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アンディ・ウォーホールについて [アート論]

ギャラリー手の杉山旭さんとローアートの話をして、
アンディ・ウォーホールのぶ厚い画集を2冊見せてもらう。

どういう訳だか、私はアンディ・ウォーホールの画集を
自分では買っていないのだ。
決して嫌いではないのに、
むしろ好きなのに、
買っていない。
たぶん、無意識に勉強にはならないことに気がついていたのだろう。

アンディ・ウォーホールはローアートなのである。
しかも《6流》である。

ピストルで撃たれてからは、作品はガクッと悪くなる。

著作権問題も大きくて、
既成のモンローやプレスリーの図像を使っているときは良いが、
著作権で高額の金額を取られる問題を生じて、
自分で撮影した写真を使うようになると、
作品の魅力が、大幅に失われた。

死ぬ直前の〈カーズ〉というシリーズを全部見ているが、
自己摸倣の最悪の作品になっている。

しかしそれ以上に、
最盛期の作品でも、
実はローアートであり、
《6流》であり、
真面目に鑑賞すると、
実は良い作品とは言えないという問題が、
一難深刻なのである。

杉山さんも、アンディ・ウォーホールは作品としては良くないという。
美術評論家の藤枝晃雄さんもアンディ・ウォーホールは評価しなくて、
20世紀アメリカ美術史から削除している(『美術手帖』の特集号)。
じつはグリンバーグもアンディ・ウォーホールを評価していない。

書いてはいないが、後にアンディ・ウォーホールと同質性として出てくる、
ジャスパー・ジョーンズも、
グリンバーグも評価していない。

私もジャスパージョーンズは、
良くないと思う。
しかも作品は、どんどんと悪くなっていく。
最初期の50年代がかろうじて、
評価できるだけだが、
それも《6流》である。

つまりローアートで、
問題のある作家であるアンディ・ウォーホールと
ジャスパージョーンズが、
実は世評的には現代美術としての評価をとり、
大きな基準を確立している。

現在の中国やアフリカ、アジアの現代美術のお手本の一つになってしまっている。
それもあってか、現代アート全体が悪化して、
ローアートの全盛を謳歌するものになってしまっている。

だからローアートを研究する必要があるのである。
ローアートこそが、美術の基盤であり、
そして研究すべき批判対象なのである。

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私も学生時代アンディ・ウォーホールを体験して来ている。
若気の至りで、良いと思ってしまっているのだ。

大丸で開かれた日本最初の大がかりなアンディ・ウォーホール回顧展も見ている。
牛のピンクの図を壁紙に使った美術展であった。
杉山旭さんもこれを見ている。

だから、20世紀美術史の中から、アンディ・ウォーホールを省くことは
私にはできないのである。

そもそもアンディ・ウォーホールが、
ローアートであり、
作品も厳密には良くないということも、
この最近になって、ようやく気がついたのである。

この遅さは、実に問題である。

それほどに若いときに魅惑された作家の評価を
変えることは難しい。

しかし、真面目に作品を鑑賞し、分析すると
アンディ・ウォーホールは、藤枝さんが否定するように
良くない作品である。
このことを、苦痛があっても認める必要がある。
ローアートなのである。

むしろローアートの問題として、
研究、探究する必要があるのである。

さて、そこで、このところブログでも延々と論じているように、
私が、とにかく、ローアートと、ハイアートの両方を作れるように訓練して、
この統合化を図るという、計画に挑むことになってきている。

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構造的には、アンディ・ウォーホールは〈想像界〉〈現実界〉の作品である。
まず、ここに秘密がある。

ポップアートの作家を検証してみよう。

アンディ・ウォーホールはローアートだが、
トム・ウエッセルマンもローアート。
文字を使うロバート・インディアナもローアート。
ネオダダだが、ジャスパー・ジョーンズは、ローアート。

しかし漫画を描いたリキテンシュタインは、ハイアートである。
ローゼンクイストも、ハイアート。
オルデンバーグもハイアート。
ジム・ダインもハイアート。
西海岸のルッシェも、ハイアート。

人形のマリソールもハイアート。
石膏の人物のジョージ・シーガルもハイアート。

ちょっと古いがアレックス・カッツもハイアート。
ネオダダのラウシェンバーグもハイアート。

私の言語判定法の、このような分類に同意してくださらない方も
多いかもしれないが、
こう見てくると、
アンディ・ウォーホールの特異性が、少し浮かび上がるのである。

………………………………………………………………………………

もう一つの視点、〈現実界〉の美術である問題で見てみよう。

アンディ・ウォーホールは〈想像界〉で〈現実界〉の同時表示の美術だが、
ジャスパー・ジョーンも、〈想像界〉と〈現実界〉の同時表示の美術。

トム・ウエッセルマンは、〈想像界〉だけの美術。
ロバート・インディアナも〈想像界〉だけ美術。
西海岸のルッシェも、〈想像界〉だけの美術。

リキテンシュタインは、〈象徴界〉だけの美術である。
ローゼンクイストも、〈象徴界〉だけの美術。
人形のマリソールも〈象徴界〉だけの美術。
ちょっと古いがアレックス・カッツも〈象徴界〉だけの美術。
ネオダダのラウシェンバーグも〈象徴界〉だけの美術。

オルデンバーグは〈現実界〉だけの美術。
ジム・ダインも〈現実界〉のだけの美術。
石膏の人物のジョージ・シーガルも〈現実界〉のだけの美術。

こう見てくると、
アンディ・ウォーホールとジャスパー・ジョーンは、
ローアートで、しかも〈想像界〉で〈現実界〉の同時表示の美術という特異性が、
他のポップ・アート系の美術家との違いとして、浮かび上がるのである。







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