《イメージ判定法》と《言語判定法》の同時使用 [アート論]
《イメージ判定法》で、《6流》。
《言語判定法》で、《超1流》《1流》《2流》《3流》《4流》《5流》《6流》《7流》の重層的表現
《現実判定法》で、《1流》
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会田誠さんと座談会は、
私には大きなもので、
大変に勉強になった。
今朝も思い出したのは、
会田さんがセザンヌを分からないと言う事であった。
芸大の油彩科で学んだ人が、
セザンヌを分からないと言うのは、
理解の出来ない異様な事だが、
実はセザンヌは、理解する事の難しいアーティストであることは、
知っていた。
某美術評論家も分からないと公言していたし、
そして某美術史家も、セザンヌの静物は良いが、
しかし空想画は、分からないと言っていた。
しかし私の世代のアーティストは、
まず、セザンヌに対する評価と尊敬と言うのが、
当たり前のように、深くある。
《芸術》というものを、
まず、もっとも誠実に体現した理想の画家の一人なのである。
しかし、今朝、急に分かった事は、
会田誠さんは、《イメージ判定法》で見ていて、
《イメージ判定法》で見ると、セザンヌは《6流》の画家に過ぎなく見える。
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さて、長年の疑問が、
解決の焦点を結んだ。
モダンアートというのは、
登場した時に不評であったということは、
ホセ・オルテガ・イ・ガセトが『芸術の非人間化』
で書いている事なのだ。
オルテガの顔は《超1流》の人物のものである。
彼の言は信じるに値する。
さて、何故にモダンアートは不評であったのか?
それは、それまでのサロンの絵画が、イメージで作られていたのに対して、
産業革命によって写真が登場して来た時に、
この手描き写真としてのサロン絵画のイメージ主義を否定して、
モダンアートというのは、《イメージ判定法》を否定して、
《象徴界の視点》(=言語判定法)
で絵を描く道を選んだと言える。
つまり《イメージ判定法》では描いていない為に、
セザンヌの絵画は、実はイメージとしてみる事では、
理解出来ない絵画になっているのである。
会田誠さんが、抽象画だけでなくて、
セザンヌの絵画も理解出来ないそもそもの原因は、
絵画を《イメージ判定法》で見ているからなのである。
しかしセザンヌを代表とするようなモダンアートというのは、
《イメージ判定法》の否定において
制作がされていたのであるから、
会田さんのイメージしか見えない眼には、
理解出来ないものになっているのである。
それにたいして1991年のグローバリゼーションの開始以降、
(正確には、1975年以降だが)、
美術は再び《イメージ判定法》で制作される様になったのである。
このことは、写真の時代から、デジタル映像の時代に変わった事が、
大きくあると思うのである。
今、それ以上は説明している時間がないが、
そのことによって、
美術は、脱近代化し、
それが同時に《イメージ判定法》への回帰となって現れた。
しかし《イメージ判定法》だけでの制作は、
会田さんや、村上隆の社会的な成功を勝ち得たにしろ、
しかし芸術的には無惨な成果しか達成していないのである。
その現在、私たちは何をすべきなのか?
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さて、以上の歴史的経緯と、現在の課題が理解出来たので、
現在というか、今日の制作は、
《イメージ判定法》と、《言語判定法》の両方で、
判断して制作をする事を試みた。
カントを見習って、反対の方法の統合を試みたのである。
結果は良いのである。
正確には3つの判定法で制作を目指したいと思う。
《言語判定法》
《イメージ判定法》
そして《現実判定法》である。
制作を判断する方法も、
ようやく3界同時判断の時代に至ったのである。
前の、想像界の眼で、とか、現実界の眼で、というやり方と
どこが違うかと言うと、
それほど違いが無くて、
一歩踏み込みが深くなっただけなのだが、
その1歩の踏み込みが、大きいことになっているのである。
3界同時構造は、これからの構築の方途を、
私に与えてくれるのである。
実際の作品が、大きく前進したのである。
非常に貴重な発見だと思います。私(たち)も知覚の精度を上げる具体的な方法を編み出せるようにしなければ。
by コア (2008-05-04 13:18)
ありがとうございます。
コアさんも、《言語判定法》を練習してみませんかね(笑)
by ヒコ (2008-05-06 23:40)
ぜひ練習してみたいですね。
by コア (2008-05-13 21:07)