小沢一郎の女性刺客(加筆画像増加) [顔/美人論]
資生堂の美人たち[改稿2加筆2] [顔/美人論]
マイケル・ジャクソンの顔 [顔/美人論]
若狭 さち(玉ゆら) [顔/美人論]
DEN -Atsutoshi Ohkouchi- (Drums)
1976年に結成した新月をはじめ、様々なバンドの中核を務め、日本におけるプログレッシブ・ロックのはしりとして活動しました。
1980年の新月解散後は、Phonogenix(フォノジェニックス)、ASTURIASなど様々なバンドに参加。サイコソニックでは、アーテックのゲーム音楽を担当するなど幅広い活動を見せたのです。
2.Signs~黎明~
3.海底月夜
4.天地
5.風の橋
6.Sleepwalking
7.蛍草
8.蒼の果て
9.潦 (にわたずみ)
美人論最終回/坂東玉三郎の顔 [顔/美人論]
美人論もついに、最終回となった。
坂東玉三郎は、言うまでもなく美しい。
《超一流》《超一流》《超一流》である。
当たり前であると思うかもしれないが、
これがかなり異常な事なのである。
なぜなら明治以降の歌舞伎というのは、
〈1流〉になってしまって、〈超一流〉性を失ってきているからである。
明治に、それまでの江戸歌舞伎が持っていた下品なものを削除してしまったが故に、
歌舞伎は〈超一流〉の暗闇、それは〈41流〉への反転を生む暗闇を失ってしまった。
それに対して近松門左衛門の心中ものを中心に据える、
人形浄瑠璃の文楽は、〈超一流〉さらには〈41流〉性を保持して、
今日に至っている。
そうしたつまらなくなった近代歌舞伎の中で、
坂東玉三郎は、燦然と〈超一流〉の美しさに輝いている。
もちろん〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉の3界同時表示、
さらに固体・液体・気体の3様態同時表示である。
もう一つこの写真を撮っている篠山紀信の写真の問題で言うと、
篠山紀信という写真家は、
大変にすぐれた写真家であるが、
そのすべてと言えるほどの多くは、〈1流〉の写真に過ぎない。
しかし女性の裸写真をあれだけ撮ってきながら
それが〈1流〉〈1流〉〈1流〉という形で、
決して荒木 経惟のような〈21流〉の下品なものにならないことにおいて、
篠山紀信はすぐれた写真家である。
しかも〈非-合法性〉があるから鑑賞構造をもっている。
しかし、実体的であるから、
それは芸術ではなくエンターテイメント写真である。
ところが玉三郎を撮ると、篠山紀信の写真は〈超一流〉と化し、
しかも〈非-合法性〉だけでなく、
〈非-実体性〉をも、持つようになる。
つまり芸術になってしまうのだが、
それは篠山の写真が凄いのではなくて、
板東玉三郎が、芸術であるからである。
美人は芸術に成り得る。
ただしそれは天然の美人においてではなくて、
大女優や、名女形に於いてなのである。
………………………………………………………………………………
ギャル曽根から始まって、板東玉三郎で終わったが、
以下、その美人論のリストである。
1・ギャル曽根の顔 (2007年9月16日)
2・桜塚やっくんの顔 (2007年9月17日)
3・麻美れいの顔 (2007年9月21日)
4・栗山千明の顔 (2007年9月22日)
5・マーガレット・サッチャーの顔 (2007年9月25日)
6・コンドリーザ・ライスの顔 (2007年9月26日)
7・ヒラリー・クリントンの顔 (2007年9月27日)
8・エリザベス女王の顔 (2007年9月27日)
9・美輪明宏の顔 (2007年9月28日)
10・ピーター(池畑慎之介)の顔 (2007年9月30日)
11・アウン・サン・スー・チーの顔 (2007年10月1日)
12・サラ・ジェシカ・パーカーの顔 (2007年10月2日)
13・シシー・スペイセクの顔 (2007年10月3日)
14・ケイト・ブッシュの顔 (2007年10月15日)
15・アンジェラ・ゴソウ(アーク・エネミー)の顔 (2007年10月16日)
16・ジャニス・ジョプリンの顔 (2007年10月24日)
17・シンディ・ローパーの顔 (2007年11月8日)
18・柳 美里の顔 (2007年12月26日)
19・桐野夏生の顔 (2007年12月29日)
20・中村うさぎの顔(1 整形前) (2007年12月29日)
21・中村うさぎの顔(2 整形後) (2007年12月30日)
22・金原ひとみの顔 (2008年01月12日)
23・金原ひとみの顔(再論)(2008年01月22日)
24・辛酸なめ子の顔 (2008年01月24日)
25・川上弘美の顔 (2008年01月27日)
26・KENJIの顔 (2008年01月30日)
27・中田 英寿の顔 (2008年01月31日)
28・イチローの顔 (2008年02月03日)
29・野茂 英雄の顔 (2008年02月08日)
30・芥川賞「乳と卵」/川上未映子の顔 (2008年02月14日)
31・川久保玲の顔 (2008年02月15日)
32・黒木メイサの顔 (2008年02月17日)
33・仲間由紀恵の顔(2008年02月18日)
34・松井冬子の顔(2008年02月24日)
35・白田 久子/2007ミス・インターナショナル(2008年03月08日)
36・ソフィア・ローレンの顔 (2008年03月10日)
37・坂東玉三郎の顔 (2008-03-10)
ソフィア・ローレンの顔 [顔/美人論]
普通の美人は〈1流〉でしかないのだが、
ソフィア・ローレンは、典型的な〈超1流〉美人である。
〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
しかも〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉の3界同時表示。
固体・液体・気体の3様態同時表示で、
パーフェクトな大女優である。
しかも〈非-合法性〉があり、
そして何と〈非-実体性〉まである女性である。
つまり彼女は鑑賞構造を持っているわけで、
だから単なる美人さんではなくて、大女優なのだが、
彼女は芸術であると言える。
白田 久子/2007ミス・インターナショナル [顔/美人論]
美人論を考える以上、
ミス・インターナショナル世界大会を無視するというわけにもいかないだろう。
ミス・インターナショナル世界大会は“美を競う”だけでなく、女性による国際社会への貢献を目指そうとする世界のミスたちが集結し、「平和と美の親善大使」として集い、互いに交流を深めようと最初1960年に米カリフォルニア州で初開催され、
どういうわけだか1968年以降は主に日本で開催されているという不思議な美人コンテストである。
昨年年で47回目。
2007ミス・インターナショナル世界大会の入賞者、
1位、2位、3位の顔と格付けである。
1位を射止めたのは、メキシコ代表のニュースキャスター、
プリシーラ・ペラーレス(Priscila Perales)さん(24)。
age: 24
Height: 176cm
Occupation: News Broadcaster
〈1流〉〈1流〉〈1流〉で、典型的な美人である。
しかも〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉の3界を持っているし、
固体・液体・気体の3様態も兼ね備えている、
大変な美女である。
メキシコ代表のニュースキャスターというのは、レベルが高いのである。
しかしこういう顔写真が、むんむんで嫌になるのは、何故であろうか?
化粧品売り場に並んでいる美女達の高慢な顔も嫌になるけれども、
その理由は、いろいろあるにしても、
一つは実体的であるからだ。
しかも合法的美女である。
実体的で合法的と言うことは、
エンターテイメントで、デザインであると言うことになる。
芸術のかけらも、こうした美女には無いのである。
繰り返せば、この2007年のミス・インターナショナルの勝者は、
美しいが、それはデザイン的エンターテイメントの美しさであって、
芸術の美しさではないのである。
つまり花のように美しいのは、芸術ではないのである。
言い換えれば、自然の美しさは芸術ではない。
自然の花、それも大輪のバラの花のような美しさは、
芸術ではないという基準は重要なのである。
だからといって、醜いものが芸術であるというものではない。
汚い、ひどいものだけ撮る写真家や、
ひどい原始的な美術をつくる現代美術家も、
単純なアンチに答えを見出していて、間違いである。
現在進行中の『皇居美術館空想』の問題でもあるが、
芸術の美しさの基準は、過去の名品の中にある。
それも近代以前の名品にこそ、芸術の基準になる美しさがある。
モダンアートや、現代美術、現代アートの作品というのは、
近代以前の古典作品の、脱構築=デコンストラクションされたものである。
決して、非歴史的に成立するものではない。
一方で、美人コンテストの美人のような、大輪の花の美しさは、
自然に依拠し、歴史をもたない。
複雑系の歴史観で言えば、自然は歴史を持たないのである。
したがって美人コンテストの美人は、非歴史的な自然の美である。
これは芸術ではない。
………………………………………………………………………………
さて、次は2位である。
準ミス2位にはギリシャ代表の学生、デスポイア・ブレパキさん(22)
私の格付けは《6流》《6流》《6流》
〈想像界〉だけの美人。
気体美人。
つまり1位との落差は大きいのである。
それに彼女も合法的で実体的である。
………………………………………………………………………………
3位である。
準ミス3位には、ベラルーシ代表の学生、ユリヤ・シンジイェバさん(20)が選ばれた。
ベラルーシ共和国というのは、聞きなれない国名だが、
東ヨーロッパの国。
ロシア、ウクライナ、ポーランド、リトアニア、ラトビアと国境を接する。
旧ソビエト連邦から独立した。
そのペルラーシの代表は、
《8流》《8流》《8流》
〈現実界〉だけの美人である。
〈現実界〉だけというのは、ある意味で現代美術的である。
音楽で言えばブラジルのサンバや、坂本龍一の音楽のようなもの。
しかも固体美人。つまり前ー近代的な人である。
つまり吉本ばななの小説のような人。
暗い感じがある。
それもそのはず、〈非-合法性〉があって、
私的な感じが前にでている。
そして〈非-実体性〉もある。
彼女の顔には、鑑賞構造があって、
芸術であると言える。
ただし《8流》なのだが・・・。
つまり
1位は〈1流〉で、しかも3界同時表示、
3様態同時表示という総合力のある真性のデザイン的美人。
2位は《6流》、〈想像界〉、気体=現代のデザイン的美人。
3位は《8流》、〈現実界〉、固体=前近代の芸術的美人である。
言いたいのは、
美しさというのにもいろいろな次元があるということである。
さて、この2007ミス・インターナショナル世界大会には
日本代表も出ていた。
高知県出身のモデル、白田久子さん(24)
白田 久子(しらた ひさこ、1982年〜 )というのは、実は女優である。
1998年、テレビドラマ『美少女H』(フジテレビ)でデビュー。
2003年に映画女優路線へ転向、
初主演映画『完全なる飼育 秘密の地下室』では初めてヌードに挑戦。
〈格〉的には、
〈3流〉〈3流〉〈3流〉
〈3流〉というのはポップスの領域である。
〈想像界〉だけの美人。
気体美人。
実体的で、合法的であるからデザイン的美人。
白田 久子は、
1位は完全に無理でも、
〈格〉的には2位でもおかしくは無かったのだが、
まあ、しかし要素はこれ以上に多いし、
勝負は時の運である。
それでも白田 久子は健闘して、
インターネット投票によるミス・Webジェニックを授賞している。
松井冬子の顔 [顔/美人論]
書籍「ファンタジー・モード」より、松井冬子さん。(写真:松蔭浩之)
VOGUE NIPPON (ヴォーグ ニッポン) 2007年 01月号 というから、
昨年の話で恐縮だが、
日本画家の松井冬子さんが、選ばれた14人の一人になっている。
ちなみに選ばれた14人は、以下の人たちである。
・荒川静香(プロフィギュアスケーター)、
・杏(ファッションモデル)、
・菊地凛子(女優)、
・倖田來未(歌手)、
・沢尻エリカ(女優・歌手)、
・滝川クリステル(アナウンサー)、
・知花くらら(2006ミス・ユニバース・ジャパン)、
・長澤まさみ(女優)、
・中谷美紀(女優)、
・ほしのあき(グラビアアイドル)、
・松井冬子(日本画家)、
・松雪泰子さん(女優)、
・桃井かおり(女優・映画監督)、
・森英恵(ファッションデザイナー) 50音順
ずいぶん広範な人々で驚くが、そこに日本画家が選ばれているのは、
やはり凄いことであると思う。
ついこの間までは、日本画と言うと東山魁夷とか、平山郁夫が有名であったが、
今日では松井冬子が日本画を代表するようになるだろう。
もちろんもう一人、村上隆がいるが、この二人の時代になったと言うことだ。
もっとも東山魁夷・平山郁夫から、
松井冬子・村上隆に、代替わりしたと言っても、
それほどに彼らの絵画の本質が、激変したわけではないのである。
東山魁夷の絵も《6流》で、ローアートで、グリーティング・カードの様なひどいものであったから、特に時代の変化を嘆く必要は無いと言える。
松井冬子の作品よりも、
このブログの視点は、まずは美人論優先なので、
まずは、ヴォーグの写真を見てみよう。
ミステリアスな美貌に似つかわしい、中世ゴシック風の「フェンディ」のドレスが独特の華やかさを放ちます。袖の部分のビッグパフスリーブが腕を細く、さらに小顔に魅せています。黒のアイラインでくっきりかこったアイメイクも妖艶な雰囲気。
解説文の「ミステリアスな美貌」というのが、
松井冬子の特長だが、
顔の前に、この赤に黒いドレスの写真で
〈格〉付けをしてみる。
〈想像界〉の眼で、《8流》のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈41流〉の《8流》の《8流》
〈現実界〉の眼で、《8流》
《8流》というのは、信仰の世界。分かりやすく言えば新興宗教のようなもので、信じている人にはすばらしく見える世界。
自然領域の《6流》と円環を作っていて、
《6流》の反転世界でもある。
マイナー世界である。
私の私的体験としては、黒人音楽のPファンクがある。
ジョージクリントン率いるPファンクの音楽は、
《8流》の〈超1流〉〈超1流〉
こういうものが好きであったのを、
今は卒業してはいる。
武満徹の音楽も《8流》。
高い評価があるのは知っているが、
私の評価は、かんばしくない。
さて、
比較する参考に、松雪泰子の同じような黒いドレスを見てみよう。
松雪泰子さん 全体的に縦長のミニマルシルエットですが、裾にかけてふんわり動きが出ています。肩から上の肌を際立たせるために、ヘアもキッチリまとめて顔も全部出しています。アクセサリーは胸元をスッキリ魅せる効果を狙って、チョーカー風の短めのジュエリーを選んでます。
松雪泰子というのは女優で、
1993年の主演テレビドラマ「白鳥麗子でございます!」での強烈なキャラクターがハマリ役となり、以後女優としての地位を確立したという人。
この松雪のこのドレス姿を〈格〉付けしてみると
〈想像界〉の眼で、〈1流〉のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈2流〉〈2流〉〈2流〉
〈現実界〉の眼で、〈2流〉の現実
〈2流〉というのは技術領域だから、
役者という性格を示していると言える。
松雪と松井冬子を〈想像界〉の眼で比較すると、
〈1流〉のイメージと《8流》のイメージで、
実際2枚の写真を見比べても、
〈格〉は、さすが松雪は女優であって、
断トツに上である。
しかし〈象徴界〉の眼で、見れば
松雪は〈2流〉で、松井冬子は〈41流〉である。
〈41流〉というのは戦争・地獄領域だが、しかし〈超1流〉と円環をなしていて、
反転領域であるから、つまりはネガティブな〈超1流〉であるから、
松井冬子の〈格〉は、〈象徴界〉の眼で見ると、
松雪の〈2流〉性を遙かに凌駕している。
しかし、だからこそ〈41流〉を秘めた《8流》の持つ信仰領域で、
新興宗教の巫女さんのような吸引力を松井冬子は持っている。
日本画の救世主というか、ジャンヌダルクというか、
すばらしい《8流》性を強烈に秘めた〈41流〉美人を、
現代日本画界は、得たのである。
もっとも〈41流〉の《8流》というのは、
実はヤクザ映画の領域である。
正直言って、私はあまり好きではない。
友人の清水誠一さんは、結構見ていたらしいが、
私の方は、後からしかたなく『仁義なき戦い』も見たくらいである。
下は、極道の妻たちである。
上は松井冬子であるが、〈41流〉《8流》《8流》で、
ヤクザ映画と同じ〈格〉である。
松井冬子の美しは、
ヤクザ映画の美なのである。
さて、最後にはまともな写真を見て、
〈格〉付けである。
それでも〈41流〉美人である。
〈想像界〉の眼で、《8流》のイメージ
〈象徴界〉の眼で、〈41流〉《8流》《8流》
〈現実界〉の眼で、《8流》の現実
〈想像界〉の人格。〈象徴界〉〈現実界〉が無い。
気体人間!
ああ、そうか、気体人間なのです。
その新しさがあるのです!
だから人を魅了する。
しかも日本画、それも幽霊の絵で突出してくるのである。
では、その絵画はどうか?
ローアートである。
天下の芸大を出て、
しかも博士号まで取得して、
それでローアートというのも、
東京芸大が、Aクラスの真性の絵画芸術を教育できない証拠品みたいで、
どうかと思うが、
しかし、最近の芸大の作家は、そんな作家ばかりである。
私のお友達のエサシトモコさんもローアート。
加藤力さんもローアート。
もちろん会田誠さんもローアート。
そして村上隆さんもローアート。
みんな下品で、低い。
さて松井冬子さんの日本画であるが、
ここでも
〈41流〉の《8流》《8流》
しかも〈想像界〉の絵画である。
ファンタジー絵画。
すべてが顔と一致する。
東京都現代美術館での日本画展で、
彼女の作品を見ましたが、
私には冗談の様な絵で、
真面目な芸術の絵画ではない。
美術史的にはBクラス絵画。
ヤクザ映画のような日本画。
文学で言えば京極夏彦の小説の様なもの。
魑魅魍魎垂れ流しの世界。
日本画も、日本と共に沈没したのである。
沈んだタイタニックの中で見る地獄のファンタジーである。
しかし1975年以降、そういうものばかりが
世界の美術を覆っているので、
松井冬子の作品だけが悪いのではない。
最後にもう一つ。
彼女の出てきた画廊が凄い。
成山画廊。
http://www.gallery-naruyama.com/exhibition.html
これは良くも悪くも、
本物である。
〈41流〉〈41流〉〈41流〉
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【追加】『松井冬子と円山応挙』2008-11-8
仲間由紀恵の顔(最後部加筆) [顔/美人論]
仲間由紀恵は、現在の日本を代表する〈1流〉の美人と思うが、
しかし《合法性》が強すぎて、気になるのである。
《合法性》というのは、私の表現論の用語なので、解説をすると、
社会というのは、私的な表現を排除して成立している。
「公私混同するな!」という言葉に端的に表れているように、
社会性というのは、公的性であって、
そこに私的な感情など入れてはいけないのである。
デザインというのは、
そういう意味で社会的な公的性で成立している美術であって、
デザインには、個人的な感情の起伏や波、そして個人的な思想は入れてはいけないのである。
こういう公的な性格を《合法性》と私は呼んでいる。
職人仕事にも同様な事が言える。
たとえばペンキをコンプレッサーで吹き付け塗装するときに、
職人に、適当にむらむらに吹いてくれと言うと、
断られるのである。
彼らは、誰が見てもきれいに見えるような正しい吹き方しかできないのである。
仲間由紀恵の顔は、いつも正しい顔をしているという意味では、職人的である。
このブログで追いかけているハイアートと、ローアートという区分で言うと、
職人仕事というのは、ローアートの領域である。
女優として、そしてモデルとして仲間由紀恵を見ると、
職人という意味でローアートの人であると言える。
彼女の美しさというのは、
知的な努力をしないで分かる美しさなのである。
最近私は建築の人と付き合っているので、
建築関係者が、いかに《合法性》を重視して、
〈非-合法性〉を排除するか、繰り替えし見てきている。
しかしすぐれた建築には〈非-合法性〉があるのだが、
とにかく目先の仕事をとることに捕らわれている限り、
社会のもつ《合法性》を、単純に重視せざるを得ないようである。
仲間由紀恵は、そういう意味で建築家的であって、
目先の仕事だけを追っているのかもしれない。
目先の観客の反応に溺れてしまえば、
ローアートになってしまう。
しかしハイアートの芸術という表現は逆で、
社会の中にこの排除された個人性を入れていく仕事と言える。
だから芸術は個人的な感性や、気分、思い、そういった個人的なもので、
成立しているのである。
こうした私性を持った表現の質を〈非-合法性〉と言う。
もっとも、ハイアートの芸術と社会的に言われている表現すべてに、
こうした〈非-合法性〉があるかというと、
実は、そう言うわけにいかないのである。
昔、1960年代だが、長岡現代美術賞展というのがあって、
そこで大賞を取った作品の回顧展が開かれたが、
その多くが、20年を越えて見ると、多くがハイアート芸術としては駄目に見えたのである。
その理由は、実はハイアート芸術として評価されたはずの作品に〈非-合法性〉が無くて、
実はデザインワーク=ローアートであったからである。
《合法性》をもつデザイン系=ローアートの作品というのは、
実は時間がたつと古くなって、見られなくなっていくのである。
つまり《合法性》しかない表眼は、時間の中で消費されてしまう。
それに対して〈非-合法性〉のある表現は、
時間を超えて、人々に感動を与え続けることができる。
もちろん一人の人間は、公的性=《合法性》と、私性=〈非-合法性〉と、両方をもっているのである。
しかしバスガイドの独特の口調は、公的性=《合法性》だけで成立している表現で、
コンビニのマニュアル通りの口の利き方もまた、《合法性》の表現で、
私的な〈非-合法性〉が欠けているために、
嘘っぽく聞こえて、いらだちを覚えるのである。
つまり真実というのは、
私的な〈非-合法性〉の中にあるのである。
仲間由紀恵の〈1流〉の美人性には、
この《合法性》が強すぎて、嘘っぽくと言うか、
いらだちを感じさせるものがあるのである。
きれいなのだが、真実が無い。
つまり仲間由紀恵の顔には社会的な公的性=《合法性》が、
表情に強く表れすぎている。
つまりデザイン化された〈1流〉美人なのである。
以前に税務署のポスターに彼女の顔が載っていて、
「税について考える」というキャッチフレーズが付いていた。
彼女の〈1流〉美人性が、
こうした税務署の広告に似合ってしまう《合法性》の強さが、
なんとも腹立たしいのである。
昔の税務署のポスターはなかったので、
最近の確定申告のものである。
この表情も《合法性》が強いのである。
………………………………………………………………………………
彼女は歌手であった。
7枚のシングルを出しているという。
デビューシングルの写真を見てみよう。
この顔立ちには、《合法性》は無い。
むしろ若い少女の私的な感性である〈非-合法性〉が見えるのである。
仲間 由紀恵(本名同じ)1979年生まれ。
沖縄県浦添市出身、5人兄弟の末っ子。血液型はA型。
特技は師範代レベルの琉球舞踊(宮城流)ということもあって、
〈象徴界〉の精神性を持っている。
普通の美人さんが〈想像界〉の人格でしかないのに対して、
〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉の3界をもつ総合的人格を有しているので
あって、〈1流〉の美人の中でもきわだった美しさがある。
総合的人格をもっていることからも、
女優としても大器であるのは間違いのないことであって、
期待したいだけに、
最初から述べている《合法性》の強さが、
玉に疵となっているのである。
念のために、過去の大女優の顔を見てみよう。
三田佳子である。
〈非-合法性〉がある。
ハイアートの顔を持っている。
女優であると言える。
松坂慶子である。
彼女にも〈非-合法性〉があって、
仲間由紀恵のようなデザイン顔ではない。
ハイアートの女優なのである。
大原麗子である。
彼女でも、〈非-合法性〉があって、
デザイン顔ではないのである。
そういう意味で、
仲間由紀恵は、本当の大女優、つまりハイアートの女優には、
成り得ないかもしれない。
あくまでもローアートの世界の中を生きるのだろう。
1993年、工藤静香にあこがれて地元の「沖縄タレントアカデミー」に入学。
1994年、沖縄テレビ放送の「青い夏」でドラマデビュー。
1995年に上京。
2000年、金曜日の深夜のナイトドラマ「TRICK」の山田奈緒子役で大ブレイクします。
この時の写真です。
顔が小さいから分からないかもしれませんが、
〈非-合法性〉があります。
これも「TRICK」の出演時の写真ですが、
ずいぶん違いイメージなので、
本当に仲間由紀恵なのか、他の出演者なのか、
間違えが恐くなりますが、
眼は、仲間由紀恵の今と同じものですので、
たぶん大丈夫でしょう。
この辺のところから、
仲間由紀恵が整形をして変貌したのではないか?
という噂が流れているようです。
しかし、このサイトの書き込みの意見は、
整形に対して否定的です。
代表的なのは、
次のような意見です。
仲間さんが芸能界デビューするきっかけとなった沖縄地元局製作のドラマ『青い夏』を見ていました。
仲間さんは主演:山本太郎に想いを寄せる高校の同級生役でしたが、初めて彼女を見たとき「世の中にこんな美しい娘がいるのか」と息をのんだのをおぼえています。
東京に出て本格的にデビューする前から、彼女は信じられないほど美しかったのです。多分、整形はしてないと思います。
整形の有無そのものには、私自身はあまり興味がない。
事実いろいろなタレントに対する指摘がなされているが、
プロである以上、何があっても、良いとは思う。
ただ、整形すると、人格や性格が変わるということは
起きる。
以前に日本ラカン協会の学会に登場したのは、
整形医で、精神分析医をしている藤田博史氏であった。
私はこの先生の学会発表も聞いているし、
個人的にもお話しをしている。
整形すると、人格や性格が変わるということは
具体例では弘田美枝子の例で見てきている。
弘田美枝子は、デビュー当時の
並外れた歌唱力とパンチの効いた歌声はすばらしかったのだが、
整形美容で変貌してしまった。
しかしこの整形後の1969年の「人形の家」で、
日本レコード大賞の歌唱賞を受賞したのである。
社会化というのは、実は整形を要求していると言える。
整形をしていようといまいと、
実は変わらない問題があって、
人間は子供から成長して、大人になるときに、
それまでの子供の自我を殺して、
回りにいる大人の自我を急遽コピーして、
大人の社会に仲間いりする。
つまり去勢であり、成人式のイニシエーションである。
こうして社会に入るというのは、
実は私的な、つまり〈非-合法性〉のある自我を殺して、
社会的な、つまり《合法性》の自我に、自分自身を作り替えることを
意味しているのである。
つまり整形美容と同じ作業が、人格的になされるのである。
すべての社会人は、実は整形美人であると言って良いものなのである。
仲間由紀恵の〈1流〉の美人の顔に見える《合法性》の強さは、
美容整形をしていようと、していないにしても、
どちらにしろ、子供の時代の自我を殺して、
大人になったときの獲得されたものと言える。
さて、今よりも昔の、若い時代の
〈非-合法性〉のある仲間由紀恵の顔を見てみよう。
〈想像界〉の眼で、〈1流〉美人。
〈象徴界〉の眼で、〈1流〉〈1流〉〈1流〉
〈現実界〉の眼で、〈1流〉
典型的な〈1流〉美人である。
〈1流〉というのは、社会的な常識領域である。
………………………………………………………………………………
2002年 ドラマ「ごくせん 」に主演、山口久美子役で人気を呼ぶ。
日本テレビ系の連続ドラマで平均視聴率歴代第1位となる28・0%を記録したのである。
任侠集団・大江戸一家の跡取りである山口久美子(通称ヤンクミ)が、
高校教師として活躍する物語である。
原作の極道色は薄められて、
学園ドラマとしての色合いが濃いが、
しかし仲間由紀恵の《合法性》の強い顔が、
この任侠ものという〈非-合法性〉を演じることによって、
《合法性》と〈非-合法性〉が打ち消しあって、
中性化した不思議な顔になっている。
この顔にあるのは、ハイアートでもなければ、
ローアートでもない顔である。
しかも〈1流〉美人を越えて、
〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉になっている。
つまり、私の気になる《合法性》が消えることで、
〈1流〉美人を越えて、〈超1流〉の美人に変貌することで、
仲間由紀恵の代表作となったのである。
さて、「ごくせん」の第3シリーズが
日本テレビの「開局55周年記念番組」として、
本年4月から放送される。
3度、日本中に“ヤンクミ旋風”を巻き起こすのか!
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【加筆】
「ごくせん」の仲間由紀恵に見られる眼鏡をかけた顔の問題は、
いくつかの秘密を垣間見せる。
まず一つは、〈1流〉の美人顔が、
いかにして〈超1流〉の美人になるかという問題である。
それは同時に〈1流〉の美術作品が、
いかにして〈超1流〉の美術作品になるかという問題でもある。
〈1流〉のもつ、誰でも分かる花のような美しさが、
眼鏡という人工物をかけて抑制されるときに〈超1流〉化すると
とりあえず言っておこう。
〈1流〉の世界というのは社会的常識的美しさであって、
凡庸ではあるのだ。この抑制が〈超1流〉を生む。
社会常識である〈1流〉を越えない限り、
傑出はしえないのだが、そこには抑制があるのである。
もう一つの秘密は、《中性化》という問題である。
このブログでも長い間追ってきたハイアートとローアートの問題の
一つの答えが、「ごくせん」に見られる合法と〈非-合法性〉の中性化である。
この「ごくせん」の仲間由紀恵の顔は、
同時にハイアートとローアートが打ち消しあった《中性化》が見られるのである。
そして実は近代以前のすぐれた美術品の性格も又、
この《中性化》である。
たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画や、
そして狩野永徳の作品の質は、《中性化》という性格がある。
つまり合法、〈非-合法〉の分裂も、
そしてハイアート、ローアートの分裂も、
実は近代社会特有の分裂化であって、
それ以前には無かったものなのである。
言い換えると、近代の否定の手法としては、
この《中性化》の復権は、有効なのではないか?
という分けで、現在制作中の150号の正方形の
キャンバス・ペインティングを、
この《中性化》で、制作を試みることにする。
黒木メイサの顔 [顔/美人論]
黒木メイサは、〈超1流〉の美人である。
しかし美人というのは、
普通は〈1流〉の美人を、美人というのであって、
〈超1流〉の美人というのは、美人という範疇を越えてしまうので、
美人とは言わないものになってしまう。
ところが、このブログでも取りあげたエリザベス女王の若い時の顔とか、
この黒木メイサは、〈超1流〉の美人でありながら、
普通にも美人と言える美しさがある。
整った顔立ちと、
あの世からの出現をどこか漂わせる、
凛とした空気を身にまとっている。
眼も、唇も、切れがあって、
怖さを持っている。
日本の歴史上最大の美人というのは、
豊臣秀吉が愛した「雪の小面」という能面だと思うが、
黒木メイサの美しさは、
この「雪の小面」を彷彿とさせる。
もっとも「雪の小面」は、
〈41流〉の美人で、
私はこれが大好きである。
〈41流〉と〈超1流〉は、輪の様につながっていて、
反転関係にある。
「雪の小面」を反転させると、黒木メイサになるという意味で、
希有の美人モデルだと思うのである。
〈想像界〉の眼で、《8流》のイメージ。
〈象徴界〉の眼で、〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉
〈現実界〉の眼で、《8流》の現実
これほどの美人はいないのだが、
しかし〈想像界〉の眼で、見ると《8流》に見えるというのが、
不思議というか、〈想像界〉と〈象徴界〉の食い違いの構造を見せていて、
面白いと思う。
まだ子供せいか、〈想像界〉だけの人格。
同じ沖縄出身の〈1流〉美人である仲間由紀恵が、
〈象徴界〉の精神のある美人であるの比して、
その面では落ちる。
モデルを越えて女優として成長するには、
人格的な総合的脱皮がいる。
まあ、正直、そういう成長は難しいであろう。
仲間由紀恵の欠点は、《合法性》が強いことだ。
つまり社会的公的性が強く表れていて、私的表情が見えない。
それに比べて、黒木メイサは非合法性がある美人。
つまり彼女の私性が見える美人で、
その辺もあって〈超1流〉の美しさである。