SSブログ

金原ひとみの顔(再論) [顔/美人論]

今出ている雑誌『AERA』の表紙が、金原ひとみ であった。
これには驚いた。

かつての《16流》性は消え、《31流》性も消えて、
普通の《8流》美人になってしまった。

女性というのは、
結婚したり、子供を作ると激変する。
そういう例を直に私も何度も見て来ている。

20歳前後の若い女性の不安定さが面白いものを生むものではあるが、
それが逃げ水のように消えてしまう。
そういう例が多いのだ。

まあ、金原ひとみも、社会的に成功して、
しかも結婚して幸せになったのだろう。
良いことではあるが、
私の興味の埒外である。

良くある普通の、
ちょっと変わった人にすぎなくなった。

友人の清水誠一は、小説を全部読んでいるので話したが、
最近の『ハイドラ』を彼は面白いというのだが、
読んでもいない私が言うのは間違いだが、
しかし、その清水氏の言う面白さを私は信じられない。

『蛇にピアス』の描き出した悲しみの深さを、
高く評価はするけれども、
しかし文学としては《8流》小説に過ぎなかった。
すごいとは、どうしても思えないのだ。

《8流》小説は、どうしてもその限界を持っている。
その世界を良いと思える人には面白いのだが、
良いと思わない人には馬鹿馬鹿しく見えるのが《8流》である。

《8流》領域は信仰の世界である。
鰯の頭も信心からで、信じればすばらしく見える。

そういう閉鎖価値空間の限界を彼女が乗り切ったとは、
思えないのだ。

社会的に成功し、
映画にも出演して、
社会性を拡大していくことは素晴らしいことではあるが、
しかしそれは文学的な達成とは別のことである。

しかし読まないで言うのも何だから、
立ち読みで3頁は読んでみようとは思うが、
私の守備範囲ではないように思える。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日は『アミービック』を文庫で買ってしまって、
《8流》だと悪口を言いながらも読み進んでしまっている。

冒頭の錯乱した文章は良くて《8流》とは言え文学しているというか、
前衛性があって、オッと思わせるが、
残念なのは、この錯乱期の文章がもう一度出てこないことだ。
ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』のような長さでなくても、
一頁くらいの、錯乱の文章を書いて欲しい。

とは言っても読了はしていないから、
期待して読むしかない。

出てきた。
錯文は、しかし今一。
もう一つ踏み込んでも良いのではないのか。
最初にあった誤植や、意味不明の言葉が欲しい。

何らかの意味での私小説として読者は読まされるから、
その意味でこの小説は〈想像界〉のB級小説でありながらも、
〈現実界〉が同時表示されているかのような錯覚で読むことになるが、
しかし文学としては〈現実界〉を持っていない。

多用されるタクシーの運転手との会話もリアリズムが欠けている。
拒食症の描写も、観念的である。
拒食がイメージでしかなくて、実例の研究や学習不足がある。
ケーキがたくさん作られて壊されるが、
これもイメージでしかない。

悪い作品も見るべきであるし、《8流》文学もまた読むべきなのは確かだと思うので、
まあ、逃げられなくなったから読み続ける。

だが、
少なくとも言えることは、金原ひとみは、
純文学者ではないが、商業主義のプロの文章書きだ。
《8流》の限界性の中で、それなりに飽きさせず、
ガラッガラッと場面展開して、
読者の覗き趣味を刺激しながら、読者を引っ張っていく。

何故に、現在学歴のない書き手が、
世界的にも台頭してくるのか?
少なくともこの秘密を解き明かしてくれるライターであることは
確かかもしれない。


コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。