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前衛音楽にもローアートがあった [日記]

2008年2月6日(水)

朝起きて、《ハーフ・ジャパニーズ》をかけてみたら、
私の言語判定法では、
これがローアートであった。

《ハーフ・ジャパニーズ》というのは、
1974年ミシガン州アンアーバーでジャドとデイヴィドのフェア兄弟の2人ではじめた
ユニット。

サンフランシスコからメリーランドに移って活動を広げ、当初2人はギターはおろか楽器を演奏することが殆ど出来なかったというのだが、そういう下手な音で、その下手さが面白いという、ヘタウマ前衛ロックバンド。

77年から79年にかけて、2人とジョンとリックのドレイファス兄弟が参加して
作った作品を集めたのがデビュー作「1/2 Gentlemes/NoBeatles」で、インディArmageddonから3枚組のレコード・ボックスでリリースされた。 私の聞いたのは、このコピーテープである。買っておくべきであっと後悔しているアルバム。

日本のレコード屋に1980年頃に並んでいたと思う。

この頃私はヘタウマ前衛の可能性を追いかけていた。
これもテープしか持っていないが「ポートマス・シンフォニア 」という交響楽団の演奏が面白かった。これは素人を集めてクラシック音楽の交響曲をフルオーケストラで演奏したもので、演奏の遅れや、ノイズ、歪み等々の素人の駄目さが奇妙な音になって聞こえてくるというもの。

念のために、キャプテン・ビーフハートの
「トラウト・マスク・レプリカ」を聞いてみた。

キャプテン・ビーフハートは、1941年米国カリフォルニア生まれ。本名ドン・ヴァン・ヴリート。
私は彫刻家と思い込んできたが、今ネット検索すると画家で、高校時代にロックの、フランク・ザッパと出会ってR&Bバンドでの活動に勤しむようになり、60年代半ばからマジック・バンドを率い活動。
1969年に『トラウト・マスク・レプリカ』を発表している。

これもローアートであった。
《8流》《8流》《8流》
現実界の音楽、
そして絶対零度の音楽(=原始音楽)

このアルバムはサッパがプロデュースした

フランク・ヴィンセント・ザッパ、1940年アメリカ生まれ、
ロック、そして現代音楽のミュージッシャン。

上記2つは共に、原始音楽に還元している新・野蛮人の音楽。
結構好きで、繰り返し聞いてきていたのだが、
ローアートで、娯楽なんですね。
まずいなァ〜!

フランク・ザッパあまり枚数を持っていないが、聞き直してみる。
『フランク・ザッパ・ギター』という2枚組。1988年。
ザッパは、ギタリストそいても評価が高い。

もちろんというか、ハイアート。ロックを純粋音楽化しているのですね。
〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
固体・液体・気体3様態同時表示。
〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉3界同時表示。
すごいクオリティです。
でも、というか、当然というか、娯楽音楽ではない。

すごい演奏。
久しぶりに聞いて、改めて驚く。
もう少しザッパを買わなければ駄目ですね。

所が聞いていると、
もう一つ面白くない。
原因を捜すと、ザッパの音楽は実体的である。
結局、ここで抜けが悪いというか、
真性の芸術ではなくて、エンターテイメントになってしまっている。

しかしこのハイアートのザッパと、
ローアートのキャプテン・ビーフハートが接点を持ち、
同居して聞いてきてしまっているところに、
混乱がある。
まったく違う音楽なのである。

キャプテン・ビーフハートは、
〈非-実体性〉があるし、〈非-合法性〉もある。
ここで見れば真性の芸術なのだが、
しかしローアートであることでは、娯楽音楽である。
錯綜している。

私の先生の刀根康尚氏のノイズ・ミュージックをかけてみたら、
これもローアートであった。
「MUSICA ICONOLOGOS」というアルバム。
刀根さんは、典型的な前衛なのだが、前衛というものがローアートであり得るのだ。

いわゆるモダンアートの前衛主義には、
2種類がって、その混同があるのだ。
前衛のハイアートと、
前衛のローアートである。

ローアートであるというのは、
民衆音楽のようなもので、
摸倣の連鎖の中で生まれる。
前衛とは言っても、前衛を摸倣する前衛音楽というのは、
奇妙な事に、民衆音楽化するのだ。

もっとも、先生の音楽をローアートというのはまずいが、
しかしローアートだから悪いというものではない。
事実刀根先生は、このアルバムでディスコで受けて、
追っかけまででているスターになっている。
やはりローアート現象である。

ローアートは実用音楽である。
分かりやすく言えば、娯楽音楽。
ディスコで受けるのは、娯楽性故であろう。
前衛がローアートで、娯楽になって受ける時代なのである。

「IMPROVISED MUSIC NEW YORK」と言うアルバムも聴いてみたが、
デレク・ベリー、フレッド・フリスもローアート。
驚くなァ〜!

デレック・ベリーは、70年代の代表的なインプロビゼーション・ミュージックの旗手であった。もっとも東京に来たときにライブを見たのだが、流しのギターのようになってしまっていた。何しろローアートというのは、蓄積が、高みになっていかないから、年をとると、普通になってしまう可能性がある。
死んだみたいで、追悼の記事の目次だけだが見つけた。

ついでに川島素晴さんの「ACTION MUSIC」も聞いてみたが、
これもローアート。
前衛音楽の摸倣の連鎖の音楽。
まあ、だから面白いとも言える。

結局、ハイアートの鑑賞音楽の中にも、
ローアートが、かなりの量あるようだ。

繰り返すが、ローアートでいけないと言っている分けではない。

むしろ本来統合されているべきであった、
ハイとローが
分離されて純粋化したのがモダニズムであった。

私見では、この統合が図られる必要がある。

と言いつつ、実際の作業は、
むしろハイとローの分離の作業になっているように見えるが、
しかし、とにかく現実の有り様を正確に認識する必要があるのである。


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コメント 1

丈

前衛といえば当然ながら、前衛映画、前衛演劇、前衛舞踊、前衛文学、前衛建築もあります。すべて第一次大戦以前に出ております。日本では大正期以後ですね。
それらの共通点は人間の文化活動の領域を広げんとする意志と、ある運動となった点、そして理論の存在ですね。さまざまなグループがマニュフェストを出しています。
相違点は個別領域の差ですが、美術は個人の表現で成立しやすい点です。
by (2008-02-10 00:37) 

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