図る。
統合を図るものとしての近代建築技術としての「エンジニアリング」がある。
芸術としての建築としては、コルビジェは正しいと思います。
実際にすばらしい。

それに対して、ミースは、建築内部で自立する関係として、横倒しの《梯子構造》をつくった。これはシニフィエの自立化自動化ですから、情報の物質化=でしかない。
情報の物質かとしてだけ建築という「エンジニアリング」がある。
外部の大地という台ー物質ー現実界と、直には統合化を目指さない。

この構造の違いこそが、絵画においても〈1流〉と《6流》の差なのです。
ミースは《6流》にしかならなくて、芸術にならない。

つまり横倒した《梯子構造》の、列柱の付いている片面が、大地であるのがコルビジェは、大地=物質との統合を目指している。

それに対して、《梯子構造》の列柱の付いている片面が、基壇であるのがミース。
これは統合を欠いたまま、情報を具現化し、自動化する、つまりプレハブの実現に過ぎない。

プレハブというのは、現実界から、浮いている「エンジニアリング」なのですよ。

■鈴木隆史
>バロセロナパビリオンでの、大理石板による床(基壇)は目地が空洞のままで、
>床下を横から見ると
>光の格子が地面におちているのが見えた、と本に書いてました(すみません、私は見てない>です)。

>石山修武さんが確か、その光の格子を本来的なミースの基壇としていたようにも記憶してい>ます。(私の解釈も入っているかもしれません。)

>土地から浮遊した基壇とでも言うのでしょうか。基壇ごとアメリカまで飛んでいって
>ファーンズワース邸になったともいえます。

■彦坂尚嘉
そうでしょうね。
コルビジェは、片面が大地ですが、
ミースは基壇ですから、大地から浮遊しているのですね。

これも、凄く良い、ご指摘です。
それにファーンズワース邸(1950年・アメリカ)が、理解できるようになりました。
あれは基壇が浮遊しているのですね。

しかし、こんな事を言っては何ですが、よくもつまらないものが、人気になりますね。

そういう批判を言いながら、
実は私たちの《皇居美術館空想》というのは、
実はミース的な、シニフィエの自立化=ヴァーチャル世界であると言えます。

プレハブなのです。
しかし「エンジニアリング」もないから、
プレハブですらない。

だから、それを自覚しているから、
いま、私は等身大の模型を作ろうとしている、
これは模型なのですが、模型がシニフィアン化出来るかどうかの賭なのです。

変な話なのですが、
模型が模型であることを自覚化することで、
模型という実物に成得るかを目指している。
答えは、作ってみないと分からない。

つまり、今の時代であっても、
意味を生じるためには、
シニフィエとシニフィアンは、統合される必要があるのです。
ヴァーチャル世界
エンジニアリング世界
ブリコラージュ世界
この3つの統合の次元を、一つは本に求める。

もう一つは、模型の彫刻作品化に求める。
彫刻作品という形で統合が出来るかどうか、試してみたいのです。

こう言っても
こう言っても誤解はされるかもしれませんが、
そういう媒介化を経ていく以外に方法はないのです。

■鈴木隆史
>だから個人的には、アメリカにおけるミースの基壇も、
>ドイツという文脈が強いのではと思います。

■彦坂尚嘉
ご指摘の通りだと思います。

■鈴木隆史
>一方、コルビジュエは、私は詳しくないですが、
>彼がパルテノン神殿を見たときの異様な感動ぶりを自身の本によく書いています。

■彦坂尚嘉
そうなのですか。
そういう意味では古典主義なのですね。

■鈴木隆史
>そして、コルはパルテノンに自動車を対比して雑誌に載せたといいいます。(彼の機械論に>つながるのでしょう)
>また、「パルテノンが私を反逆者にした」、とも言ってます。
>パルテノンを見たときの建築家の言葉は、磯崎さんがまとめていましたが、
>たしかミースははいってなかった。ミースがパルテノンを見に行ったかは、わかりません
>が、個人的な予想では見に行ってないのではとも思います。
>シンケルという新古典主義を介して、鏡面的に始原の建築像を夢想していたミースがとった>手法が歴史的手法の再構成で、それは歴史に根ざすことを欲望するドイツ的な考え方でもあ>るように思います。
>コルビジュエは、何度かパルテノンを見に行き、
>そこからの決別を誓ったのかもしれません。

■彦坂尚嘉
なるほど。
逆立したというのですね。

■鈴木隆史
>決別、という自己演劇的な言葉も彼は好んだでしょう。
>パルテノンを自動車に対比したコルビジュエが、建築を浮かせて生まれたピロティを自動車>のための空間にしたことも面白いつながりですね。

■彦坂尚嘉
なるほど。そういう関連もありますね。


パルテノンは彫刻がロンドン在住ですから、彫刻から見ればただの台ですよね。
その台を自動車に例えて、自分の建築の下においた、、コルビジュエはやはりミースの解釈よりもおもしろく複雑ですね。

なるほど。

■鈴木隆史
あまり理論立っていなくてすみません。

■彦坂尚嘉
面白いです。

■鈴木隆史
なにより、彦坂さんが「台」と「基壇」をどう位置づけるか難しいとおっしゃったように、
基壇と床も、近代以降は判別が難しいようにも思います。

■彦坂尚嘉
そうですね。
「台」と「基壇」というところに、
実は芸術の根本的な構造が潜んでいるように思います。

どうもありがとうございました。
おかげさまで、思考が随分と進みました。
感謝します。


コメント(3)  トラックバック(1) 
共通テーマ:アート

コメント 3

丈

議論が半分しか理解できませんが大変勉強になりました。
by (2007-10-14 10:36) 

達田揚

模型の幽霊化こそが問題なのであり、
模型自体のシニフィアン化は、
幽霊をとりにがすリスクと接しています。

ちなみにそのシニフィアン模型は、
「縮尺」は何分の一ですか。
by 達田揚 (2008-10-09 09:24) 

熟女義母

iWjI1SNx, jj.ex-navi.biz, 熟女義母, http://jj.ex-navi.biz/kinshin/91.html
by 熟女義母 (2011-10-27 08:11) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 1

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。