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川久保玲の顔 [顔/美人論]



このあいだの日曜日の10日に、
ギャラリー山口の白川真由美さんに案内してもらって、
コムデギャルソン青山本店と、
骨董通りにある川久保玲のセレクトショップ「ドーバー・ストリートマーケット」を見学してきた。

白川真由美さんは、川久保玲フリークで、
しかもお母様もそうという2代がかりのファンなのである。

私自身は、遅まきながら1999年に東京都現代美術館で開かれた
『身体の夢 ― ファッション OR 見えないコルセット』展で、
川久保玲の魅力に取り憑かれてしまった。

そしてまた国立新美術館で昨年2007年に開かれた
『スキン+ボーンズ-1980年代以降の建築とファッション』展で、
改めて川久保玲のずば抜けた美しさにしびれてしまった。

というわけで、白川さんに案内を頼んだのだが、
コムデギャルソン青山本店は、丸い形、そして壁が傾斜があって、格好いいお店。
想像以上に多くの外国人のお客がいて、
明るい雰囲気で入りやすかった。
バックが美しくて欲しかったが、まあ、値段が大変なので見るだけ。
とにかく〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉で、
3界同時表示、3様態同時表示のものばかりで、
たいした美しさ。

もう一軒、実はコムデギャルソンのお店に案内してくれたのだが、
そこはお弟子さんの店で、〈1流〉品で、私の趣味ではなくてパス。
渡辺 淳弥のジュンヤ・ワタナベ・コム デ ギャルソンというのは、
私には魅力がないのである。

栗原たお の、タオ・コム・デ・ギャルソンも〈1流〉で、これも私を魅了しない。

川久保玲のセレクトショップ「ドーバー・ストリートマーケット」は、
いろいろなグッズがあって楽しいのだが、
これもどれも〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
3界同時表示、3様態同時表示のものばかりで、
そのブランド水準の統一は見事であった。



さて、川久保玲の顔である。
〈想像界〉の眼で、《11流》のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈41流〉〈超1流〉〈超1流〉
〈現実界〉の眼で、〈超1流〉の現実

《11流》というのは交通領域。
ファッションも11流である。

〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉の3界を持っている人。
そして固体・液体・気体の3様態を併せ持つ人格。
やはり凄い〈41流〉美人であった。

………………………………………………………………………………
川久保令は1942年東京生まれ、慶應義塾大学文学部卒業。

「男の子のように」という意味の「コム・デ・ギャルソン」が広く知られるようになったのは一九八一年からパリで発表した「乞食ルック」と揶揄された虫食いの穴の空いた衣服や、「カラス族」と誹謗された黒を基調とするミニマルなスタイルを世に送り出してからであった。

川久保令の作品が与えた衝撃は深かった。川久保令は近代の市場や欧米の文化が形成してきた衣服のモデルとなっているものへのアンチテーゼを、しばしば意図的に行ったからである。

京都国立近代美術館と、東京都現代美術館の二館で巡回して開かれた京都服飾文化研究財団がつくった「身体の夢 ファッション OR 見えないコルセット」展という展覧会を私も見たが、際だっていたのが、やはり川久保令であった。


たとえば1995年秋冬の「セーターとスカート」。薄いピンクの軽やかな上下なのだが、ベビー・ピンクのナイロンにアクリル・ニット刺繍のロング・スカートの腰に、同じ素材で縫いつけられた筒が、不思議なふくらみと丸みと空洞の空間を作り出していた。
その服は《服であって服でないもの》《造型であって、造型でないもの》になっていた。

これと対照的なものは草間彌生の「セックス・オプセッション」で、これは逆に《服でないものであって、しかし服であるもの》であった。
 
こうした逆転が、単なる言葉の遊びではなくて、造型表現の基本的な設定のありようと、その逆立の姿の違いとして比較できたことは面白かったのである。

川久保のファッションは、草間とは違って、まず最初に衣服があった。しかし、衣服という表面に、川久保は「構造」を付与する。衣服という表面が構造化されて、彫刻性を付与されているのである。
絵画という平面性が、レリーフ構造をもって来るのに似ている。

こうして川久保令が構造化した衣服という《構造的表面》は、これを着た身体を《充実》させるのではなくて、逆に、身体は《欠如》させられることになる。

分かりやすい例で言えば、1997年春夏の、ドレス内部に羽毛パッドの「こぶ」を付けた作品。モデルの身体の背中、肩、腹部、腰と、奇妙な場所に、あたかも瘤や肉塊を持っているかのように、身体障害者のような「ゆがんだ」丸みを持った突起を生むという、「こぶドレス」とも言われた過激なファッションである。

この川久保令の服は、人間の身体を侵略し、殺し、奪い、搾取する《帝国主義》のような攻撃性を秘めた、「癌細胞」のようなものであった。こうして川久保令の衣服によって、身体は、あたかも不具のように《欠如》するのであった。

この「《欠如》の顕現における芸術の発生」を、私は、川久保令の服に見た思いがするのである。しかもその作品の空間は、新帝国主義の「巨大空間」の表現であった。

それに対して草間彌生の「セックス・オプセッション」の方は、初めに《オプセッション》という彼女の方法が脅迫的にある。

そして、それが服の形態をとるのである。しかもそれは《充実》している。
服をあたかも埋めつくすかのように《充実》している。
充実して、立派で、充ち充ちているのだが、建築の内部のような空間が無いのである。

服の空間は埋め尽くされている。しかもその埋め尽くされた空間そのものは、個人の占める狭い空間であった。川久保令のような「大空間」ではなくて「小空間」なのである。だから芸術の顔をしている割にはイラストレーション的オブジェとも言うべき「デザイン」にすぎないものに見える。

念のために言っておくと、草間彌生が、特に初期のニューヨークで優れた作品をつくっていたことを、筆者も認めるにやぶさかではない。しかし1970年代半ばの帰国後の草間は、例外を除けば旧作の焼き直し作品の、芸術とはとても呼べないひどいキッチュのお化けのようなものをたくさん作ってきたのも事実ではないであろうか。

ここに出品されていた「セックス・オプセッション」の制作年代は一九七六年で、おそらく帰国直後のものである。私は、この1976年に大阪フォルム画廊の東京店で開かれた草間彌生の大個展を見ている。もしかすると、ここに出されていた作品かも知れない。十分に年月はたっているから骨董化はしている。「芸術に歴史があるのではなく歴史が芸術である」という名言を吐いて、蒸気機関車であろうとなんであろうと骨董化すると芸術化してしまうことを指摘したのは中原佑介氏であった。骨董化した「セックス・オプセッション」は、だから多くの草間ファンには芸術に見えるであろうとは思う。

少なくとも東京都現代美術館の「身体の夢」展においては、草間彌生という現代芸術の巨匠クラスのアーティストの芸術作品であるはずのものが、実は《充実》していてデザインにすぎないものであった。

それに対してデザイナーであるファッションの川久保令の方が、《欠如》していて、芸術であった。川久保令の服は、制度的には芸術ではないにも関わらず、深い感動を呼ぶ《芸術》になっていたのである。

こうした事態は、川久保令と、あと数名のアーティストのみに見られることで、ファッション・デザイン全体に敷延できることではない。「身体の夢」展では、「黴(かび)」を使ったマルタン・マルジェラの作品が優れて芸術であった。つまり、芸術という制度を越えて、この制度の外に、真性の芸術が立ち現れてきているのである。

1970年前後に、「芸術とは制度である」と対象化されたときから、退廃が始まった。作家と批評家と美術館の学芸員の三者の退廃の中で、今日の現代美術という制度は、芸術性そのものを喪失し始めているのである。

現代美術の制度制の中では、なんでも芸術として扱われる。現代美術のデザイン化、《充実》化は、止めどなく進み、現代美術という制度全体を埋め尽くそうとしている。イラストレーションでしかないものが人気を集め、巨匠となっていく。そしてその《真性の芸術》を喪失した分だけ、ファッションを初めとする「芸術では無いところ」へと《真性の芸術》の流出化が進んでいるように思える。

こういう現代美術の退廃に対して、
「すでに見たものではなく、すでに繰り返されることではなく、新しく発見すること、前に向かっていること、自由で心躍ること。コム・デ・ギャルソンは、そんな服づくりをいつもめざしています」とメッセージする川久保令というアーティストの攻撃性は、斬新であった。

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ひこさか なおよし/1946年、東京世田谷生まれ。ブロガー、美術批評家、美術家
日本建築学会会員、日本ラカン協会幹事、アートスタディーズ・ディレクター
著書に『反覆・新興芸術の位相』(田畑書店)
『彦坂尚嘉のエクリチュール/日本現代美術家の思考』(三和書籍)


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> 今回だけだぞd(´∀`*)グッ※ http://hemn.me/bigsns/
by いいね (2011-11-03 09:37) 

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